桜色の二律背反

秋桜ヒロロ / 桜川ヒロ

桜色の二律背反

 私は春が嫌いだ。

 暑苦しい夏よりも、落葉の切ない秋よりも、痛いぐらい寒い冬よりも、私は桜舞い散る春が嫌いだ。

 そして、それと同じぐらい私は春が愛おしい。


 彼女と出会ったのも、思い返せば春だった。


 私が経営する小さな会社に彼女が新入社員として入ってきたのが最初だった。その年の新入社員は彼女一人だったのだが、彼女は持ち前の明るさと気立ての良さで、すぐに他の社員と仲良くなったのを今でも鮮明に覚えている。


 当時の彼女の印象は単なる『気さくな子』で、彼女はどうだったか知らないが、私の中では彼女に対する特別な感情は皆無に等しかった。


 しばらくして、彼女と私の間に少しの変化が訪れる。彼女が私の会社に入社して三年目の春だった。

 社員達と毎年恒例の花見をしている時、少し離れて皆を見ていた私の所に彼女はやってきた。

 隣に座り、私の空いたグラスに缶のビールを注ぐと、彼女はゆっくりと微笑んだ。

「花、綺麗ですね」

「……そうだな」

 それが最初の個人的な会話だった。

 彼女は、はにかみながら私の隣でちびちびとビールを飲む。頭上には満開の桜、隣には赤い顔をした彼女がいて、私は雰囲気に飲まれるように彼女に恋をした。


 最初のデートは少し高めのフランス料理店にした。渋々といった感じで付き合ってくれた彼女は出てきた料理をとても美味しそうに、でも少し不満げな顔をしながら食べる。

「何か気に入らないものでもあったかい? やっぱり無理に誘ったのが悪かったかな?」

「いいえ、最初に断ろうと思ったのは畏れ多いと思っただけなので、誘ってもらえた事自体は純粋に嬉しいです。ありがとうございます」

 そう返す彼女の表情はやっぱりどこか不満げで、私は首を傾げる。彼女はそんな私を見て、眉を下げながらおかしそうに笑った。

「どうして笑うんだい? 何かおかしな事でもあったかい?」

「おかしな事は何も。ただ、社長みたいな方が私の言動に一喜一憂するのが面白くて……。あの、失礼でしたか?」

「いや。私はそんなことぐらいで怒ると思われているのかい? それなら私は社員達に対する言動を改めないといけないな」

「改めなくても大丈夫ですよ」

「なぜ?」

「念のために聞いただけですから。そんなことで社長が怒るだなんて露ほどにも思っていません。社長はいつも私たちに優しいですし、社員全員、社長の事を慕ってますよ。もちろん私も」

「……それはよかった」

 とてもいい笑顔でそう言われて、柄にもなく胸が熱くなった。

 私が彼らにとって良き社長であるのだと言われた事も勿論嬉しかったのだが、それ以上に彼女に『慕っている』と言われたことの方が喜びが大きかった。

 それが男女としての情ではなく、ただの上司に対するものだとしても、私はたまらなく嬉しかったのだ。


「また誘ってもいいかな?」


 帰り際、彼女にそう言った。

 これで断られるようなら望みは薄いだろう。彼女とは上司と部下として、これからも良き関係でいたい。断られるようならきっぱり諦めようと、そんな気持ちで私はその言葉を口にした。  


「今度は私が場所を決めても良いですか?」


 少し迷うようにそう発した彼女の言葉に、どれだけ私の心が躍ったのか彼女は知っているだろうか。

 小躍りするような気分でうちに帰り、その日は君を思いながら眠りについた。


 次のデートは全て彼女が決めた。待ち合わせはあの日の桜の木の下。広い公園の中心にあるその木に花はもうほとんど残っていなかった。


「遅れてすまない」

「大丈夫ですよ。さ、行きましょう」


 仕事で少し遅れた私に恨み言の一つも言わずに彼女は私の手を引く。たどり着いた先は公園が一望できる小高い丘の上で、彼女はそっと芝生の上に腰を下ろした。私もそれに倣う。

