図書の星

はると

図書の星

図書館では、足音を立てずに静かに歩く。

これが、いままでの人生で私が得てきた最適解の一つだった。

梅雨時の雫のようにしとしとと足を運ぶ。床が、石造りであろうと板張りであろうとなんであろうと、私は靴底を鳴らすことなく、ゆっくりと本棚の間の狭い通路を進んでいかなければいけない。

図書館は森であり、利用者は森に生きる獣だ。

私を含む大多数は書を食む弱い獣だ。深い森に身を潜めて本を読んで生きている。

精神の食事風景は、森を縄張りとするもう一つの存在、肉食獣たちにとって、自らの弱みをさらけ出した格好の的に映るに違いない。

周囲の気配に怯えつつ、本を探して歩きまわる。これが今まで私が守ってきた図書館での振る舞いだった。

しかし、今度こそ私は自由の身となった。

周縁恒星系で最も広大な情報の森に、私はたったひとりきり取り残された。

私の身長の二倍は超えようかという塀のような本棚が、計り知れない奥行きに向かって延々と並んでいた。壁が見えることはなく、高い天井と本棚と床で囲まれた細長い直方体の空間が、屋内に出来た地平線上の消失点に向かって途方もない収束を果たしている。

見渡すかぎり本ばかり。人は一人も見当たらない。

窒素八割酸素二割の透明な空気は、紙とインクの香りを忍ばせて、私を無音で包み込む。

なにもかも私の目論見通りだった。もうこの森に恐ろしいモノはいない。半永久的な平穏が約束されていた。

ローファーの踵を高らかに鳴らしつつ、棚から棚へと本を漁る。目的の図書の近づく予感があると、逸る心を抑えることもせず、次の本棚へ駆け足になっていた。セーラー服の襟が、ストロークに合わせて揺れるのを背中に感じてますます楽しい気分になる。

はじめの頃は、この通り、開放感を気ままに謳歌していたのだ。

けれども、無人であることに油断し、図書館での正しい過ごし方を忘れ、本を探すのに夢中になっていた私は、この後、ツケを払うことになる。

その直前まで、私の知る限り、この図書館は完全な無人であった。あるいは、私の勝ち取った平穏を揺るがしたのも、知る限りでは人でない存在だったのだからしかたがない。

無人への油断がこの顛末を導いたかといえば、なんとも言いがたい。

私は、背後から付けていた「肉食獣」の存在に気づけなかったのだ。

とある本棚の前に立ち止まり、とある分厚い本を手にとって、その巻末の目録に、目的の本と思しき書名と著者の名があった。心のなかでその名を復唱し、高鳴る心音とともに脳裏に刻みつけ、本を閉じる。肉厚な本に特有のドサリとした快い手応えが、空気を震わせ、それは音速で、静寂な森のなかを同心円状に広がっていく。

目指すべき本棚はどの方向だったか、思いを巡らせながら、本を棚に戻して有名な一節がふと口をついた。

「Nel mezzo del cammin di nostra via mi ritrovai per una selva oscura, che la diritta via era smarrita」

「『人生の旅半ばにて、正しき道を見失い、暗い森をさまよう我あり』、か」

真上から、声が降ってきた。私は反射的に見上げる。

「古典だね。面白い趣味をしている」

高い天井に設置された照明で逆光になり、シルエットだけが浮かび上がる。老人のようなしわがれた声の主は、本棚の上に乗って顔をこちらにつきだした猫だった。本の山脈の谷底で遭難した私を高みから覗きこむその肉食獣の表情を、私は読み取ることができない。

「君の着ているのは、伝統的な学生衣装だね。どうしたんだい」

と訊かれても、これは私が伝統的な学生であるゆえである。私は注意深く猫を観察し、未知の存在への返答をためらった。私に答える気がないと猫は察したのだろう。

「君の探している関連書籍は第一五八地区の二三番地辺りにあるだろう」

鷹揚として無感動な響きが淡々と本の所在を告げる。

「ここからは、ポーターに乗って三〇分位のところだ」

猫は、三メートルの高さから私の真横に飛び降りた。影からそのまま抜け出してきたような真っ黒でつややかな猫だった。

「一五八地区へは、歩いて行くのはオススメしない。案内しよう」

先導を買って出た黒猫の遠ざかっていく後ろ姿を、私は唖然として見送る。

この猫は、何者なのか。図書館への干渉は三日前に絶えたはずだった。この黒猫は、私を取り込もうとした彼らによる新たな妨害なのだろうか。

そもそも猫がしゃべるなんてことはありえない。例えばこの黒猫は発話機能を持たせた猫型ロボットなのかもしれない。私の出身の恒星間移民船の持つ技術なら何ら困難を経ることなくこのくらいのロボットなら作れるだろう。

