第3話 離れてからわかること


 猫元の事務所から帰る道は、あまり覚えていない。

「不破、待って」

 また深夜の零時頃。二人で繁華街の中を歩く。

 不破に助けられたのは二度目だ。それなのに、彼は相変わらず金も体も要求してこない。

 豆子自身がそういう男を選んで付き合ってきた。見返りもなく自分に近づいてくる男は、かえって不審で信用できなかった。

 ぎらつくネオン、目立つホテルの数。不破は先ほどから考え事をしているようで、背を丸めて豆子の数歩先をさっさと歩いて行く。

「私に何かしてほしいこととかないの?」

 素直な気持ちで礼を言いたいのに、そんな言い方しかできない自分が嫌だった。

 こういう私は、可愛くない。仕事なら腕に抱きついて甘えられるのに、気になる男にはまるで素直になれない。

 何か言ってよ。たとえば私を幻滅させるようなことを。

 そんな願いをこめて、不破の背中をみつめたときだった。

「お前、さ」

 不破は足を止めて、中途半端に振り向いて口を開いた。

「いくら要るんだよ?」

「え?」

 一瞬、何を言われたのか信じられなかった。

 不破は眉を寄せて言ってくる。

「何か目的があって夜の世界で働いてるんだろ。足を洗うのにいくらかかる? ……金なら出してやるから、お前、もうこの世界やめろ」

 見返りなく与えてくれるなんてありえない。それを、不破の側から投げ返されたような気分だった。

 そんな風に見られていたのか。体が熱くなって、豆子は叫ぶ。

「私はそんな安い女じゃない!」

 自分だって不破にそういう安さを見たのに、なんて身勝手。それなのに、体が爆発するような怒りのままに言葉を吐きだす。

「金を目当てに近づいてくる愛人連中と一緒にするな! 私が金を稼いでるのは大学に行くためだ! 勉強して、お金も地位も手に入れて、側にいてくれた親戚や友達が困ったときに助けられる人間になるんだ!」

 豆子の周りには打算に満ちた人たちがたくさんいた。でもそんなことは構わない。その心にあるのが打算だろうと世間体だろうと、側にいて豆子を守ってくれた。

 不破はうろたえたように瞳を揺らす。豆子の目から涙が溢れたから。

「誰があんたの愛人の一人になんかなるもんか!」

「豆子!」

 背を向けて走り出す。けれど短いスカートでは走りにくい。すぐに不破に追いつかれて肩を掴まれる。

「すまん! そういうつもりじゃ」

 豆子は顔を背けて、首を横に振る。

 好きなんだ。豆子は喉元まで上がってくる言葉を飲み込む。

 愛人でもいいから不破の側にいたいと、弱い自分が言ってしまいそうになるから。

「……もう顔も見たくない」

 ただそう吐き捨てるように告げて、豆子は不破の手を振り払った。




 まもなく新しい店長が猫元組からやって来てキャバクラは再開されたが、豆子は店をやめた。

 不破の言うことを聞いたつもりはない。ただ店で働いていると、また不破に会ってしまいそうで嫌だったからだ。

 会いたくない。その一方で、不破がどうしてるか気になった。

 不破は豆子を助けてくれた。いろんな情報やコネを使って、自ら組事務所に赴いて交渉までしてくれたのに、豆子はお礼もきちんと言っていない。

 ただの気まぐれといえば嘘になるくらい、何度か不破のシマに行ってみた。それとなく、その辺りで働いている友達に不破のことを訊いてみた。

「そういえば最近見かけないわね。まあ、元々あんまり水商売に関わりたがらない人だけど」

 友達の答えは大体決まっていて、不破の現況は一向につかめなかった。

 豆子は短期バイトで食いつないでいた。いっそまたコンパニオンとして宴会にでも入り込んでやろうかと思ったが、何となく不破のしかめ面が思い浮かんでやめた。

 友達に聞きまわったので、収穫なら多少はあった。不破が若頭補佐を務めているところは白鳥組といって、高齢の組長に、二十歳になったばかりの一人息子の若頭がいる。不破はその若頭に代わって組を任されていて、大変忙しいらしい。

