長距離ランナー

三ノ月

長距離ランナー



 少しばかり体力に自信があった。月一で行われていた校内マラソンではいつも上位だった。結果が出るのが嬉しかった。陸上大会の選手に選ばれて、駅伝の選手に選ばれて、もっともっと、速く走れるようになりたかった。

 ただの一度倒れたくらいで、走れなくなったくらいで諦めるような、低い志だったけれど。


 ◆


「――っ」

 一歩一歩、足と地面が触れるたび、離れるたびに、頬を切る風を感じられた。

 短距離走では一瞬で終わってしまう距離、それを確かな経験値としながら、もっと長い距離を走る。

 いつか、『そんな苦しいだけの競技、何が楽しいの』なんて言われたことがあったか。

 ……正直言えば、そんなの自分にだってわからない。

 ただ、どうしようもなく。

 ゴールした瞬間の満足感は、他の何にも代えがたい。



「あー、惜しいね。記録更新ならず」

 ゴールとされた白線を踏むと同時、その手に握られたストップウォッチの時間は止まる。示されたタイムは9分48秒。確かカスミ自身の記録は9分44秒だったため、更新まで4秒足りなかったことになる。

 その事実を告げたのは、同じ陸上部の、しかし選手ではなくマネージャーの藤堂トウドウヒロトであった。

「まあ平均してこのタイム出せるなら十分じゃないの。女子だし」

「うぅ、そうかな、そうかも? いやいや、もっとだって」

 私はもっと速くなれるはず。それは過信ではなく事実。ここ最近記録は伸びていないが、走り続けていれば、いつか必ず。

 9分48秒。それはたった今、校庭のトラックを400m×7周半走った際のタイムである。地区の陸上大会に女子3000メートル走の競技はないが、駅伝ではどうせそのくらいの距離を走ることになるのだから、と通常メニューに取り入れているのだ。

「……いや、あんま無理はしない方がいいよ? 本気で、マジで」

「無理なんかしてないってば。毎度毎度、いちいちうるさいなあ、マジで」

 マジで。

 とは言いつつも、そろそろ限界なのではないか、と己のうちで、疑問が首をもたげているのもまた事実なのだ。

 ――どれだけ走ればいいのだろう。

 姿勢、筋肉、肺活量、呼吸法、様々なことを試したが、改善されたのは、『はやさ』は『はやさ』でも、立ち直りの『早さ』である。3000メートルを走り終えた後、数度の呼吸で、普段通りの会話ができるほどにまで回復できる。それはそれで楽なのだが、肝心のタイムは伸びやしない。

 ここが女子としての限界なのだろうか。はたまた、高校生としての限界か。

「ううん、そんなことないよ。だって全国には、私なんかよりずっとずーっと速い人が、いくらでもいるんだから」

「……強いなあ。どうする? 1500メートルも測る?」

「測る測る。20分後スタートで。水飲んでくるね」

 そう言ってカスミは、トラックを離れベンチへと向かう。

 ふと振り返れば、どこか遠くを見ているかのような顔で、ヒロトが佇んでいる。

 誰も走っていないトラックに、彼は何を映しているのだろうか。

「……よし」

 カスミは水を軽く口に含み、ゆっくりと飲み下す。そして、

「おーい、もういいよ。始めよう」

「え、まだ10分しか経ってないけど」

「いいのいいの。まだまだ走れるし」

 ヒロトは少々渋っていたが、カスミに強引に押し切られ「……わかった」と、最後には止めることを諦めていた。

 彼は知っている。カスミは走るのが大好きなのだということを。だからこそ、止められないことがわかってしまった。

「それじゃあ、無理しない程度に。マジで」

「はいはい、了解しました。マジで」

 そして、短距離走より長く、されど感覚で言えば一瞬の――1500メートル走が始まった。


 ◆


 カスミはそもそも、中学では陸上部に所属していなかった。というよりも、陸上部そのものがなかったのである。

 では、陸上部があれば入ったのかと言えば、そうでもない。なぜなら、彼女はもともとソフトボール部所属であったからだ。

 小学生の頃は、地元の少年野球チームに混ざり毎日泥だらけになっていた。好きなだけボールを投げ、好きなだけ素振りをし、好きなだけ走った。運動神経もそこそこだったため、男子に劣ることも少なかった。