「ここ、私のお気に入りの場所なんです」

「綺麗な場所だ。ここからだとまだ桜が見れるんだな」

「全体がうっすらとピンク色ですもんね」

 眼下に広がる桜並木は緑が多いながらも、まだ全体がピンク色だ。ここは下よりも少しだけ長く桜が楽しめるらしい。

 彼女は私に缶コーヒーを渡し、自分も同じ物を口にした。ほっと息をつく彼女は少し微笑んでいる。

「君はこういうところが好きなんだな」

「美味しいフランス料理も勿論大好きですよ。でも、緊張しちゃうので……。私は畏まったフランス料理やイタリア料理より、その辺のラーメンとかファミレスのハンバーグとかが好きなんです」

 幻滅しましたか? と笑う彼女に私は首を振った。

「それは良かった」

「え?」

「君を誘える場所が増えた」

 その言葉に彼女は顔を真っ赤にして照れたように笑った。その顔が妙に愛おしく思えて、気がついた時には彼女と唇を合わせていた。

 

 程なくして、私たちは付き合い始めた。


 待ち合わせはいつもあの桜の木の下。

 当時、小さかった私の会社は急成長を始めていて、私も比例して忙しくなっていた。そのせいで待ち合わせ時間に遅れることもしばしばだったのだが、彼女はいつも微笑みながら待っていてくれる。


「貴方に待たされるのはもう慣れっこです。それに待つのも嫌いじゃないの」


 そんな風に彼女はいつも私を許す。


 肩肘の張らないカフェや居酒屋で、時には私が借りてる家で、私たちは何度も逢瀬を重ねた。

 私は彼女に愛の言葉の一つも囁かなかったし、彼女も私にそれを求めなかった。けれどどうしようもなく、彼女に想いを伝えたくなった日は決まっていつもの桜の木を見上げながら、彼女にこう言うのだ。


「今日の桜も綺麗だね」


 彼女は赤い顔で俯きながら「そうですね」と口にする。

 桜が咲いている咲いていないに関わらず、私はそうやって彼女に想いを伝えた。


 何年そうしていただろうか?

 きっかけは彼女の体調の変化と共にやってきた。


「赤ちゃんができたみたいなの」


 彼女のその言葉に私は飛び上がるほど喜んだ。

 そしてその日のうちに彼女の親に承諾を貰い、私たちは駆け込むように入籍をした。向こうの親も突然の事に驚いたようだったが、何とか殴られることもなく私は彼女を妻とした。

 プロポーズの言葉は無かった。けれどやっぱり彼女は何も言わずにただ満足そうに微笑んでいた。

 腹部を愛おしそうに撫でる彼女はどんな神よりも神々しく見えて、私はその度に彼女を抱きしめ一緒に腹部を撫でた。

 幸せを具現化したような日常に私は浮かれていた。相変わらず仕事も好調で忙しかったが、私は毎日早々に仕事を片づけて彼女の待つ家に帰る。


 私にとって彼女のいる家は楽園だった。


 しばらくして、彼女の悪阻つわりが酷くなった。一日中トイレに籠もってしまう事もしばしばで、食事もろくに喉を通らない。見る見るうちに痩せていく彼女を慌てて病院に連れて行くと、医師に一週間の入院を言い渡された。


「私は君が居なくなってしまうぐらいなら子供なんていらない」

 

 単なる栄養不足で命に別状があるわけではなかったのだが、不安に駆られた私はそんな言葉を口にした。

 彼女は困ったように眉を寄せて「そんなこと言わないで」と私を窘めた。点滴が刺さってない方の手で私の握りしめた拳を撫でながら、彼女は言葉を紡ぐ。

「私は産みたいわ。どんな状況でも。貴方と私の子ですもの」

「……でも私は、君の方が大切だ」

「ありがとう。でも大丈夫、私は貴方の側から居なくなったりはしないわ。この子が幸せになるまでちゃんと見届けたいもの。あぁ、早く抱きたいわね」

 彼女は腹部を撫でながら染み入るようにそう言う。私も同じように彼女の腹を撫でた。まだあまり大きくなっていないそこに、自分の子供が入っているかと思うと不思議でたまらない。

