第4話 まめっこ、世にはばかる

 豆子と直之はすぐにエレベーターから降りたが、窓ガラスが割られる音や怒鳴り声が階下から届いてくる。

「相手は虎林組の下部組織のチンピラ連中。武器は金属バットにナックル、あと火炎瓶といったところです。防火扉が設置されていますので、ビル自体が火にまかれることはないでしょう」

 直之は、白鳥組のオフィスフロアの一階下にある警備室に豆子を導いた。慌ただしく行き来する人に巻きこまれないよう、壁際に連れて行く。

 監視カメラでひととおりの様子を確認してから、直之は豆子を見た。

「怖いですか?」

「当たり前だよ! 直之は怖くないの?」

 豆子が喉を鳴らして言葉を吐き出すと、直之はうなずく。

「ええ、怖がるのは当然の感情です。でも僕らは虚勢を張ってなんぼですから」

「逃げないと」

「できません。僕は若頭。白鳥組を守る立場の責任者です」

 断言した直之は大して年も離れていないはずなのに、遠い世界の住人のように感じた。

「ここでじっとしていてください。僕はもう行かないと」

 豆子には直之を留めることはできなかった。直之は警備室から上階のオフィスフロアにつながる階段を足早に上って行く。

「防火扉を閉めろ! 上階に奴らを近づけるな!」

 警備室では組員たちが怒鳴りあっていた。ビルのあちこちに設置された監視カメラの映像がモニターに映っていて、豆子は恐る恐るそれらを見上げる。

 続々と武器を持った男たちがビルの中に入ってくる。要所に設置された分厚い鉄の扉はなかなか開けないようだが、エレベーターは無防備で、その前で白鳥組の組員たちと争いになっているらしい。

