月を愛した隣人

かさごさか

月を愛した隣人

住宅街へ下りると空が赤みがかっていた。赤黒い雲というのは中々に気味が悪い。その中で風に消されまい、流されまいとなお光り輝く月の愛おしさよ。

 一人の男が夜道を歩いていた。月が綺麗な夜だった。満月には程遠いが、半月より膨らんでいる月が雲の間から見え隠れする様子をうっとりと眺めながら坂道を下って行った。


 その小説家は真夜中に起きた。不自然な姿勢で寝ていたせいか身体中が痛い。特に痛みがひどい腰をさすりながら、開けっ放しになっていた窓を閉めに立ち上がった。夜独特の匂いと共に冷たい風が部屋に入ってくる。寝起きの体にその風はとても心地よかった。外がやけに明るい。誘われるようにベランダに出てみた。月が綺麗だった。


 男が家に着いたのは日付が変わる少し前だった。一人暮らしのため部屋の中は静かだった。男はリビングを照らしている月明かりを頼りにベランダへと向かった。幼い頃から空を見上げるのが好きだった。地面に寝転んで夜空を見渡すのが一番好きだった。それが、いつからだろう。月を眺めることに移り変わっていた。あんなに見上げていた青空や時間が許す限り眺め続けていたかった星空に魅力を感じ無くなってしまった。

 月を愛でるようになってから宇宙飛行士になりたいと考えたことは一度もなかった。夜に姿が見えるだけで良かった。毎晩見えるわけではない。しかし、見るたびに形が変わる月が夜空に浮かんでいればそれだけで男は十分に満たされていくのがわかった。

 仕事から帰ってきたままの恰好で男は夜を明かした。今日も変わらず月は美しい。朝の陽に消えていく月、否、彼女の姿を見届け男は部屋へと戻った。


 小説家は再び目を覚ました。今度はベッドの上で起き上がった。携帯電話が枕の横で鳴き震えていた。電話だった。

『おはようございます、青崎さん』

 抑揚のない女性の声がスピーカーから聞こえてきた。担当の中島さんだった。

「おはようございます…」

青崎が絞り出したのはひどい声だった。青崎は朝が得意ではない。作品が出来上がった翌日は惰眠を貪るような生活を送っている。

『今日、いつものファミレスで打ち合わせすることになっていましたが、憶えていますか』

 まだ脳は寝ているのか中島さんの言葉が指の隙間から零れていくようだ。

『聞いていますか?』

「あぁ、はい。聞いてます。聞いてます。中島さん今日もご苦労様です」

『…十時頃に待っていますので』

 それでは、と一方的に電話が切られた。自分は何か中島さんの気を悪くさせてしまったようだ。

 時計を見ると、まだ七時半であった。隣の部屋の玄関が閉まる音がした。


 朝が来て、男は仕事に向かった。退屈だ。これから過ごす時間の長さを思うとずっと部屋に閉じこもっていたくなる。真っ昼間は余計に退屈だ。早く夜にならないものか。あるいはずっと夜でいてくれないものか。そうしたら、自分はずっと彼女の姿を眺めていることができるのに。ベランダに出て、自分と彼女だけが世界に存在しているような夜を思い浮かべ、男は電車から降りた。

 彼女は稀に昼間に顔を覗かせる。それが男にとっては不愉快でどうしようもなくなるのだ。白昼、数多の人間の上に彼女の姿があるのが許せないのだ。今すぐにでも周囲にいる人間を全て亡き者にしたいくらいの独占欲を抑え、今日も無事に仕事を終えた。

 見事な夕暮れであった。今夜はどんな姿の彼女に会えるだろうか。


青崎が自由の身となったのは夕暮れ時であった。

窓際の席で打ち合わせをしている最中に時々、なんとなく空を見ていた。雲が多い青空に月が薄く映っていた。

「青崎さん、聞いていますか?」

中島さんからこの言葉を聞くのはこれで何度目だろうか。昔から長時間集中するということが青崎は苦手だ。数十分経てば必ず一回は外を見る。面白いことがあるわけでもないのに目を向けてしまうのだ。

「月が、出ているなぁって」

思ったことを正直に話せば、中島さんは肩を上下に動かし、息を吐いた。それから手際よく広げていた紙を数枚集め、カバンにしまった。その直後に頼んでいた料理が来た。

「続きは食べてからにしましょう」

彼女は実に有能であった。

 中島さんに初めて会ったのは祖母の葬式の時だった。今では疎遠となった兄の後ろに隠れていたのをよく覚えている。葬式後、しばらくしてから兄は離婚した。中島さんは母親と二人暮らしを続けているらしい。自分の記憶の中では小さいままだった彼女が今、こうして目の前にいるのだから世間は狭いというのは嘘ではない。