「居なくならないと約束してくれるかい?」

「勿論」



 そう笑った半年後、彼女は約束を破った。

 医師の話では子供を出産する際に脳の血管が切れて、そのまま帰らぬ人になったそうだ。


 煙突から立ち上っていく彼女だった煙を、私は一人眺める。涙は流れなかった。よく状況が飲み込めなかったからだ。

 彼女が死んだだなんて理解できなくて、私はその煙を人事のように眺め、他人の骨を拾うような思いで彼女を骨壷に移した。喉仏だと渡された小さな骨は別の小さな壷に移して、一回りも二回りも小さくなった彼女を、私はそっと抱き上げた。


「ずいぶん軽くなったな」


 彼女は何も返さない。


「これなら産まれたばかりの由梨の方が重いぐらいだよ」


 やっぱり彼女は何も返さない。


「皆君が死んだと言うんだ。こんなに温かいのに、どうしてだろうね?」


 骨壺を抱きしめるとほのかに温かい。それが先ほどまで彼女が炎の中に居たからだと、理解してはいるのだが、心がその考えを否定する。

 最期の体温を貪るように抱きしめて、私は家路についた。もうただ眠りたかった。眠って全てを忘れたかった。


 玄関の扉を開けると、泣き声が聞こえる。

 小さな命が懸命に生きようとする声だ。


 私は彼女を抱いたままその声のする方に駆けだした。壊れるんじゃないかというぐらいの勢いで扉を開けて、その光景に息をのむ。

「おかえりなさい」

 その言葉に、一瞬彼女が戻ってきたのかと錯覚をして、瞬き一つで幻想が現実に立ち替わる。

 泣き声の主はそこにいた。家政婦の腕の中で何かを探すように首を懸命に動かして泣いていた。

「お腹が空いたのかしら。さっきミルクをやったばかりなのに」

 あらあらと困ったように笑い、家政婦は赤子をベットに寝かせて、ミルクの支度を始める。

 私は驚かさないようにそっと赤子に近づいた。

「由梨、お母さんだよ」

 骨壺を掲げて由梨に見せる。由梨はぴたりと泣くのをやめて食い入るようにその骨壺を見つめた。

 まだあまり見えていないその瞳で、由梨はじっと彼女を見る。

「お母さんだよ。もう由梨を抱くことも出来ないけれど、お乳もあげられないけれど、これが君のお母さんだ。お母さんなんだよ」

 何度も、何度も、自分に言い聞かせるように由梨に話した。

「お母さんを幸せに出来なくてごめんな。由梨に会わせてやれなくてごめんな」


 火がついたように泣きだした由梨と一緒に、私は彼女が死んで初めて泣いた。



 葬儀も終わった数日後、私はまたあの桜の木の下に立っていた。

 ポケットから小さな骨壺を取り出す。その蓋を開けて彼女の喉仏を取り出した。ぐっと力を入れてそれを握ると、喉仏は少し砕けて粉になる。大きなかけらはそのまま骨壺に戻し、粉のようになった彼女の骨を木の下にそっと撒いた。


「ごめん。私が行くまでそこで待っててくれるかい?」


 風が吹いて桜の木を揺らす。降ってきた花びらに私は顔を上げて、その時初めて桜が咲いているのだと気づいた。


「今日の桜も綺麗だね」


 散々泣いたというのに、涙がまた溢れてくる。


「愛しているよ。桜」


 はじめての愛の言葉だった。

 息が出来ないほどの胸の痛みに蹲ると、まるで彼女の手のように風が私の涙を浚っていった。


 それ以来、私は春が嫌いになった。

 桜を連れていった春がたまらなく憎たらしい。

 春になると彼女の名前と同じ文字が店頭に沢山並ぶのも気に入らない。嫌でも彼女を思い出してしまうじゃないか。

 でもそれ以上に、彼女と出会った春が私は愛おしい。娘に会わせてくれた春に感謝したかった。


 相反する二つの感情を私に与えたまま、季節は何度も私に春をつれてくる。



 それからの私は前にも増して仕事に打ちこむようになった。桜の忘れ形見を彼女の分まで幸せにする為に、私はがむしゃらに働いて会社をどんどん大きくした。

 子供の教育にはお金がいくらあっても足りないと聞くし、娘の身の回りの世話は家政婦がやってくれる。なので、私に出来る事はそれぐらいだと思い、私は娘の心の中を省みることもせず仕事に打ち込んだ。

