見舞う除法、彼女の失くしもの・一
霧雨の降る街の中。フィットサイズの折り畳み傘を差しながら、自転車を飛ばす。いくら場所を移動しても傍らから消えない田畑を潤す雨は、まるで霧のような霞みを街中にもたらしている。しかし、人が中々見えないのはその所為ではあるまい。なにせ、舗装されていない道、そこら中に広がる田畑、見渡す限り一軒家ばかりで山に囲まれたこの地域は、もはや街と称することすらおこがましいほどのザ・田舎だった。テレビや紹介雑誌で聞くように、呼吸をすれば空気が澄んでいる感覚はあるのだが、都会に家を持つ僕にとっては、人気の無さに対してのうら寂しさの方が大きかった。東京の人込みは雨の日も風の日も消えないというのに。傘自体は新品なのに、雨がそれをすり抜けて僕に降りかかっているような気分。異世界に入り込んでしまったような気分だ。
僕はとにかく自転車を飛ばす。飛ばし続ける。上京したての頃に購入したのはいいものの、使ったのは数年前までほんの数える程度でそれ以降はめっきりだったその自転車は、数年越しにようやく引っ張り出して漕いで見れば、タイヤは回るには回るのだが、なんとも耳障りな音を立ててくれる。漕ぐのは久しぶり故に、泳法のように感覚は忘れずともぎこちないペダルの回し方が負担を掛けているのか。もしくは、ただ滅多に手入れをしていなかったのが悪かったのか。どちらにせよ、今さら愛着の沸いた無機物の相棒を労わるのはもう少し後になるだろう。
都会人の僕が何故、わざわざ田舎に出向いているのか。理由を端的に説明するなら、ここに彼女がいるからだ。
裃五十鈴。
中学校以来の幼馴染。僕にとって、唯一無二だった幼馴染。僕の品の欠けた悪戯が原因で、一度縁が切れてしまった幼馴染。
僕の傍から立ち去り、以降どこへ行ったのか、彼女の携帯番号まで変更されて連絡すら取れなくなってから十年近く。数日前──少なくとも、反省した僕が立派な大人となって社会にようやく溶け込むことができた頃に、彼女と別れてから一度も買い替えていない携帯が非通知で鳴った。根拠無しに五十鈴だと直感した僕が電話に出てみれば、惜しい事に相手は五十鈴の母親だった。雰囲気は残しつつもやはりどこか老いた母親の声と口調。以前と変わらず物腰柔らい声色からは、僕の失態に対しての怒りはもう感じられなかった。
──娘に会ってほしいの。
僕が五十鈴の安否を訊くより早く、母親はそう切り出した。
離れてからというもの、五十鈴とメールを交わすことすら禁じられていた十年間。その間に、彼女の身に何が起こっていたのか。なぜ今になって、電話を寄越してきたのか。なぜ今になって、彼女との再会を許すのか。僕の疑問に対しての返答は一切無く、五十鈴は今なお生きているという事と、とにかく彼女に会ってほしいという事──最後に、現在の彼女の居場所を僕に伝え、五十鈴の母親は通話を切った。非通知だったため折り返すこともできず、ただ五十鈴に会いたいという気持ちだけは褪せていなかった僕は、ここぞとばかりに溜まっていた有休を投じ、東京という都会からはるばる名前の漢字の解読すら難解な辺境の田舎村までやって来たのだ。
自転車のハンドルと一緒に握りしめる小さなメモには、彼女の居所が書かれている。先ほど、ようやく通りすがった一人の村人にその居所の場所を尋ねれば、村の北の山の頂上との事。山頂と聞いて顔を青くする僕を見て、彼は『なにも富士山みてぇな山じゃねぇ。丘みてぇな、ちょいと石段登りゃ着くもんだ』と笑っていた。
