蝶々効果 ~バタフライエフェクト~

ナガス

蝶々効果 前編

 彼を始めて見た瞬間の事は、今でもハッキリと思い出せる。彼はとてもでは無いが、同じ年の人間とは思えないほどの、圧倒的な存在感を放っていたから。

 日本の女性の平均寿命が八十を超えている事を考えると、まだまだ短い人生ではあるのだが、その短い人生の中では感じた事の無い感情。それが一瞬にして私を支配していくのを、感じた。

 その感情のせいで心が高揚し、乱れ、落ち着かなく、常に動き続ける。

 彼の顔。体。動き。言動。その全てが愛しいと感じ、私の視線は入学式から暫くの間、彼に釘付けにされていた。まるで彼だけが色付き、彼自身が光を発しているような、そんな感覚を、毎日、毎日、感じていた。

 言葉にしてしまえば安っぽくなってしまうのだが、私はあの時、人生で始めて恋をした。今まで散々、好きなアイドルグループの話やクラスの格好良い男子の話で友人達と盛り上がっていたのだが、それは恋では無いと、始めて知った。

 恋は、心を奪われる事を言う。その人の事しか考えられず、その人の事を思うと夜も眠れなくなる。それが恋。

 そう、最初は本当に、本当に、思春期の女子なら誰もが抱くのであろう、単なる淡い恋心だった。


 近くから。または遠くから。学生達は様々な地域から一つの学校へと集まり、その中で細分化され、一つのクラスとなる。そのクラスの中でもまた細分化され、仲の良いグループが出来上がる。私も例外では無く、ひとつのグループの一員となり、日常を過ごしていた。

 穏やかで平和な毎日を送る事に関しては、何の不満も無い。成績も悪くなく、人望もそれなりにあり、会話の題材にも事欠かなく、私の学校生活は順風満帆だったと言えるだろう。

 しかしそんな日常の中で、私にとっての転機が、この学校に入学してから数日たったある日、突然訪れた。

 それは、私の初恋の彼が、音琴ねごと有希ゆきという、容姿端麗で男子人気が非常に高い女子と仲良くしている場面を、見てしまうというもの。

 初恋の彼は普段、あまり他人と話すような人では無い。一日に二、三の言葉を交わす程度の男友達がほんの数人居る事は普段から見ていたので知ってはいたのだが、音琴と話をしている時の彼は、男友達と話をしている時の雰囲気とは、明らかに違っていた。

 あそこまで長く、そして表情を崩して話をしている彼を見たのは、始めての事。とてもとても朗らかで、とてもとても魅力的で、とてもとても腹立たしい笑顔で、彼は音琴と、談笑していたのだ。

 その場面を見つけた瞬間、私の全身を、まるで黒い血液が流れ始めたかのような、感覚に陥った。そしてその黒い血液は私の感情と人格を支配し、全身をガクガクと震わせ、私の思考の自由を、奪いとった。

 どうすれば音琴と彼を、引き離せるだろうか? そんな事を、瞬時に考え始めていた。そして直ぐに思いついた事は、とても黒く、とても醜悪で、とても残酷な手段。

 私は仲の良い友人に「篠原君が野良猫を笑いながら蹴ってイジメている姿を見た人が居る」という嘘を伝えた。

 何故、音琴を悪く言う噂では無く、彼、つまり篠原君のほうの悪い噂を流したのか。その理由は二つあり、音琴は天真爛漫を絵に書いたように明るく綺麗で、男子人気が非常に高く、悪い噂が立ちにくいだろうといったものと、彼の噂が広がれば彼自身が孤立して、私が、話しかけやすくなる。というもの。

 私が流した噂はまたたく間にクラス中に広がり、篠原君へと密かに思いを寄せていたのであろう私以外の女子は「そんな人だと思わなかった」と落胆の意を示し、敵意を乗せた視線を篠原君へと向けるようになった。クラスの男子も「マジかよ」「ひでぇな」「最低だ」と篠原君の事をコソコソと噂話をするようになった。

