見舞う除法、彼女の失くしもの・二

「生活感あふれる客室で申し訳ない。人が住むのも人をもてなすのも、この和室だけなんだ」

「いえ、外観からあまり期待していなかったので」

「正直者だな。世辞に生きない人間は、嫌いじゃない」


 迎え入れられたのは、社務所の中。

 表にはお守りなど売るスペースがあって(無論、機能していない)、その奥に居住スペースであろう四畳の狭い和室に通された。台所はその二分の一ほどの広さで、障子を挟んで隣接されている。また、縁側から台所を通り抜けた先に厠があるのだそうだ。

 食事も団欒も就寝も、すべてこの和室らしい。人一人が暮らすのでも一杯だろうに、一ノ鳥居さんと五十鈴の二人はここで寝泊まりしているのだそう。


「お風呂とかは、どうされているんですか?」

「そこまで気になるのか? 女の子のプライベートが」

「えあ、いやっ、別にそういうんじゃ……」


 顔を覗き込まれた。茶化すような仕草と表情だが、あらためて間近でみると、大風な態度にそぐわない美人だ。声もまた、人混みの中でもよく通るような芯があって、そして澄んでいる。

 ぶっちゃけ、都会でもなかなかお目に掛かれない。装い飾って東京を歩こうものなら、スカウト待ったなしであろうレベルだ。

 そんな自分の面立ちは自負しているのか、一ノ鳥居さんは僕のどぎまぎする様子をみて、ふふっと満足げに笑う。


「古い銭湯に通っている。少し遠いが、まあ歩いていける距離だ。そこの番台が寛容でな、金の代わりに、私が丹精込めて育てた野菜で入らせてくれるんだ」

「野菜作ってるんですか?」

「村外(そと)へ出なければ店も見当たらないような村だ。村人同士の関係は深いが、自分の力で飢えをしのぐというのが、この村の基本。それとも、君が私と五十鈴ちゃんを養ってくれるのか?」


 家族が出来たとして、満足以上にもてなしてあげられるほど懐は裕福ではない。一人暮らしだというのに、一向に私事に金をつぎ込めない現実が脳内をかすめ、僕は肩を落とす。

 一ノ鳥居さんは苦笑いしながら、畳に腰を下ろして和室の中心に置かれた卓袱台に肘を付く。


「いいさ、本気ではない。正直な話、この生活も不本意というわけではないのだ。さらなる発展を求めて社会の荒波にもまれるよりも、今を好んで気ままに生き、そして気ままに死ぬこと事こそが究極の自由。単純な発想だが、無理に思考捲いて自分を見失うよりはよほどいいんじゃないかと、私は思う。私だけじゃない──少なくとも、この村の住民誰もがそう思って生きているんだ」

「……なんというか、羨ましいですね」

「お前もこっちへ来るか?」

「いえ、結構です」


 目まぐるしい社会の色にすっかり染まってしまった僕が、いまさら究極の自由とやらを求めたところで、心のどこかで社会のしつこい掟に縛られたままなのはどうせ変わらない。この村と関わったところで、独特の気ままな雰囲気というのは、もはや僕には毒なのだ。好きか嫌いかはともかくとして。

 そうして駄弁っていると、僕の隣にいた五十鈴が一ノ鳥居さんに向かい右手を上げて親指と人差し指でなにやら形をつくる。それに応じた一ノ鳥居さんの「戻りに茶をいれてきてくれ」という頼みに彼女は首肯し縁側へ消えた。一ノ鳥居さんに促されて部屋の隅に荷物を下ろして座りつつ、僕は五十鈴の行動を彼女に尋ねる。すると一ノ鳥居さんは、呆れたように眉を歪める。


「……やはり鈍感だな、男という生物は」

「え?」

「私は人に物を教えるのは苦手なのだが、君に教えておく。重要なことだ」


 そう言って、一ノ鳥居さんは僕に見えやすい高さまで右手を上げ、親指と人差し指で形をつくる。それはアルファベットの"C"に見えた。五十鈴もつい先刻やっていたが、これは手話単語の一つなのだろう。しかし、僕はそれの意味までは理解ができない。

 頭に疑問符を浮かべる僕に、一ノ鳥居さんはなんの躊躇いも無く言い放つ。 


「これは『トイレへ行きたい』という意味だ」

「あっ、え……」

「トイレはアルファベットの"WC"でも表現されるだろう。手話で相手にトイレへ行きたいという旨を伝える場合は、その内の"C"の形を指で作って表すんだ。といっても、手話による一単語の表し方は、一つだけとは限らない。WとCの両方を指で形作ることもあれば、手を洗うようなジェスチャーも同じ意味として通るんだ」