でも、歩き去っていく猫の有機的なしなやかさに、その仮説はそぐわないように思えた。

天井に向かってぴんと張った長い尻尾が猫の歩調に合わせて左右にかすかに揺れている。メトロノーム的な挙動に私は引き込まれ、その催眠作用を自覚するや我に帰る。

あいつは猫だ。しかし猫とはいえ、正体不明な現時点において、警戒は怠れない、と自分に言い聞かせる。

「ついてきなよ」

黒猫はずいぶんと遠いところで足を止め、振り返って私を待っていた。



ポーターは静かに坑道を疾走していた。

軌道を等間隔で照らすナトリウムランプの明かりが、小窓から定期的に差し込んで、この狭い立方体の空間内部が橙色に明滅している。

黒猫は、私の視界の隅で退屈そうに丸まってしっぽを時折動かしていた。

流れては消えていくオレンジの光に、私は夢想した。

小説の中の地球に登場する、地下鉄はこんなものだったのだろうか。トンネルをくぐる運転手は、今の私のように、ハイウェイヒプノーシスに悩まされたりしていたのだろうか。

目をこすって、窓に映った向こうの自分に気がついた。彼女は私に目を合わせると、気まずそうに視線を逸らした。

見下ろすと、猫は変わらず床で寝転んでいた。寝息こそ聞こえないが、その柔らかそうな肩甲骨のあたりがリズムよく上下している。

「ちょっと失礼」

私は跪いて、猫を優しく抱き上げた。胸の中でぐんにゃりとしているそれは、たしかにロボットではなくて、本物の生き物なのだという確信を与えてくれた。さっき、猫が喋ったように感じられたのも、実は私自身の幻覚で、道案内をしてくれたように見えたのも私の錯覚なのかもしれない。銀河に人類が遍在するこの時代においてまだファンタジーに逃げ道を探し求めている自分が情けなく思えてきた。

私は猫の脇の下に手を入れ、タカイタカイという風に抱き上げる。

ここでようやく猫は目を覚まし、身を捩って手を離れ、空中立位反射を経て着地した。バターを塗った面を上にしたトーストを背中にくくりつけておけば、どんなに華麗な永久機関に化けただろうかという程の、美しい半回転のひねりだった。本物の猫は素晴らしい。

と、思ったのもつかの間。猫は声を発した。

「やはり君は、奇妙だ」

黒猫の口は、その発せられた言語にシンクロして巧妙に動いた。読心術を心得ているわけでもないけれど、たしかにその口は「やはり君は、奇妙だ」と言っていた。

「君みたいな不埒な学生はまれにいるけれど、本当に母船への帰還を放棄するなんて言うのは初めてだよ」

猫がしゃべるという現実に改めて面と向かうとやはり衝撃的だった。というか、ただの猫が私の境遇さえわかっているなんて、どうにもおかしい。

「あなただって、十分すぎるほど、奇妙だと思います」

「猫が喋るからか」

「それもあります」

「頭がいいからか」

「それもそうです」

猫は、呆れたように肩をすくめてみせる。擬人化のすぎる表現かもしれないけれど、実際にため息を付いたりしているのだからしょうがない。

「まあ、俺のことは、長生きの黒猫に宿った付喪神みたいなものだと思ってくれれば良いよ」

「神様なんですか?」

私にとって、それは懐かしすぎる概念だった。恒星間移民船は厳密な観測と制御によって、数世紀先の軌道まで確定している。途中に立ち寄って調査をするべき天体や資源の供給ポイントは予めリスト化されて、接近時の行動予定まですでに人工知能によって結論されていた。宇宙船内の環境も定常的に管理され、個々人の生活状態を監視することでその後の健康状態さえ厳密に予測が得られる世界である。中枢系統は、人間に対して理想的な行動規範を提示し、乗組員は画一化されたルーチンをたどるだけの生活を繰り返していた。

祈るべき神様を誰も必要としていなかったし、長い星間航行の歴史で、忘れ去られていた。人間の人生で到達しうる宇宙の全範囲を知覚し、その過去と未来を把握している人工知能が、社会にとっての全てだった。中枢系統に従う限り、成功の約束された世界。

そんな閉塞的な世界から逃亡を果たした私の眼の前に、神様がぶらりと現れてくれたのだ。まさに渡りに船である。私は猫を信じよう! ヴェルヌだって言っている、「猫は地上に舞い降りた神霊だ」と! 

再び猫をすくいあげ、低い天井へ掲げる。

にゃあと絶叫し、黒猫は掴んだ私の手を振り払う。

「いちいち持ちあげなくていいんだよ」

毛を逆立てて語気を荒らげる。

「ごめんなさい、敬意の払い方がよくわからなくて」

「いや、そういう問題じゃないんだが」

黒猫は後ろ足で頭を掻き、毛づくろいをしてみせる。神経質でこれ見よがしなその仕草は私へのあてつけのつもりなんだろうか。

「もしかして、触られるの嫌いだったりするんですか」

「そういうわけでもないけどね。ただ、未だに君に気を許していないのは確かだ」

誠に猫らしい回答に、私は胸躍った。

「というか、やはり、君はおかしい」

黒猫は目つきを鋭くした。大きな目に刻まれた瞳孔がきりりと細る。

「もしかして君の元いた船の文化がおかしかったのかと疑いたくなるくらいだ」

「たしかに私の船は変でした。他の船と変わらず、人間が自由に暮らしているとは思えない空間でした」

「なるほどね。それは、普通の変さだ。『ここでは人間の自由意志が存在していない』とか屁理屈こねて、宇宙船内の閉鎖環境に文句を垂れる。『私達は尊厳を取り戻すために、船を出なければならない』とかね。そういうことを好んで喚き立てる学生は、よくいる。だから、それを言うだけならこの銀河系に余るほどいるであろう模範的な『異常な学生』だ。でも君は違うだろう。言うだけに留まらなかった。行動まで伴ってしまっては、常軌を逸しているとしか思えない」

