十分の一
南枯添一
第1話
画家は海へと静かにカヌーをこぎ出した。太陽は沈もうとしていた。普段ならば、島々が一番の美しさ見せる時刻だった。そうでなくとも、美しい島々が一際美しい貌を見せる、神の時刻――オレンジ色をした血の塊のような太陽が、その巨体をゆっくりと海へと消していき、空は光の粒子を顔料に混ぜ込んだとしか思えないラピスラズリに染まる。例外は、水平線の上に残された一捌けの薔薇色だけだ。そうして最後の薔薇色も息絶えるとき、一日の間でこの時間帯だけの涼しい風が何処からか吹き始める――。
けれど、その日の夕暮れは違っていた。分厚い雲に閉ざされた空はどす黒い鉛色で、まるで殴られた痕のようだ。空気は帯電したように刺々しく、いつもの爽快なスコールとは違う、不吉な雨の予感が宙に浮かんでいた。そして、べた凪だった。風は吹かず、いつになく重かった大気は闇とともに、その息苦しさを増していくようだった。
油を流したような、凪の水面をカヌーは切り裂いて進んだ。画家は島に暮すものとして、今夜は海に出るべきでないことを確信していた。けれど、今日だけは引き返すわけにはいかなかった。彼はどうしても、行かなければならなかったのだ、あの女が呼んでいるのだから。
海に出ると画家はカヌーの舳先を、沖に浮かんだ、小さな島の小さな湾に向けた。海鳥しか住まない、本当に小さな島だった。湾内に入ると、いつになく早く降りた夜の帳の中で、ほの白く浮き上がる、大きな船の影が見えた。小さな湾に不釣り合いなほど大きなクルーザーで、その様は船と言うより、まるで城砦だった。
画家は苦労して舷側にカヌーを寄せて泊めると、ぶら下がったままの梯子を登った。見上げると指先ほどの微かな灯りが、緩やかに明暗を繰り返すのが見え、メンソール煙草の煙が漂い降りてきた。画家が欄干に手を掛けたとき、小さな炎は海に向かって飛んだ。
彼が視線を戻すと、欄干に寄りかかった女の姿が見えた。女は胸元の開いた赤いドレス姿で、カクテルグラスを手にしていた。
「何かお飲みになる?」
「いいえ」
画家は答えた。美しい女であることは間違いない。画家は考えた。本当に美しい女だ。大勢の男が、たとえ喰われるのが解っていても、彼女の前に身を投げ出すだろう、そんな女だった。
「来て下さったんですのね」
「ええ。どうしても、と言うことでしたから」
女は微笑んだ。画家はデッキを見上げて、
「船長たちはどうしたんです」
「休暇をあげました。あの人たちもたまには羽を伸ばす機会を与えてあげないと」
「しかし今日はよくない。海が荒れそうです。多分、この湾内なら安全でしょうが、万が一と言うこともある」
「あなたがいてくださるわ」
彼は無言で海を振り向いた。
「わたしたちが吹き込まれた謳い文句はエメラルドグリーンに染まる常夏の海、南海の楽園とか言う、愚にも付かない戯言でした。でも、どうやら看板倒れのようにね」
「少しずつここの海も変化をしてきているのです。特にここ数年はおかしい。おそらく地球温暖化の影響です」
「だから炭酸ガスを出すなと。異論があると言ってる科学者がたくさんいるのでしょう? あんなものは科学的根拠に欠けた、エコマフィアの陰謀だって」
そんなことは関係がない、と画家は思った。
もちろん、科学的根拠に欠けるのは〈気候変動カーボン主因説〉側ではなく批判派の方だ。〈カーボン主因説〉の根拠は充分で多くの専門家によって支持されているし、陰謀を企んでいるとするなら、それは批判派の方だ。
けれど、そんなことではない。肝心な点は〈カーボン主因説〉は安上がりなのだ。
気候変動そのものは、もはや誰も否定しがたい。その進行をたかがカーボンの排出量を抑える程度のことで、抑制できればすごく安く付く。増加する気象災害の対策費をほんのわずかでも押さえ込めれば、カーボン排出量規制に要する費用など簡単にペイしてしまう。もちろん衰退する産業はあるだろうが、新しく勃興する産業もカーボン排出量規制は産み出す。産業構造の変化は経済の世界では常態でしかなく、誰が悪いと言うようなことではない。