 体は大丈夫なんだろうか。貧弱な背中を思い出しながら、ティッシュ配りのバイトを終えて自宅のアパートについたところだった。

 暮れゆく太陽が赤く照らす、一階建てのボロいアパート。そこに見慣れない黒い高級車が止まっていた。

 豆子がそれを避けて自室に向かおうとすると、後部座席から誰か降りる。豆子は視界の隅にその姿を見て、おやっと思った。

「こんにちは、豆子さん」

 このボロアパートには似つかわしくない、上品な浅葱の着物に身を包んだ青年だった。背はそれほど高くないが姿勢がよくすらっとしていて、ほほえんで声をかけてくる。

「私?」

「失礼。僕は塩見直之(しおみ なおゆき)と言います」

 豆子はその名前を最近聞いたことがあった。思わず目を瞬かせると、彼は豆子に告げる。

「白鳥組という組織の若頭を務めております。補佐の不破のことで、お願いがあって参りました」

 丁寧に頭を下げて、青年は困ったように笑った。

 数刻後、豆子はオフィス街のビルにいた。物陰で直之と共に待っていると、車が横付けされて不破が降りてくる。

「何か動きはあったか?」

「刈谷が寝返ったようです。うちにも影響があるかと」

「日野に人をよこして留めろ。若の身辺に危険が及ぶような事態にはするな」

 忙しなく部下とやり取りしながら歩いて行く不破は、触れられない刃のように鋭く見えた。気弱そうだった表情はどこにもなく、荒んだ様子にも見える。

 ビルの十階に上って、オフィスフロアに入る。そこは以前不破から感じた緑の匂いがした。猫元の事務所ほど広くはないが清潔で、行き来する組員たちもあまり荒っぽそうではない。

「最近、不破は寝る間もないんです」

 直之は休憩所らしいブースの窓辺の席に着くなりため息をついた。

「龍守組の月岡さんはご存じですか?」

「うん。クーデターを起こして若頭になったって」

「ええ。その影響がうちにも及んでいるんです。主に悪い影響が」

 直之は窓から見える景色を指差しながら話す。

「この辺りは大きく分けて、川を挟んで向かい側が虎林組、こちら側が龍守組の支配下です。うちの白鳥組は元々別組織なのですが、今は龍守組の傘下です」

 豆子と不破が乗り込んだ猫元の事務所は向こう側の川沿いにあった。不破にとって白鳥組の若頭補佐という立場は隠さないとまずい領域の問題だったのだと、それを見て気づく。

「けれど月岡さんが龍守組を乗っ取ったことで、虎林組が文句をつけてきているんです。筋が違う人間にトップを任せて黙っているつもりかとね。それで虎林組の組員が川のこちら側に流れ込んでいます。つまり、隣接している白鳥組のシマを荒らしていまして」

 上流階級の匂いのする直之の口からシマという言葉が出るのは不思議な気分だった。けれどまぎれもなく彼もその筋の人間なのだ。彼の目つきも、よく見れば決して優しくはなかった。

「不破は決断しないといけないんです。クーデターで地位を追われた龍守組の元若頭につくか、月岡さんにつくか」

「それは……」

 豆子は不破が月岡を見ていたときの懐かしそうなまなざしを思い出す。

「不破は月岡さんの幼馴染ですから。本当は月岡さんの味方をしたいんだと思います。でも不破の立場で表立って月岡さんの味方をしたら、うちみたいな場所にある小さな組は潰されてしまうかもしれないんです。……僕は」

 直之は言いよどんでから、そっと切り出す。

「もういいんです、と不破に言いたい。元々、うちの組は僕の父の代で終わりだと囁かれていました。不破が色々改革して巻き返したから、今もどうにかなっているだけです。不破は、若が一人で動かせるようになるまではと言って一生懸命頑張ってくれてますけど……不破を欲しがっているところなんて山ほどあって、うちで肩身の狭い思いをする必要なんてないんです」

「直之」

 豆子は少し考えて、直之の目を見返す。

「そういうの、不破に失礼だ。不破は直之の話をするとき、「自慢の若」って何度も言ってた」

 直之は驚いたように目を瞬かせる。

 豆子は宴会のとき、不破がぽつぽつと話したことを思い返しながら言う。

「「とても感性が鋭い」、「いつも下の者を気遣ってくれる」、「親父さんによく似てきた」って。不破が月岡さんの味方をしないのは、直之と組の両方ともを守ろうとしてるからだよ」

