6 Accrochez-vous au passé de pourri. 朽ちていく過去に縋る。
その後、体調の回復したニエルとシモンが三位決定戦をやるみたいだったが、残念なことに観戦は叶わなかった。オレは勝利してすぐ、コロシアムを追い出されたから。途中で投げ渡された荷物には、白い羽根のスタンプが押されたパスポートがきちんと入っていたからよしとしても、随分と乱暴だぜ。
イロとまともに会話する暇もなかった。どこで会おうとか約束すら取りつけられなかったのはまずいんじゃないか? うーんと悩みながら、外に繋がってると教えられた扉を開ける。
目の前には、金色の髪と青い目を持つ美女が佇んでいた。傾きがかった日の光と活気でざわつく町を背景に、褪せた青のワンピースが風になびいてる。
思わず赤面するほど絵になっていた。傾国美女、国色天香、氷肌玉骨、閉月羞花。そんな物々しい言葉の数々はこういう時に使うためにあったんだと、ぼんやり思う。
そんな惚けたオレを、美女は悲しげに見つめていた。
「一つ、いいでしょうか?」
問い掛けてきた声すら、鈴みたいに繊細で美しかった。
「な、なんでも……いいけど」
「フランソワーズ・フォレスティエという方はどうなっていますか?」
「フランソワーズ?」
美女の口から出てきた意外な名前につい眉をひそめる。
「知りませんか? ゴスロリファッションに身を包んだ女性なんですけど」
「ああ、いや、知ってはいるけど……なんで、フランソワーズ?」
「私の、大切な人なんです」
その少し切なげな微笑みさえ、儚く美しかった。息を止めてしまいそうになる。地面に落ちた影にすら心臓が高鳴って仕方がない。
「それで、あの、フランソワーズさんは?」
「え、あ、ああ、うん。……決勝で戦ってきた。何とかオレが勝ったけど、強かったな」
「命に、別状は?」
「ないに決まってる。そんなもの。あんなに手強かったんだぜ?」
今思い出しても、やっぱり勝ったのはただの運としか思えない。前のシモンとの戦いを見てたからよかったんだ。そうじゃなかった時どうなってたかなんて、考えたくもない。
「それなら、よかった。私、メラニー・シーって言います。よかったら詳しい話を聞いてもいいですか?」
無事を聞いた途端、メラニーは可憐な花が咲くかのようなささやかさで顔を綻ばせた。
「もちろん!」
断れるべくもない。
「オレは、フィリップ・アレス。よろしく、メラニー」
「よろしくお願いします、アレスさん」
久方呼ばれてなかった『アレスさん』って響きにどきっとしたのは、内緒だ。
メラニーは、お茶をしながら話そうと近くのカフェに案内してくれた。『春のさざめき』なんていう店名のちょっと洒落たとこだ。現代アーティストが描いたらしい斬新な絵画が飾ってあったり、癖のあるポップな音楽を流してたりする。足を踏み入れたオレは、場違いさに息苦しくなって外のテーブルの席を確保した。外は風が吹いてきて肌寒くないと言えば嘘になるけど、慣れない場所で美女と向き合うのは避けたかった。注文は全部メラニーまかせ。ちょっと不安そうな顔をされたけど、彼女なら大丈夫だ。根拠の全くない確信で背中を押した。悩ましげにメニューに目を走らせる姿もかわいい。細い指先が文字を辿ってる。細いのは指先だけじゃない。そもそも体の線が細い。フランソワーズは言ってしまえば、チビって感じだったが、メラニーはすらりとしてる。守ってやらなきゃって思うのってこういう子なんだよなあ。しみじみと思った。
はっきり言おう。オレは美女に目がない。つぶらな瞳で少しカールしてる髪を持ってるなんて、まさに学校で友達と隠れて見てた雑誌にいたような感じだ。好みとか以前に、そういう美女とお近づきになりたいって願望は、誰もが一度は夢想する。オレもその一人だ。これに関してはあんまり思い出したくもないが、オレの学生時代に華はない。クラスにいっくらかわいい子がいようと話しかけるような事態は発生しないポジションだった。哀れすぎて涙が出てくるぜ。