 そして、打ち込むほどに娘の心が私から離れていっているのだと気がついたのは、彼女が高校生になってからだった。

「由梨、今日三者面談だったよな?」

「お父さんは仕事が忙しいんでしょう? 来なくて良いから」

「……あぁ」

 この時にもっと食い下がっていれば何か変わっていたのかもしれない。今考えると、そう思わずにはいられないが、思春期の娘の扱いに不慣れな当時の私には、何が正解で何が間違いなのか判断が付かなかったのだ。

 娘の心が離れていくのを理解しても、私にはどうしたらいいのか解らなかった。

 ただ毎日仕事に打ち込む。娘を幸せにする為に仕事をしていたはずなのに、いつの間にか目的はすり替わり、娘を避ける口実に私は仕事に打ち込んだ。

 時間が解決してくれる。そんな甘い幻想にかまけて、私は娘と向き合わないまま虚しく時間だけを積み重ねた。

 

 それから数年後、娘も年頃になり“結婚”の二文字が現実を帯び始めた。私は娘が幸せになるのなら誰と結婚しても良いと思っていたのだが、大きくなりすぎた私の会社とその周りはそうもいかなかった。

 私の会社目当てやコネを作りたいが為に娘に近づく者が出始めたのだ。

 本当に娘を愛してくれるなら、幸せにしてくれるなら、彼らでもいい。しかし、きっと現実は違うだろう。娘を仕事の道具として使う気は私には全くなかった。


 そんなある日


「跡取りを産めば満足なの?」


 久々に娘から声をかけてきたと思ったら、大量の写真を投げつけられた。散らばったその写真の裏には簡単なプロフィールが書き添えられている。

「これは?」

「一週間前に秘書さんが父さんからの贈り物だと言って持ってきたわ。最悪の贈り物ね」

 何も知らなかった。頭が真っ白になる。呆然とする私をよそに娘は一人の男の写真を私に突き出した。

「彼にします」

 写真の中の睨みつける男と目があって、私は弾かれるように「知らない!」と叫んだ。

 何度も、知らなかったのだと、秘書が勝手にやったことだと話しても、娘が私の言葉を信用する事はなかった。

「こんな結婚をしてほしい訳じゃない!」

「そうでしょうね。彼の写真は一番下にあったもの」

 意味が分からなくて、悔しくて、何度説き伏せても娘の意志が変わることは無かった。


 そして、会社のしがらみに巻き込まれるように娘は結婚した。


『貴女を愛せるとは思えませんが、それでもよければ』


 娘の結婚相手の男が言い放った言葉だ。

 ふざけるな! とつかみかかろうとしたのを周りに止められ、私は情けなくて涙が出そうになった。

 何でこんな男に娘を差し出さなくてはならないのかと気が狂いそうになる。

 それでも、もしかしたら……と淡い期待が胸にあったのも事実だ。

 時間が経てば、長い間一緒にいれば、情というのは芽生えるものだ。もしかしたらそこから二人に愛情が芽吹くかもしれない。


 しかし、その淡い期待も早々に打ち砕かれることとなる。

 娘が結婚をして一年と少しが経った頃だ。

 たまたま別の用事で娘に電話をかけた時、そっと娘に聞いてみたのだ。

「昌弘君とはうまくいっているか?」

『うまくいくもなにもないわよ』

「子供はできたか?」

 由梨には子供を抱かせたかった。

 桜ができなかった事を由梨にはさせたかった。


 なので私はいつもそんな風に聞いてしまう。『早く子供を……』とせっついてしまう。

 子供を産むことだけが女の喜びだとは思っていないが、喜びの一つの形だとは思っていた。