「まあ、行動を起こせたのは運が良かったとも言えるけれど」

「運が良かった、か。恒星間移民船がハビタブル惑星に停泊し、学生がその地表に降りられる機会が与えられたのだから、たしかに君の人生は恵まれているといえよう」

「宇宙船の航路上の住めそうな惑星に通りかかるなんて人が一生のうちに経験できるかできないかだって、学校の先生も言ってましたし」

「ふむ。君の母船が次にそういった天体にたどり着くまで、母船内における君の予測余命の一・五倍の時間が経過するはずみたいだしね」

「え、なんで、そんなことまで知っているんですか」

「ここが図書館だからだ。停泊し、調査権限を与える見返りに、宇宙船の所有する全情報のデータをコピーさせてもらった。といっても、殆どの情報は、銀河系電波データベースに収録されているものに一致していたから、俺にとって新しい情報は、宇宙船の進路情報と、一部の新発見の資源採掘場、それと船内の環境情報、人の余命とかもそれに含まれているけどね、そのくらいだった。全部読み終えるにはそんなに時間はかからなかったけれど、まあ、それなりの暇つぶしにはなったよ」

黒猫がそんな情報を握っていたことよりも、あの宇宙船で私は余命まで算出されていたという事実に驚いた。やっぱり抜け出して来て正解だったんだ。

「しかし、あの宇宙船から送られたデータを見る限り、なかなか戸籍管理の厳しい船だったようだけど、君はその監視をどうくぐり抜けてここにとどまったんだ」

「良い質問ね」

それこそ、私の最も誇れる物語だった。私の住んでいた恒星間移民船が、この惑星に到着し、地表開放が行われていた四五〇〇時間(地球年にしておよそ半年)の間の謀略の数々。星間空間から惑星表面上へと生活の拠点が移った非日常に便乗して私は多くのことを考え実行した。

それまで受けさせられてきた単調で高圧的な教育プログラムもこのときばかりは修学旅行なる企画を組んでくれて、この惑星の安定陸塊の至る所に建設された図書館の隅々を見学する名目で、私達学生は奔放に船外に飛び出していった。隙を見計らっては、母船からの監視がどの程度働いているか逆探知したり、学生らの行動指針がどの程度、中枢系統の干渉を受けているのか観察したり、私は敵を知る好機として逃さなかった。

加えて、この惑星の図書館に私は心やすまる場所を見出した。どこまでも本棚の並ぶこの空間を私は気に入っていたのだ。

図書館の静かで広い空間は森を連想させるのがその原因だった。

私がこれまで知っていた図書館は電子データのアーカイブに過ぎなかった。

対して、この図書館では、ところ狭しと並べられた本も、元をたどれば森を支えていたセルロース繊維であり、つまりは、森に情報の宿った姿としての図書館なのである。木々の頑丈でしなやかな樹皮は、森にやさしい静寂をもたらして、溢れんばかりの情報は、一枚一枚の葉に素敵な色付けを施している。

ここの図書館は船内のものと違って、干渉がないことも評価できた。船内では乗組員の思想などは常に監視されている。有害図書はもちろんのこと隔離され、読むためには特別な許可が必要だった。あるいは、通常の閲覧可能データも、食い合せの悪い食べ物があるように、読み方によっては、中枢によって有害と判定されることがあった。

そういう場合、干渉してくるようなプログラムやドローン、場合によっては生身の人間があった。彼らは、図書館内での私の軌跡をたどり、収集しようとする情報を先回りして分析し、時に妨害を働いた。一時的な借り出し禁止措置、直接物理的なアクセスの拒否、中には「たぶん君の興味ありそうな本はあっち側の棚だよ」と嘘の誘導をする者さえいた。

中枢の干渉に絡め取られれば、計算機で予測された未来を再現する歯車として、無機的なこの社会に吸収されてしまうことになる。そんなものに取り込まれるなんて、私は御免被りたかった。

だから、張り巡らせた監視網にかからないように身を潜め、ハッキングによりトレーサーを惑わして対抗した。しかし、中枢の干渉の完全排除は叶わなかった。

惑星図書館に踏み出したあとも、彼らの執拗な干渉は続いた。プログラムやドローンによっての妨害こそ収まったものの、修学旅行中の図書館には監視員が派遣されていた。中枢に従う役人がこんなにもいたのかと私は呆れたけど、気配を消して監視員を巻くことは容易かった。都市の一ブロックほどあるこの図書館で、あるいは連結されて国家規模に拡大している図書館建造群の広くて迷路のようなフロアにおいて、一度見失ったターゲットを見つけるのは困難なのだ。

私は足音を殺し、本の森を歩く自由を得た。

そこで私は知るのである。干渉のない自由な世界を。

読みたい本を読みたいように読む。記号順という意味的な無秩序で並んだ棚を見渡して、知らない本をランダムで取る。

空間を埋め尽くす本棚は、活き活きとした物語に満ち満ちていた。通路を歩くだけで、両脇から温かい放射にさらされて、図書館が内包するコンパクト化された時間と空間が体内に流れ込んでくるようだった。

五感が研ぎ澄まされていくような心地。気づけば私はこの森に引きこまれていた。

しかし多くの学生は、図書館に収蔵された図書というものにヴィンテージな価値を見出して騒ぎ立てるだけだった。それも最初だけで、半年経って船団研究所が惑星を調べ終えた頃にはさっぱり飽きて船内の退屈なはずのルーチンに戻っていった。

私だけが図書館の香りに惹かれ続けていた。その引力の正体を知りたくて、惑星からの撤収時に私は強硬策に出たのだけど、それはまた、別の話だ。

「その右手首の傷か」

黒猫は訳知り顔だった。

「生体認証チップが埋め込まれていたはずだ。どうしたんだ」

話を終わらせようと思っていたのに、気づかれているならしかたがない。私は開き直って、腕まくりをし、手首に走った赤い線を見せつける。

「船を抜けるときね、ヘアピンでえぐりだして置いてきたんですよ。今ごろ船にとっての私という存在は、三日間飲まず食わずで自室のベッドから動かない、ただのひきこもりに見えているはずです」