 怖がってばかりでは駄目だ。考えないといけない。豆子は忙しなく監視カメラの映像をみつめて、今どこで何が起きているかを把握しようとした。

 けれど物が壊れる音や人同士が争う声だけで体が震えてしまって、満足にカメラを見ることもできない。

 こんな世界は嫌だ。外に出たら二度とこの世界にかかわらないと誓うから、どうか許してほしい。部屋の隅で頭を抱えてうずくまりながら、切に願った。

 暴動が始まってどのくらい経ったのか、誰かが電話を取って叫んだ。

「不破の兄貴からだ。退路を確保した。組員は非常階段を使って速やかに外に出ろとのこと!」

「逃げろってことですか?! 兄貴がまだ上階にいらっしゃるのに!」

「兄貴は皆の避難を見届けてから、非常階段で脱出されるそうだ。早くしろ!」

 逃げていい。その言葉は天の助けのように思えた。

 やっとこの暴力の渦から逃れられる。そう思っただけで呼吸が楽になった気がする。

 実際、組員たちは次々と非常階段から外へ脱出していく。豆子はがくがくする足を叱咤して立ち上がると、どうにか自分も非常階段に向かおうとした。

「あ……」

 そのとき、モニターに映った一つの光景が目に焼き付く。

 上階のオフィスフロアのエレベーターを、武器を持った三人の男たちが降りた。

 豆子は立ち竦んで、次の瞬間には走り出していた。非常階段、その上へ。

 上階の扉を開いて室内に滑り込む。勢い余って転んで、豆子はソファーの後ろに倒れた。

 そこに二人の男が昏倒していてぎょっとする。豆子は飛びのこうとしたが、怒鳴り声で我に返った。

「頭はどいつだ? まさか頭も尻尾巻いて逃げたんじゃねぇだろうな!」

 物陰から様子をうかがうと、興奮した様子で男が叫んでいた。

 その手には黒い金属。……拳銃だ。

 室内には既にその男と、直之、そしてもう一人しかいない。

「俺が頭だ」

 不破が前を見据えて静かに告げた。

「武器を捨ててこっちに来い!」

 男はおそらく普段は正規の組員には意見もできない立場なのだろう。自分が余所の組とはいえ頭を操作できているということに、優越感の混じった声で言った。

 不破は懐から銃を捨てて、ゆっくりと男に近づいていく。

 不破の銃が床を滑っていって……豆子の数歩先で止まった。

 豆子の目の前が点滅する。

 どうする。今考えていることは、悪いことだ。この世界にかかわるべきじゃないと先ほど思い知ったはずじゃないか。

 でも、と豆子はソファーの後ろから食い入るように不破を見る。

 落ち着き払った不破の様子が、らしくないと思った。背筋を伸ばして堂々と若頭の振りをするのは、豆子の知っている不破じゃなかった。

 だったらどんな不破を知っているの、と自分に問いかける。

 知らない。知ろうともしなかった。豆子は怖くて、不破に近づかなかったのだから。

 永遠に知らないまま終わるかもしれない。そう思った瞬間、豆子は明日さえなくしそうな思いがした。

 不破が男に、あと一歩のところまで迫った時だった。

 豆子は不破が捨てた銃に飛びつく。男が物音に気づいて振り向く前に、それを力いっぱい投げた。

 銃は男の頭に猛スピードでぶつかって、落ちた。

 男が目を回して倒れる。

「はぁ、はぁ……っ!」

 豆子はソファーの後ろから肩を上下させて這い出る。けれど膝が笑って、みっともなく転んだ。

「豆子?!」

 倒れこんだ豆子を不破が駆け寄ってきて助け起こす。

 ああ、私のこと、覚えててくれた。それだけでいいような気がした。

「弾を撃ったら悪いこと……だけど、銃を投げるだけならギリギリセーフだよね……?」

 限界まで強張った顔にちょっとだけ笑みを浮かべて、不破を見上げる。

 辺りは静かになっていた。騒乱がぴたりとやんでいる。近づいてくる足音ももう無い。

「不破。猫元組からコンタクトがありました」

 直之が携帯から耳を話して言う。

「このビル周辺に猫元組の正規組員が集結して、騒乱の鎮圧に出たそうです」

 豆子は大きく息をついた。不破も直之と顔を見合わせて安堵の顔を見せる。

 それが最後の記憶。

「……豆子っ?」

 そのまま、豆子は意識を失った。




 それからしばらくは小競り合いもあったらしいが、猫元組が間に入ったことで騒乱は沈静化したらしい。

「でもまだ忙しいんじゃないの?」

「こら。ちゃんと寝てろ」

 豆子が病院のベッドの上でごろごろ転がっていると、不破に叱られた。

 例の騒乱後に、豆子は失神した。すぐに病院に連れて行かれて精密検査を受けさせられたが、どうやら極度の緊張が原因だったらしい。

 病気や怪我ではないと診断された。だが、一時は危ういほどの血圧の低下があったらしい。それくらいに豆子はギリギリの緊張の中にあった。

「だってもう全然悪いところないのに。寝てばっかなんかつまんないよ」

「そう言うな。一応明日は退院だろ」

 不破は包みを出して豆子の膝元に置く。

「ほれ、土産だ」

「わ、大福! これ全部食べていいの?」

 豆子は思い知った。自分は多少ふてぶてしいところがあるが、それでも不破たちとは世界が違う。チンピラたちが押し寄せてくるのを見て、震えて足も立たなかったくらいに。

 豆子は口いっぱいに大福をほおばって、ちらと不破をうかがう。不破は傍らのパイプ椅子に座って、豆子が食べるのをじっとみつめていた。

「豆子」

「ん、何?」

「俺はな、一時迷ってた」

 自嘲気味に笑って、不破は言葉を吐き出す。

「俺はもっと牙を持つべきなんじゃないかって。金の世界でもこの業界でも、上を目指して然るべきだと」

 豆子は黙って聞く。それに促されるようにして、不破は続けた。

「だが気づいた。そんな野心はちっぽけだ。もっと正直に自分のやりたいことをやればいい。尊敬する若頭が成長するまで代わりをすることだって、俺が納得してやるならそれが最高の野心なんだと」

