夏の魔物

久環紫久

第1話夏の魔物

 八月十日のことである。忘れもしない、私の誕生日。

 その昼すぎ。昼すぎの炎天下。甲子園球場では高校球児たちが熱戦を繰り広げており、私はといえば、屋外でプールサイドに設けられたテントの中で、子供たちがおぼれていないかどうか、安全に遊んでいるかどうか、ぼーっと眺めていた一四時三〇分。

 時間が来たのでベルを鳴らし、子供たちをプールサイドに上がらせる。どうしてプールサイドに上げるのか、その詳しい理由はわからない。体力を消耗するからこまめに休憩を取らなくてはいけないのかもしれないし、いくら頭にキャップを被っているからと言っても、いくらプールの中は水温二十度ちょっとだと言えども、熱中症にはなってしまうのかもしれないし、結局休ませる詳しい理由はあまりよく分かっていなかったが、とにかく上がらせようと声をかけた。

 これが私の仕事だ。私がこの夏休みのあいだ、塾に行かない日はいつもこうしている。カランカランと町内会のくじ引きでなにか当たりを引いた時のような乾いたベルの音がプール中に響く。

 上がらないと明日はプールに入れなくなっちゃうぞーと声をかけて休まず遊んでいる子たちを水中から上がらせる。

 子供たちは元気と体力が有り余っているようで、私が入場スタンプを押したり、水温やpH濃度を調べて書き込んだりしている間にもプールサイドをばたばたと走り回っている。

 鬼ごっこをしているようだけれど、転んだら危ないからと止めようとした時、その走り回っている男の子が、その勢いを止めることが出来ずに私に突っ込んできた。


「あっ——」


 情けない声が出た。危機感満載の私の脳内はスパークを引き起こしたらしく、水しぶきが上がっていくさまが見えた。ぶつかってしまった男の子の戸惑いの表情も、その後ろから追いかけてきた男の子の呆然とした顔も。すべてがスローモーションで、私のどこにそんな能力が隠されていたのだろうと、のんきに思う。それほどまでに今の自分がどうなっているのか察しがついて、妙に冷静だった。

 だけれど、体はそうはいかず、思わず漏れた声と一緒に息も出て行ってしまって、水中ではとても息苦しい。脊髄反射的に息を吸おうとしてプールの水が口の中に入ってくる。塩素にまみれた水は飲んでも美味しくなかった。

 空気と水が攪拌して口の中からがふがふと声にならない音を吐き出していた。バシャバシャと自分の体にまとわりついた水から逃れようとして暴れる音が周りの音を遮っている。

 パニックに陥っている自分と、それを遠くから冷静に眺めているような自分がいた。遠くから眺めていると、子供たちが私の方を見てどうしようかとあたふたしている姿や、私がじたばたと腕を振り回していたけれど、体が沈んでいくばかりで犬かきにもなっていなかった。

 少しずつ体から酸素がなくなっていくように感じた。言うことの聞かなかった体から徐々に力が抜けていく。意識が遠のいていって、遠くから私を見ている私も、今もがいている私もどちらも意識を手放しそうになった。

 こんなことなら小学生のころにスイミングスクールをやめるんじゃなかったと後悔した。もうダメだ————そう思った。すると、途端に体が軽くなった。ゆっくりと空へ浮かんでいく感覚があった。

 遠くの方から声が聞こえる。ぺちぺちと頬を叩いたり、体をゆすったりされている。


「——ろ! しっかりしろ!」


 ふと、幼いころの自分が思い出された。

 近所に住んでいた子と朝早くからカブトムシを取りにいったんだ。

 今度は夏祭りで私が泣いている。りんごあめが食べたかったのにまだ早いと言われてあんずあめにされてしまったから拗ねているんだ。

 小学六年生のころの修学旅行だ。懐かしいなあ、美紀ちゃんとおそろいのお守りを買ったんだっけ。

 制服になって、私は初めての部活動で美術に触れて、絵を描いて、それから受験勉強をして、今の高校に入って、また絵を描いて。

 ああ、これが噂の走馬燈か。

 あっけなかったな。一六年ばかりの人生だったけれども、絵を描く、ということに触れられてよかったな、と思う。


「おいこらくるみ!」


 バチンと強烈なビンタが飛んできたせいで走馬燈はどこかにきえてしまった。けれど今だに息が苦しくて、胸が痛い。

 かすみがかった意識の中で周りがてんやわんやの大騒ぎをしていることがなんとなくわかった。


「にいちゃん本当に大丈夫なの?」

「どうにかする! おい雄太、今すぐ職員室行って誰でもいいから先生に救急車呼んでもらえ!」

「わ、わかった!」

「頼んだぜ」

「うん!」


 突然、私の体は横になって、スッと顎が上に上がって気管が開けた。そこから息が入ってくる。それからドクンドクンと心臓を押された。そのおかげで心臓から酸素が体中に送り出されていく。体中に酸素が走っていくと、それと一緒に血液が体をものすごい速度で巡り巡っていった。おかげで全神経が研ぎ澄まされたような感覚があった。まるでロボットが再起動されたみたいだった。

 もう一度、息が入ってきたとき、私の冷静になった脳内で今起きていることを見ようと瞼を開けた。

 目の前に男の顔があった。


「————————!?!?!?」


 バチンっ!