「そんなバカな。その程度のからくりで中枢系統を欺けるはずがない」

「そうですよね。だからちょっとは工夫したんですよ。私だってここにとどまりたくて必死だったんですから」

「それにほら、船が去ってから三日も経つわけだし、今更気がついたところで私一人のために引き返すわけがありません」

私の言葉に黒猫はやれやれとばかりに首を振った。

「たしかに君の元いた船は、今ごろ惑星の周回軌道を抜けているはずだ」

猫はだらしなく仰向けになった。

「にしても、一体何が君をそこまでさせるのやら」

私だってすでに自分の衝動の自己分析なんて何度も繰り返している。衝動の理由なんて簡単だ。あの宇宙船から逃げたかったから。あんな完璧な社会に希望なんて見いだせなかったから。私の望むワクワクが宇宙船の外にあったから。

でも、本当にそれだけだったのだろうか。私は自問した。

そうして、一冊の本に思い当たった。半年前に私が願望を決意へ昇華させるための後押しになった一冊である。

「曽祖父です」

私が言うと、猫は勢い良く上体を起こした。

「君の曽祖父? ……そうか、たしか」

「あれ、ご存知なんですか」

「ご存知も何も、今俺達が探しに向かっている本を書いた人じゃないか」

「そうです。これは、偶然の再会でした。この図書館で私が最初に手にとった本に彼の名前があったんです。曽祖父は、学者でした。専門は宇宙植物学」

「だが、この人、専門からかなり手を広げていろんな仕事をやっているよね」

「色々知ってるんですね」

「そりゃあ、この図書館の本は全部読んでいるからね」

「全部ですか?」

「ああ」

「それって、五兆冊以上ってことですよね」

「そうだ。惑星全土で、いまは五兆六千億くらいになっているはずだ」

「本当ですか」

「嘘をつく理由がない」

「読んだ本の内容は全部理解したんですか」

「ああ。銀河に氾濫するあらゆる情報はほぼ完全に知っていると言っていいだろう」

私は腑に落ちた。これほど人外な存在なら、たしかに神を名乗ったりもするだろう。同時に、そのケタ違いの数字に畏敬の念すら覚えるのだった。

恐る恐る訊いてみる。

「じゃあ、彼の著作のほとんどが、私の船では閲覧禁止処分にあったことも」

「それを知ったのは最近だ。君の船が惑星に来てデータを寄越した時はじめて知った」

「なんで、禁止処分されていたのかわかりませんか」

「それは、俺も知らないな。中枢の論理思考パターンを追跡できれば、推定もできるんだろうけれど、中枢の論理判定回路の核心部が、船の全データの一部として図書館に受け渡された際、どうやら該当部分は、複雑な暗号化処理が施されていたらしい。今もって解読作業中だと俺は聞いている」

「中枢が禁止するには訳があるはずなんです。私はそれを知りたい」

「それで、図書館に居残ったと」

「はい」

黒猫は興味を失ったように再び床に寝そべった。

私はわずかに前につんのめる感触を得た。ポーターが減速を始めたようだ。

綺麗な三角形をした黒い耳が小刻みに震える。

「まもなく到着だ。まずはその本を探そう。読んでみれば、何かわかるかもしれない」

「読まなくても、あなたが本の内容を教えてくれればいいような気がするのですけど」

「嫌だよ。なんで俺が、君のために読み聞かせみたいなことをしてやらなきゃいけないんだ。自分で読みな」

正論だった。

ポーターは一度完全に静止すると、鉛直方向へ上昇を始めた。一瞬、小窓の外を打ちたてのコンクリート壁が横切り、そして見慣れた図書館の風景が姿を現す。数瞬、その風景を構成する真紅に網膜が麻痺をする。第一五八地区の床は、赤絨毯だった。

小窓のある壁にうっすら縦の亀裂が入り、隙間は音もなく広がった。ポーターは図書館の空間に接続される。私達が降り立つと、その箱型の機械は溶けるように床下へ沈んでいった。正方形を描く床の細い溝を残してポーターは跡形もなくなる。ちょっと目離した隙にその薄い痕跡さえスッと消える。

「これ、半年たった今でも慣れなくて困るんですよね。綺麗サッパリに搭乗口が見えなくなるから、ポーターの乗り方がわからなくなりませんか」

「仕方ないさ。もともとポーターは人間用に作られたものではない。図書管理ロボットの行き来を援助するためだ。ポーターのレールは一辺三〇〇メートルの碁盤の目状に規則正しく張り巡らされ、それぞれの交差点が搭乗口になっている。これが図書館全体にわたって繰り返されているのだ。機械処理に基づく管理ロボットにとってこんなにわかりやすい大規模路線網は宇宙のどこを探してもなかなかないだろうねえ」

黒猫はひげをぴんと張って、何やら周囲を探っている。

「さて、いよいよ本を探す段であるけれど、覚悟はいいかい」

「ええ」

「本の管理番号はわかるか」

「ちょっと待ってください」

私は本棚の脇の大型ディスプレイを操作する。半年使ってようやく飲み込んだぎこちない操作で書名を検索し、リストから本を選ぶ。

「君、古典機械がいじれるなんて大したもんだね」

「宇宙船の教育プログラムに、そういう実習がほんの少しあったんですよ。でも、このタッチパネルというの、やっぱりもどかしいですね」

老朽化のせいだろう。あるいは建設当時の技術が未熟だったのか。反応の鈍い操作盤に私はそう感じていた。この時点で異常に気がついてしかるべきだったと、後悔することになるのだけど、でも当時の私は、目的の本の管理番号、ゼロから始まる一五桁の数列を得て、満足してしまったのだった。