 店を出ると、不思議な色の空だった。世間の狭さを笑った先人たちはこれを不吉だと声高に叫んだに違いない。根拠もないが、そう確信した。

 透き通った闇が東から迫ってきていた。


 今夜の空はどうだろう。西空で不吉な色が混ざり合っていたことを男は不安に思っていた。曇りや雨で彼女に会えない夜は数えきれないほどある。月が見えない、彼女に会うことができない夜はとてつもなく気分が落ち込む。一時期は鬱を疑われたくらいだ。あの凛とした美しさが見たい。その想いだけで空を覆う厚い蓋の切れ間を探して彷徨い歩いた日もあった。

 太陽が沈みきって、暗幕が掛かったような夜だった。心配していたような天気にならなくて本当に良かった。それに今日も彼女は気高く町を見下ろしている。地上に降り注ぐ月明かりに彼女の吐息を感じているようで気分が高揚してくる。早く彼女と二人きりになりたいと男は家路を急いだ。


 最近、よく夜中に目が覚める。半ばぼやけた意識のまま青白く染まった天井を眺めていた。虫の声が微かに聞こえてくる。地球の裏側から引っ張られるように意識が落下していくのがわかった。このまま自分が起きることがなかったら彼女はどう思うだろうか。あの抑揚のない声で悲しんでいるといっている姿は妙に滑稽だ。そこで青崎の思考は溶けてなくなった。


 ここ数日は晴れが続き、夜も雲が無い日が多い。昼休みの時間となり、男は珍しく外へ食べに行った。正直言って浮かれていた。仕事場からそう遠くはなく、かつ安い定食屋みたいな店に以前行ったことがある。一回しか行ったことがないため、記憶がかなりあいまいだが、ファミレスの近くにあったような気もする。もう一度足を運んでみようか。

 立秋が過ぎて気温がいくらか下がったとは言え、暑いものは暑い。シャツの襟が首にくっついて酷く不愉快だ。日影が無い道を歩いていく。暑さのせいか皆早足であった。男も周りにつられ、早足になっていった。

 一人の女性とすれ違った。風のない日だった。しかし男は今、この瞬間に風を感じたのだ。すぐに後ろを振り返る。歩くたびに揺れる髪。背筋が伸びた背中。凛とした後ろ姿は男に月を思い起こさせていた。どこまでも気高く、周囲に流されることがないようなその背中を男はしばし見つめていた。

 遠い昔、かぐや姫は月に帰ったという。

 それがもし、再び地上に舞い降りたとすれば、あの女性がそうなのかもしれない。


 その日、青崎は一人でファミレスの窓側の席に座っていた。自分のほうが早く着いているとは珍しい。明日はきっと槍が降るかもしれない。そう思いながら中身が半分も残っていないコップから水を口に流し込む。

 何気なくまた外を見た。険しい顔をした中島さんがこちらに向かってくるのが見えた。途中で何人かとすれ違った。そのうちの一人がわざわざ振り返り、ずっと中島さんの後ろ姿を見ていた。ネクタイをきちんと締めた男性だった。彼は突然ふっと笑い、満足そうにまた歩き出した。青崎は不思議に思いながらコップを口に運んだ。中身は空だった。


 彼女は日に日に満ちていく。男は丸みを帯びた月を眺めつつ、昼間の光景を思い出していた。後ろ姿しか見ていないがいつまでも鮮明に焼き付いていた。目の前に浮かんでいる彼女の美しさを具現化した人に出会うとは、これが人生のピークかもしれない。そう思うと男は自分の唇が緩んでいくのを実感した。ああ、この喜びを彼女も感じ取っているだろうか。きっと喜んでいるに違いない。男の目には月が「微笑んでいる」ように見えた。

 あの女性にもう一度会いたい。一目だけでいい。今度は正面から会ってみたい。そうすれば月に近づけたような気がした。絶対に手の届かない距離にいる彼女の温度を確かめてみたくなってしまった。月明かりのように冷たいのかもしれない。それとも日の光が当たっているかのように暖かいのかもしれない。

