2021
「丘で待つ恋人」 (ブルー、丘、美術館)1065
上野駅。10年前にも一度、来たことがある。外出するにはあまりにも勇気が必要だったけれど、車窓に流れていく景色を見ていると少しだけ落ち着いてきた。誰も見ていない車内で、少し大きく息を吸った。携帯電話には時刻だけが映っていた。09:48。深呼吸のつもりが、ため息の言い訳だった。
出かけるギリギリに起きたものだから、瞼が乾いて違和感がある。少し目を瞑ると私はつい昨晩を思い出してしまう。09:50。何も通知の来ない携帯電話をまた閉じた。電車は止まり、人は降り、また動き出す。
「ブルーなときには、ブルーに浸るのがいいよ」
そう言って岡田君が送ってくれたのは、美術館の特別展の情報だった。上野美術館、『ブルーの欠片たち』展。ただ青い景色があるだけじゃないの、と反論しようとして私はやめた。日常を忘れられるなら、ただの青い景色だけでもよかった。
上野駅には、昨晩送られてきたパンフレットと同様のものが壁に大きく貼られていた。
「久しぶり」
改札口に待っていた岡田君の髪はやや伸びていた。厚めの上着のおかげか、表情も暖かい。恋愛感情なんて無いものの、こんな人だったらと思考を巡らせた――良かったのに。
「早い時間にごめんな、眠い?」
「いや全然、まあ、少しだけかな」
「『ブルーの欠片たち』さ、俺すごく行きたくって。マーク・トリアングルっちゅう作家の作品がいっぱい展示されてるんよ」
「言ってたね、現代美術の人だっけ?」
「そう! 一人じゃなんとなく出かける勇気出なかったからさ。赤城本当ありがとな」
昨晩の話はもう忘れてやったぜ、と言わんばかりの笑顔で岡田君は話している。彼なりの気遣いなのか、昨晩も、彼との喧嘩について詳しく聞こうとはしてこなかった。人の秘密に、過度に付け込まない。大学の丘で初めて会ったときから、この点はずっと変わらなかった。
私たちはしばらく無言で歩いた。
「そういえばさ」
岡田君は思い出したかのように口を開いた。
「俺らが最初に話したとき、赤城がトリアングル作品のシャツ着てたんだよね」
「え、嘘」
「じゃないと俺話しかけないよ。あれを着て丘の上にいるもんだからビビってさ。最初、トリアングルのこと知ってるのかと思ってた。でも赤城は何も知らずに丘の上にいたんだよな。あのシャツ、元になった作品名知ってる?」
「ううん」
「『丘で待つ恋人』。最初、運命の人って思っちゃったよね。まあ赤城には彼氏いるから、口説くつもりなんてないけど。」
「彼氏、別にいないけど……。昨晩、あのまま別れたし」
岡田君はバツの悪そうな顔をした。そして一言だけ、「そうか」と言い放った。
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