 だが中学に上がればそうもいかない。男子に勝てないことは多くなるし、女子の活躍の場は狭まる。ゆえに中学では野球部に入らず、ソフトボール部に。ソフトボール部がなければ何をしていたのだろうと、陸上部に所属する今でも思う。

 そんな彼女だからこそ、なぜ高校では陸上部に所属することにしたのか。そう問う者は多かった。

 なぜか、など、恥ずかしくて言えるわけがない。

 だからいつも、彼女は言葉を濁してこう言う。


 ――理由なんて無いよ。ただなんとなく。


 ◆


阿笠アガサ……? 阿笠? おい、阿笠ッ!!」

 800メートルを超えた頃だろうか。あと2周ほどトラックを走ればそれでゴールだったのに、急に脚の力が抜けた。

 かくり。次に全身がだるく、そして肺が苦しく、さらに頭痛までもが襲ってくる。

 どさり。顔から地面に倒れこみ、頬にピリッとした痛みを感じた。砂で切ったのだろうか。

 ぷつり。まるで、彼女を操っていた糸がすべて切れてしまったかのような挙動で、ヒロトの手も間に合わず。

「は、おい、カ――」

 途絶えゆく意識の中で、ヒロトがカスミのことを……久しく呼ぶことのなかった名で呼びかけたのを聞いた。



 幸い、命に別状はなかったという。目を覚ました病室のベッドの上、医師からの話で、熱中症と脱水症状、さらに疲労が重なってしまったのだと聞いた。

 点滴を打ち、その日のうちに退院できたものの、少しばかりバツが悪い。

 ああ、水分もう少し取っていればよかったのかな。ぼんやりする頭で考えるも後の祭り。しばらく体を休ませろとのことで、翌日、陸上を意識し走りだした日から欠かすことのなかった練習を、初めて休んだ。

「居残りして自主練してたって聞いた。……はぁ、顧問失格だな。やる気のある部員だ、と、居残りを何も考えずに許可していた。せめて傍について見てやるべきだった」

「そんなことないですよ。なんていうか、練習っていうより、自分が走りたくて走ってたっていうか……欲求不満だった? それに一人じゃなくて、ヒロトもいましたし」

「ああ、藤堂な。だいぶ気に病んでた。気にするなと言ってやりたいが、俺だってそんな状況だったら自分の責任だって思うし、なんて声をかけたらいいのやら。……って、これじゃ顧問どころか教師失格だな」

