エピローグ

 12月の曇天の下、真壁と須藤は大理石に雑巾がけをしていた。「小野寺家之墓」は、晴れた日には富士山が見えるという高台の中腹にあった。せっせと墓石を磨いている2人のそばで、中年の女性が「ごめんなさいねぇ、甘えちゃって」と言っていた。

「いいんですよ、奥さん。これで少しは恩返しできるってモンです。なぁ、真壁」

 真壁は「ああ」とだけ答えて、雑巾がけを続けた。

 小野寺が倒れたのは、8月の末だった。肝臓の末期ガンで、去年の冬に余命半年を宣告されていたという。退官を7か月も前倒しにした理由は、子どもこそ出来なかったが、せめて余生は妻と一緒に過ごしたいということだった。

「でも、それも出来なくなっちゃったなぁ」と、小野寺は病床で淋しく笑い、見舞いに来た真壁と須藤を「息子みたいなモンだ」と妻に紹介した。

「あらあら、こんなに大きい息子が2人もねぇ」と笑った妻は、十数年前、小野寺が八王子北署の生活安全課がいたころに出会ったという。夫婦仲が良いことは入院中にまめまめしく世話を焼いていたことからもうかがえた。

 そんな2人の様子を見ながら、真壁は百合子に思いをはせた。百合子もまた、杉原精二が脳卒中で倒れたときにかいがいしく世話を焼き、近所から「よくできた奥さん」と言われていた。だが、その胸の内は、真壁にはついに分からなかった。

 本田はその後、全ての犯行は「百合子の指示によるもの」と供述し、「精二の遺産を折半するつもりで引き受けた」という。これに対し、百合子は「本田が噓をついている」と全面的に否認し、結局、動機も分からずじまいだという。

 真壁と須藤が最後に見舞ったときには、小野寺はすでに昏睡状態に陥っていた。話すこともできず、2人はただ様子を見守ることしか出来なかった。ところが病室を辞そうとしたときになって、小野寺がぼんやりと薄目を開けた。

 須藤が感極まって、敬礼した。真壁も姿勢を正し、伸ばした右手のひとさし指と中指を額に当てる。小野寺がそれを見て、酸素吸引マスクの中で口をかすかに動かした。その日の夜、小野寺は亡くなった。五十八歳だった。

 墓参りを終えた2人は、急な坂道を慎重に歩き進める。奥さんは残して行った。夫婦だけの時間を与えてあげたかった。

「そう言えば、お前、本庁の捜査一課に異動だって?」須藤が言った。

「9月の人事でな」

「それで今、何やってんの?」

「府中の学校で、講習受けてる」

「へぇ」

 ようやくバス停の休憩所に着き、バスが来るまでまだ時間があったので、真壁と須藤はタバコを吸うことにした。「小野寺さんの置き土産だな」と、真壁がマッチで2人分のタバコに火をつけた。須藤の感想は「ライターと違いがわからん」とのことだった。

 紫煙をだいぶ噴かした後、「それにしても、あの時の敬礼・・・」と、須藤が笑う。「お前、似合ってなかったな」

「小野寺さんにも言われたよ」

「いつ?」

「教えるか」

 喫茶店でマッチをすすめる小野寺の淡い笑顔が真壁の脳裏にふっと浮かんだ瞬間、厚い雲が割れて光が差し込んだ。

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逆転の雨 伊藤 薫 @tayki

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