〈カーボン主因説〉は間違いでもさしたる害はなく、正しければ大きな利益をもたらす。〈カーボン主因説〉より効率的な気象災害抑制策の代案があるわけでもないのに、なぜ〈カーボン主因説〉には異論がある式の議論に、延々と付き合わされなければならないのか。
結局〝文明人〟たちは自分たちのしていることに、ちょっとでも文句を付けられることが嫌なのだ。そうして、彼らのそうした振る舞いの代価は、画家や画家の友人である〝未開人〟が支払うことになる……。
けれど、女にそんな話をしても意味がなかった。画家は話題を換えた。
「ご主人はどうされているんです? 彼も姿が見えないようだが」
「ああ」
女は曖昧な返事をした。
彼とはこの船のオーナーのことだ。言うまでもないことだが、とんでもない程の金持ちだった。白髪を逆立てた、小柄な老人で、何より、この女に遺産を送ると指定した遺言状を作るくらい、愚かな男だった。
「いい加減中に入りません?」
うるさげに顔の前で手を振りながら、女が言った。寄ってきた虫が気に入らないのだろう。彼はうなずいて、女に続いてキャビンに入った。
船内は明るかった。全ての灯りが点けっぱなしで、空調は寒いくらいだった。
もし、一日のほとんどをこの部屋に閉じこもって過ごすなら、と画家は思った。彼らは何のためにわざわざ南洋にまで来るのだろう。
「いかが」
スパークリングワインを注いだフルートグラスを、女から画家は受け取った。明るい光の下で見ると、女は日焼け止めを塗りすぎだった。それでも日焼けで鼻の頭の皮がむけ、少し滑稽だった。
十分の一だな、と画家は思った。この女は確かに美しい。しかし自分で思っている十分の一程も魅力的じゃない。いや十分の一は言い過ぎだ。5分の一が妥当か。
もしも都会で、例えば個展の後のパーティでこの女に出会ったのなら、俺は彼女から目が離せなかったはずだ。しかし、ここは島で、海だ。ここで本当に魅力的なのはあのコのような女だ。アトリエから出て行く俺をすがるような目付きで見送った、あの少女のような、しなやかだけれど華奢ではない、骨太の女だ。しかし。しかし……。
船殻に何かが当たる音を聞いたような気がして、画家は夢想から醒めた。彼はグラスをかざした。
「もう一杯いただいていいですか?」
「ええ」
女はやや苛立ったように答えると、まだ点けたばかりのメンソールの薫りのする煙草を、既にいっぱいの灰皿で押し潰した。どうやら、俺の到着を待ちわびていたらしい、と画家は考えた。しかしなぜだ。なぜ自分などが来ることが彼女にとって、それほど重要なことだったのだろう。
船尾にあるバーカウンターを示されて、画家は革張りのソファを回り込んだ。そのとき二つ並んだ、誰かの足の裏が見えた。もう一歩進むとうつ伏せに横たわった身体が見えた。小柄な老人の身体はソファで隠されていた。女の夫はそこで死んでいた。
画家はグラスを慎重にカウンターに置くと、すり足で下がった。ゆっくりと腰を伸ばした。そして、振り向いた画家は22口径の銃口をまともにのぞき込むことになった。
女は引き攣るような笑みを見せていた。それを見たとき、これは女にとっても不測の事態なのだと画家は悟った。おそらく夫はもっと自然な形で死ぬはずだったのだ。彼女には遺産を巡って争うべき大勢の敵がいる。少しでも死因に不自然な点があれば、彼らはハイエナの獰猛さで襲いかかってくるだろう。けれども――。
「彼、焼き餅焼きでね。わたしが船員たちを船から遠ざけたことに気を回しすぎて、それで命を縮める羽目になったわけ。余計な気を回しすぎなければ、少なくとも、この航海が終わるまではわたし身体を楽しめたのに。ホント、バカな人」
「なるほど。それで僕の役目はなんです?」分かっていたけれど、画家は尋ねた。
「もちろん、あなたが殺したんだわ。わたしの夫を」