漕ぎに漕ぎ、ようやく僕はその山のふもとに辿り着く。見上げてみれば、たしかに首が痛くなるほど見上るような高さではなかった。ふと手元のメモに目をやり、確認する。
辻已己神社。
つじやみじんじゃ。
これまた難読。十人中の過半数が解読にインターネットを要するレベルではないのだろうか。僕が漢字に弱いだけではあるまい。
メモをズボンの小さなポケットに捻じ込み、また山を見上げる。第一村人の言った通り、石の階段の先に頂上はあった。石段は数えられるくらいだが、頂上に用がなければまず登ろうとは思わないだろう。このたび僕にとって用事のあるこの山の頂上には、大きく赤い鳥居がそびえたっていた。祭日には、明るい提灯や屋台が見られるのだろうか。
そう考えている間にも、僕は無意識に足を動かして石段を登っていた。一段一段をやや焦りの含んだ足取りで踏みしめ、一歩一歩頂上へ近づいていく。石段の両脇に生える木々は深い緑を茂らせ、その葉に弾かれた雨粒が散っている。僕はそれに濡れぬよう、石段の中心線をひたすら上へと登り続けていく。
ようやく上り詰めると、広い敷地の奥に、見るからに古びた神社が霧雨の中に鎮座していた。周りには、これまた古く小さな手水舎と、これもやはり古ぼけた小さな絵馬掛所。その脇に、狭い社務所があった。絵馬やお守りの授与所なのだろうが、果たして今も機能しているのだろうか。失礼だが、最初に口を突いて出る感想はそれしかありえないほど、この辻已己神社は全体的に老朽化していた。それほど永いあいだこの村を見守り続けているというのなら、それはそれで感慨深い話ではある。
それより、五十鈴。
彼女は、本当にここにいるのだろうか。
見渡しても住居は見当たらない。まさか、現在はこの神社に住み着いているのか。という事は、五十鈴の家族も?
「……一応、参拝しとこう」
鳥居をくぐり、手水舎で手を清め、参道の端を行き、拝殿に参拝する。参拝したあとは、なんとなく周辺を探索してみる。ここにいるらしい幼馴染に用があるとはいえ、ここは神社。参拝はしても訪問までする勇気は無かったのだ。
しばらく歩き回っている内に、ふと雨が小降りになっている事に気づく。まだぽつぽつとは降っているが、もう差す必要はないだろうと折り畳み傘を肩に下げているバックに仕舞う。
──……パタタッ
ふと、音が聞こえた。
足音。
「……?」
つられて顔を上げ、見回す。
一人の少女が、社務所の傍らに居た。おそらく小学校高学年の平均身長くらいであろう彼女は社務所から数メートル先まで走って立ち止まったかと思うとそこで蹲り、小雨に濡れるのも構わず、湿った地面を触るような仕草をする。少しして、何かを拾ったのであろう彼女は立ち上がり、社務所の縁側に座った。
遠目から眺めていて、物珍しさを覚えたのは、彼女の髪色。腰辺りまで伸びている髪は白く染まっていて、着ている白いワンピースと相まり、心なしか彼女全体に透明感をもたらしていた。
僕の足は、自然と動き出した。まるで、その少女に惹きつけられるように。彼女に見覚えはない。しかし、なぜかは分からないが、懐かしさを感じたのだ。
「…………」
「…………」
互いの小言が聞き取れるであろう距離まで近づいても、少女はこちらに気づかない。顔は俯き、手にはどうやら石を持っている様だった。なんの変哲も見当たらないただの小石だが、彼女には目新しく見えたのか。というよりは、暇を持て余しているだけだろう。
