クールビューティ

@ragy_cranks

クールビューティ

 日の出の光が窓から差し込み、埃塗れの手元を照らす。眼球に尖った刺激と、瞼の裏に沁みる痛み。いつからか日差しを薄い毒みたいに感じるようになった。特に今のような、夏の朝ともなれば尚更だ。

 それは、学生の頃は遠くに思えた三十路がもはや目の前に来た証だろうか?……などという事を、手にした物と、窓硝子に映る今の自分とを見比べては思いたくもなる。

 いや単に、段ボールの底に敷かれていた卒業アルバムそれを掘り返して、妙に懐かしい気分になったというだけだ。

 今まで見返すこともなかったそれは、引っ越し作業の最中、偶然見つかった物である。

 目の前に興味を惹かれる物があれば手を止め、目移りしてしまうのは人の常。で俺も、大仰な表紙(銀杏の葉を象った校章が一面に載っている)をしたそいつをつい捲ってしまっていた。

 高校時代。俺がまだ輝けていた頃。

 この時期は今と違って、自分から関わりを作ろうとせずとも、他人と接点を持たざるを得ない特殊な環境だった。目的も趣味も性格も異なる、別の方向を向いた人間同士が混ざって行動する場なんて、成人してからはほぼない。

 クラスというお膳立てされた枠組みの中では、俺もなんとか人間関係を築けていた。しかし社会に放り出されてみれば、人とゼロから関わりを結ぶことの異常なまでの労力を知る日々だ。

 二十八という歳はそろそろ新しい物に食いつけず、拒むようになりつつある。

「……」

 いや、歳は関係ないな。これは俺自身の問題だ。

 偶にこうして、人との関わり合いの下手さに落ち込むことがある。その時は決まって、同時に思い浮かぶ顔があった。俺とは対照的に、あらゆる者との関わり合いが化け物のように上手い人間。

 そいつは俺と同じ高校で、三年の時だけ同じクラスだった。名前は氷狩七生ひかりななみという(今は水野という名字に変わっている)。

 生徒会総代を務め全校生徒・教師共々から信望厚く、お決まりだがスポーツ万能で成績はずば抜けていた。加えて、容貌も端正な顔立ちのいわゆる美形で、どこをとっても隙の無い奴。俺から言わせればもうはいはい参りましたって感じの。

 これで性格が悪かったらまだ救われていた。が、もうほんと困ったことに、奴の能力の中で最も優れていたのは、人当たりの良さだった。

 明朗快活を絵に描いたような立ち振る舞いで、人前ではいつも明るく、誰とでも分け隔て無く接することが出来ていた。羨ましいくらいに。

 最初は単なるやっかみの目で、やがて尊敬の念を抱きつつ、そしてもっと知ってしまってからは――

 俺の高校最期の年は、奴を見続けた一年だった。

 最早言うまでもないことだが、俺は氷狩に憧れていた。十年経っても忘れられないくらいには。


 アルバムの端に写った、もはや自分とは思えない少年。そしてその隣にいる十年前の氷狩。写真の中で二人は机を並べ、何かを書いている。

 この場面ではなかったけれど、氷狩七生という人間を一歩知れた日にも、俺達はこうしていた。

 それを眺めながら、当時を思い返す。


                  ◆


 氷狩への印象が一段変化するきっかけは、しっかりと覚えている。

 夏の放課後のこと。帰宅途中、その日使ったジャージを教室に置いたままだと気付き、下校時刻間際の学校へ蜻蛉返りする羽目になってしまった。

 学校まで走って戻った頃には、閉門までもう間もなくといった時間だった。

 息を切らし教室のある階まで駆け上がる。焦りと、どうせ誰もいないだろうから、という油断からドアを開ける手が多少荒くなってしまって、乱暴な音を立てながら教室へ乗り込んだ。

 教室の隅、自分の席に座る氷狩が視界に入ってはじめて、しまった、と悔いた。

 こんな時間に人が残っているなどと考えてもいなかったので、驚きに体が若干強張ってしまう。

 氷狩はというと、手に持った紙きれのような物をじっと見つめ、こちらを意に介さない。あれだけ大きな音を出せば気付かない筈もなかろうに、反応は帰ってこなかった。

 結局その紙が何なのかはわからないが、それに対する氷狩の視線はあまりにも冷たいものだった。俺自身がその目で射竦められたら、悪くすれば心臓が止まりかねないほどに。

 同じクラスになって四ヶ月が経つというのに、氷狩のこんな表情を目にするのは初めてだ。

 両者の間に生温い西日が差す。氷狩が俺の存在に気付くまでの間に、“何と声を掛けるべきか”と戸惑えるだけの空白があった。

 氷狩が俺の方を向く。するとすぐに朗らかな笑みを湛え、いつもの善人然とした面構えをしてみせる。

「誰かな? そろそろ下校時間だけど、って霧原か。びっくりした」

 そんな顔をされては、踏み入ったことは聞けなかった。

 あの紙は何なのか。何を思ったら、表情にあれほどの低温が宿るのか。気になって仕方ないが、俺を認めるや笑顔を偽造(つく)ったということは、これ以上の深入りは――“笑顔を、偽造った?”