「あはは、そんだけいろいろ考えてるだけマシですよ。中学の時なんて――」

 その後も話は弾んだが、とりあえずの顔見せは済んだ。話もそこそこに切り上げ、

「それじゃあ、部の方にも顔、出してきます。特にヒロトは安心させてやらないと」

「そう、だな。うん。やっぱり俺が励ますより、お前が直接安心させた方がいい。……ああ、生徒に任せっぱなしで俺ってばもう……」

「また卑屈癖出てますよ。行ってきます」


 ◆


 走らなければ。走らなければ。

 少しでも安心させてやらねばならない。自分はまだ走れると。

 一度倒れたくらいで走れなくなるなんてことはないのだと。

 そのためには走らなければ。走らなければ。

 いくら苦しくたって、辛くたって、走らなければ。証明せねば。

 まだ走れる。

 走れる。

 ――走れるって、言っているのに。

 体の自由が効かない。自分の体なのに、まるで地面に脚が縫い付けられたかのように、重くなった脚が上がることはない。

 地面に? いいや、この脚は縫い付けられている。それは地面ではなく――過去だ。


 ◆


「ヒロトーっ!」

 カスミが駆け寄ると、それに気づいたヒロトは慌てた顔をして、

「ばかっ! 阿笠、お前走るなって言われたんだろ!?」

「別に、今くらいだったらいいじゃん。私は全力で走るのを控えろって言われたんだよ?」

「違うだろ、そうじゃないだろ。いいか、ジョッグも禁止だぞ? 今日は本当に少し足りとも走るなよ? わかったか?」

「むぅ、何様のつもり? 私は何にも縛られずに、自由に走りたいの。ヒロトにとやかく言われたくありませんし」

「マネージャー様のつもりだよ。走り過ぎで倒れたってのに、まだ懲りてないのか」

 懲りてないのか。そう言われてカスミは、まあ確かに、ちょっとストイックだったかな、なんて思う。

 これまでの自分は、どうにもこうにも、走ることに夢中で、走り切ったあとの満足感に夢中で、タイムを伸ばすことに夢中で、やはり走ることに夢中で。

おかげで色恋沙汰もなし、勉強もそこまで得意ではなく、甘いものも控え、ゲームをすることもドラマを見ることも、ましてや誰かと遊ぶなんてこともほとんどしてこなかった。

 いいや、これでも中学生まではそうでもなかったのだ。部活の後には友達と駄弁ったりして無駄な時間を過ごし、家に帰ればベッドに飛び込み漫画を読んだり。

 それが今やどうか。一時は親に心配をかけるほどにまで、走ることに打ち込んでしまっている。今回は親ではなく、ヒロトだ、という違いはあれど、心配はかけてしまっているのだろう。

「……うん、そうだね。少し懲りた。見学しようと思ってたんだけど、せっかくの休みだし、家に帰ってゴロゴロしてる」

「……ああ、それでいい」

 その瞬間に見せた、彼の、優しく穏やかな笑顔を、きっとカスミは忘れない。

 その笑顔を見るのは、カスミにとって二度目のことだった。



「あー、やってしまった」

 蒸し暑さにやられ、ちょいとジュースを買いに自販機まで行こうとした時に気づいてしまった。

 学校に、財布を忘れた。

 財布の中にはそれなりのお金が入っているし、失くすとマズいものを多々ある。面倒を押してでも取りに行かねばなるまい。

 時刻は夜七時。学校に連絡すると、陸上部の顧問が学校に残っているとのことで、事情を話し、通してもらうことになった。

 安静にしていろと言われたが、これくらいならば構わないだろう。自転車にまたがり、ペダルに体重をかける。帰ってくる時にはボーッとしていたせいで特に何も思わなかったが、これは風を感じるチャンスでもある。

 カスミは無理をしない程度に、できるだけ速く、自転車で走り始めた。

 ――風を切る感覚。ただの一日だけ感じていなかった風。頬を切るそれは、脚で走るよりも涼しく、また鋭利であった。

 しかし、満足には程遠い。

 何かが物足りず、もっと、もっとと求めてしまう。自然、自転車を漕ぐ足は意識せず速くなっていく。

 あっという間に学校に着き、職員室へ向かおうとする。きっと財布は教室にあるのだろうが、一度教師に顔を見せねば中に入れないのである。

「先生、阿笠カスミです。財布探しにきました」

「ん? ああ、わかった。スリッパ貸すから、見つけたら返しに来いな」

「はーい」

 三階にある教室に向かい、財布を確保した。よかった、と安堵の息を漏らし、ふと視線が窓の外へと向けられる。

 虫? 小さな何かが窓の外で動いているように見え――それが勘違いであることに気づく。

 それは空を飛んでいるのではなく、地を走っていた。陸上部員だろうか。しかし、こんな時間まで居残り練習をするような部員はカスミくらいしか覚えがない。ようやく日も沈もうかという、午後7時前のことである。