『出来る訳ないでしょう? 寝室だって彼の要望で別々なんだし、これからも出来ないと思うわ』

 その言葉に目の前が真っ赤になった。

 もう結婚をして一年も経つというのに少しの情も沸いていないのか。あの男はやっぱりダメだ。そう思い、私は娘を奪い返す為に単身彼らの家に乗り込んでいった。


 結論から言おう。私は安心した。


「僕は彼女を抱く気はありません。僕は彼女を愛せませんし、彼女もそんな僕に抱かれたいとは思わないでしょう。女性は子供を産むための道具ではありません。そういう為に僕と彼女を結婚させたのなら、選択を間違えたのはそちらです。今すぐに離婚をさせて彼女をちゃんと愛してくれる人のところへ嫁がせてあげてください」


 彼が私に言った言葉だ。

 突っぱねたような言葉だったが、娘への配慮が見え隠れするその言葉に、私は思わず押し黙ってしまった。本人は気づいていないのかもしれないが、彼の中で娘に対する情は確かに育っている。それならいいのだ。愛してくれるのなら、ちゃんと由梨を愛してくれるのなら……。


 すごすごと玄関から出て行く時、珍しいことに娘に声をかけられた。

「今度はちゃんと事前に言ってから来てね」

「また来てもいいのか?」

 驚いたようにそう聞くと、由梨はばつが悪そうに眉を寄せてそっぽを向いた。

「今日みたいに怒鳴り散らさないなら……」

「わかった。ありがとう」

 娘は結婚して少し丸くなったように思う。以前の彼女なら、もう来るなと怒鳴られていただろう。まぁ、私がしたことを考えれば当然の判断なのかもしれないが。

「あと、子供は……」

「いいんだ。お前が幸せになってくれるなら子供なんてどうでも」

 そう微笑めば、由梨はびっくりしたように瞠目した後、ゆっくりと頷いた。


 それから少しずつ、今までの蟠りを溶かすように娘と話す回数が増えた。見えない壁はまだお互いの間に立ってはいるけれど、もうすぐ壊せそうな気がした。


 ゆっくりとも、早くともとれるスピードで、時間は流れた。

 娘夫婦は上手くいっているのかいないのかよくわからなかったが、夫のことを話す娘の顔がとても穏やかだったので、良い方向に転がり始めたんだろう。そう思いたい。

 

「桜、昨日は由梨と話をしてきたんだよ。私が不甲斐ないばかりに由梨には寂しい思いをさせてたみたいだ。もちろん謝ったけれど、まだ信用は取り戻せていないみたいだ。……私はダメな父親だな」


 桜の月命日や、何か報告したい出来事があった日には、私は毎回あの桜の木の元を訪れる。墓に見舞うより頻度が多いのは、そこで彼女が私が来るのを待っているような気がするからだ。

 いつもの調子で隣にいる彼女に話しかけ、私はそばに腰を下ろす。


「早く君のところへ行きたいな」

 

 ぽつりと漏らした本音は風の音に掻き消えそうなほど小さくて、私は思わず苦笑した。


「こんな弱気な事を言ったら君に怒られるね。でもね、最近本当にそう思うんだ。娘は立派に育ったし、会社も大きくなりすぎるぐらい大きくなって、私はもう此処でやることがないんだよ」


 残っているのは、ただ君に会いたいという願いだけ。もう何年も何十年も会っていないのだ。会ったらなんと言おう。まずは謝ろうか。君も娘も幸せに出来なくてすまなかったと。


 その時ふと気がついた。


 風がひどく凪いでいる。


 少し嫌な予感がした。予感と言うより、これは何だろう。焦っているのだろうか。

 

 なぜ?


 何に?


