序章・終

 消えたというべきか、欠けたというべきか。

 抉り取られたような跡が無いのがせめてもの救いというべきか。

 なんにせよ、本来あるべきものがそこには無かった。あるべきものは、以前の彼女にはたしかにあったはずなのに、今の彼女には無かったのだ。

 いったいどこへ消えてしまったのだろう。あの慈愛に満ちるように垂れた目尻は。あの眠たげな奥二重瞼は。あの控えめな短い睫毛は。あの濁りを知らない黒い瞳は。普段は前髪に隠れているけれど、垣間見えたときは心なしかいつも縋るように潤んでいて、保護欲を掻きたてられたあの目は。彼女の左目は。

 いったいなぜ消えてしまったのだろう。あったはずの左目は消え去り、そこにはただの健康的な肌色が広がっている。周囲の肌との差異も無ければ縫い目も見当たらず、どうやら移植などしたわけではないらしい。眼球と肌の取替えなど、想像だにできない。想像だにしたくない。それでも無理に想像しようものなら、吐き気がこみ上げてくる。そもそも、そのような手術をしたところで、何の意味や利点があるというのだろうか。僕には理解できない。 

 いや、きっと彼女も理解できていないはずだ。

 不慮の事故か、誰かの陰謀か、あるいは人智を超えた何かがあって、こうなったのか。いずれにせよ、彼女が自発的にそのような変化を求めるはずがない。あってたまるか。少なくとも、僕は彼女のこの状態を知らなくとも、それ以外の事は知っていたのだ。おそらく、誰よりも。そう確信するほどの自信は無いけれど、錯覚できるほどの彼女についての情報量は持っている。

 なら何故。

 分からない。分かるはずがない。

 いまようやくこの事実を知る事ができた僕に。これ以上の想定など、ましてや確信なんて。

 未知というべきか。

 たとえば、抉られていたり縫合の痕跡があったとするならば、反応はともかく、左目を失った原因はおおかた生々しい予想ができた。手術か、もしくは粗い手段で取り除かれたのだろうと。でも違う。見る限り、彼女のそれには抉られたような傷も縫合の痕跡も一切無い。元からそうであったように、左目がすっぽり消失し、肌があるのだ。もはや不自然さすら感じられないほど。そこに目がある方が、おかしいと思ってしまえるほど。

 未知というべきだ。

 こうなった動機は、あるのかすら分からない。これほどまでに綺麗に消え去った原因も手段も分からない。意図も分からない。

 これを未知として、過言なものか。

 取って付けた目蓋の裏に潜んでいたそんな未知は、それを目前にした僕の顔を恐怖の色に染めた。


「ひっ……」


 彼女と机を挟んでいて、悪戯をするために前のめりな姿勢になっていた僕は思わず後ろに倒れて尻餅を着く。無意識に、喉の奥から小さな悲鳴が漏れた。


「ッ……!?」


 彼女は咄嗟に両手で左目を覆い隠す。そして顔を伏せる。

 とっくに手遅れなのだが、今まで隠してきた以上、見られてでも見られないようにするのが義務なのか。だとすれば、その義務を与えたのは彼女の親なのだろう。

 彼女は左目を隠したまま立ち上がり、僕が怯えた際に机の上に取り落とした眼帯を震える手で拾い上げ、静かに部屋から出ていく。静かというのは、去り際に彼女が残した蚊の鳴くような一言を除けばの話だが。


「…………ごめんなさい」


 彼女は部屋の外へ消えた。

 義理なのだろうか。謝ったのは。

 悪いのは僕なのに。長年に渡ってひた隠ししてきたのなら、それは隠さざるを得ない何かであったことは察していたはずなのに。それを暴いてはいけないのは、ある意味、僕と彼女との間の暗黙の掟だったはずなのに。それを暴いてしまったのは、僕なのに。

 僕は怯えてしまった。

 彼女の、無い左目を見て。自ら掟を破るためにくだらない悪戯までしておいて、くだらなくない事実を目の当たりにして。

 怯えてしまった。

 それは、とても無礼で、失礼で、不躾で、不埒な行為だった。

 掟を破る行為は。

 破っておいて、それを後悔するという行為は。

 そしてまた、出て行った彼女を追いかけないという行為も、同じ事だった。腰が抜けていたからなどという弁護もきっと許されないのだろう。

 僕の馬鹿な行為はあっさりと両方の家族内で表沙汰となった。僕は親に叱られたが、彼女がどうだったのかは分からない。しかし、彼女の家族は程なくして引越しが決まった。これほどタイムリーなら、今の住居を手離す理由も容易に解釈できる。荷物をまとめた車に乗り込む彼女の親に、僕の親はせめてもの詫びにと果物を手渡していた。僕にできる事は、ただただ頭を下げることだけだった。彼女の親はもういいよと言ってくれたが、いよいよ彼女も乗り込んだ車が出発するまで、頭を上げなかった。車が出て、頭を上げると彼女の姿は見えなかった。後部座席にでも蹲っているのだろうと、僕は長年の付き合いから予想した。しかし、その縁もここで途切れるのかと考えると、僕はいても立ってもいられなくなった。僕が意識するより早く脚は動き、南へ走っていく車を追いかけた。追いかけたものの、手は届くはずもなかった。でも僕は諦めきれなくて。せめて名を呼べば彼女が振り返ってくれる気がして、必死に彼女の名を呼んだ。


 五十鈴。

 五十鈴。


 五十鈴。


 彼女は後部座席から顔を出した。

 左目には、眼帯をしていた。

 右目には、涙が溢れていた。

 名を呼ぶ僕の声が聞こえたのかは定かではない。

 でも、僕の言葉に、彼女が微かに頷くような素振りをしたのを見ると、あながちテレパシーというものは存在しているのではないかと思う。


 絶対、謝りに。

 絶対、会いに行くから。

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