「その本、二三番地の外れにあるみたいだ。しかも、ここの五階じゃないか」

私がコードを告げると、そろばんの達人が暗算するみたいな調子で本の在処を教えてくれる。黒猫様様である。

もう一度ポーターを呼び寄せて、地下を水平移動すること数分、突然に暗い坑道に光が差した。今まで等間隔に置かれたナトリウムランプの代わりにガラス窓が嵌めこまれ、外からの自然光が入り込んでいるのである。追随するように、ポーターの小窓が拡大し、開放感を与えてくれる。窓の外には高い木のそびえる緑の森があった。一度静止した後、今度は鉛直上方向への運動へ転じる。いわゆるエレベーターだ。

木々の高さを抜いて、眼下に森が一気に広がる。見晴らしのいい大地が地平線いっぱいまで青々とした森に覆われている。これがこの惑星の本来の姿だ。

その緑色に紛れて、テーブルマウンテンのようなクリーム色の巨大な直方体が、いたるところに見受けられる。あれらは図書館の一部分だ。それぞれが連結することで惑星全体でひとつの巨大な図書館として機能している。

五階に到着すると、ポーターの軌道は再び建物内部に奥まって、壮観はお預けとなった。

同様に数分間水平移動をして、目的地に到着した。床下からせり上がるようにして、ポーターは二三番地の五階に接続する。

赤絨毯の空間へ足を踏み出すと、天窓から、日光が差し込んでいた。私はそのスポットでくるりと回ってみる。世界が私を中心に回転してるようだ。

天井を見上げ、眩しい太陽が目に痛い。

そこでふと気づく。

数万年単位で書籍を保存するのに、最上階だからといって日光を入れてしまっていいのだろうか。私の疑問を先読みしてか、猫は言う。

「これは、設計者の思想なんだろう。この惑星の自然環境は出来る限りそのまま利用する。結果として自然光は取り込まれ、照明を効率化する。いいことだと思わないかい」

足元の果てしない赤絨毯、向かう先は奥行きの掴みきれない本棚、頭上には青い空と白い雲。なるほど、なんだか気分が高揚してくるわけだ。

浮足立ったステップで、私は本棚をめぐり、管理番号を調べていく。

一冊ずつに識別番号が付いているのだから、本はあっさり見つかった。

扉を開いて目次を確認する。間違いない。

「おめでとう」

私の後をついてきた猫は、祝ってくれる。しかしその言葉には覇気がない。

猫は弱々しく肩で息をしていた。さっきまでそんなしんどそうな素振りを見せていなかったのに。負担になるほど長い距離は歩いていはいないし、私が早足だったせいかしら。

私は本を閉じて、猫に歩み寄る。

「あなたの協力あってこそですよ」

私は猫を抱き上げようと、身をかがめる。

姿勢を低くすると、口と鼻の中に、妙な清涼感が広がった。

本能的に息を止め、猫を肩に乗せて立ち上がる。

そして私自身、呼吸が苦しいことを自覚したのだ。

「なあ、君、たとえば大気組成を分析できる機器を持っていないだろうか」

黒猫が早口に言った。私はただならぬ雰囲気を感じて、ためらいなく拡張デバイスを起動する。当分は温存する計画だったけれど、胸騒ぎがしたのだ。今が使うべき事態であると。

神経系が再接続されると同時に鳥肌の立つ感覚が背筋を走り、起動の完了を確認する。

展開した啓示視界にはローバッテリーのサインが赤色に点滅していた。私はスカートのポケットからキャラメルを取り出すと、口に放り込んで飲み下す。食材による発電要請を許可し、十分な電力を確保する。

私は大きく息を吸い込んだ。喉の奥が冷やっとしてむせ返る。ここの空気はおかしい。

今一度大きく吸って息を止めた。肺胞に待機したナノマシン群が、すぐに組成解析結果をまとめ上げる。

「吸気の二酸化炭素濃度は〇・六パーセント、標準大気の二〇〇倍あります」

それを聞いて猫は目を丸くする。

「虫払いか。そんなバカな」

「虫払いって、分子標的粒子で農薬撒いたりするあれですか」

「君の船ではそうかもしれないが、この図書館ではそんな甘いものではない」

黒猫は声を落として私の耳に囁いた。

「皆殺しだ」

あまりに旧世界的な響きだった。

「もしかしてこの二酸化炭素増加も関係しているんですか」

「そうだ。豊かな自然に接しているこの惑星の図書館には、あらゆる動物が入り込んでしまうことがある。微生物や昆虫、あるいは俺のような大型動物も時に迷い込む。これは資料保存の観点からしてあってはならないことだけれど、あまりにも広すぎるゆえしかたのないことなんだ」