ワンピースから覗く腕や足はとても華奢。肌はまるで太陽と縁がないかのように、真っ白に澄んでいる。白い髪に、白い服に、白い肌。すべてが相まって、不思議な雰囲気を醸し出していた。
「……あの、ちょっといい?」
あまりに少女が僕の気配を察しないもどかしさから、ついに自分から声を掛けてみる。少女はぴくりと体を反応させると、顔を上げた。
「──えっ……?」
驚かざるを得なかった。
幼い背丈に似合った幼い顔付き。丸い輪郭。薄い唇。細く小さな鼻。眠たげな奥二重に短い睫毛。各々のパーツに個性がありつつも一体性はあって、それはすでに将来の美貌の片鱗を滲ませていた。そして、保護欲を掻きたてられる、潤みを帯びた色素の薄い瞳──右目はこの通りだった。
しかし左目は違った。
左目は見えない。
いや、見れないというべきか。
「そ、れ……」
覆われていたのだ。真っ白な眼帯に。
「その、顔……」
心当たりがあった。
その父性煽られる顔に。
見覚えがあった。
その気弱そうな表情に。
既視感があった。
その眼帯に。
「……?」
少女は訝しげに首を傾げている。
眼帯を含めたその顔は、いくら過去に過ぎ去っても決して忘れられない、あの顔とぴったり重なった。不思議と、合致した。
もしかして。
もしかしなくても──この眼帯の下は。
「──……五十、鈴?」
五十鈴と、同じ。
「……、……!!」
「わっ!?」
途端、少女は石を放り投げて跳ねるように立ち上がったかと思うと、僕に勢いよく抱き着いてきた。
「五十鈴、五十鈴なの?」
僕の腰に顔をうずめ、彼女は震える。泣いている様子だが、嗚咽は聞こえてこない。我慢しているのだろうか。僕の問いかけに対して返答は返さないが、この行動からして、おそらく裃五十鈴、本人なのだろう。
「ど、どうして……」
僕は狼狽える。
僕と五十鈴が離別したのは、十年前。記憶が正しければ、そのときの彼女は僕と同じ中学生だったはず。彼女はクラスでもとくに背が低く、よく小学生とからかわれていたのを覚えている。
そして十年後。
五十鈴はまったく変わっていない。
顔付きも、体つきも、なにもかも。
すべてがあの頃と同じ。僕は成人らしく成長しているというのに、五十鈴はまるで成長していない。精神的には分からないが、少なくとも肉体的には。それは、あたかも彼女の肉体だけ時が止まっているかのように。
将来などもってのほか。彼女こそ、僕がずっと再会を待ちわびていた、将来の五十鈴。
現在の、五十鈴。
だからこそ、現在の僕は、現在の彼女を一目で五十鈴だと判別することができなかった。
「ッ……、……ッ、ッ」
五十鈴は右の瞳に涙を浮かべた顔を上げ、何か言いたげに口を動かす。
「……え、なに?」
ところが、唇が忙(せわ)しく開閉と変形を繰り返すばかりで、声は微塵たりとも発されていない。僕の耳がおかしくなったのかと思いきや、周囲の小さな雨音は確実に聞き取れていて、どうやら僕の耳は正常らしい。
では何故、五十鈴は声を出さないのか。僕をからかっているのでは──いやまさか、僕はまだしも、五十鈴はそんな事をするような性格ではない。五十鈴は人に悪戯をする度胸もなければ、嘘を吐けるほど器用でもないのだ。無口の割に感情はすぐ面に出すし、なにより彼女はとてつもなく優しいから、たとえ人に騙されても愛想を極限まで自然に顔に張り付けたような笑みで受け入れてしまう。生物だけでなく、植物にすら惜しみなく慈愛を垂れる、それが元来の彼女。それは、そうそう変わるものでも無い筈だ。
