ふざけるな

@yocchan-555

ふざけるな

 水星での探査任務を終え、Nは無事に地球へ帰還した。

 三十年の探査業務は長く、そして孤独だった。与えられたのは窮屈な防護服と、一人用の地下コロニーだけ。雑談を交わす同僚さえもいない、無味乾燥な地面をただただ歩くだけの単調な毎日は、Nの心から人間らしい潤いを日増しにうばっていった。

 だが、これからは違う。ひたすら孤独なだけの暮らしはもう終わりだ。次の任務まで、少なくとも五年はあるだろう。それまでは愛する妻とともに、平穏無事な日々を楽しむのだ。

 三十年ぶりの地球は、意外にも特に変わったところはなかった。なつかしいというほどでもないが、生まれ育った星というのは、やはり安心できる。目につく違いといえば、かつての田園風景が高層ビル街になっていたことと、街を行く人々が皆、腕時計型の携帯端末を身につけていること。それから、若者の服装がいちだんと奇抜になっているような気もしたが、それはまあ、いつの時代も同じことだろう。

 人間は、案外、変わらないものなのだな。自宅へ帰るのに宇宙開発局が用意したエコロジーカーに揺られながら、Nは過ぎ去った歳月を思った。

 三十年ぶりに対面する妻は、当然のことだが、それ相応に老け込んでいた。肌もかさつき、声も色気を失っている。毎晩つづいていた惑星間電話がいつしか途絶えたのは、そういう事情があったのか。

 大役を果たして帰還したNを、妻は素っ気ない態度でむかえた。あと二、三年行ってくればよかったのに。そう言いたげな冷たさだった。水星での勤務が決まった夜、絶対に離れたくないと泣いて引き留めたのは誰だったか。三十年という歳月を、Nは呪った。

 しかし、妻の老化よりもずっと重大で根本的な変化が自分のすぐそばで起きていようとは、Nはこのとき、知るはずもなかったのである。

 最初の違和感は、テレビを見ているときにおとずれた。

 昼間のワイドショー(これも三十年前からすたれないらしい)の若い女性アナウンサーが、オープニング早々、カメラにむかってにこやかに言ったのである。

「ふざけるな、皆さん」

 思考回路が停止するのを、Nははっきりと感じた。長すぎる惑星探査生活で、自分の耳がおかしくなってしまったのだろうか。録画している番組ならば、ビデオを何度も巻き戻して、問題の部分を何度も聞き直しただろう。

 確かに、彼女はこう言った。カメラのむこうの視聴者にむかって、満面の笑みで、ふざけるな、と。

 アナウンサーの暴言などなかったかのように、番組は淡々と進んでいく。

 Nは、ようやく理解した。これは、悪ふざけなのだ。テレビという空間だけで通じる、レベルの低い悪ふざけ。

 Nはテレビを消した。悪ふざけに付き合っていると、こっちまで不愉快になる。

 気分転換をしようと、Nは外に出た。三十年前、ひまつぶしに通った図書館がまだあるかどうか、確かめたくなったのだ。

 図書館はそのままの場所にあったが、ビル全体が見違えるほどに改装されていた。館内も手入れが行き届いていて、自動で本をさがす人型ロボットがきびきびと仕事をこなしていた。

 ひさしぶりに、本を借りたくなった。そのためにはまず、新たに貸出カードをつくらなければならない。

 カードの申請のためにカウンターにならぶ。空いていたので、順番はすぐにまわってきた。

「次の方、どうぞ」

 幾分年かさの、愛想のいい女性だった。

 Nの顔を見るなり、彼女は言ったのだ。

「ふざけるな!」

 全身の血液が逆流する感覚を、Nははじめて知った。どちらかといえば温厚なほうだが、ここまでの非礼を受けて腹を立てないほどお人よしではない。

 Nはすぐさま踵を返し、図書館を出た。こちらのほうが(ふざけるな!)と怒鳴りつけてやりたい気分だった。

 一体この国は、いや、この星はどうなってしまったのか。高度な文明をさらに進歩させたかわりに何か大切なものを失い、今なおも取り返しのつかない方向に向かっているのではないか……。

 その夜、同僚のKから電話があった。宇宙開発局に同期で採用された、Nにとって唯一無二の(戦友)である。

「どうだい、三十年ぶりの地球は」

 若い頃から変わらない、ほがらかな声だった。

「そろそろ体も慣れた頃だろう」

「いや、それはいいんだけどさ……」

 Nは心を許せる戦友に、昼間の理不尽な仕打ちについてすべてを打ち明けた。

 Kは意外にも軽く笑いとばし、

「そうか、お前は知らないんだな。例の法律のこと」

「例の法律?」

「おろかな総理大臣の、気まぐれな悪ふざけさ」

 Kはそれ以上のことは話さなかった。

 電話をきった後、Nはコンピュータのネットワークシステムを使い、(法律 ふざけるな)と検索した。するとすぐに、「言語体系改正法」というキーワードに行きあたった。


言語体系改正法:我が国の母国語使用体系を抜本的に見直し、国民のコミュニケーションに刺激を与えることを目的とした法律。


 簡潔ではあるが、要領を得ない説明であった。記載されている情報を読むかぎりでは、今からちょうど十年前に施行されたらしい。もともとは一部の若者たちの言葉遊びにすぎなかったものを当時の総理大臣が法律として正式に取り入れた、とそのページには書かれていた。

 法律の制定経緯につづいて、具体的な「新言語体系」が紹介されていた。


新言語体系


 上記の法律に基づき、以下のように新言語体系を定める


こんにちは=ふざけるな

さようなら=かたじけない

ごめんなさい=あら見てたのね


 ……


 それ以降も延々と使用例が掲載されていたが、Nは読む気をなくしていた。当初の疑問が解決した時点で、Nの目的は果たされていた。

 (ふざけるな)が(こんにちは)?