「そういう動物たちを一掃するための有効な手段が」

「そう、図書室全体を数日間にわたって二酸化炭素で満たし、窒息させて殺す」

背筋につめいた汗が流れる。

「まずは、脱出口を探さねばいけない」

「それならポーターで」

「駄目だ。すでに全区画において気密封鎖措置が取られている。搭乗口は開かない」

私は猫と本を抱えたまま、搭乗口へ走る。ポーター召喚の手続きをとるが、エラーしか返されない。逃げようがない。

するっと腕の中から黒猫は真上に飛び上がった。本棚に乗って、あたりを見回している。

「どうやら、二酸化炭素は床近くの低いところにたまっているらしい。君も上に登れ」

図書館で本棚に上がるなんて未知の体験である。棚板に足をかけ、そこに収まる本に申し訳なく思いながら、一段一段をはしごのように登っていく。

すぐに視界が開けた。私も猫に倣って、本棚の上に立ち上がる。

そこには新たな地平が広がっていた。

規則正しく長方形の本棚が配置されているさまは、体をミニチュア化されて旧時代の集積回路に放り込まれたような眺めだった。

あるいは、天板によって作られた完全な水平面に、気味が悪いほどに等間隔なクレバスが数えきれないほど刻まれているような異様な光景だった。

「どうだい、きみ、何か地平の果てに見えないか」

改めて見ると視界を遮るものは何一つない。柱もないのにこれだけの面積の天井をどう支えているのか、不思議だった。でもそのずっと奥、天井と床面が融合を果たす地平線には見慣れた構造があった。

「壁が見えます」

この大一五八地区の外壁が、たしかに地平線上に見えている。四方に視線を巡らすと、どうやら一番近いのは南側の壁のように見える。といっても、歩けば何十分もかかってしまうだろう。

「君の目線の高さなら、俺のそれより遠くの水平線が見えるだろう。ちょっと持ち上げてくれ」

猫を顔の高さまで抱き上げる。

確かに地平線までの奥行きが変わって見える。図書館の床は水平面で構成されているのではなく、ジオイドに沿った球面なのかと一瞬感心したものの、振り払う。

脱出方法を考えねば。

「一番近いのは、真上だな」

猫は言った。

見上げれば、ここから三メートルほどの高さの天井に一辺一メートルくらいの天窓が張り付いている。

本棚の上に立っているのに、まだ高く感じられた。

「君、銃とかで窓を破壊できないか」

「そんな物騒なもの、持っていません」

「護身用の武器とかもないのか」

「ナイフだけです」

「投げてみるか」

「無理だと思います」

「参ったなあ」

沈黙する。キャラメルを一粒口に含む。

「せめて作業用ロボが一台くらい残っていてくれればいいのだけど」

黒猫は立てた聞き耳を左右前後に動かす。

「一台もいなさそうだな。建造中の五三三地区に大多数が派遣されているはずだし」

キャラメルを舐める。糖が脳に消費されていく。

「そもそもなんで突然虫払いが始まったのか理解できない」

「これって、安全装置とかもついていないんですか」

「中にいる生き物を殺す装置だ。図書館内に生き物がいたと分かっても止めるような仕組みなんてあるはずがない」

それもそうかもしれない。

「しかしおかしいのは、予告なく始まったということ。ありえないことだ。二酸化炭素供給の前に必ずサイレンが鳴るはずなんだ。しかも、虫払いをどの地区でいつやるかという予定は、すでに決定されていて、閉館日として公示される。直前の未通達の変更などあるはずがない」

拡張デバイスで、図書館管理のネットワークに進入する。

過去の虫払い装置の起動時間をリストアップして、それが公開情報にある閉館日と一致していることを確かめる。

今日のこの時間で、閉館日に指定された図書館は存在していない。

にもかかわらず、一五八地区で虫払いが起きた。

「管理プログラムのバグと考えるか。しかし自発的にバグが生じるとも思えないんだ」

「図書館が処理しているデータがバグの引き金となった可能性は」

「あるかもね。図書館の行っている現時点でのタスクは、銀河電波図書館との受信送信、新規情報の書籍化と、書架の配列整理、五三三地区の建造、あとは惑星の気象観測と、脅威となる近傍小惑星のリスト更新。これくらいだろう」

「私の船由来の暗号解読もやっているんですよね?」

「そうだね」

「それ、怪しくないですか」

私は考えたのである。解凍データにはバックドアを仕掛けるウイルスが仕込まれていた。図書館は電波によって他の情報源と常に通信をしているから、そこに割り込めば、図書館の管理者権限を乗っ取ることさえできる。

拡張空間で、管理ネットワークを洗いざらいスキャンして、中枢系統の痕跡を探した。そして、管理プログラムの近くに、その気配を感じ取った。

その瞬間、猫が体当りしてきた。

「いけない。今すぐ通信を切れ。気づかれる前に!」

拡張デバイスに没入していた私は、体当りされた時点で接続を手放していた。そして、事の重大さに気がつく。

「もしかして、中枢は、私を殺そうとしているのですか?」

「その可能性がある」

「なんで? やっとのことで船を飛び出したのに」

「君の抱えているその一冊だよ」

猫が目を伏せる。私の思った以上にこの本は重いものらしい。 

接続が切れる寸前の流入データを解析する。明らかに中枢による敵意の感じられるものがあった。これが実行されるのを待っていれば、今ごろ脳内の神経回路が致死的に繋ぎ変えられていたかもしれない。

恐ろしくなって私は拡張デバイスを待機モードに変更する。

猫は小さな咳をした。

「この高さにまで二酸化炭素が上がってきたようだな」

口腔内の炭酸感が強まっているのは私にも感じられていた。

「もう時間がない。南の壁へ向かおう。何かあるかもしれない」

猫は歩き出す。

「待って」

私は制した。

デバイス停止時のノイズが脳内に電流として残留し、ニューロンのスパークを生じたのだ。ちょうどキャラメルをなめ終わった私の脳みそに、あまりに大胆な名案がひらめいてしまっていた。