「……! ッ、ッ……!」
「??」
果たして、五十鈴が声を出さない理由とは。
否。
もしかすれば。
理由以前にまず、僕が状況の捉え方を間違っているのかもしれない。
そう。多分。
出さないのではない。
出せないのでは。
「…………、ッ……」
「……五十鈴、落ち着いて」
「ッ……、…………」
僕が頭を撫でて宥めると、五十鈴はすぐに冷静を取り戻した。それから思いだしたように喉に手をやり、困ったような表情を浮かべる。
「ちょっと待っててね」
そう言って、僕は肩下げバックを開く。
ペンとメモ帳くらいなら、いつも持ち歩いている。彼女が声での意思疎通がおそらく不可能となれば、文字でそれを図るしかあるまい。
「ん、あったあった。ほら、これに言いたいこと書いていいよ」
ほどなく見つけたメモ帳とペンを取り出し、五十鈴に手渡す。五十鈴はそれらを奪うように受け取り、相変わらず小さな手でペンを持ち、メモ帳に文字を書き出しはじめる。僕は、彼女のやや走り書き気味な手に優しく触れ、微笑む。
「焦らなくていいよ。すぐ帰るつもりはないから、ゆっくりね」
「……」
五十鈴は目を丸くするも、素直に頷き、心臓に手を当てて少し深呼吸してから、ペンを握り締め、言わんとすることを書く。書いたそれを、僕の眼前に持ってくる。五十鈴らしい可愛い筆跡で書かれた短い文字列は、こうだった。
『ごめんなさい かと かえで』
加登住楓。
僕の名前を書こうにも、字はすべて平仮名な上、苗字を途中で書くのをやめて取り消し線まみれになっている辺りから、やはり焦りが拭いきれていない様子が見て取れる。おまけに、メモ帳を持つ彼女の手は震えていた。
「……あははっ、はは!」
僕は思わず笑ってしまった。
「…………?」
僕のこの反応が想定外だったらしい五十鈴は、呆然とした面持ちでいる。
彼女はきっと、嘘を吐いていたことを謝っているのだろう。幼馴染の僕に対して。五十鈴も五十鈴で、僕に眼帯を取り上げられるまでは、自分から左目の事を言い出すべきかずっと迷っていたのかもしれない。
僕は止まらない笑いを抑え、真剣な表情で五十鈴に向き直る。
「謝るのは僕の方。会えなくなったのも、会うのがこんなに久しぶりになっちゃったのも、全部僕の所為なんだから」
頭を下げる。
「五十鈴。本当に、ごめん」
元はといえば、僕があんな事をしでかさなければ、途切れることはなかったであろう縁。また、別れ際の暇乞い代わりに交わした約束も、果たせたのは実に十年越しという結果。内心ではすぐにでも彼女を追い掛け、謝罪の一つはしておきたかったのに、当時独り立ちが許されるほど大きくなかった僕は、僕に秘密を知られた五十鈴が僕の部屋から立ち去る際に忘れていった彼女の勉強道具を手元に大人しくしているしかなかった。
「これ、あの時の忘れ物。返すね」
ようやく果たせた約束。
また、ようやく返せた彼女の勉強道具(わすれもの)。
『ありがとう』
僕がバッグから取り出した勉強道具を返すと、代わりに五十鈴はメモ帳の新しいページに書いたその一言と、はにかみの表情を返してくれた。そして、またメモ帳をめくり、ペンを動かす。
『あのとき 車の中なのに、かえでの声がきこえた気がして』
「それから、待っててくれてたんだね。……今まで会いに来られなくて、怒ってる?」
『かえでは わたしに怒ってるの?』
左目を秘密にしていた五十鈴に?
