2023
蟹 (蟹、コンビニバイト)958
「先輩、その蟹どうするんですか」
七海の指先で蟹は宙をうごめいていた。小さな八つの足が順繰りに空中で踊っている。
「いや~、可愛いなあって思って。たまにこうやって掴んじゃうのよね。蟹」
「変な趣味してるんですね」苦笑いをして、ちひろは七海の顔にちらと目をやった。
ちひろがバイト先に入って間もない頃に七海へ向けていた敬慕の表情はそこにはなかった。今や同年代の少し変わっているだけの人となった七海は、二年先の先輩としての尊厳を失いつつあった。
その視線をかわすように七海は壁掛け時計を見て、仕事だ、とつぶやいた。
「そろそろ棚卸しの時間だね。段ボール運んでくれる?」
七海は蟹を水槽へと離した。水槽の中で蟹がゆらゆらと落ちていった。
倉庫は薄暗く、切れかけの蛍光灯が一本、ちらちらと辺りを照らすだけだった。入口に立つと七海は髪を一つにしっかりと縛った。パチン、と静かな店でゴムの音が響いた。
「一人でそれ二箱いける?」
七海の指示にちひろは踏ん張りながら段ボールを二箱持ち上げて、返事をした。
小柄な体は段ボールに背を越され、ちひろは寄りかかってくる大きな箱に頬を押し付けていた。その箱をひょいと七海は取り除いた。
「無理したら腰挫くよ。キャスターどこ行っちゃったんだろうね、まったく」
七海はそう言いながら店内へと向かう。後からちひろが背中を追った。
店内には客が一人いた。朝の5時過ぎ、始発列車の近い時間にこの駅前のコンビニに人が入り始める。七海はそそくさと段ボール箱を開け、レジに立った。
外は蛍光灯一つ分ほどの明るさで、薄い青が広がっている。まだ涼しい空気を吸って七海は深呼吸をした。ちひろと二人きりで過ごす時間は、いつも薄暗い早朝、少しの時間だけだった。
店員がもう一人店へ入って七海へ挨拶をした。外は蛍光灯三つほどの明るさになっていた。
「七海さん、お疲れ様。レジ変わるよ」
「ありがとうございます」
休憩室から、さらに暗くなった倉庫が七海の視界に入った。小さな影が部屋の中で揺れている。
着替え終ると、七海は倉庫へと向かった。さっと、小さい影の背後から手をまわして抱き寄せた。
「何するんですか」ちひろは肩をぴくりと震わせた。
「いや~、可愛いなあと思ったんだけど。ダメだった?」
振り向くには距離は近く、ちひろは俯いたままもじもじと佇むだけだった。
一時間執筆シリーズ 坂町 小竹 @kotake_s
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