「私、いい考えがあるんですけど、聞いてくれますか」

振り返って首を傾げる。

「へえ、聞かせてもらおうじゃないか」

猫の瞳がキラリと光った。



結果として、私達は図書館の屋上に立つことができた。

澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで深呼吸する。

どうにか危機は脱したようだった。

屋上は、見渡すかぎりの草原で、風が吹き抜け、青い空が近くに見える場所だった。

天窓のない部分には土が敷かれ、それを緑色の芝が覆い尽くしていた。土は有機的な凸凹をもって盛られていて、屋上は、図書館の内部とは対照的に起伏を持ったやわらかな地形をしている。

自分の右手は血で赤く染まっていた。天窓にナイフを突き立てた時、砕け散ったかけらで皮膚を切ったのだ。反対の手が曽祖父の本を頭の上に抑えていたおかげで、他に傷は受けずに済んだ。

黒猫も、ひょいと窓の下から飛んできた。

「屋上に来るのは俺も初めてだ」

と言って、耳をいろんな方向に動かしている。

「あの丘へ行ってみよう」

猫はなだらかな起伏を上へと踏み出す。

丘の頂上付近に、半球状のドームと、隣に巨大なパラボラアンテナが見えてきた。

「観測所だな」

標高が高くなっても、天窓はいたるところにあるから、台地に穴をうがつドリーネのような窪地がところどころに点在している。

変則的な地形に足を取られなように慎重に登っていき、観測所に辿り着いた。

私達はドームの中に入る。

扉には鍵もかかっていなかった。無人の室内には、ディスプレイと計算機が設置されている。

私が近づくとディスプレイが点灯した。拡張デバイスを経由することなく私は古典機械を操作する。しばしの待機時間の後、ディスプレイに文字がびっしりと表示された。

私は猫を仰いだ。彼はしばらく画面を凝視していた。読んでいるらしい。

「近傍天体の観測データだね。この三日間で、未登録の脅威天体が七つほど、惑星に接近していたらしい。いずれもこの一五八地区へ落下する軌道だったが、全て大気圏外で迎撃されている。迎撃システムが、悪意ある宇宙人の襲来を想定して複数のスタンドアローンの観測装置とミサイルで運用されていてよかったね。迎撃システムまでクラックされれば打つ手はなかっただろう」

「もしかして」

「君の思っているとおりさ。詳細な軌道計算の結果を待つまでもなく、それらの天体は例の移民船から射出された大質量砲だと言える。全く、なんてイカレた中枢を持っているんだ、あの船は」

私は薄気味悪さを感じていた。その感情を反転するように中枢への怒りもふつふつと沸き立ってくる。中枢の思い通りにさせるものか。

「私、反撃します」

「反撃って、どうやって」

「この本の、電子データを電波に乗せて銀河中にばら撒きます」

「おいおい、それは銀河電波図書館の業務じゃないか。君がやらずとも、その本だって定期的に宙域に送信されているぞ」

「それじゃあ甘いんです。記録電波に占めるこの本の割合は五兆分の一なんでしょ、無に等しいじゃありませんか。もっとたくさんの人がこの本を載せた電波に遭遇できるように、打ちまくります」

「まあ、やりたければやればいいさ。そろそろ電子免疫機能でバックドアも解体され、干渉は排除できているはずだ。そうすれば隣のパラボラも正常に使えるよ」

あくびをして興味なさそうに眠ってしまった猫を尻目に私は作業に取り掛かった。

照合の結果、電子データベースに収録されていた本の電子版は、クラックによって破損していたことが発覚し、拡張デバイスを再起動する。

視覚経由の光学式読取によって電子版の再構成を試みることにした。ページを一枚ずつ手繰りながら電子情報を生成していく。

厚い本を紐解くには相応の時間がかかり、読み終えた頃には、日が暮れていて、ドーム内は薄暗くなっていた。頼りになるのはディスプレイの明かりのみ。

薄明かりに照らされたキーボードからいくつかのコマンドを打ち込んで出来上がったばかりの電子データを符号化し、送信可能な状態に仕上げる。パラボラの操作パネルを展開し、計算機が自動生成した有力なターゲットのリストからめぼしい星団の座標を入力する。