 誰だろう。教室から乗り出すように目を凝らし、それが、カスミのよく見知った顔であることを知る。

「……っ!?」

 カスミは病み上がりであることも忘れ、教室を全速力で飛び出した。途中でスリッパが脱げたが知ったことではない。裸足のまま外に出て、校庭に足を伸ばす。

「――ヒロト!」

 そこには、カスミから見ても不格好に、姿勢も何もあったものじゃなく、めちゃくちゃに走るだけの藤堂ヒロトがいた。

「なに、なにやってんの、なにしてんの!?」

 カスミの声を聞くと同時、ヒロトは疲れ果てその場に寝転がった。胸は大きく上下し、全身が汗で濡れそぼっている。ただのマネージャーである彼が、どうして走っているのだ。

 どれだけ走ったのか。脚が痙攣を起こしている。

 ひゅーひゅーと風が抜けるような呼吸を繰り返し、何か言葉にしようとしているのだが、それだけの気力もなさそうだ。

「水持ってくる。立てる? 立てるなら立って、寝ないで、座らないで! 歩きながらゆっくり呼吸して!」

 それだけ言い置き、カスミは水を取りに水道へと走る。ああ、しまった。何か水を入れるもの。――探すのも面倒だ。

 この時のカスミは、自分でも正常な思考ができていなかった。

 蛇口を捻り、そこから溢れる水を両手にすくう。溢れる前にと、なるだけ速くヒロトの元へと急ぎ、

「飲んで!」

「……は?」

 どうにか起き上がることはできたものの、まだ立つことは難しそうなヒロトへとその両手を差し出した。

「飲んで」

「……いや、落ち着、け?」

 呼吸の合間に告げるヒロトは戸惑っているように見える。いくらなんでもそれは無理だ、と、疲れ果てた顔に書いてあった。

「いいから、飲んで。早くしないとこぼれちゃう」

「も、こぼれて……じゃん」

 はっと気づき己の両手を見る。すると確かに、ヒロトの指摘通りその両手に水は残っていなかった。ただ無意味に濡れた手だけがある。

「そんなことしなくても……俺は大丈夫だから」

「大丈夫に見えないよっ。ヒロト、走れないのに――」


「走れる」


 カスミの言葉を遮り、いささか呼吸が楽になってきたのか、それまでの弱々しい声ではなく、力強く、その言葉を口にした。

 走れる。

 ……かつてのヒロトが口にしたのとは、真逆の言葉。


 ――もう、走れなくなっちゃったんだよ。


「俺は走れる。走らなきゃ。走るんだ。走って、走れば、走れる」

 立ち上がり、ヒロトはまたも走り始める。

「え、ちょっと、走るのッ!?」

「もう十分休んだよ。呼吸は整ったし、大丈夫、大丈夫」

 そんなわけがない。疲労で脚が痙攣するほどに走った後なのだ。しっかりとストレッチをして、もう休むべきである。

 何より、普段から走っていない人間がそんな無茶をしては、体が壊れてしまう。

「壊れないッ!」

「え……?」

 だというのに、ヒロトはまるで何かに取り憑かれたかのように走ろうとする。それはストイックでもなんでもない、ただの無茶無謀だ。

 いったい、どうしてそこまでして走ろうとするのか。

「俺は走れる……そうだよ。もうあれから2年だ。それだけの間、まったく走らなくても、走れなくても、走れるんだよ。だから、」

 その後に続いた言葉で、カスミはヒロトの真意を知った。


「俺が走れるんだから、阿笠が走れなくなるなんてことは、ない」


 ◆


 かつて、ヒロトは長距離ランナーのエースだった。小中と陸上部は存在しなかったが、月一で行われる校内マラソンで結果を出し、陸上大会や駅伝大会の選手に選ばれて。陸上大会の長距離種目ではいつも上位に食い込み、駅伝大会では区間賞を取らなかったことがない。子供の頃から、短距離走が遅い割には走るのが好きだったヒロト。それゆえに、長い距離を走って走って走り続けて、いつしか本人でも信じられないほどの体力を得てしまった。

 もっと速く、もっと速くだ。

 短距離ではどれだけ勝てなくとも、もっと長い距離なら負けない。

 最良のペースを、最善の足運びを、最高の走りを。

 それだけを求めて、小学校、中学校と長距離走に青春をかけてきた。

 しかし、中学三年生の夏。陸上大会も終わり、駅伝大会に向けて練習していた時だ。すでに大会2週間前。その年は例年以上に気温も湿度も高く、特に気をつけねばいけなかった。だがヒロトは走ることに夢中で、どうしたって走ることをやめられなかった。