彼女は真っ赤な傷口のような唇を歪めて嗤った。これはこれで美しいと画家は思った。これを見るためだけに、死んでもいいと考えるバカな男がいてもおかしくない。
「あなたは勝手にわたしが自分に気があると思い込んで、この船に押しかけてきたのよ。当然わたしが突っぱねると身勝手に怒り狂って暴れ出した。夫はわたしを守って勇敢に闘い、あなたと差し違えるの」
画家はうなずいた。「あなたが思っているより、この島の警察は有能ですよ」
「そうかも知れない。でも、わたし、泣いて見せてあげる。頼りの夫に死なれて、異国に一人、寄る辺ない、哀れな未亡人として。すがりついてあげる。わたしはどうしたらいいのですって。誰もわたしのことを疑ったりなんかしないわ。そうじゃなくて」
そうかも知れない、と画家は思った。あなたの根城の大都会でなら。たぶん、この島でも。
「さあ。ここへ来て。殺人犯としての演技を付けてあげるわ」
けれどそのとき、南洋の熱風が室内に吹き込み、彼女を振り向かせた。
ドアが開いていて、男たちがそこにいた。褐色に肌にほとんど何も纏っていない、島の大男たちだ。裸足の男たちは足音も発てなかったが、頭は低い天井につかえそうだった。やはり先ほどの船殻に何かが当たる音は彼らのカヌーだったらしい。
女の口が悲鳴の形に開いた。
「あなたたちは何?この船は個人の持物よ。勝手に乗り込めば犯罪よ。今すぐ出て行って。出て行かないと訴えるから。分かってる? 訴えるから」
男たちは何も答えずに進み続け、女は初めて気付いたように、拳銃を男たちに向けようとした。男たちの巨躯に比べて、22口径はあまりに小さくておもちゃにしか見えなかった。先頭の男が野球のグローブのような手を伸ばして、女の手首を掴んだ。そんな気はなかったはずだが、骨の折れる音が響いた。
そして、女は絶叫した。
「折れた、折れた、折れた、畜生。あたしの骨を折りやがった」
そして、聞くに堪えない罵声の後で、女は画家を振り向いた。
「おまえもこいつらの仲間か。ヘボ画家!」
「ええ」
「何をする気なのよ。なんでも同じだからな。おまえら、全員、一生監獄にぶち込んでやるから。そのとき、後悔したって遅いからな。覚えとけ」
「地球温暖化の話をしたでしょう」女を無視して画家はこたえた。「ここ数年海がずっとおかしいんです。それで、長老たちが言い出した。海の神が怒っている。その怒りを静めなければならない」
「あんた、何の話をしてるの?」
「だから生け贄が必要だと、長老たちは言うんです」
「はははははは。あんた、頭おかしい――」
女は嘲笑おうとしてできなかった。最後は彼女の言葉は金切り声の叫びに変わった。ひぃ――っとしか聞こえない女の叫びは助けてと言っているようだった。
男たちはそんな叫びなど無視して、女を荒縄で縛り上げると担ぎ上げた。女は屠殺されるブタのようにいなないた。十分の一どころが、万分の一だ。画家はそう思った。だが、こんな感想はアンフェアだ。この状況下で魅力的でいろなんて無茶な相談だ。
「海はどうだ?」画家は島の言葉で男たちに尋ねた。
「まだ保っている」男が答えた。彼は島で唯一の警官だった。「だが急ごう。年寄りたちが待っている」
画家はうなずいて、もう声も出なくなった女を担いだ男たちに続いて歩き出した。
もちろん画家は〈カーボン主因説〉と違って、生け贄の効果など信じてはいない。バカげた迷信だ。だから最初は断固として反対した。島の女たちを、アトリエで彼を待っている少女たちを迷信の犠牲にはできない。けれど。それは長老たちも同じだった。長老たちは言った。生け贄はこの女だと。
ならば、と彼は考えた。この女を犠牲する程度のことで海が元に戻るならば。
犠牲はわずかで、効果は絶大だ。
その可能性がわずかでもあるならば、それは合理的な選択と言えないだろうか。
十分の一 南枯添一 @Minagare_Zoichi4749
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