見舞う除法、彼女の失くしもの・三
「べつに信じろとは言わないさ。私が言いたいのは、信憑性が無きにしも非ずであるということだ」
自分で作ったお茶を頂いたその後。
疲弊した様子でおずおずと戻ってきた五十鈴をしれっと迎えた一ノ鳥居さんが提案したのは、銭湯に行くことだった。
田が挟む小道を、山の背へ落ちつつある暮れ色の光源へ向かって歩く。振り返っても寺の姿は米粒ていどで、ここを道なりに残り十分強ほど進んだ先に銭湯があるらしい。
僕と一ノ鳥居さんの前方を、中学生くらいの白い女の子が道脇の小花や虫やとにかく色々なものに目移りしながら歩いている。そんな五十鈴は、十年来の出逢い頭にその昔と変わったようで変わらぬ姿を僕に見せたのだ。
一ノ鳥居さんは、五十鈴の失ったものを、奪われたのだといった。また、奪った犯人が、呪いであるということも。
正確に言えば、五十鈴に呪いをかけたモノ。それが、現時点で五十鈴に訪れている五つの異常の元凶であるらしい。一ノ鳥居さんは、それを直感で導き出したという。直感がゆえに知識は浅いので、肝心の五十鈴に呪いをかけた犯人までは分からないらしいが。
五十鈴に左目以降の異常が現れ、ところが一ノ鳥居さんが五十鈴を匿ってから一時期は何ともなかった事実を考慮するのなら、彼女が何かしらの力を持った人物であることは信じられなくもない。
一ノ鳥居さんが語るには、彼女の背後霊はとても強力で、文字通り
つまり、彼女の積み上げてきた人生またこの先もすべての運命が彼女の行動によるということ。人生が実力主義のようなものだ。
羨ましいようで、そうでもないのかもしれない。本人の価値観にもよる。
ともかく、一ノ鳥居さんが裃五十鈴という少女と十年弱も同じ釜の飯を食べた末に導き出した結論がこれなのだ。
裃五十鈴の異変の正体は、呪いである。
曖昧模糊。確証など無い。
ただし、異変について、一概に医学的な説明ができるとは限らない──すなわち、異変の内に怪異が含まれているのも事実である。よって現在における裃五十鈴という存在は、面妖であるといえる。それを解決するために、科学の範疇の外側の可能性を考えるというのは、あながち嘲られる行為ではあるまい。
「聞く耳を持たないつもりはないよ。いまの五十鈴が──いや、眼帯をし始めた頃から、五十鈴が異常なのは間違いないから」
「その言葉──小声だからまだよかったが、本人には聞かせるものじゃないぞ」
「わかってる。伊達に幼馴染やってるわけじゃない」
五十鈴は、傷つきやすい。
尋常でない災難に見舞われ、なお彼女が今まで生きてこられたのも、周りの支えのおかげだろう。逸脱者である一ノ鳥居さんに社会から掬い上げられ、傷心をのどかな空気に癒されたからこそ、今の五十鈴があるのだろう。
たとえ異常であっても。
それを通常として受け入れる器が、この村にはあったのだろう。
その器を、僕がまだ幼いうちに持っていたなら、幼馴染と十年も切り離されずに済んだのだろうか。
「しかたがないさ。子供は無知──故に、大人から学ぶ。しかし偏見という単語を知らないうちは、大人を見習って事実を選り好みしていてもそれが偏見だと分からない。分からないことを知って、やっと子供は学ぶんだ。大人がまともと認めた、大人が口酸っぱく語る絵空事ほど、偏見にまみれた教材は無いとな」
まともな大人が作り出した道徳の教科書など、宗教的ともいえる。
いくらそれが道徳というものを語ったところで、それはあくまで善人の理想までにしか及ばない。よって、道徳と人間とでは、等式が成り立たないのが現実。
とはいえ現実は、現実に比較的ほど近い理想に、付録として参考程度に載せておくくらいが子供のためだろう。決して誇示すべきものではない。
「あくまで、私の持論だがな」
最後に、遠慮がちな苦笑いと共にそう付け加える一ノ鳥居さん。
五十鈴は喋れない。ゆえに、一ノ鳥居さんの話し相手になるのは難しい。
一ノ鳥居さんが五十鈴の手話の勉強に付き合うのは気が向いたときくらいとのことなので、知識としては浅いのだろう。五十鈴は、耳は聞こえるが、しかし感情を口にできない人間に長ったらしい身の上話をするのも気が引けるのだろう。
一ノ鳥居さんと出会って半日と経たないが、どうやら彼女はわりとおしゃべり好きな一面がある。とはいえテレビも持たない田舎住まいなので世間に疎いがために、話す内容の大抵は、愚痴にも似た僕の呟きに対する見解や、五十鈴を迎えてから少しばかり色の変わった日常から選りすぐった、変わり映えの無い一幕くらいだが。
「君はどうだったんだ、十年も幼馴染みと切り離されて」
話題に困っても、彼女は自身の過去を語ることはしない。
そもそも語ることが無いのだろう。というのも、強いて語ることがあるとすれば、例の体質もあって、自分の手で風をふかせなければ波の一つも立たない人生を送ってきたことくらいなのだから。
「……そうなった原因は僕にあったからね。離れてすぐの頃はなかなか寝付けない日もあったよ」
「何、君が原因なのか? それは初耳だな」