 ぐいと直之の肩を揺らして、豆子は強く告げた。

「怖くても放り投げちゃだめ。……怖がる気持ちは大事だけど、考えなきゃだめ。私も考えるから、直之も考えてみて」

 ふいに直之は優しく笑った。豆子が首を傾げると、直之はため息をつくように言葉を重ねる。

「さすがは、不破が組を捨てかけただけのことはありますね」

「え?」

「一週間くらい前でしたか。深夜、不破から慌てた様子で連絡があったんです。「訳あって猫元組ともめるかもしれません。失敗したら、俺は切り捨てて新しい若頭補佐をみつけてください」って」

 驚く豆子に、直之は面白そうに目を細める。

「不破があんな無責任なことを言ったのは初めてでしたよ。結局戻っては来たんですけど、それから不破らしくないミスばかりして、珍しくも僕に泣き事を零すんです。「俺は最低な男です」って」

 変な顔をした豆子を見て、直之はくすくすと笑って続ける。

「そんなこと言われたって、事情もわからない僕にはさっぱりですよ。調べてみたら、豆子さんという女性に振られたようで。不破も普通の男だったのだなと、妙に感心しました」

 直之は表情を引き締めてうなずく。

「ありがとう、豆子さん。あなたに不破を宥めてもらおうかと思ってお呼びしましたが、甘えが過ぎたようです。僕なりに不破と組を支えてみせます」

「……うん」

 豆子は笑って、この頼もしい若頭を見上げた。

「私もちょっと元気出た。私も自分なりに、できることをしてみる」




 その日から、豆子は白鳥組のオフィスビルで清掃員として働き始めた。

 不破は忙しそうでろくに周りも見ていないし、豆子も自分に気づいてもらおうとは思っていない。時々直之の相談に乗ったりしながら、遠目に不破の様子を見ていた。

 不破は大体自分の部屋にこもって仕事をしていて、豆子はその部屋の清掃は任されていないから面と向かう機会はないはずだった。

「わ」

 ところがある日休憩室のブースに入ったら、不破がテーブルに突っ伏して眠っていた。

「危ないなぁ……ここ、誰でも入れちゃうのに」

 疲れ果てているのか、豆子が近寄っても起きる気配はない。不破の多忙は続いていて、相変わらず昼も夜もない生活だと直之から聞いている。

 普段見かける不破はいつも怖い顔をしているが、さすがに眠っている間はその張りつめた空気が緩んでいた。撫でつけた前髪も下りていて幼く見える。

 豆子はしばらく立ったまま不破の寝顔をみつめていた。

「……すまん」

 ふいに不破がつぶやいたので、豆子は起こしてしまったのかと焦った。

 でも不破の目は閉じられたままで、しばらくすると寝息が聞こえてくる。

「すまん……」

 不破はまた謝る。顔をしかめて、うめくように。

 誰に謝っているのだろう。月岡だろうか、それとも他の誰かに?