巨大な電波望遠鏡の回転する機械音が、壁の向こうからうっすら聞こえてきた。私は、なんとなく電波の発信されるさまを見届けたくなって、ドームの外にでる。

空を見上げて息を呑む。

薄明を失いつつある藍色の空に、明るい星が点々と瞬いていた。

その間を縫うように淡い天の川が横たわっている。私達の銀河の横顔だ。

宇宙へ開いた直径30メートルもの皿が、ゆっくりと天の川の方へ照準を向けていく。

一日の光合成を終えてしなびた芝が横たわり、優しい香りを放っている。

私はパラボラの根本で、そのやわらかな天然のマットレスに寝そべった。

電波望遠鏡の移動が停止する。座標を確定したようだ。バルジ、天の川のうちで一番きらめきの強いところ。

「稼動音がすると思ったら反射鏡を動かしているのか。最初の狙いは銀河中心部か」

黒い影が足音も立てずに近づいていたから私は驚いた。

「はい。これが終わったあとは、球状星団M13とM4にも送信するようにタイムテーブルを組みました。それが済んだら、あの船にも一発お見舞いしてやります」

「面白いな、君は」

猫が私の頭の横に腰を下ろした。寝起きなのかその小さな頭に寝ぐせが立っている。私は手を伸ばして、頭の跳ねた毛を撫でつけた。猫は目を細めながら言う。

「どうだい、本はもう読んだんだろう? なにかわかったかい」

「いえ、全然です。文字認識を目的にパラパラめくっていたので内容は頭に全く残っていません。まっさらです」

私は投げやりに言って苦笑した。猫は大口を開けて私を笑った。

「まあ、そうだろうな。あの本は難解だ。急くことはない。君には本を読む時間も空間もタップリと与えられている」

私はこの猫が暮らしていた広大な図書館に思いを馳せる。これから私は、ポケットのキャラメルを主食にして、この本の世界に仲間入りすることになるのだろう。

本の世界。

不思議な感覚だった。技術の進歩した今でも、これだけの紙の本をわざわざ保管しているなんて。

「まさにそれこそが、この図書館の意義なんだよ」

猫は言った。

「電子データの破壊は遠隔地でも光の速度で行われうる。対して、実態を持った紙の本は、空間的に圧倒的な距離を隔てることで防御できる。今回のように、復元も容易い。情報を公正に残していくには、一番の方法なのさ」

「宇宙は広く、光速で伝達する電子的な情報は有利に扱われがちだけれど、そんな時代でも、物理的な存在を保つことがひとつの大きな武器になるわけですね」

「そうさ。それに、本ならば積み上げて構造物を造成できる。君がやってみせたようにね」

猫はおかしそうに口元を歪めた。

天窓から脱出した時の話だ。私は、棚に収まった本を片っ端から天板に投げ上げ、それらを階段状に積み上げて天井を近づけたのだった。

あの時は必死だったけど、思い返せばとんでもなくおかしなことをやっていたような気がする。

図書館で本を積上げて作った階段を靴で踏みつける、だなんて聞いて怒り出す人はこの銀河に何人いるんだろう、見上げている天の川のいたるところから罵声が飛んできそう、だなんて考えていたら、笑いがこみ上げてきた。

「私、誰かに怒られるかな」

「さあね。後で巡回に来た管理ロボットがびっくりするかもしれないけれど、でもそれ以外に怒りそうな存在を俺は知らないね」

私はふと気になったことがあった。

「あなた以外にも、付喪神のような存在って、図書館にいるんですか」

猫は一瞬目をそらしたように見えた。暗さを増した世界の中に溶け入ってしまいそうだ。

「いない、と思う。少なくとも出会ったことはない」

「ずっとひとりきりで本だけ読んでいたということ?」

「悪いか」

「悪くないです。だって、私もそうだったんですから」

「船にいた時もか」

「はい」

「そんな気はしていたよ」

と、黒猫は大いに吹き出した。

「笑わないでください、傷つきます」

黒猫は仰向けになってじたばたしている。なんという猫野郎なんだ。憎たらしい奴めと心で唱える。ようやく笑うのをやめた猫はこう言った。

「君とは仲良くなれそうな気がするよ」

そりゃあそうだろう、私も大いに同感だった。

「名前がまだだったな。俺はクロだ、君の名前は確か」

なんだその可愛い名前は、反則だ。条件反射で私は口に出して叫んでいた。

「クロ!」

大声に驚いたのか三角の耳をクロは前に垂らした。

「クロ、クロ、クロ!」

おかまいなしに連呼する。

「クロちゃーん!」

猫なで声で言ってみる。おかしくてたまらない。クロは、うるさい、何がそんなにおかしいと、無愛想にしているけれどまんざらでもなさそうだ。

深呼吸を一度挟む。

「クロ、知っていると思うけど、私の名前はハルカ。これからもよろしく」

刹那、頭上で閃光が爆ぜた。赤や青や緑や紫に輝いて、流れて消えた。

もう一閃、天を切る。更にもう一つ、またもうひとつ、と次々に明るい流星が飛び込んできた。

突然始まった天体ショーに、私は言葉を失って呆然と見上げるばかり。クロはやれやれとばかりに、肩をすくめてみせている。それでも流れるたびにそれを目で追ってしまう仕草が実に猫らしい。

流星痕がひこうき雲のように線を引いて星空を飾り立てる。

宇宙から地表めがけてたくさんの塵が落っこちてきているんだ。

迎撃により破砕された大質量弾の残滓が、大気圏に雪崩れ込んできたのかもしれない。

「なんか、この先、君と一緒にいるとろくな目に合わない気がする」

黒猫がため息まじりに言っている。再び明るい流れ星。降り注ぐ流星雨。

きらびやかな星空に目を奪われる私とクロ。

特段に眩しい流れ星が轟音とともに去って行くのを見届けて、鳴り止まぬ余韻にクロはぼそっとつぶやいた。

「それでも、大質量砲に狙われるような人生は、なかなか楽しいのかもしれない」

そんな言葉を残してドームに消える。

芝生に一人取り残されても、カラフルな流星雨は衰える気配を見せなかった。いつまでたっても万華鏡に閉じ込められて、一方向に回され続けているみたいに色彩が飛び交っている。

天の川も星々も流れ星も、何もかもが美しくて、そのまま見とれていたかった。

私の寝そべっているこの原っぱは宇宙を見渡す特等席なんだ。

大きく伸びをして、芝生に全体重を委ねる。

今宵はここで、星を見ながら野宿しよう。

脇にそびえるパラボラの睨んだ先に思いを馳せる。もしも電波の行く先に、図書館惑星へ憧れる同志があれば、その人を私はどうおもてなししようか、なんて来るかどうかもわからない遠い未来をこの輝かしい夜空に照らして夢想するのだ。



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図書の星 はると @HLT

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