 ふっと頬を緩めて不破は豆子を見た。

「お前を見てたら、そう思ったんだ。お前、実は相当怖がりなんだな。でも倒れずに戦ってる。それってすごいことなんだぞ? だから……」

 不破は言いよどんで、でも意を決したように告げた。

「その、お前の真っ直ぐさが……日の当たるところで認められてほしいと思ったんだ。だから金をやってでもこの世界から足を洗わせたかった」

 不破は懐から紙包みを取り出して封を開くと、中身を豆子に示した。

 中には数百枚はある万札の束が入っていた。豆子の目が止まる。

「お前は怒るだろうけど、これが俺のできる精一杯の応援なんだ。ちゃんと綺麗な金だから安心してくれ」

 豆子はぶるぶると震える。

「……か」

「ん?」

「ばかー!」

 札束を不破に投げつける。不破は驚いて、その戸惑った顔がますます幼く見えた。

「な、なんだよ。だからこれは汚い金じゃねぇって」

「不破はなんっにもわかってない!」

 豆子は手当たり次第に物を投げつけてくる。金だけでなく、タオルやコップまで飛ぶ。

「乙女心を踏みにじって、この、この!」

「痛ぇ、やめろ! おい!」

「なんでちょっとくらい待ってくれないの、不破!」

 豆子は肩を怒らせて不破の胸倉をつかむ。

「あずきは将来、最高に甘いお菓子になるんだ。私だってそのうちに絶対、いい女になる。この大福のように。だから待ちなさい!」

 目を回した不破に、豆子は叫ぶ。

「私は好きだよ、不破のこと。不破は私のこと好きじゃないの?」

 あーあ、言ってしまった。豆子は自分に頭を抱えたかった。

 こんなこと言ったら、つけこまれる。心を開いたら、傷つく可能性だってある。

「金なんか自分でどうにかする! それより、不破の行く所どこでもついていく!」

 でも、駄目だ。怖くたって、傷ついたって、豆子は気づいてしまった。

 この頼りなげで無神経な男が豆子は好きで、そして……幸か不幸か、彼は豆子を思ってくれるのだから。

 豆子は不破を突き飛ばすと、振りかぶって丸い何かを投げつける。

 ぽかん、と不破の頭に大福がぶつかって、地面に落ちた。

 たぶんそれで、不破の頭はおかしくなってしまったのだろう。

 一瞬の沈黙の後、不破は笑い出した。

 呼吸困難になるくらいに全力で。笑いの種が弾けるようで、いつまでも尽きることがない。

「お前って、趣味悪いのな」

 お手上げというように、不破は目の端に滲んだ涙を拭う。

 不破はベッドの上に立ち上がった豆子を見上げる。

「でもお前って最高に面白い。……一緒に暮らすか、豆子」

 豆子がその言葉の意味を理解するまで、あと数十秒。




 後日、不破とホームセンターを歩いていたときのこと。

「不破、何してんの。早く早く!」

「お前、荷物持ちさせといてそれか」

「だって不破ん家汚すぎるよ。掃除道具も全然無いじゃない」

 豆子が文句をつけると、不破は目を逸らしてうなずく。

「まあ、掃除してくれてるのはありがたいと思ってる」

「ほら、次お風呂コーナー! スポンジに手袋にカビ抹殺!」

 不破にカートを押させて、豆子はどんどん前に進んでいく。

「あ」

「どうした」

 突然豆子が立ち止まったので、不破は横に並んできた。

 二人の視線の先に、見覚えのある男女の姿があった。線の細い女性と涼やかな面立ちの男性が、仲が良さそうに手をつないで歩いている。

 足らないものや欲しいものはありませんか。男性が振り向いて優しく問う。

 女性はおずおずと棚を見やる。口ごもる彼女を、男性はじっとみつめている。

 では、これ。女性が指差したのは、うさぎの形をしたシャンプー容器だった。

 うさぎ、お好きなんですね。男性はそう言ってほほえむ。子どもっぽいでしょう、と恥ずかしそうにうつむいた女性に、男性は喉を鳴らしてくすくすと笑った。

 それは月岡と婚約者の女性だった。二人の様子を見ていて、豆子はすとんと理解する。

「あっちも同居の準備か。ホームセンターの似合わないカップルだなぁ」

 不破が苦笑しながらつぶやく。

「……好き合ってるんだね、二人」

「最初は月岡の片思いだったみたいだけどな」

 月岡と婚約者の女性が交わし合う視線、空気。そういうものがとても温かくて、豆子は不破が二人の結婚を祝福した理由がわかった。

「豆子」

 ああいう甘い空気、私と不破じゃ無理だろうな。豆子が遠い目をしたら、不破に声をかけられた。

 ふっと不破との距離が近くなる。次の瞬間、かすめ取られるようにキスしていた。

「余所見すんなよ」

 不破は憮然として顔を離すと、背中を向けてさっさと行ってしまう。

 豆子は数秒間沈黙して、やがて胸をいっぱいにする一つの気持ちに気づいた。

「……大好き!」

 豆子は噴き出すように笑って、その丸まった背中に飛びついた。

 

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まめっこ、世にはばかる 真木 @narumi_mochiyama

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