 普段から氷狩が見せる表情の意味に気付いてしまえば、はにかんだ顔すら以前のようには見えない。人の気を惹き、温かみがあり、頭の中が道徳法則だけで出来ているという風には。

 今目の前にいるのは底抜けに陽気な生徒会総代ではない。その役割を用意周到に演じきる、怪物のような何かだった。

 だってそうだろう。人の居ない所であれだけの冷淡さを抱え込んだ奴が、学校生活の中ではそんな様子を誰にも少しも伺わせないなんて。ましてそれと真逆の印象を大多数に抱かせる、とまでくれば、少なくとも俺には想像を絶する話だ。 

「あ、ああ……すまん」

「いえいえ。これでちょっと悩んでたから、キリの良いところで終わらせる良い合図になったよ」

 ヒラヒラと件の紙をちらつかせる。遠目からではわからなかったが、どうやら学校で配られるプリントの類だ。

「それは?――ははぁ」

 気になるそれは進路希望調査票だった。確か俺も先週、クソのような進路を三つほど埋めて提出した気がする。しかし目の前の物には何も書き込まれていなかった。

 あれだけ尋ねるか迷ったものを、こうも簡単に……。

 肩透かしの感があるが、確かにそれならひた隠しにするものでもなさそうだ。

「氷狩程の奴でも、進路に迷ったりとかするのな」

 勉強すれば選択肢が増える、なんていうのはまやかしだ。力があり、やるべき事が見えている奴ほど、やれることは限られてしまう。考える余地もないほどに。

 実際賢い連中の行く先はどこも似通っているものだ。俺は氷狩もその例に漏れない優等生の一人だ、というイメージを勝手に抱いていた。

 すると、

「うん。これは持論だけど、進路に迷わない人はいないと思う。自覚無自覚は問わずね。先の事なんて、誰にもわからないんだから」

 持論だって? 授業と生徒総会以外で、氷狩がそんなものを述べることなど今までなかった。今日は何重にも珍しい日だ。

 外に目を遣れば、太陽は校舎を囲む小山に飲まれてしまっていた。それは下校時間が本当に迫ってきている事の合図だが、この貴重な機会を逃したくない。

「無自覚に迷うっていうのはちょっとよくわからんな……」

「そうだね、例えば……迷路の中の鼠を考えてみてよ。

 鼠本人、って言い方変だけど……まあとにかく。

 行こうとした先に壁があるから、閉ざされていない方を選んだ、っていうのは、鼠君の自由意思に基づく行動じゃない?」

「人間も同じだって言いたいのか? 自分の意思で選択してるように見えても、行きたい路を選んでるとは限らないって。で、自分自身何を書いたらいいかわからん、と」

「あはは……」

 氷狩は眉を少し下げる以外の意思表示はしなかった。けれど今まで居残って思い詰めている時点で、そんなことは聞くまでもないことだ。

 だらしなく垂れた腕の先には、真っ新なザラ紙が頼りなさげに掛かっている。

「……氷狩、それ貸してくれ」

「え、あちょっと!」

 言い切る前に氷狩の手からそれを奪い去る。そして胸ポケットに刺していたボールペンを取り出した。

 氷狩に止められる前に、第一希望の欄にある文字を勝手に書いてみる。

「……『大金持ち』?」

「目先の進路が決まってないなら、大雑把な目標でもいいかな……って」

「……」

「……ぷ」

 どちらが先に耐えきれなくなったかはわからない。

「「ははははははっ!」」

 が、ともかく、お互い普段の言動に似合わないくらいに大笑いした。

 その後、二人揃って下校時間を完全に過ぎてから、生活指導の教諭に見つかった。

 また後日、進路希望調査票でふざけたことを、担任にこっぴどく叱らることになる。


                    ◆


振り返ってみれば大したことはない事だが、その一件で俺の中の氷狩七生像は一転した。

「……」

 俺が大学を出て暫くした頃、水野七生、旧姓氷狩七生はかの財閥を擁する水野家の婿養子となり、水野財閥の次期総裁と目されている。

 あいつを知る俺以外の連中は、能力はあってもあれだけ温和な氷狩が、金と陰謀渦巻く財閥の世界でやってけるのかと不安がっていた。だがそんな心配は勿論無用であり、

 氷狩は本当に億万長者になった。

 本当に、手が届かなくなった。

 もし氷狩が女だったとしたら。一瞬とはいえ、そんなあまりにも情けなくて身勝手な妄想をしてしまう自分が恨めしい。

「……」

 そういえば数ヶ月前、誰だかの結婚式に呼ばれ、そこで水野と話したことがある。

 年相応の精悍さは備わっていたものの、中性的な顔つきの根底の部分はあの頃と変わっていなかった。だとすればその裡に秘めたモノも、そう思うと今でも背筋が凍りつくような錯覚がする。

 それくらい見とれていた。

 別れ際に、今度飲もうと誘われた。明確な日時指定がない以上、社交辞令なのは勿論承知しているが――

「ひか、水野か? 霧原です、高校の時の……ああ、久し振り。今、大丈夫?――」

 こんな行為、氷狩風に言えば“無自覚に迷っている”のだろう。だが俺の意思で選んでいるなら一緒のことだ。だって後悔しないのだから。


 多分俺は、これからも一人で生きていくことになる。

 けれどそれは、孤独という意味ではない。


 窓の外を見遣る。日が高くなっていたが、光は和らいでいるように感じた。きっと目が慣れたからだろう。

 

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