10「やっぱりマゼルちゃんが一番」
マゼル誘拐事件から数日後。あれからこれといった事件も起こっていない。俺はいつもどおりの日常に回帰し、いつもどおりの学園生活を満喫していた。
「トータさん、トータさん。今日はバターにします? それともジャム?」
こんがりきつね色のトーストを皿に乗せたエロイーズが目を細めて問いかけてくる。
俺は寝癖のついた髪をわしゃわしゃやると、指先でジャムの瓶をつついた。
エロイーズのやつも心得たもの。
彼女は無言で微笑むと甲斐甲斐しくもトーストにイチゴジャムを塗りはじめる。
「はい、トータさん。いっちょあがりですっ。朝なんで糖分たっぷりとってくださいね」
「ん。エロイーズちゃん、ママはマーマレードかな。ママだけに」
エロイーズの実母カテリーナが元気に手をしゅびっと上げているが、まったくもって無視されていた。
「マゼルはなんにするのー?」
エロイーズはカテリーナを一度も見ずにマゼルの世話を焼いていた。
「マゼルはね、さとうみずっ」
「……って、わたしの意見は無視ですか。はいはい。なーんでこんなにかわいくない娘に育っちゃったのかしらねぇ。トータくん」
「いや、ていうかさ……。帰れよ」
俺はカテリーナママにそういうと、ジャムでだるくなった舌を冷たい牛乳で洗った。
「酷いっ! 義理の母に向かってその暴言っ。すっごく酷いこといわれたっ! ああん、トシユキさぁーん」
「ははは。おいおい、藤太。カテリーナさんをイジメちゃダメだぞぉ。すいませんね、こいつ我が息子ながら最近反抗期みたいで」
「ううん。でも、わたしが悪いところもあるかもですからぁん」
父は、エロイーズの実母であるカテリーナさんがしなだれかかっても脂下がるだけだ。
なんというか、我が父ながら見てらんない。
たまには後方も確認しろよ。
母が鬼のような形相でアンタらの痴態を眺めているから。
しかし、白人女性に激しい憧憬を覚えていた父が、半ば強引に我が家に住み着いたカテリーナママを追い出せるわけもなく、藤原家は現在進行中で滅亡の危機に瀕しているといっても過言ではない。
なにせ娘にあれほどの卑猥なコスチュームを着せるような淫魔の鑑である。
どう見ても、二十代にしか見えない(実年齢は父より上であると確認済み)女が、スイカのような胸を半分丸出しにして家のなかをうろつき秋波をそれとなく送ってくれば、煩悩の犬である父が毅然とした態度でふるまえないのも自明の理であった。
「トータ、トータ」
「ん、なんだ?」
隣で皿に張った砂糖水へと懸命に千切ったパンを浸しているマゼルがにこっと笑った。
彼女は無邪気だ。
屈託なく笑っているマゼルを見れば、朝のけだるい気分も吹き飛んでしまう。
「パン、おいしいねぇ」
「うん。よく噛んで食えよ」
なにか宝物を見つけたように教えてくるマゼルの頭を撫でる。
彼女はくすぐったそうな顔をして仔犬のようにくふんと鼻を鳴らした。
「ん! マゼル、いっぱいたべて、もっともーっとおっきくなるんだっ!」
マゼルは豊かな胸を両手で持ち上げながら「にひひ」と白い歯を見せる。
父母はその仕草を見ながら苦笑しているが、それはエロイーズの幻術でマゼルが幼児に見えているからであり、実際は倫理委員会からクレームがつくほどの淫猥さだ。
無論、俺からすればなんら問題はないが、にこやかにしていたエロイーズの角がきらりと光ったような気がして、ちょっと心落ち着かなくなる。
「これ以上大きくなられたら私の立つ瀬がないんですがねぇ」
エロイーズはマゼルの発達した胸を見て、らしくなくはぁとため息を漏らした。
おまえはそんなもんに危機感抱くなよ。
「マゼルよ。ママは、おまえがそのままのほうがかわいいってよ」
「うー?」
「トータさん、トータさんっ。私はっ! 私はっ?」
「おまえはちょっと化粧品買い過ぎだな。洗面所、今に雪崩が起きるぞ」
「んうー。女の身だしなみなのにぃ……」
とかなんとかやっていると、玄関のチャイムがぴんぽんぴんぽん鳴り出した。
「あぁ、もおおっ。せっかくの夫婦の団欒なのにぃ」
エロイーズが唇を尖がらせてブーたれる。
たぶん、ちろるが到着したのだろう。
時計を見ると、もうそれほど余裕はない。
「よっし、マゼル。スピードアップだ!」
「うん。にゃあああっ!」
俺が煽るとマゼルは残っていたヨーグルトを一気に掻きこみはじめた。
たちまちエロイーズが目を三角にする。
「マゼルっ。あんたは学校行かないから関係ないでしょーにっ!」
「んん、んぐふっ。マゼル、トータのおみおくりするんだもんっ」
朝食の掃討戦に四苦八苦するマゼルを置き捨て玄関に向かうと、ちろるがハコフグのように頬をぷくっと膨らませておかんむりのご様子だった。
「もうっ。遅いよ、トータくん。早くしないと間に合わないよっ」
「そうですねトータさんっ。それでは、しばし別れのベーゼを……んむっ!」
そこはキス魔と化したエロイーズを警戒していたちろるだ。
彼女は俊敏な鷲のように素早く襲いかかるが、負けじとエロイーズも両手で掴みかかる。
ふたりはレスラー同士のように、玄関前で互いの両手と両手を組み合わせ、いわゆる手四つの型を取り力比べをはじめる。
君たち年頃のお嬢さんですよねぇ!
「トータっ!」
「うわっと」
その隙を縫ってようやく朝食を完食したマゼルが胸に飛びつき、考える間もなく唇を合わせてくる。
んなっ! と争っていたふたりが叫び声を同時に上げるが、ことはすべて終わっていた。
マゼルのそれは小鳥がついばむようなかわいらしいものだ。
とても目くじらを立てるようなものではないと思うのだが、人にそれぞれ感じ方とうものがあるのだろう。
「いってらっしゃいっ」
燦々と降りそそぐ陽光のなか、はちみつ色の髪をなびかせた小さな妖精が白い歯を輝かせて微笑んだ。
俺の気分はいつになく上々だった。
エルフィング☆えくすぱんしょん 三島千廣 @mkshimachihiro
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