 暑かろうが寒かろうが、走っている間はそんなこと気にならないから。

 そしてヒロトは、熱中症や脱水症状、様々な要因の中でも、特に疲労から倒れてしまう。まるで今回のカスミのように。

 それ以来ヒロトは、ぱったりと走れなくなってしまった。

 大した後遺症もなく、特別重大な症状だったわけでもないのに、ぱったりと。

 何度も走ろうとして、その度にすぐ苦しくなって。段々とその感覚は酷くなり、気づけば3秒も走れば立っていられなくなるほどになってしまった。

 駅伝大会に参加するも無残な結果に終わり、そのことがショックで陸上からは綺麗さっぱり脚を洗った。

 そう言いつつも、高校では陸上部のマネージャーになったあたり、未練はあるのだ。それを本人も自覚していて、しかし中学時代の彼を知っている者は、誰も触れない。

 カスミはそんなヒロトの経歴を知っていた。


 ◆


 まさかとは思うが、ヒロトは己が走ることで、カスミを勇気づけようとしているのだろうか。自分のせいだと責め、償わなければと思っているのだろうか。

「走らなきゃ……少しでも長く、少しでも速く」

 震える脚で、一歩一歩前進する。とても走っているとは言えず、また歩いているとも言えない。脚を引きずっているのだ。今にも両手が地面に着きそうなのだ。そんな状態で無理して走って、何になると言うのだろうか。

 ――証明。

 いつのことだったか。ヒロトは「頑張るのは嫌いだ」と言っていた。ただのポーズ、かっこつけかと思っていたが、「どれだけ頑張ったって、無駄になっちゃうんだから」との一言により、その心中を察してしまう。

「言ってたじゃん……頑張るのは嫌いだって」

「走れれば……少しでも走れるって証明すれば、結果は出る。無駄にはならない」

「無駄にならなきゃ、どんなに苦しくても、辛くても、頑張れんの?」

「うん」

「……やっぱりわかんない。どうしてそこまでするの」

 自分が言えた義理ではないと思いつつも、口をついて出てしまう問い。その問いに、ヒロトは――、



「俺、カスミが走ってるとこ見るの、好きだったんだよ」



 力強い一歩を返答とし、走り出した。

 ただの虚勢、ただの意地。動かないはずの脚を気持ちだけで動かし、されどヒロトは確かに走っている。

 1歩、2歩、3歩。

 カスミはその背中に、かつての影を見た。

 中学三年生の春。陸上大会で見た、カスミが走ることに憧れるようになった、そのキッカケ。

 汗だくで、苦しそうで、でも楽しそうに走るその背中。

 カスミが好きだった、その背中が。

 今、カスミの前にあった。

「――っ、あ、」

 しかしそれも長く続かず、またヒロトは転んでしまう。砂まみれになりながら、辛そうな顔をしながら、

「は、はは」

 笑っていた。

「ヒロトっ!」

「はは、ははは。……カスミ、お前は走れるからな。お前がトラックに戻ってくるまで、俺がそれを証明するから。数秒しか走れなくても、走るから。走るから――」

 その後、いつまで経っても戻ってこないカスミを探しに来た顧問によって、ヒロトはひとまず保健室に運ばれ、その後救急車で病院へと連れて行かれた。


 ◆


 そんなことがあったのが高校2年生の夏。そして今、高校3年生の春。

 眼前に伸びる、白線で句切られた朱色のレーン。しかしこの競技において、白線は意味を為さぬ。スタートと同時、ざっと16人ほどが一気に、ぐちゃぐちゃに入り乱れる。そこからいかに抜け出すか、そもそも飲み込まれないようにするかが肝である。

 短距離も長距離も、スタートが肝心なのは変わらないと言うことだ。

『――1500メートル、選手紹介。南高校三年、――』

 真っ先に呼ばれる己の名前を耳にしつつ、1番にゴールする情景を思い浮かべる。前には誰もおらず、自分が真っ白なゴールテープを切る姿だ。それは少し、現実味に欠けた想像だけれど。

 走り終えた時にはきっと、1番だろうがビリだろうが、走り切ったという満足感を得られるだろう。

 だから走る。その満足感を求めて、頬を切る風を求めて。

 誰よりも走ることを楽しむために。

『オン・ユア・マーク――』

 鳴り響くピストル。走りだす16人。自分はその内の一人。

 さあ、走ろう。

 走ろう――。


 ◆



 その背中が、好きなんだ。

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長距離ランナー 三ノ月 @Romanc_e_ier

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