 自然と心臓が早鐘を打つ。

 同時に携帯電話が私の懐で鳴り響いた。表示されている名前に私は息をのむ。

『由梨』

 私は深呼吸をしてその電話に出た。

 そして、先ほどの感覚が所謂“虫の知らせ”なのだと理解した。


『娘さんが事故に遭いました』


 電話口の向こうでそう言った警察の言葉に、私は取るものも取らずに駆け出した。心臓がうるさいぐらいに私の中で暴れ回る。

 脳裏に蘇えるのは桜の最期の姿で、それが娘と重なって猛烈な吐き気を催した。それを何とか堪え、私は病院を目指す。


 そして、汗だくで走ってきた私を迎えたのは、沢山の管に繋がれた娘の姿だった。


 由梨は植物状態になってしまった。


 娘の側には常にあの男がいた。娘の夫だ。甲斐甲斐しく娘の世話をする姿に私は思わず目をそらした。痛々しいまでの愛情は見ているこっちまでもが苦しくなる。

 最初は彼と一緒に娘の世話をしていたのだが、その痛々しい姿に妻を失った当時の自分が重なりはじめてからは、彼を避けるように私は娘の元へと通った。

 私が娘に会いに行くのは彼が帰った夕方で、何も発することなくただ二人で過ごした。時には額や頬を撫でたりもしたが、何も反応しない娘に私の胸は締め付けられるように痛んだ。


「桜、由梨を助けてやってくれ」


 私は何度も、何度も、縋るような気持ちであの桜の木の下に通った。連れて行くなら代わりに自分をと、何度願ったか知れない。桜が由梨を連れて行くわけがないのだが、その時の私はそう思うことでしか自分を保てなかった。


 由梨が目覚めないまま、二年の時が過ぎた。


 その頃の私は心労が祟った所為か体調が芳しくなく、娘の所にも桜の所へも通えない日々が続いた。

 久しぶりに体調が良い日、私は桜の所へ寄ってから、娘の病院に様子を見に行く。ついでに私の体調を見てもらおうとも思った。

 娘がいる病室の付近にさしかかると、なにやら看護士が忙しなく動いているのが目に入った。看護士の一人が私を見止めて焦ったように声をかけてきた。


「お父さん、今娘さんが!」


 私はその言葉に彼女の病室に駆け込んだ。心臓があり得ないほどの早鐘を打つ。瞬きをする度に瞼の裏に映るのは桜の死に顔。


「由梨っ!」


 叫びながら病室の扉を開けると、そこにいた娘と目があった。


 目があったのだ。


「……由梨?」


 確かめるようにもう一度娘の名を呼ぶ。ベットの上の由梨はその大きな瞳に私の姿を映してそっと困ったように微笑んだ。

 ベットの隣には彼女の手を握りしめながら俯く彼女の夫の姿。震えてる肩から泣いていることは明白だった。

 鼻の奥がひどく痛む。ツンとした痛みと喉にせり上がる嗚咽。胸に広がる安堵は私の心臓を苦しいぐらいに締め上げた。

 私は慌てて娘に背を向ける。


「また後で来るから」


 そう言った声は鼻にかかってしまう。

 私は屋上に駆け込み、声を上げて泣いた。『ありがとう』と何度も、何度も、誰かに礼を言う。

 それはきっと桜に言った。彼女がきっと由梨を連れ戻してくれたのだ。そうとしか思えなかった。

 嗚咽が収まった所で私は由梨の病室に戻った。由梨はまたベットで瞳を閉じていた。彼女の隣にいる昌弘君に声をかければ、また眠ってしまったらしい。

 医師の話だと単なる睡眠だろうとのことだ。また植物状態に戻ったわけではないとわかって、私はひとまず安心した。

 由梨の手を愛おしそうに撫でる昌弘君の姿に何故かとてもいたたまれなくなって、私はその足でもう一つの目的である内科を目指す。

 由梨がまた起きるまでの時間つぶしだ。

 それに、若い二人の邪魔をする気にはどうしてもなれなかったのもある。


 そして、暇つぶし先で医師は私に余命を告げた。


「残り二年だそうだ。足掻くのもあれだから治療は遠慮してきたよ」


 私は桜の木の下で彼女にそう報告した。恐怖や悲しみがないと言えば嘘になる。けれど桜に会えると思えば、それも薄らいだ。

 病気のことは誰にも言わなかった。じきに体が言うことをきかなくなるだろうから皆が知るのはその時で良い。リハビリを抱えた娘は大事な時期だし、昌弘君にもこれ以上心労をかけたくない。