「……そうなんですか」

「あの子が声を出せなくなったことについて、詳細な原因はともかく、時期的にはこの神社に来る直前だったらしい。ここで暇を持て余す中で、彼女は親と離れる前に買い与えられた手話についての本を必死に読んで勉強していたよ。気まぐれに私も付き合っていたから、ある程度はああして応対ができるんだ。他に生活面でよく使う単語も教えておこう──」


 一ノ鳥居さんは絶えず手を様々な形に変え、その一つ一つの形の意味を僕に教えてくれる。また、手話は手話法の一つで、他に指文字があるらしく、それもいちおう教えてくれた。

 しかし、彼女の手の動きは素早い上に説明も早口なため、如何せん僕の頭脳が追いつかない。物を教えるのが苦手というのは、こういう事だったのか。小学校や中学校の教師にはおおよそ向かないタイプだ。そもそも彼女が教壇に立つ姿があまり想像できない。

 ようやく授業が終わったころには、あまりの情報量に僕の頭はパンクしていた。思わぬ授業に対し、突発的に回転させた頭はオーバーヒートを起こし、蒸気が出そうだ。僕の頭脳がその程度なだけなのだろうが。英語より聞きなれない外国語を無理やり叩き込まれたような気分だ。

 一方、そんな事は露知らない一ノ鳥居さんは、まるでやり遂げたような表情で傍にあった扇子を煽ぐ。


「それにしても、夏は本当に暑いな。五十鈴ちゃん、長いな……喉が渇いて仕方ない」

「自分でお茶を入れては?」

「家事はすべて彼女に任せている。私はこれでも不器用なんだ」


 さほど意外でもないが、いくら不器用でもお茶くらいは作れるだろう。お湯を沸かして、それにお茶パックを浸すだけの工程のどこに困難があるというのか。


「私に火を使わせてみろ、大事(おおごと)になるぞ」

「具体的には?」

「山規模の篝火といったところか」

「不器用な人間にそんな器用な失敗(まね)はできないでしょう!」

「あはは! いいな、その返しは中々気に入ったぞ」


 一ノ鳥居さんは、扇子で卓袱台を叩いて笑った。


「……ありがとうございます」


 やはりこの人は、身なりに似合わず純真さの欠片も無い。

 何だかんだ言って、豪快に着崩した巫女服が妙に似合っているのがその証拠だろう。土台は良い為に、見本通りに着こなしてもそれはそれで絵になるのだろうが、今の着方のほうがよっぽど彼女らしいような気はする。

 かといってあまり傲慢さが感じられないのは、いったい何故なのか。口調の割には受け攻めのけじめをつけていたり、座り方は胡坐をかくわけでもなくそれこそ教科書に載りそうなほど綺麗な正座の姿勢だったり──態度は大きいが、決して悪くないところが、憎めない要因だろうか。


「ところで、君は何歳だ?」

「え、二十五ですけど……」

「ふむ、私より二つ上なのか」


 一ノ鳥居さんは、見た目的に大学生くらいかと思っていたが、間違いではなかったようだ。

 そうなると、僕は年下相手に敬語で喋り、あんな口の利き方をされていたのか。童顔とはよく言われるし、実年齢より若く見られやすいけれど。

 僕は内心落ち込むが、次の一ノ鳥居さんの一つ咳払いしてからの豹変ぶりには、さすがに不意を突かれた。


「年上とは知らず、先ほどまで失礼な態度を取っておりましたことをお許しください──加登住楓様」

「あ、はいっ? い、いやべつに構いはしませんけど……」


 打って変わって、丁寧な敬語で話し始める一ノ鳥居さん。彼女は、僕に対する無礼を謝罪し、深く頭を下げる。あまりの不意打ちに狼狽えつつ僕がそれを許すと、彼女は頭を上げ、申し訳なさげに微笑む。


「先ほど申し上げました通り、私は不器用なもので──ここを貸しているとはいえ、あなたの幼馴染に世話を掛けていることを申し訳なく思っております。しかしまた、感謝しているのも事実です。なにせ娯楽が無い村におります故、誰かと一緒に暮らすという事は、それだけでも楽しいものなのです」

