五体算式

見習い孔子

序章・一

 おかしいとは思っていた。

 僕と彼女は幼稚遠来の幼馴染。いや、幼馴染というのも僕が一方的にそう思っているだけで、彼女の内心とは違っているのかもしれない。そこで自信が持てないのは、彼女は無口だったから。おまけに感情はよく顔に出すのに、表情の変化は乏しい。もはやこの二つの性質はセットとして捉えるべきか。とはいえ、幼子の頃から関係があったのは事実だし、僕と彼女だけでなく、家族間の交流も盛んだった。それは、わざわざ過去形にするまでもなく、今もそう。僕は昔の彼女も今の彼女も知っていて、彼女もまた昔の僕も今の僕も知っている。それ故か、寡黙な彼女の微かな顔色の変化に僕はいち早く気付けるし、それは彼女にとっても無理に分かりやすく振舞う必要はないということでもある。僕の喜びに彼女は目じりを下げ、僕の怒りに彼女は顔を伏せ、僕の哀しみに彼女は瞳を潤ませ、僕の楽しみに彼女は口角を上げる。すべては些細な変化だが、彼女は決して無視はしない。僕の求める反応をかならず返してくれる。共感してくれる。あくまで、僕の言動に呼応する形で。自ずと動こうとはしない。僕は僕で、彼女は僕の影だった。僕は彼女がいることで助かっていて、彼女も僕の傍にいることに不満は無いようだった。長年の関係で培ってきた対裃五十鈴専用の心理学で彼女を分析してみれば、むしろ満足しているようにも見えた。でも、それも彼女を客観的に見た僕の主観であって、それは彼女の本心なのかは定かではない。ただ、そう思ったほうが都合が良かったのだ。僕にとっても。彼女にとっても。

 彼女の口が堅くなければ、どこかで本心が聞けていたかもしれない。しかし、彼女の口は、それこそ滅多に裂けたことはなかった。僕ですら、彼女が口を開くのを目撃した記憶はほんの数回だ。小学低学年の頃だっただろうか、妙に距離を置かれている時期があって、そこで僕が嫌いになったのかと訊いた時。あとは、六年のある日の放課後、いつも通り一緒に帰ろうと思ったが、教室にいるはずの彼女がそこにはおらず、探しに探し回ってようやく中庭で見つけたのはいいものの、そこで見知らぬ男子生徒が彼女に告白していたとき。いずれの場合も、彼女のか細い返事には否定の意が込められていたのだが。

 彼女が告白に首を振ったのを目撃した直後は、少しばかり僕の彼女に対する接し方がぎこちない期間はあったが、基本的に僕は小さい頃から何も変わらず、それは彼女も同じ。

 しかし、異変はあった。彼女には、一つだけ。

 おかしいと思っていたのは、それだ。

 それは小一。蝉が地に落ち、夏休みも終了間近となったある日。休み中盤あたりから家族と関西旅行へ行っていた彼女が帰ってきた。しばらく顔が見られなかった寂しさから、僕は気だるげな親に頼み込み、空港で彼女を迎えた。

 彼女は真っ白な眼帯をしていた。

 左目に。

 僕は駆け寄り、彼女に眼帯の理由を訊いた。しかし、彼女はやはり無口で、何も答えようとはしなかった。挙句に、俯く始末だった。

 彼女の親から事情を聞く限り、旅行先で怪我をしてしまったとのこと。大いに心配する僕を安心させようと思ったのか、怪我は軽いと言った。取ってつけたように。言いがかりではない。僕だって、伊達に彼女の幼馴染をしているわけではないのだ。怪我は事実だとしても、それが軽いものでないことは彼女の様子を見れば分かった。

 自ずと涙で瞳が潤んでいる、彼女を。

 親に説得され、僕も深くは問い詰めないことにした。ただの怪我なんだから、いずれは外れるだろうと。

 でも、外れなかった。

 一日、一週間、一ヶ月、一年経っても。中学に上がっても、尚。

 当初は、片目が使えない生活に存外戸惑っている様子の彼女を親身に手助けした。

 申し訳無さそうながらも表情で感謝を伝えてくる彼女に対してはにかみ、内心はそれまでは手を借りてばかりだった自分を責めた。両目と比べて距離感がうまくつかめなくなったらしいが、彼女は左目は使えてもともと視力も良かったので、さほど生活に支障は無かった。学校では、彼女の眼帯を見て、何があったのと質問したり、厨二かとからかうクラスメイトを、空港での自分を棚上げして追い払った。

 彼女は無言を貫き、彼女の親は怪我が長引いているだけだと言っていた。僕の親も、それに納得していた。

 でも、僕だけは納得できなかった。

 一緒に遊んでいるとき、勉強しているとき、食事をしているとき──いかなる時も、彼女の眼帯が気になっていた。いつになったら外れるのだろうか。眼帯の下は、いったいどうなっているのだろうか。

 その疑念を抱え、時が経ち、抱え慣れたそれは好奇心へと様変わりして。

 僕は、彼女に悪戯をした。

 それは、中学に上がって初めての夏休み。二人だけの勉強会中に、いきなり眼帯を取り上げるというシンプルなもの。

 眼帯生活にも馴染み、僕ももう気にしていないと思っていたらしい彼女は、抵抗する余裕すらなくなされるがまま。

 軽い気持ち。本当に怪我だったとしても、それは覚悟の内にあるので驚きはしない。素直に謝り、反省すればいい。

 軽い気持ち。目の色が変わっているだけだというのなら、それも予想の範囲内。青や赤だというのなら、それはむしろ羨ましいくらいだ。

 軽い気持ち。あくまで軽い気持ち。

 そう思っていた。

 そう思っていたのは、間違いだった。

 彼女の眼帯。十年以上も、彼女の左目を包み隠していた眼帯。

 それが外れ、奥の、彼女の左目がようやく見える。

 見える、はずだった。

 見えなかった。

 見間違いかと思ったけど、見間違いじゃなかった。

 決して、見間違いなんかじゃ。

 無かった。

 左目が。

 比喩だとか、そういうんじゃない。

 無かった。

 眼球が。

 瞼が。

 睫毛が。

 骨格さえも。 

 左目を左目として構築するすべての器官が、彼女の左目があるべき場所に、無かった。


 無かったんだ。

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