紡錘形の復讐

南枯添一

第1話

 檸檬を仕掛けたわ、と少女は言った。

 彼は直ぐその言葉の意味を理解して、彼自身の決して広いとは言えないフラットに視線を投げた。

 少女が彼の生活に入り込んできたのはその半年ほど前のことだった。偶然を装い、さりげなさを装って、慎重に企まれた出会いだったけれど、それ故、却って彼の目を誤魔化すことはできなかった。

 にもかかわらず、彼は少女を拒まなかった。彼自身にも説明のできない行為だった。

 それほどに少女が魅力的だったのかという問いには、明快に「否」と、彼は答えることができた。そんなことではなかった。もしかしたら、彼はそうしたこと全てに、とことん倦んでしまっていたのかも知れない。

 少女は控えめに、さりげなさを装ったまま、彼の生活に食い込もうとした。いつの間にか、彼の生活の重要な部分に自分がいる、そんな風になろうとしていた。

 彼の方ではそう遠くない将来、彼女に撃たれるか、刺されるか、あるいはもっとありそうなことだが、毒を盛られるのだろうと思っていた。

 少女の動機は直に知れた。お定まりの復讐だった。

 バカバカしいとも、くだらないとも、愚かな真似だとも彼は思ったが、そう口に出すことはできなかった。言えた義理ではなかったからだ。バカバカしくて、くだらない、愚かな真似を誰かに換わって果たすことが、彼の職業だったからだ。故に、彼が考えた少女を諭す言葉はこうだった。

 〝君は道具にあたろうとしている〟。

 けれど、少女が振るった人間にではなく、道具を相手に復讐をしたいと言うなら、彼にそれを止める言葉は無かった。

 少女は望み通り、彼の年の若い大事な友人になった。手は出さなかった。欲望を覚えなかったこともあるし、それ以上に、腹上死はぞっとしなかったからだ。

 彼は少女と映画や文学について話した。彼はアルベール・カミュが、彼女は梶井基次郎がお気に入りだった。

 少女には復讐とは別に、絵画を本式に学びたいという望みがあって、シトロエンを駆った、二人だけの一日旅行の後、彼に真っ青な空と黄色い太陽を画いた水彩画を贈った。それはとてもいい画で、彼もとても気に入り、フラットの壁に飾った。

 そんなこともあった秋が冬に取って代わられようとする、ある夜のことだった。その日、どこか上の空だった少女は、鏡に映っていることに気付かないまま、思い詰めたような視線を彼の背に向けた。

 故に彼は悟った。終りが近づいたことを。

 そして今日。フラットへ戻った彼は、勝手に入り込んだ少女が部屋の中程に立ち尽しているのを見た。

「檸檬を仕掛けたわ」

 梶井基次郎、檸檬、丸善の棚、粉々に吹き飛ぶ。

 彼女の言葉の意味はあまりに明白だった。

「あと3分」

 このまま、少女を抱きしめて一緒に吹き飛べばいい。心がそう語っていた。けれど〝道具〟として過ごした、長すぎる時間が、生存本能をも上回る何かを彼の存在の中心に深くすり込んでいた。

 彼は一瞬でフラットを見回し、異常を捜した。あの画が消えていた。反射的の振り向く。画は浴室のドアにあった。ノブに針金で縛り付けてある。もし浴室に入ろうとするなら、画を壊すしかない。

 彼は躊躇しなかった。

 画用紙を引き裂き、木枠を砕いて、ドアを開け、浴室に飛び込んだ。

 スツールが持ち込まれ、その座面に檸檬が置いてあった。黄色い紡錘形の果実にはサンキストの商標が貼られたままだった。

 唖然として立ち尽した彼の背後で、浴室の入り口に少女が立った。手が鞄から何かを引き出す。

「この画を引き裂いたりしなければ、彼女は俺を撃たずに済んだのかも知れない」最後に彼はそう思った。

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紡錘形の復讐 南枯添一 @Minagare_Zoichi4749

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