「そ、そうですか……。あの、急に態度変えられても、対応に困るというか」

「タメ語の方がいいのか?」

「いや、えっと」


 タメ語もタメ語で、威圧的な言葉づかいには低姿勢を取らざるを得なくなるのだが。


「短期間ながら、私も一度は社会を経験した一人だ。年上に対しての礼儀作法は弁えている。使いどころには、私個人のこだわりも含まれてはいるのだがな」

「年下に対しては?」

「年下相手に遜ったところで意味は無いだろう」

「……それは?」

「プライドだ」


 とはいえ、なにも後輩に敬語を強要することはない。押し付けがましいのは嫌いなんだ。

 彼女はそう言う。

 こだわりとプライド。似たような単語にも思えるが、一ノ鳥居さんにとっては明確な違いがあるのだろう。


「それで?」

「へ?」

「私のこだわりとプライド、君はどちらを受け入れてくれるんだ?」


 この質問への回答について、とくに迷う必要は無かった。


「どちらも受け入れますよ」


 僕の回答を聞いて、一ノ鳥居さんは小首をかしげる。


「……無駄に洒落た質問の仕方をした私が悪かったのか?」

「そうじゃなくて、ご自由にという意味です」

「敬語でもタメ語でも構わない、と?」

「一ノ鳥居さんが話しやすい方でどうぞ」


 自身に対しての態度を他人に強いるほど、僕は人間として偉くはない。社会の中では、むしろ強いられる側なのだ。そんな社会から自らの意思で逸脱し、自由を得た勇気ある一ノ鳥居さんは、僕よりよほど強い人だ。周りに流されるだけの僕とは違う。そんな人に口調ごときで僕が口出しする筋合いは無いというものだろう。

 本音としては、(情けない話だが)態度を改めるだけでまるで淑女に早変わりしてしまう一ノ鳥居という女性に、少なからず恐怖を覚えてしまったのだ。


「そうか、では遠慮なく」

「はい」

「これからは敬語で話させていただきますね」

「えぇ!?」


 あまりに予想外で身を仰け反って驚いてしまう僕。

 しかし次の瞬間には、一ノ鳥居さんは少し不機嫌な表情になると共に、口調を戻していた。


「冗談だ。私としても、敬語を使うのは堅苦しくて好かん」

「は、はぁ」

「しかし、おふざけで敬語を選んだだけでそこまで驚かれては、さすがの私も傷付くぞ。まるで私が知識があるだけの礼儀知らずみたいじゃないか」

「すみません」


 ほんのちょっとだけそう思ってたなんて言えない。


「それに、私の方が年下であることはもう明白なんだ。君も敬語は止せ」

「う、うん。一ノ鳥居さんは二十一なん、だよね?」

「そうだが──この際、互いの名前の呼び方も決めておこう。私は君を楓くんと呼ぶから、楓くんも私をドリームキャストと呼んでくれ」

「それでいいのか!?」


 一ノ鳥居桜花の要素が皆無などころか、人名ですらないのですがそれは。


「ああ、すまない。うっかり間違えてしまった」

「どれほど頭が悪かったらそんな間違え方をするのかな!?」

「失礼な。これでも私の学生時代の成績は、……どのくらいだったか」

「覚えてすらいないの!?」


 覚えていたとして、せめて平均以上ならまだしも。


「まぁ勉強は出来ていたし、学年首位ではあったのだろうな」

「成績すら覚えていなくて、どこからそんな自信が湧いてくるんだ!」

「人は物を忘れてナンボの生物だろう。そんなことより、私のことは桜花ちゃんと呼べ、いいな?」

「桜花ちゃん」

「おかしいな。いざ呼ばれてみると、どうしたことか蕁麻疹が出る」

「……桜花」

「おお、出ないぞ。ふむ、なるほどこういう事だったのか」

「どういう事だ!」

「どうやら私はちゃん付けアレルギーらしい。私から人をちゃん付けする場合は問題ないのだが、受け身となると蕁麻疹が──……いや、すまない、もう一回私をちゃん付けで呼んでみてくれないか?」

「桜花ちゃん」

「あっすまん、私の勘違いだ。蕁麻疹ではなく、鳥肌のようだ」

「それはそれで心苦しいよ!」

「遠慮せずちゃん付けで呼んでくれ。鳥肌が立っても、私が我慢すればいいだけの話だ」


 丁重に遠慮したところで、ふと視線を感じた。尻目に見渡すと、何時の間にやら、五十鈴が台所の障子からこちらを覗き込んでいた。

 まさか用を足してから、ずっとそうして僕と一ノ鳥居さんの会話を盗み聞きしていたのだろうか。彼女の後ろのコンロにはたぶん水が入っているのであろう薬缶が置かれているが、それを火にはかけず、こちらをにらみつけてくる五十鈴を見て、僕は理由も知れぬまま口を噤んでしまう。