 噂を流して、たったの二日。たったの二日の間に、篠原君はクラスで浮き、話しかける人間は居なくなった。それは噂を聞いたのであろう音琴も例外では無く、チラリとだけ篠原君へと視線を向け、すぐに逸らしている場面を目撃した。

 こういった状況に、私は内心「とても上手く行った」と、喜んでいた。思っていた通り……いや、思っていた以上の展開と状態に、私の機嫌はとても良くなり、少し寂しそうな篠原君の表情を横目で見つめて、胸を踊らせた。自身の机へと視線を向けて動かさない篠原君の姿は、私の心境を更に愉快なものにさせ、私は浮かれた頭の中で「いつ、どうやって話しかけようか」という事を、授業中に延々と考えていた。

 少しくらい……今のままの状態で放置して、苦しんでもらおうか……そうすれば、話しかけてくれた相手に感謝をし、恋心を抱くかも知れない……私の中に流れる黒い血液が脳に回り、そんな事を考えさせる。

 そしてそれを、愉快な気分を抱いたまま実行した。


 篠原君の噂が流れ始めて数日後、それは起こった。

 いつも通りに学校へと到着し、仲の良い友人と挨拶を交わし、下らない話をしながら自分の席へと着席し、何の気無しに篠原君が普段使っている窓際の机へと視線を向けると、そこには黒いマジックペンで、大きく何かが書かれている事に、気がついた。

 最初こそ何が書かれているのか分からなかったのだが、私は立ち上がり、ほんの少し歩を進めて篠原君の机の上を見てみると、そこには大きな大きな文字で「地獄に落ちろ」と、書かれている事が、わかった。

 その文字を読んだ瞬間、私の中の黒い血液が、赤へと変わっていくのを、感じた。

 脳味噌に回っていた血液が全て下がり、全身に悪寒が走り、視界が激しく揺れ、具合が悪くなり、体が震えて、私は立っている事もままならなくなり、後ずさりながらすぐ近くの自分の席へと着席する。

 そして机へと俯き伏せって、私は目を閉じた。

 ……これは、もしかして。

 もしかして。

 友人の「ユッコ、大丈夫? どうかした?」という私を心配する言葉が、やけに遠くに聞こえる。


 頭が真っ白になり、全身にちからが入らないので机に身を預け、それでも篠原君の姿を確認しなければと、視線を出入り口へと向け始めて数分後、このクラスに篠原君が暗いと感じさせる表情を浮かべながら入ってきた。それと同時にクラスのあちこちから「クスクス」と笑う声が聞こえてくる。その声の主達が恐らく、机に落書きをした犯人達なのだろう。

 私はそいつらを確認しようと、体を起こしクラス中をグルリと見回した。

 するとそこには、クラスの人間ほぼ全員の、微笑みが……目に、入った。

 なんだ、これは。何故、ほぼ全員が、微笑んでいるのだ……。

 まさか全員が犯人だという訳では無いだろう。それなのに全員が微笑んでいるという事は、つまりそれは、クラス中の誰もが、篠原君の反応を心待ちにしているという事……?

 そう思い、私は再び篠原君へと視線を向ける。篠原君はあと数歩で、自身の机の上に書かれている落書きに、気が付くだろう。そしてその瞬間を、今か今かと……見守っている私が居る。

 この感情は、一体何なのだ……? この、ワクワクにも似た、この感情……クラスの連中も、同じように感じているのだろうか……。

「クスクス」

「ははっ」

 篠原君の歩みが一瞬止まり、篠原君の眉毛にチカラが篭もり、篠原君の肩がギュッと上がり、篠原君の体が少し震えた所で、クラスの中で誰かが笑った。

 そして、私の口からも「ふっ」という、笑い声が漏れていた。これは、何故なんだ……?


 

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