まさか。
怒る権利も、筋合いもない。あろうものか。
僕がそう首を振ると、彼女は安心したように微笑んだ。
『なら わたしも怒ってない』
僕も愁眉を開く。
紙面上の文字は、どこか穏やかなように見えた。その証拠に、書き手の表情も、非常に穏和だった。手書きの文字からでも、わりと相手の感情は読み取れるものだ。
五十鈴と離れてから十年間、ずっと責任感と罪悪感に苛まれながら生きてきた。それらが今になって、五十鈴の底知れぬ優しさによって解消されたのだ。
「やっぱり、何年経っても優しいのは変わらないんだね」
『かえでが優しくしてくれてたから』
謙虚だ。そこも変わらない。
変わっている部分はあるけど、肝心な部分はまったく変わっていない。良い意味でも悪い意味でも。
個人的に変わってくれて嬉しい点といえば、文字とはいえ、自分の内心を表情以外で伝えるようになってくれているところか。
「喋るようになったんだね。無口だったのに」
『しゃべれないけど』
「ほら、文字使って会話してるでしょ。前はそんなこともあまり無かったからさ」
五十鈴は書いた返答を、気恥ずかしげに僕に見せる。
『文字だから しゃべれてるだけ』
という事は、内気なのもあまり変わっていないということか。
声が聞けないのは残念だが、彼女が自身で心情を語るようになってくれているのは嬉しい。以前は、彼女の表面だけを観察して、内面まで察するしかなかった。幼馴染ゆえに慣れてはいたが、やはり無口の相手というのは不便だったのだ。
二人で話し合っているうちに、いつの間にか雨は上がり、雲間から光が差し込んでいた。今日の再開も、神様がこのように慈愛を垂れてくれたのかと思うと、心は晴れやかな気分になれた。
五十鈴に両親の現状を尋ねると、いまは彼女の近くにはいないそうだ。いわば別居中。五十鈴をこの神社に預け、二人は遠方で仕事をしているらしい。五十鈴には、積極的に仕送りをしてくれているらしい。五十鈴はこんな状態ゆえ、普段は引きこもっているが、手持ち無沙汰は嫌って家事や手芸などの在宅ワークをこなすなどして、ここ辻已己神社で過ごしているのだとか。神社の神主は大らかで、五十鈴の様相を根掘り葉掘り聴き出した上で、彼女を快く受け入れてくれているのだそうだ。
「そういえば、いつから神社に住んでるの?」
五十鈴が答えるには、中学を卒業してからというもの、ずっとここ辻已己神社に住んでいるらしい。越した当初からここに匿ってもらう計画もあったのだが、親がいちおう義務教育だけはしっかり受けさせようと、中学校のある地域の中でも一番ここに近い地域の中学校で勉強させたのだそうだ。左目の懸念もあったが、田舎で人の少ない学校だからこそ、とても友好的で心の広い生徒と教師に恵まれたのだそうだ。
中学を終えて、わざわざ辻已己神社に来た理由を尋ねると、五十鈴は少し悩むような素振りをみせた後、メモ帳に一言だけしたためた。
『事情があったから』
僕はそれを見て、頷く。
「そっか」
深くは聞かない。
彼女の深くを知ろうとして失敗した十年前。僕はその時を今でも決して忘れないし、戒めとしてずっと心に留めている。
「…………」
五十鈴は目を皿にしていた。
眼帯の奥を知りたがっていたあの頃と比べ、退くに潔いと──そんな僕の成長ぶりに驚きを隠せないのだろうか。
──パァンッ
それは突然。
彼女の目どころか僕の目まで見張らせた鼓膜が破れんばかりの爆発音は、まさに僕の耳元で鳴った。顔の真横を通り抜けていく色とりどりの紙テープなどを横目に捉え、その音源が一つのクラッカーだと気づく。
「貴様が加登住楓か、いかにも軟弱そうだが、まあ歓迎しよう」
直後、僕の背後で聞こえる、女性と思しき声。気の強そうな声に似あった皮肉交じりの挨拶は少しばかり気に障るところがあったが、耳鳴りに襲われている耳を庇いつつ僕は振り返って大人の対応をみせる。