 そんな僕の様子から、一ノ鳥居さんも五十鈴の視線に気づいたようだが、まるで素知らぬ顔で呟いた。


「……傍から見れば、君と私の会話はいと仲睦まじく見えるのだろうな」

「?」

「それにしても、こうも分かりやすいものなのだな。恋する乙女のしっ」

「──~~……ッ!!」


 一ノ鳥居さんが何かを言いかけたところで、大いに慌てた五十鈴が和室へ乱入してきて一ノ鳥居さんの口を塞ぐ。しかし、一ノ鳥居さんは動揺すらなく、五十鈴の手の中でもごもごと何か喋りつづけている。五十鈴は必死に首を振りながら、片手で一ノ鳥居さんの口を塞ぎつつ、もう片方の手を口辺りに持ってきて人差し指を立てている。『黙って』という意味だろうが、今の一ノ鳥居さんの言わんとした台詞に、そんなに問題があったのだろうか。

 僕にはとんと分からないが、とりあえず五十鈴に声を掛けてみよう。


「五十鈴、どうしたの?」

「~~……!? ~~~~~~~ッッ!!」

「ちょっ、五十鈴!?」


 振り返った五十鈴の頬は赤く染まっているが、僕はやはりその理由が分からない。

 きょとんとする僕を見て、五十鈴はなにを思ったのか一ノ鳥居さんの口から手を離し、社務所から飛び出しそのままどこかへ走り去ってしまった。

 あのか細い脚では長くは走れないだろうに、いったいどこへ行く気なのだろう。この村に行くあてなど、数少ない一軒家か畑くらいしか無いだろうに。話し相手もせいぜい、案山子といったところか。

 そもそも、彼女がああ全力疾走する姿こそ見たことがない。学生時代も、体育では十割方、運動は大の苦手だと木陰で見学していたというのに。

 自他ともに認める運動音痴な内気少女にも、あのような一面があったのか。


「珍しい。五十鈴ちゃんにしては元気だな」

「……わざと?」

「さあ、どうだろうな。それにしても、五十鈴ちゃんはまだ甘酸っぱいな。精神的に成長はしていても、あの子にとっての青春の盛期とはまさに今らしい」


 一ノ鳥居さんは、澄ました笑みは相変わらず、手にある扇子で台所を指す。君が茶を沸かせ、と言っているのだろう。

 家事には大惨事を背後霊に携えるほどの不器用とはいえ、客人に茶を作らせるとは正気かこのアマ。

 とはいえ、大文字以外に山が燃える様を目撃したくない僕は仕方なく台所へつき、薬缶に火を掛けて溜め息を吐く。


「今さら青春って……」

「楓くんと五十鈴ちゃんが離れ離れになったのは、中学校の頃だったか?」


 あの日ばかりは、嫌でも鮮明に覚えている。

 中学二年生の夏──奇しくも、その日は今日とまったく同じ日付なのだ。


「そうか。……多分、その日から今日また再会するまで、五十鈴ちゃんの時間は止まってしまっていたのだろうな。身内がいくら引き離し、私という代役がいたところで──とどのつまり、裃五十鈴に必要なのは、あくまで加登住楓だけというわけだ」

「……それって、身体の」

「いや、おそらくそれだけではない」


 一ノ鳥居さんは首を横に振る。


「それも原因の一部としてはあり得るが、それとはまったく違うところにあるのだろう──五十鈴ちゃんの肉体の成長が止まっている、根本的な原因はな」

「……いったい、どうなってるんだろう。五十鈴の体は」


 僕は卓袱台を挟むようにして一ノ鳥居さんの正面に座り、そう問う。


「──本題に入るまで、ずいぶん時間が掛かってしまったな」


 一ノ鳥居さんは、手に持っていた扇子を閉じて机に置いた。膝を正すと、いちど控えめに咳払いしてから、話を始める。


「まず、あの子の身に起きている異変を数えてみろ」

「異変って、……分かった」


 一つ目、左目の消失。

 これはおそらく、五十鈴に一番最初に起きた異変。この異変が現れた時期は、五十鈴が左目に眼帯を付け始めた頃だろうから、つまり小一の夏休みに、彼女が家族との初めての海外旅行へ行っている最中なのだろう。僕の目と記憶が正しければ、五十鈴の左目の部分はさっぱり消え、代わりにそこには肌が広がっている。

