[21]
短い調書を聞き終わって、真壁が確実にわかったのは、杉原精二を殺したのは息子の卓郎ではないということだけだった。
本田、百合子、早紀の3人の間に起ったことは、謎に満ちていた。百合子を見たら百合子を愛おしくなり、早紀を見たら早紀が愛おしくなるという本田という男は、本当はどこまで狡猾であり、どこまで明確な犯意があったのか。
百合子と早紀という2人の女にしても、いったいどの時点で本田に惚れ、どの時点で愛想を尽かし、どの時点で未練を持ち、どの時点で憎んだのか。また、ついには凶行に及んだ早紀の精神状態は、単なる嫉妬で片付けられる感じではなかった。百合子が手にした遺産を目当てに、本田と共謀した可能性は否定できない。
それに・・・と、真壁は考えを巡らせる。あの短い調書の中で、唯一の物証である冬緑油についてはいっさい触れられていない。本田はいつ、どうやって被害者の一人息子である卓郎が若いころからリウマチを患っていて冬緑油を使っていることをつかんだのか。また、冬緑油の入手方法は。
そんな考えを断ち切ったのは、「おい!」という鋭い一声だった。振り返ると、いつの間にか会議室の入口に刑事課長の嶋田が立っていた。苛立たしげに手を振り、顔が「こっちに来い」と告げていた。
真壁がそばに寄ると、嶋田は開口一番、「ネクタイはちゃんとしめろ!」と怒鳴りつけた。真壁は頭を垂れることしか出来なかった。
嶋田にせかされるようにした入った署長室は、書類をめくる音だけが支配していた。入口正面に、本庁から捜査一課長の代理で来たという管理官が座っていた。右のソファには見慣れた第五係長と捜査主任。左のソファに座る2人の男は、初めて見る顔だった。中野東署から来た第十係長と捜査主任だという。どの顔も苦味を押しつぶしたような感じだ。
どうして中野東からと真壁が面喰っていると、管理官が「読んでみたまえ」と眼の前のテーブルに置かれた書類に顎をしゃくった。手にとって見ると、上申書のようだった。内容を読み進めていくうちに、真壁は眼を見開き、思わず紙面から顔を上げた。
「読んでの通りだ。本田和宏は、中野の強盗殺人を自供した」管理官が言った。
「中野東はホシを特定していたじゃないですか。どうして、本田が・・・」
「本田は左手をケガしている」と言ったのは、第十係長。
第十係長の話は、次のような内容だった。
米村巡査が刺殺された現場は行き止まりで、犯人が逃走時に残したとみられる血痕がブロック塀に残されていた。その血痕の血液型はB型。米村の血液型はA型だから、その血痕はホシのもの。事件の翌日、本田が荻窪の病院を受診していることが分かった。「転んで切った」と言って、当直医に左手の掌の裂傷を見せた。問診の際、本田は血液型をB型と答え、血液検査でもB型ということだった。怪我の理由を問い詰めると、本田はあっさりと鍋屋横丁での犯行を認めたという。
突如として、真壁は思い当たった。中野の薬局から盗まれたのは、現金と軟膏。
「冬緑油を盗んだんだ・・・」
部屋にいる全員が、真壁に視線を送っている。
「百合子が本田に教えた・・・」
真相はあまりにも恐ろしいものだった。百合子が杉原精二の遺産を目当てに、本田と共謀した可能性は極めて高く、しかも限りなく主犯格に近い。
だが、分からないことがある。亀有南署から送られた短い調書を聞かされた限り、本田と百合子は入念な口裏合わせをしていたようだが、本田が現場に自分と同じ血液型の血痕があっただけで強殺を認めたのはどういうわけか。本田が薬局に忍び込んだのは、冬緑油を盗むためであり、それは被害者の一人息子である卓郎の犯行に見せかける重要なカギであった。犯行を卓郎になすりつけるというアイデアもまた百合子が本田に教唆した可能性は極めて高く、結果として本田は百合子を裏切ったのではないか。
「君はどこまで知っていたのかね?」
きっちりと分けた七三の髪型に、細いフレームの眼鏡をかけた神経質そうな面持ちをした管理官は、まるで紳士服売り場のマネキンを思わせる能面だった。
「君は本部の方針を無視して独自に動いていたそうだな。君は杉原百合子が本田を唆して、中野の強殺と上野公園の殺人をやらせたと、どこかで掴んだのではないのかね?」
真壁は何も言えなかった。管理官はため息ひとつ付くと、嶋田と真壁に手を払って、部屋を下がらせた。
低頭しつつ、署長室の扉を閉めた嶋田は真壁を睨みつけるなり、次の瞬間、「貴様なぞ謹慎だ、謹慎!」と怒鳴りつけた。
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