「……こんにちは。心からの歓迎と心臓に悪いサプライズ、痛み入ります。たしかに僕は加登住楓ですけど、……あなたは誰ですか?」
僕の真後ろにいたのは、一人の女性。
左手に野菜などを包んだ風呂敷、右手には空っぽの小さな大砲を持っていることからして、彼女が僕の鼓膜を盛大に揺らした犯人だろう。
女性らしい丸みを帯びつつも、余分な肉はついていない輪郭の中に、はっきりと見開かれた猫目と細い鼻、にやと笑うように端を歪ませた唇が黄金比で収まっている。顔はとても整っているがどこか勝ち気で、黒髪のポニーテールという髪型が余計にその雰囲気を増させている。
正体を尋ねることを一瞬ためらったのは、彼女の姿が見るからに巫女であったから。しかしそれでも尋ねたのは、彼女が着用している巫女服は、巫女服だというのに見るからに着崩されていたからである。白衣の掛襟は胸元まで開き、長い袖は二の腕まで巻かれてピンか何かで留められていて、袴の裾は太ももあたりまで短く、草履は足袋無しで履いていた。容姿端麗なモデルが着用すれば、見る者に神々しさすら感じさせる巫女服。しかしそのような巫女服の魅力は、モデルの着方によって、これでもかというほど損なわれていた。
僕の問い掛けに対し、彼女は分からないのかとでも言いたげながら、恰好を見せびらかすようにその場でくるりと一回転して答える。
「見ての通り、ここの巫女だ。巫女兼神主」
「……本当ですか?」
神主を兼ねる巫女も珍しい。
「私一人しか手頃な人材が無いものでな」
「一言物申しても?」
「構わん」
「それは許されるのか」
「普通に着ていると暑いんだ。それにきっと大丈夫だ、寛大なのが仏様なのだろう?」
唖然。
初対面相手に呆れたのはいつぶりだろう。僕の所属する職場に異動してきた部長がよほどの頑固者だったとき以来か。
「それに、こんなにおんぼろな神社なら、神も好き好んで住み着かんだろう。物は形だけでは力を得ない。むしろ寄ってくるものといえば、行き場を失くした魔物くらいか。私がここを手入れするのだって、気分が向いたときだけだ。稀にな」
「そんな適当な……」
「心配するな。神や仏がいなくても、ここに天使がいるじゃないか。とはいえ、天使である私自身も、こんな次期伏魔殿なんかより、もう少し仏と金が寄ってくるような神社でヘブンを味わっていたいのだが。いやはやこれはどうして──なぜだか拒まれるんだ。そういう神社に、天使であるこの私が」
一言に尽きる。
これは酷い。
「誰かと問われると、職を答えるだけでは不足だな。君も、名前が分からないのでは私を呼びにくいだろう。私は一ノ鳥居桜花だ」
「いち、のとり……?」
「一ノ鳥居桜花。漢数字の一に片仮名のノと神社にある鳥居で一ノ鳥居、桜と花で桜花だ」
「珍しい名前ですね」
「変な名前だと言ってもいいのだぞ?」
「変な名前ですね」
「言ったな。歯を食いしばれ」
一ノ鳥居さんはやや高い位置で拳を握る。それは僕の頭と同じ高さにあった。
「す、すすいません!」
理不尽に思いつつも謝ると、彼女はすぐに拳から力を抜く。
「冗談だ。渾名は一の"いっちゃん"、"鳥居ちゃん"、下の名の桜から"おうちゃん"などバリエーション豊かにある。私を呼びたいときは、苗字と名前と渾名のいずれを使っても構わない」
悪意のある笑みから、からかわれていたのだと分かった僕は彼女を睨みつけるが、本人はまるで気にしない様子で、今度は僕の隣にいた五十鈴に話し掛ける。
「やあ、どうだい五十鈴ちゃん、十年ぶりに恋人と再会した気分は?」
「──……ッ!? ……!」
その台詞に対し、五十鈴は顔を赤らめてなにやら必死に手振りする。
僕は、それを手話だと理解するのに少々時間を要したが、手話の内容まではその倍の時間を要しても理解できなかった。