 二つ目、髪の変色。

 個人的に、起きた時期が分かっている異変は左目の事だけで、それ以外は分からない。なにせ昨日までの十年間、五十鈴とは連絡さえ取れなかったのだ。ようやく再会できたら、五十鈴の髪が白く染まっていた。しかし、さきほど五十鈴に声を掛けた時によく観察してみたら、白は白でも、完全な白ではなかった。個として確立する色というよりは、黒が褪せたような、白寄りのねずみ色といった感じだった。

 三つ目、失声。

 現在の五十鈴は左目だけでなく、声まで失っている。実際に、あまりのストレスやショックなどから声を出せなくなる失声症はあるが、はたして五十鈴はこれに当てはまるのだろうか。遺憾な理由で幼馴染と引き離され、故郷から遠く離れた知らない場所で過ごすことを強いられたのを考えれば、苦悩は計り知れないとは思うが──何かが違う気がする。

 四つ目、未成長な肉体。

 これに関しては、変化していない事が逆に異変なのだ。見る限り、五十鈴の身体は、十年前に僕と離れて以来、まったく成長していないと思われる。十年前の五十鈴と今の五十鈴を脳内でじっくり照らし合わせてみても、やはり全体的には合致するのだ。不一致な点といえば、それは服装と髪色くらい。


「もう一つあるだろう」

「え?」

「左目は無論。右目はよく見たか?」


 思いだす。


「あっ、なんていうか、黒目部分の色が薄くなってたような……」

「そう、それも異変の一つだ。つまり、今の五十鈴ちゃんに起きている異変は全部で五つ。両目と、髪と、声と、そして肉体。しかし、今の世の中、これらの殆どは医学的に説明できる」


 たしかにそうだ。声も、髪も、肉体も、ストレスからくる身体異常なんかで説明がつく。事実、そういう症例は世界で確認されている。

 でも、それでも説明しにくい異変が、一つあるのだ。


「……でも、左目は」

「ああ。他の異変を医学的に説明できたとしても、あの左目だけは唯一、怪奇的な異変なんだ」

「怪奇的、って」

「ここで一つ質問だ。ここに五つの心霊映像があったとする。それらすべてに霊的現象が映っていたとして、うち四つは科学的に偽物ではないかと推測までできるのだが、残り一つは、科学者さえどうにも頭を抱えてしまった代物だったとする。その場合、君は、後者の映像だけを差し置いて、前者の四つは絶対に偽物だと割り切れるか?」

「……微妙、かな」

「私も同じだ。この世界というのは、知恵を持った人間にすら手に負えない。そう考えると、幽霊が本当にいるのかどうかを、科学という名のただの人間的主観で証明しようとするのは極めておこがましい行為なんだ。好奇心ごときで、蛙は井戸の外を覗くべきではない」

「要するに、五十鈴の異変は病気ではないと?」

「信じ難いだろうが、私はこんななりながら、少しばかり力を持っている」

 

 テレビで見るような霊能者とは違って、思わず信じてしまいそうになってしまう。それを告白するこの時ばかりは控えめな振舞いの所為なのか、あるいは力をもっているが故に、僕を無自覚にそう思わせることを可能としているのか。

 いずれにしても、その台詞を聞いた僕はしばし言葉を失った。

 そのあいだにも、一ノ鳥居さんは、なおも口を動かし続ける。


「力というよりは、守護霊か。守護霊というのは、まあ名の通り、それの憑いている生物を守護してくれる霊だ。霊の中にもいろいろ身分はあるらしいが、中でも私に憑いている守護霊は強力でな。不幸などから私を守ってくれるのは勿論、下手をすれば私の傍にいる人間にまでその影響を与えるんだ」

「……さすがにそこまで具体的に話されると、逆に信じられなくなるというか」

「もとより道理の範疇から外れた事柄は、始めからそれを理解できている者にしか理解できないものだ。されど理解できる器をもたない君にわざわざ話しているのは、私が聞いてほしいからだ。私の痛い妄想だと見なすのは構わない。ただ、そう結論付けるのは、私の話を全部聞いてからにしてくれ」