 この時期特有の少し湿った空気を肺いっぱいに吸い込み、細く吐き出していく。月が傾いていた。


 今夜は足元の寒さで目が覚めた。夏用の掛け布団が青崎の横で細長く丸まっていた。布団の端を引き寄せて、青崎は再び眠りについた。

「ああ、この喜びを彼女も感じ取っているだろうか。きっと喜んでいるに違いない」


 男が帰路についたのはちょうど日付が変わった時だった。雲一つない夜空に浮かんだ月が街を照らしていた。男は今日も変わらず温度を感じさせない光を全身に浴びながら坂道を下りていく。ふと、足を止める。目の前に月のような彼女が佇んでいた。彼女は男に気付いたようで、柔らかな笑みを浮かべ、近くの建物の中へと入って行ってしまった。月が微笑んだ、と男の心臓は痛いほど締め付けられた。一目だけでいいから会いたい。会って月の温度を触れて確かめたい。それだけが男の足を動かしていた。階段を昇る彼女を見つけた。涼しげな雰囲気を持つ彼女しか男には映っていなかった。

 気づくと、階段の続きはもうなかった。どうやら屋上まで来てしまったようだ。ドアノブを掴む。扉が開いた。彼女も屋上にいるのだと確信した。

 外に出ると彼女は月を見上げていた。名前も知らない、一度すれ違っただけの彼女が月を見ていた。外は絶えず風が吹いていて、彼女がどこかに飛ばされてしまうのではないかという不安が男を動かす。男は無我夢中で彼女に腕を、手を伸ばす。その手を彼女は割れ物を扱うようにそっと取り、小さく囁いた。

 その囁きは風に攫われ、男の耳に届くことはなかった。


 着信音が目覚ましと化してきた。青崎が起きたのは夕方だった。部屋の中に夕日が入り込んで壁紙が橙に色づく。電話の相手はもちろん中島さんだった。

「おはようございます…」

『もう、夕方ですよ。先ほどメールを送ったんですが返事が来ないので』

「あ、すいません」

 何故か布団の上で正座になる。中島さんがため息を吐くのが聞こえた。

『慣れない事はあまりやらないほうがいいですよ。正直言って、ファミレスで打ち合わせとかもうやりたくないです』

「気分転換にいいかなって思ったんだけど」

『隣人の尾行なら一人でやってください。勤め先や家族構成の特定は一人で出来たじゃないですか』

「ごめんなさい。ご迷惑おかけしました。本当に心から思ってます」

 外から踏切の音が聞こえた。電話の向こうからも同様にカンカンと鳴り響く音が中島さんの声を消してしまう。自分の声もあっちには聞こえていないだろうと小さく呟いた

「誘導ご苦労様」

『夜中に階段を駆け上るのはちょっと怖かったです』

聞こえていた。

「だったら、そこまでしなくても良かったんじゃない?」

わざわざ屋上までおびき寄せ、事故死をさせる。本当は、電車に轢かれることを予定していた。どっちにしろ死んでくれたのだからありがたいのには変わりない。毎晩のように隣から聞こえてくるミュージカル染みた一人芝居を今日から聞かずに済むのだ。

『…初めて会った時を覚えていますか』

 中島さんが急に話を変えたきた。声がクリアに聞こえる。電車は通り過ぎてしまったようだ。

「おばあちゃんが死んだ時だっけ」

弾んだ声を出してしまい、決まりが悪くなる。

『そうです。あの時、私はまだ子供でした。子供ながらに青崎さんは私と同類だと思いました。両親よりも私を理解してくれると根拠もないのに確信しました。』

 だから、私は今ここにいるんですと言った声は震えていた気がした。子供の時の直感を証明したくて青崎を目指してやってきた。

 それに、と中島さんは続けた。

『青崎さんの本が売れると私の評判も上がるんです』

彼女は笑っていた。金と出世の話をしている時だけ中島さんは生き生きとしている。

「中島さんの欲に正直なところ嫌いじゃ無いよ」

『ありがとうございます』

「ところでさ、新しい話思いついたんだ」

 日が沈んでしまったのか部屋が薄暗くなってきた。

「うん。構成とかはこれから決めようかと考えているけど、タイトルだけ決まっているって感じかな」

 雲がいくら厚くても風がいくら強くても月はいつでも光り輝いている。埋もれず、流されないその姿に憑りつかれない者がどこにいようか。

「タイトルは『月を愛した隣人』でいこうと思ったんだけど、どうかな?」

『それ、軽く自白してませんか』

 真っ暗になった部屋に月明かりが差し込んできた。

ふと月が気になった青崎はベランダに出てみた。


澄み切った夜空に満月が浮かんでいた。

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