「あぁ、そうかそうか。恋人ではなく、幼馴染だったな」
一方、一ノ鳥居さんは手話を把握しているらしい。五十鈴の様子と一ノ鳥居さんの返答から察するに、五十鈴は恋人という単語に猛抗議の意を示しているのだろう。五十鈴はそうとう必死だ。
五十鈴も別にそこまで否定しなくても、などと思いつつ二人を眺めていると、一ノ鳥居さんが悪戯っぽい笑みを浮かべたのが見えた。
「まぁいいじゃないか。君は、見た目はそうでも中身は立派な大人だろう。たとえ異性と交際し、結婚し、子を作ったところで問題は無いさ」
「──ッッッ!!?」
一ノ鳥居さんの見透かすような台詞に、五十鈴はさらに顔を真っ赤にして両手で抗議する。一ノ鳥居さんは楽し気な表情でそれに相槌を打っているが、雑な返事から、五十鈴の反論はたいてい聞き流しているのがわかった。僕はそんな二人の様子を苦笑いしながら眺める。
一ノ鳥居さんが主張するには、五十鈴は肉体的には子供のままでも精神的にはしっかり大人に成長しているらしい。だからこそ五十鈴は、文字とはいえ、久々に再開した僕と言葉を交わせているのだろう。なぜ肉体は成長していないのかという疑問はさておいて。
しかし気弱で人見知りな五十鈴が、僕や家族以外にここまで感情を露わにすることは滅多に無い。僕と離れているうちに、内気ながら少しでも社交性を学んだのか。本気でぶつかり合えなければ、他人とは付き合っていけないものだ。それとも、わりと一ノ鳥居さんの関係が長いだけなのか。単に、一ノ鳥居さんのデリカシーの皆無な発言に興奮してしまっている部分もあるだろうが。
しばらくして、二人は会話を終える。話がいったいどういう結末を迎えたのかは分からないが、五十鈴がうなだれているのに対して、一ノ鳥居さんの地味に癪に障る笑顔からすると──いや、やっぱり分からない。
「すまないな、君には手話は分からないだろう」
「……知識が無いもので」
「…………」
「この子のためにも、勉強してやれ。とりあえず、真相だけを伝えるとだな、五十鈴ちゃんは君に熱い恋慕の情を抱いている」
「──……ッ!?」
またもや真っ赤に赤面した五十鈴の抗議が始まる。彼女は手話による話し合いを諦め、もはや暴力による訴えにでていた。しかし一ノ鳥居さんは清涼感溢れる笑顔でそれを軽く受け流している。似たような流れが、回を重ねるごとにエスカレートしているような気がする。
なんというか、五十鈴が哀れだ。
五十鈴は一ノ鳥居さんを大らかだと評価していたが、あながち間違った評価でもないのだろう。
出会ってからほんの一時のあいだに得た数少ない情報だが、彼女は事情持ちの五十鈴を受け入れているし、名前のくだりで冗談で拳を握る茶目もあれば、五十鈴の暴力に対してもずっと受け身だ。あまりに動揺して周りが見えてない五十鈴をさりげなく支えたりなど、所々に小さな気遣いも垣間見える。
決して柔らかいとはいえない物腰や今も涼しげな笑みに滲む小悪魔的悪意の印象が強すぎるのが客観的には欠点だが、何だかんだ言って、根は悪い人ではないのだろう。
「悪い、どうもこの子をからかうのは楽しくてな」
あわあわと拳を振り回す五十鈴から距離を取りつつ、一ノ鳥居さんは僕に気を向ける。
「再会できた喜びに沸いて、話し合えていない部分もあるだろう。それに、会うのは久しぶりだそうだし、いまの彼女に対して君の疑問も絶えないだろうな。まあ、外ではなんだ、社務所の中で話そうか──色々と、な」
提案に付け加えられた最後の一言の真意を、僕は容易に察することができた。一ノ鳥居さんもまた、五十鈴を知る一人。
五十鈴は、なおも一ノ鳥居さんに当たらぬ暴力をふるい続けていた。
本来の彼女に相応しくない、──小さな小さな拳で。
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