 渋々、静聴の態勢をとる。

 それでいい。そう言って、一ノ鳥居さんは続ける。


「大抵の異変が五十鈴ちゃんに現れたのは、ここへ来るよりも前。私が事情を知りながら、わざわざ彼女を匿ったのは、私の力ならさらなる異変は防げるだろうと踏んだからだ」

「…………」

「事実──私が彼女を手元に置いてからというもの、元に戻すまでには至らないが、彼女に異変は訪れなくなった」


 次に、悔しそうに瞼を閉じた一ノ鳥居さんの唇から発された──|逆接(しかし)。


「私の力にも、限界があったようでな。つい先日、また彼女に異変が起きた。五つ目だ」


 それは、左目。


「力は自負していても一応、私は毎朝、五十鈴ちゃんを隅々まで調べる事を義務としていてな。いつものように彼女を観察していると、右目の瞳の部分が変色している事に気づいたんだ」


 別の色に変わっているというよりは、髪のように、色素が薄くなっていた。茶色より少し薄いような、そんな色。


「それを見たとき、私はなんとなく分かった気がしたよ」

「……何を?」

「始めから、何も分かっていなかったことにさ」


 分かっていなかった?


「そうだ。私達の、捉え方が間違っていたんだ」

「……?」

「私はてっきり、彼女は左目や色を"失った"ものだと思っていた。肉体も、ただ"成長しなくなっている"だけと」

「いったい、どういう意味……」

「奪われていたんだよ」


 奪われていた?

 どういう事だ、訳が分からない。

 現に、左目は消え、髪や左目の色は薄くなっているんだ。肉体だって、小さいままなのはどう考えても、成長が止まっているとしか考えられない。

 なのに、奪われていた?

 五十鈴が失くしたすべては、奪われていただと?

 おふざけだと思われたくないのなら、詳しく話せ。

 

「分かった、私もそのつもりだ。だから、まずは落ち着け」


 僕の表情から険しさを読み取ったか、一ノ鳥居さんは両手をまあまあと振って宥める。

 漏れかけた黒い感情に蓋をする。眉間から力を抜き、話を促す。


「落ち着いてるよ、最初から」

「そうだな。では、なるべく筋の通るように説明しようか」


 彼女の異変は、失くなったことではなく、奪われたこと。

 奪う。この表現を、例の異変に、できるかぎり違和感のないようにあてがおう。

 左目消えたのは、奪われたから。髪が白くなり目の色が薄くなっているのは、色素を奪われたから。ここまではいい。問題は、肉体。これは一見、奪われたという表現は似合わないようにも思えるが、物は言い様。肉体が幼いままなのは、単に成長しなくなったのではなく、"成長する余地を奪われた"と捉えるなら筋は通っているし、これにてすべての異変に一貫性が見い出せる。

 五十鈴の異変を病気ではないと仮定するのなら、それは怪異的な何かによるものだと考えられる。人を襲う怪異は、己の欲望を満たす為に人を襲う。正体の知れないそれは、欲の赴くままに五十鈴の一部を奪い、一時期は一ノ鳥居さんの力によって大人しくなっていたものの、最近になってまた動き出した。それは今となっては、彼女の力でも抑えきれぬほど大きい。

 一ノ鳥居さんは、以上を淡々と話した。

 いくらなんでも突拍子の無いそれは、いわば怪談。

 何故、そう考えたのか。訊くと、一ノ鳥居さんは、


「直感だ」


 と、迷いのない返答をした。実際、そうなのだろう。

 根拠は無い。

 しかし、自信はあると。

 それもこれも、"力を持つ人間"にしか分からない感覚なのだろうか。

 お生憎様、僕にはまったく分からない。


「……仮に、奪われたというのが事実だとして、いったいに奪われたと?」

「最初から窃盗の犯人像が明確なら、警察も苦労はしない」


 またも徐々に僕の表情が険悪になっていくのを察してか、一ノ鳥居さんは回答を変える。


「……悪いな。別に、分からんという訳でもない。ただ、これを言っては、楓くんが私をさらに信じてくれなくなるだろうと思ったんだ」

「その心配なら要りませんよ。そもそもまだ信用し合えるような間柄じゃない」

「はは、それは残念だ……──だが、その通りだな」


 すすけた時計が、小さな音を立てながら時を刻み続けている。縁側に吊るされた風鈴が、風に揺られて心地よい音を鳴らしている。

 風は、一ノ鳥居さんの髪までをも揺らした。

 一ノ鳥居さんは顔辺りまで揺られた髪を払い、一つ、咳払いをする。

 桜色の唇から発されたその言葉は、たしかに僕の鼓膜を意味を持って揺らした。


「五十鈴ちゃんの一部を奪うモノ、それは──


 ──呪いだ」


台所の薬缶が、うるさく音立てた。

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