思ってもみない返答に、思わず一ノ鳥居さんを見やる。
丸い目からして、本当に初耳らしい。
「僕はてっきり五十鈴か親御さんがそこまで話してるものかと」
「親からは五十鈴ちゃんの事しか聞かなかったからな。五十鈴ちゃんも君を話題に上げることはすれ、寂しげに君の人の良さを語るだけだった」
五十鈴も、左目に関して長らく僕を欺いていたことについて、思うところがあったのかもしれない。
単にお互い自己肯定感が低いだけかもしれないが。
それにしたって、ここまで怒らないっていうのもどうなんだ、五十鈴。
「そういえば、どうして今になって僕は呼ばれたんだろう」
「提案したのは私だ。いまどき稀に見るほど純粋無垢で小さな淑女が一途に思いを寄せる相手が気になってな」
「……からかわないでくれよ。僕も五十鈴も、罪悪感からお互いを忘れられなかっただけだ」
「ああ、その台詞も、彼女に聞かせるべきではないな」
「どうして」
「思春期とは素直になれない時期だ。きっと君もそうだっただろう?」
「思春期って……」
僕の当たり障りのない思春期も花のない青春も、とうの昔に過ぎ去ったのたが。
「……国語力に乏しいのか知らんが、君はそこらの男よりも鈍感だな」
「思春期だの鈍感だのって、何が言いたいのか……」
「一つアドバイスだ。君がこの先、身近にいる誰かの密かな想いに気付いたとして、それはおそらく勘違いではない」
私が保証しよう。
そう言って、一ノ鳥居さんは、指先に留まったとんぼを眺めながら歩く五十鈴に肩を並べた。
密かな想い。
僕自身が誰かに抱いていた時期はあれど、逆に誰かに向けられた過去はない。
からかわれているのだろうか。
お生憎様、僕は五十鈴ほどリアクションが絵になる人間ではない。
「……わっ」
考え込んでいると、不意にとんぼが眼前へ現れ、僕の頭上を掠めていった。
五十鈴の指先はいつの間にやら空席になっていて、飛び立ったとんぼを目で追っていたらしい彼女は、背後の僕を見てくすりと笑った。どこかぎこちない表情が、接点のなかった十年を想起させる。
五十鈴はそのまま低い虚空を数秒ほど見つめたあと、前へ振り返った。
幼い頃のように、僕の後ろを付いて回ることはもうしなかった。
「折角だ、五十鈴ちゃんは楓君と一緒に入ってはどうだ?」
風情ある戸口を抜けると、木の香りに包まれた。
ビニル袋に詰めた野菜を番台の老婦に渡しながら、一ノ鳥居さんがそう提案してきた。
五十鈴はまた暴力に訴えるかと思いきや、一ノ鳥居さんではなく僕を見やった。僕が苦笑いを返してみると、途端に顔を沸騰させたかと思えば、脱兎のごとく女風呂へ駆けて行った。
過去と比べて表情が露骨になったのはいいが、再会してからというもの、赤面ばかり見ているような気がする。
脱衣場の出入り口で人の良さそうな老人とすれ違い、景気のいい挨拶にぺこぺこと上下する小さな頭を見つめながら、番台に料金を渡す。
「五十鈴の歳はご存知のはずでは?」
「中学生が小学生料金で電車を乗り回すのとそう変わらんだろう」
「裸で電車を利用する人間がいるとでも?」
一ノ鳥居さんへ移っていた視線を戻すと、五十鈴はすでに女湯へ消えていた。
そこへ横槍。
「坊主、あの子に手出したらただじゃ済まんよ」
声の方向を見やると、老婦が人参の切っ先を僕に突き付けていた。
五十鈴は随分と手厚くもてなされているようだ。
「……一ノ鳥居さん、人間性によっては、僕は人参で磔にされていたかもしれないね」
「番台よ、彼はあの子の救世主です」
「おや、話にあった幼馴染みってのは坊主かい」
「そのようです。憎たらしい話ですが」
「……まあ、産まれる前から知り合ってたような
もとより近所同士で付き合いのあったところへ、たまたま同時期に僕と五十鈴が産まれたのだ。
お互い一つ歳を得るより先に、初めて顔を会わせた僕と五十鈴だが、初対面でありながら、たいそう気が合ったらしい。という話を親から聞いたのは、中学時代のちょうど五十鈴が僕に対して若干よそよそしくなった時期だった。
距離を取り戻したい一心で、僕がその話を五十鈴に聞かせたところ、五十鈴はなぜか赤ら顔で俯いたかと思うと、僕に謝ってきたものだった。その翌日には、彼女は自分の態度を改めてくれた。しばらくはぎこちない時期もあったが。
それぞれ脱衣場へ向かう途中で、僕は一ノ鳥居さんに囁きかける。
「初耳だよ。僕がそんな立ち位置で迎えられていたとはね」
「あながち冗談でもないさ」
「どういう訳かな?」
「まあまずは湯で長旅の疲れをゆっくりと癒してきたまえ」
手をひらひらと振って女湯へ消えていく一ノ鳥居さん。
掴み所のない人だ。
あの人との対話もそれはそれで疲れるというものだ。
ため息を吐き、脱衣場に繋がるのれんを潜ろうとしたところで、また老婦に声をかけられた。
「……坊や、あの子を頼んだよ」
その言葉の真意は、僕には測りかねた。
少なくとも、その時ばかりは。
五体算式 見習い孔子 @aribaco
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