 ただその表情は見覚えがあった。豆子が不破の手を振り払った、あの瞬間と同じ。今にも泣き出しそうな顔だった。

 もし、もし私に謝ろうとしてるのなら。豆子はぽつりとつぶやく。

「……私こそごめん」

 そっと頭を撫でて、豆子は名残惜しい思いを押し殺してその場を後にした。

 何日かして直之と会う機会があったので、豆子は提案してみる。

「不破は寂しいんじゃないかな」

 多少抵抗はあったけど、質問を決行する。

「不破って愛人はいる?」

「いいえ。どうしたんです、いきなり」

「不破には側にいてくれる女の子が必要だよ」

 驚く直之に、豆子は切り出した。

「以前私が呼ばれたような、持ち帰り前提みたいな宴会って開けない?」

「豆子さん。怒りますよ」

 直之はちょっと怖い顔をして豆子を叱る。

「不破をどういう男だと思っていらっしゃるんですか。確かに僕らの仕事は後ろ暗いところがありますけど、不破自身は真面目な人間です」

 豆子の前に指を立てて、直之はぴしゃりと言い切った。

「一度ちゃんと不破と付き合ってください。そうしたらわかりますから」

 直之は結構怒っていたようで、それ以降豆子が女の話を持ち出すことは許さなかった。

 そうはいっても、誰かに甘えたいときってあるんじゃないかな。豆子は思う。

 豆子は自分と違う人間、特に男の人に心の内を明かすのは好きじゃない。でも体は別のときがある。自分じゃない誰かと触れ合いたいときがある。

 豆子はずっと、その願望は自分が幼い頃に両親を失ったからだと思っていた。家族のぬくもりを覚えていないから、それが甘えとなって出てくるのだと自分に苛立った。

 けれど最近、バイトの合間や買い物の帰り道、朝起きたときの何気ない瞬間に思う。不破に触れたいな、と。

 後ろからぎゅっと抱きしめたら、不破はどんな顔をするんだろう。迷惑そうな顔をするだろうか。少し丸まった背中を見るたびいつもやってみたい衝動に駆られた。

 そんなことをもやもや考えている内に、不破と最初に会ってから二月が経とうとしていた。

「豆子さんに見てもらいたいものがあるんです」

 ある日、直之とビルの外で待ち合わせて、そこで一枚の写真を見せられた。

 線の細い女性が椅子にかけて、その横に涼しげだが鋭い目をした青年が立っている。女性の左手の薬指には豪奢なダイヤの指輪がはまり、その彼女の手をカメラに示すようにして青年が手に取っていた。

「月岡さんだ」

「ええ。龍守組の月岡さんが婚約されたそうなんです」

「この写真、どこで?」

 豆子が訊ねると、直之は神妙に答えた。

「クーデターで立場を追われた龍守組の元若頭は、僕の高校からの同級生なんです。名前を真也さんというのですけど、彼は月岡さんが自分や龍守組の組長にこの写真を送りつけてきたことにずいぶん怒っていました」

 直之は華奢で儚げな、少女のような女性を指差す。

「この女性は龍守組の組長の愛人の子、つまり真也さんの腹違いの妹です。月岡さんは組を手に入れた証に、彼女も強引に妻にしてしまうつもりらしくて」

「何それ、ひどいよ」

 豆子も真也という元若頭に同感だった。こんな二十歳にもならないあどけない女の子を組とか自分の立場のために踏みにじるなんて、許されないと思った。

「……でも不破はこれを見たとき、すごくほっとした顔をしてたんです」

 豆子は訝しげに問い返す。

「なんで?」

 直之は写真に写るもう一人の人物を指差した。月岡と女性の肩に手を置いて優しげな微笑みを浮かべた白ひげの老人だ。

「この人、猫元組の組長さんだね?」

「はい。虎林組の最高顧問でもある方です」

 直之は鋭い目をして写真をみつめる。

「虎林組の幹部がこの結婚を支持している。つまり、月岡さんのクーデターにかこつけてうちのシマを荒らしている連中は、幹部の意思ではないということです。うちから追い出しても、虎林組は黙認する」

「ええと、うーん……」

 豆子は頭をひねって考えると、どうにか言葉を紡ぐ。

「要するに、不破は堂々と月岡さんの味方ができるってこと?」

 直之はほほえむ。

「はい」

「でもこの女の子がかわいそうだよ。私、納得できない」

 豆子の中にある、女の子への同情が膨らむ。女の子、特に自分より弱い子は何としても守らないといけない。それは長い間豆子の柱になっている感情だった。

 直之の目に面白そうな光が宿る。

「そこなんですが、不破に直接問い詰めてみませんか?」

「え?」

「どうしてそんな卑怯なことをする男の味方をするのかって、不破に怒ってみればいいのです。豆子さんは許せないでしょう?」

 豆子は憮然として、疑わしそうな目で直之を見上げる。

「そりゃ文句はつけたいけど……直之、面白がってない?」

 直之は優雅に口の端を上げて笑ってみせた。

「気のせいでは?」

 この人、将来絶対やり手になる。豆子は確信した。

 結局直之はのらりくらりと豆子の追及をかわして、数刻後に豆子は直之と共に白鳥組のビルのエレベーターに乗っていた。

 勢いで文句をつけに行くことになったけど、どんな顔をして不破に会おう。もしかして私のことなんて忘れているんじゃないか。そんな不安もよぎる。

 忙しなくガラスの向こうを見やっていたら、ふいに異様な音が響いた。

「……まずい」

 直之が窓ガラスごしに下を見て顔をしかめる。豆子も目を見開いた。

 ……ビルの最下層に、火炎瓶が投げ込まれていた。

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