想像小説1

相川由真

ピロートーク



 行為の後、私達は決まって出口の見えない問答をするのだ。


 それは仏道的な死と生物学的な死の差異と、それが生じる原因についての考察であったり、二十一グラムの魂の内訳についての推測であったり、世の崇高な学者達が何十、何百年に渡って論じてきて、そして未だ答えの見えないその迷宮の床を、壁を触ってみることが、私にはとても有意義であるように思えた。


 彼とのセックスは退屈だ。けれども、事後に彼の薄い唇から紡がれる、判然としない言葉の羅列は、直接的な肌のまぐわいよりも、ずっと私の身体の芯に染みていった。


 知識欲が性欲を上回ったというと、それは適当ではないと思う。


 少なくとも私自身はそうであると思っているし、何百年と論議を続けてきた学者が私の密かな楽しみを垣間見たとしても、鼻で笑われた挙句一蹴されるのだろう。


 ある日、私が彼に、「私はこの有意義なピロートークをしたいが為に貴方とセックスしているのかもしれない」と告げると、彼は困ったように笑った。仄暗い寝室で、その表情はよく見えなかったが、きっと引きつった笑みを貼り付けていたのだろうと思う。


 無神経な事を言ってしまったと思った。


「僕はね、君が何を考えているのか、何を求めているのか解らないんだ」


「唐突に解らなくなっただとか、そんなマリッジブルーみたいな事を言っているんじゃない。最初からさ、最初から君が何を考えているのか解らなかったんだ」


 最後に彼に抱かれた日の夜、二人の汗でうっすらと湿ったシーツの上に寝そべり、彼はそう言った。


 私は彼の隣で同じように寝そべり、その独白のような言葉の羅列を噛み締めていた。頭を傾けて、彼の顔を見ることは、出来なかった。


「育ってきた場所が違う。見てきたものも、感じたことも違う。解らないのは当然なんだ。そういう意味では、僕は誰の理解者にもなれないし、君の理解者はこの世の何処にもいないのかもしれないね」


「世の中には所謂カップルと呼ばれる男女がごまんといるけれど、きっとその誰もがお互いの事を理解してないんだろう。それでも彼等はなんでもないような顔をして、時にはその思考の不明瞭な領域に隠された地雷を踏み抜いて、お互いを罵り合ったりして、それでも何故かお互いを認め合って生きていくんだろう」


「だから僕もそのように、君の不明瞭な部分から目を逸らして、それなりに上手くやってきた。やってきたつもりだったんだ」


 つらつらと語る彼の言葉は、今から数時間後にはお互いが別々の道を歩いてゆくことを予感し、焦燥する私の頭に、不思議なくらい真っ直ぐに染み込んでいった。


 彼は私と同じだと思った。けれど、誰とも同じなのだと思った。


「君は僕によくしてくれる。よくしてくれてきた。けれどそれが僕に対する純粋な好意に基づいたものである確証は何処にもないし、或いは気紛れのようなもので、次の日には、退屈凌ぎに飽きた君は、寝起きの僕に熱いコーヒーを頭からかけて罵詈雑言を浴びせるかもしれない」


「そんなことするはずがないと君は思うだろう。でも僕にとっては、そうならない確証は何処にも無いんだ。もしかしたらやってくるかもしれない未来が、僕はとても怖い。そして何より……」


 やがて震え始めた彼の声は、言霊を紡ぐのを止めた。私も同じように咽び泣き、彼の胸に頭を擡げれば、きっと彼は安心するのだろう。もしかしたら、破局の話も無かったことにしてくれるかもしれない。けれど、私にはそうする事が出来なかった。ただ顔を背けたまま、震える彼の肩に指を添えることしか、出来なかった。


「こんな風に考えてしまう自分が一番怖い。縋り付きたくなるような優しい言葉に、そのまま縋り付く事はもう出来ないんだ。身構えてしまう。ありもしない裏切りをあると断じて、その不信にかかずらって、恐る恐る君に触れることしか出来なくなってしまった。きっと君との共存によって、僕は神経を擦り減らしてしまうと思う。僕は君と生きることによってどんどん悪いようになってしまうだろうし、君もまた、そんな僕と生きれば悪いようになってしまうんだろう。だから、もう……」


「お終いなんだ」


 途切れ途切れになりながらも、彼は言葉を吐き終えた。そして、力尽きるように、枕に顔を埋めた。


「私は、嫌いにならないよ」


 彼の悲痛の言葉を聞いてなお、涙一つ流せない自分が酷く冷淡に思えた。頭の中の個室は、彼にとって不明瞭な領域には、ぶち撒けてしまえば収拾のつかない渦が佇んでいる。彼と同じように、それをぶつける事は出来なかった。ただ、そのように、申し訳程度に、彼への好意を零すことしか出来ない。


「ああ、信じてるよ」


 彼はそれだけ返して、それきり何も言わなかった。私が目を覚ますと、彼は隣にいなかった。うっすらと残った、彼が好んだコロンの香りは、私に何の感動も悲哀も齎さなかった。リアリティに欠けていると、思った。






 彼が今どうしているのかは解らない。或いは彼との思い出自体、私が思い描いた長年の夢想のようなものなのだと言われても、なるほど確かにと納得することが出来る。


 例えば、今私の中に必死に自身を刻み込んでいる男の体温も、息遣いも、古く錆び付いた私の脳内の個室の扉を開くほどのリアリティは無い。職場にも、実家にも、友人との交遊の中にも、そのような事柄は無い。


 時に背徳感に身を委ねるような行為に及んでも、扉はびくともしなかった。


「ねぇ、私を殺して」


 男は私の言葉通りに、少しばかりの遠慮を含む手つきで私の首を絞めた。つまらない男だと思った。


 このまま私をくびり殺せる男を求めているわけではないが、そうなってしまってもそれはそれで面白いかもしれない。


 つまるところ、何を以ってリアリティがあると断ずる事が出来るのかは、私自身が理解していないのだから、当然私の脳内の個室は、今後永久に開く事はないのだ。


 それは、悲しいことなのだろう。


 彼に抱かれ、彼と言葉を交えたこのベッドの上で、生きることを、人というものについて考察する。それは有意義なことだと思った。けれど、リアリティが無いことだと思った。


 だから――――

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