 プールサイドに響き渡った。

 ごほっとせきこむと私の体から、さっき飲み込んだらしい水がぼろぼろと出てきた。


「いってえなあ。命の恩人にビンタするなんてお前はほんとイノシシだな」


 そういってよく知った顔の男が頬をさすっている。


松島一太まつしまいった!あんたどうしてここにいるのよ!」

「そんなのお前を助けに来たに決まってんだろ」


 えっ、と反応に戸惑う。

 一太の右手には濡れた少年ジャンプがあった。


「あーあ、ぬれちった。ったく、まだ読んでねえのに」


 私のもとにプールサイドで休んでいた子たちが駆け寄ってきた。

 心配かけてごめんね、と謝っていると、先生を引き連れてついさっき私とぶつかってしまった男の子——沼順平くんが帰ってきた。

 先生に大丈夫かどうかと心配されているうちにサイレンの音が聞こえてきて、そのまま私は担架に乗せられて、救急車で病院にいくことになった。

 それから二時間ほどして、私は家のベッドに横になっていた。病院での検査では特に問題が見つからなかったので、安静してくださいとそのまま帰されたのだ。

 そしてそのベッドの横にはジャンプを読んでいる男の姿があった。


「なんでここにいるの」

「暇だから」

「だったら帰れ」

「ジャンプ読んだらな。お前も読むか?」

「結構です」


 相変わらずテキトウな男だ。

 タオルケットをそっと鼻まであげた。

 ぺらぺらと時々ページをめくる音がする。


「マガジン派か」

「それはあんたでしょ」

「俺はそういうのにこだわらない。コロコロ派か」

「それは弟」

「ちゃお派——」


 私のベッドに凭れた頭がこちらを向いた。ちょうど目が遭ってしまった。遭ってしまったからか、一太の言葉が止まった。お互いに息をするのを忘れたみたいに、一瞬だけ見つめ合った気がする。


「なに?」と尋ねると、「いんや」と言ってそのまま視線をジャンプに戻した。本当になんなのだ。

 少し時間が流れて、お互いに何も言わず、扇風機が一太の髪を凪いだ。


「まあでも」


 ぼそりと一太がジャンプに話す。


「まあでも、無事でよかった。ほんと。お前がなんともなくてよかった」


 なにそれ。

 よくよく考えてみれば、こいつは私が溺れているとわかったらすぐに助けてくれて、応急措置までしてくれて、それなのに私は手痛いことでお返ししてしまった。


「ごめんね」


 小さく、消え入りそうな声しか出なかった。


「なに?」

「叩いちゃって」

「ああ、いいよ別に。目が覚めて目の前に男の顔があったらそりゃびっくりするさ。俺でもきっとビンタするし」

「ごめん」

「いいよ」


 優しい声だった。


「ありがとう、助けてくれてありがとう」

「いいって。お前ドジなの知ってるし、お前のこと守ったり助けたり、ほっとかねえのが俺の役目だからな」

「なにそれ」

「何年お前と一緒にいると思ってんだ? だいたいコケるタイミングとかわかるっつーの」


 エスパーかよ!


「それに、俺はずっとお前のことが好きだからな。俺はお前のヒーローであり続けたいんだよ」


 な、ななによ急に。思わず赤面してしまった。なんでこいつはこうも簡単に素直に当たり前のようにこんなに恥ずかしいことを言い切れるんだろう。

 気が動転したことを誤魔化すように私は話をそらした。そらしたからきっと気付かれているんだろうけれども。


「そ、そういえばどうして私が溺れたときすぐに来ることが出来たの?」

「俺はお前のことならなんでも知ってるのさ。どこにいるかも何をしているのかも」

「なんで?」

「好きだから」

「好きだからわかるの?」

「ああ、GPSでどこにいるか把握できるし、今日はプールサイドの倉庫からずっと見守ってたし」


 向日葵のような笑顔を咲かせて目の前の男はそう言い切った。

 夏の魔物がすぐそこにいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏の魔物 久環紫久 @sozaisanzx

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