 そういうことだったのか。決して納得はしていないが、状況だけはかろうじて理解した。

 図書館の女性職員は、ごく普通に「こんにちは」と笑いかけたのだ。利用客に対して、当たり前のあいさつをしただけなのだ。

 これから、このわけのわからない法律に巻き込まれることになるのか。惑星探査の疲れと相まって、Nは気が重くなった。

 まったく、やっかいな時代になったものだ。


 状況がわかったうえで街を歩いてみると、違った景色が見えてくる。

 交通整理中の警察官が通行人に、人あたりのよい笑顔で「ふざけるな」と声をかける。言われたほうもごく普通の顔をして「ふざけるな」と会釈を返す。言語体系がおかしくなっていることをのぞけば、ありふれた光景だ。

「皆さん、ふざけるな!」

「私たちの活動に御協力を!」

 駅前に並んだ制服姿の少女たちが、募金箱片手に声をからして呼びかける。

「かたじけない、先生」

 夕方。清楚な身なりをした小学生たちが、校門脇に立つ教師に手を振って下校していく。教師も目を細めつつ手を振り返す。

「かたじけない、また明日ね」

 やっぱり、おかしい。うまく理屈はつけられないが、すんなりと受け入れられる変化ではない。

 けれど、これが現実なのだ。ルールはいつだって自分とは関係のないところで決められ、自分には関係のないうちに変えられていく。大多数の人間はただ、ルールに巻き込まれるしかないのだ。

 Nはそれからも、意識的に街を歩いた。無駄な抵抗はやめて、置かれた環境に一日でも早く順応することを選んだ。

 人間とは、慣れる動物である。どんなに違和感があったとしても、いったん覚悟を決めればなじめない環境などない。Nは着実に新しい言語体系を身につけ、自分なりに使いこなしていった。あきらかに目上の人間に「ふざけるな」と声をかけるのはさすがにためらいもあったが、じきに何も感じなくなった。そもそもそういうルールのうえで動いているのだから、まったく問題はないはずだ。水星という過酷な環境でもやってこられたのだから、もともと適応能力は高いのかもしれなかった。

 新しい言語体系の中でも、「ふざけるな」はとくに使用の幅が広く、いろいろな意味をもっているようだった。単純なあいさつだけでなく、感謝やねぎらいの気持ちを表す場合もあるらしい。

 それからきっかり三年後。奇妙な言語空間にもようやく違和感を抱かなくなった頃、Nに次なる惑星探査任務が命じられた。今度は、木星らしい。

 今回は初期探査の段階なのでそんなに年数はかからないだろうと、上司は言った。体力的な意味で次の任務がNにとって最後になるだろう、とも。

 予定探査期間は四年。任務を終える頃にはNは還暦になり、はれて定年をむかえる。

 木星での探査業務は、思いのほかスムーズに進んだ。特別に開発された重力制御装置のおかげで、地球とほぼ同じ感覚で歩きまわることができる。近い将来、木星の地に高層ビルが建つ日はくるのだろうか。そんなことを考えると、Nは気が遠くなるのだった。


 三年後。予定より一年早く、Nは地球に帰還した。

 家に帰る間もなく、Nは宇宙開発局長によばれた。最後の任務ということで、局長直々にねぎらいの言葉をかけたいらしい。

「今回は本当によく頑張ってくれた」

 めったに入ることのない局長室。緊張気味のNを、局長は寛大な微笑でむかえた。

「君はこれまで、人類のためにこれ以上ないほどの貢献をしてくれた。本当に御苦労だった。あらためて礼を言うよ」

「いえ、そんな……」

 思考回路までかたくなってしまったのだろうか。とっさに言葉が出てこない。

 こういう場合は、何と言えばいいのか。むこうからねぎらいの言葉をかけられているのだから、それに対してきちんと礼を言わなければならない。

 そう、御礼……。

「……ふざけるな」

 Nが口にしたその瞬間、壁際に待機していた幹部たちの顔がそろって青ざめた。

 めまぐるしく回転する思考の末に、Nはすべてを察した。

(本当に御苦労だった)

 今さっき、局長はねぎらいの言葉をかけた。Nが昔から知っている、当たり前の表現で。

 言語体系がもとに戻ったのだ。あるいは、局長だけは一人だけ、そんなくだらぬ悪ふざけにはのらないというポリシーの持ち主なのかもしれない。

 いや、今となってはどっちでもいい。何か取り返しのつかないことをしでかしたというのだけは、疑いようのない事実なのだから。

「貴様、この私にむかって何という無礼を……!」

 局長の顔が見る見る怒りの色に染まる。自分の顔面にむかってまっすぐに飛んでくる拳を、Nはよけることができなかった。

 鼻をおさえて倒れこむNに、局長が一言。

「ふざけるな!」

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