「最期ぐらいは迷惑をかけないようにしないとな」


 何もしてやれなかった。妻も娘も、誰も幸せに出来なかった人生だった。

 娘には散々寂しい想いばかりさせて、迷惑かけて、結婚相手だって自分で選ばせてやれなかった。

 だからせめて最期だけは彼女たちに迷惑はかけたくなかったのだ。


 私はそれから多くの時間を娘夫婦と過ごした。冥土の土産ではないが、あちらで桜に会ったときに沢山話せる思い出が欲しかったからだ。

 今までの蟠りが嘘のように、私たちは距離を縮めた。由梨とは共に笑いあい、昌弘君とは娘のリハビリを応援した。


「お義父さん。今まですみませんでした」


 昌弘君と二人っきりになった時、不意に言われた言葉だ。何について謝られたのかよくわからなくて私は首を傾げた。

「何の話だ?」

「出会った頃から、今までの話です。失礼な態度をとりました」

 おそらく最初の『彼女は愛せません』発言の事を謝っているのだろう。それと私が家に乗り込んでいった時の発言も入っているのかも知れない。

「謝らないでくれ。私も悪かった所がある」

「でも、最近になって思うんです。もし僕に娘がいて、その結婚相手が僕と同じ事を言ったら、僕はきっとその男を殴っている」

「……私も殴りそうだった」

「はい。だから、すみません」

 神妙に頭を下げる彼に少し笑ってしまう。本当に顔合わせで啖呵を切った彼と同一人物なのだろうか。

「私はね、妻も娘も幸せに出来なかった男だ。妻は死んでしまったからもうどうにもならないが、娘だけは君が幸せにしてやってくれないか?」

「はい」

 短く答えたその言葉に、真剣な表情に、私は心から安堵した。


「私はこれでもう思い残すことは無いよ」


 そっとつぶやいたその言葉は誰の耳にも触れる事なく、そっと掻き消えた。




「もうすぐ君に会えるよ。本当に長い間待たせたね」


 いつもの桜の木の下で私は彼女にそう問いかける。

 見上げれば満開の桜が視界を埋め尽くす。

 彼女に恋したあの時のようだった。


 二年なんてあっとゆう間に過ぎた。此処最近、体が酷く怠くて重い。痛みに動けない日もある。私の寿命はきっともうすぐ尽きてしまうのだろう。

 それでも体の調子が良い時はこうやって、私はやっぱり彼女に会いに行く。


「そうそう、朗報だよ。由梨が妊娠したらしい。昨日電話で聞いたんだ」


 電話口で嬉しそうに話す娘の姿に、私はまた涙した。最近は涙もろくてかなわない。


「早く抱きたいって言っていたよ。……君にも由梨を抱かせてあげたかったな」


 優しい手で腹部を撫でる桜の姿が脳裏に蘇る。小さな命の存在を確かめるように撫でて、愛おしそうに微笑む姿はまさに聖女だ。

 早く出てきて欲しいと、出てきたのならこれでもかと愛して、抱きしめるのだと、桜はいつもそう言っていた。

 桜はどれだけ娘を抱くのを楽しみにしていたのだろう。それが叶わなくて、どれだけ悔しかっただろう。悲しかっただろう。


「……幸せに出来なくてすまなかった」


 木の側に座って私は幹に体を預けた。


 やはり春は嫌いだ。君を思って心が苦しくなる。心臓が飛び出るんじゃないかと言うぐらい早く鳴る。

 少し苦しくなって胸を掴むと、今度は頭に金槌で殴られたような衝撃が走った。バチンと何かが弾ける音がする。

 視界が霞む。どっちが上がなのか下なのかわからない。


 視界の隅に人影が映る。私はその人影を抱きしめるように両手を広げた。

 見間違えるはずがない。会いたくて、会いたくて、会いたくて、本当に会いたくて仕方なかったのだ。


「やっと会えた。桜」


 それが私の最期の言葉となった。


 やっぱり春は愛おしい。

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