原因の一つとして、失った記憶が青春真っ直中だったから、その後は恋愛なんかに構ってる暇はなかったっていうのがあるといえば、あるんだけど。失った記憶の中に、謳歌した青春が眠ってるならいいけど、そんな都合のいいことは起こりようがないって知ってる。クラスメイトや友達と名乗った奴らにそんな輝かしい日々はあっさり否定されてる。オレの失われた学生時代に大した物はなにもない。……多分。あったとしても今のままのオレじゃ確かめようもないことだ。
「おまたせしました」
店員の声にはっとして顔を上げた。いつの間に注文をしていたらしい。テーブルに置かれたのは、カフェ・ノワゼットとクレーム・ブリュレのセットを二つだ。どうやら甘党らしい。
オレも辛いのよりは甘いのが好きだ。ありがたくいただく。
ぱくぱくと先に食べ始めたオレに、満足気な様子で頷いたメラニーは、細々とスプーンを動かしては幸せそうな顔をする。そこで奢るべきだなと決意した。なんだっけ、そう、男の甲斐性ってやつだ。
「フランソワーズさんは、元気でしたか?」
タイミングを伺って、まず始めの質問が切り出された。オレはスプーンを口でくわえたまま、考えながら答えを返す。少しでも誠実でありたいと柄にもなく思った。
「元気だった。オレが叩きのめした……いや、ギリギリ勝った時に気絶させたけど、すぐに意識取り戻しただろうし」
ちょっと誇張したくもなったけど、それは堪える。視界の端に映るメラニーがオレの言葉で簡単に一喜一憂するからだ。それがかわいいと言えばそうなんだけど、申し訳なくもなる。
「強かったよ、フランソワーズ。再戦したら、負ける。うん、自信があるなそれには。十回やったら二回くらいは勝てるといいなあって思うけど」
素直に褒めると、メラニーは小さく声を漏らして笑った。鈴の音だ。
「そう、フランソワーズさんは本当に強いんですよね。私なんか傷一つ負わせることができません。どんな毒も彼女を殺せないし、どんな拳も彼女を屈服させられない。……そんな気分になりませんか?」
「なる。痛みっていうものからあれだけほど遠い奴も珍しいよなあ」
「いい言い方ですね。痛みからほど遠い人。まさに、フランソワーズさんはそんな人です。痛みから遠く、愛に近い人」
「愛?」
「ああ、ごめんなさい。つい。…………彼女ね、私のことが好きなんですって。愛してるって何度も言ってもらった。嬉しかった。うん、本当に。……実はね、彼女とは18区であったんです。今より、もう五年も前。まだ学生だった私が彼氏との旅行で訪れたあの宿場町で、出会ったんです」
「彼氏との旅行?」
「そう、FKに連れてってもらうなんて初めてだったからすごいわくわくしました。結果として、彼にとっては不本意な旅行になってしまったかもしれないけれど、私はとっても幸せでした。フランソワーズさんの一件がきっかけで、彼とは別れることになってしまったとはいえ、今でも本当に感謝しています。今でもやっぱり、どこかしらで好きなんでしょうね。また会いたいなって思いますから」
「へー」
「ごめんなさい。彼の話をしてもしかたないですね。……でも、あなたにもいませんか? 離れていても遠くなっても、会いたいと思う人」
「さあ、どうだろうなあ」
誰も思い浮かばなかったわけではない。けど、口に出す気には到底なれなかった。
「そういう人がいると、本当に幸せですよ」
美しく笑ったメラニーは、それから小一時間もの間、熱に浮かされたようにフランソワーズとのなれそめを語り続けた。メラニーは一度だって、フランソワーズをどう思ってるかとか、今のフランソワーズとどういう関係なのかを口にしはしなかったけど、それを今更質すのは愚問だろうってわかりきってしまうくらい、愛に溢れてた。
どっかの物語で読んだ、恋をすると美しくなるってのは、本当だったんだなあなんて、オレはカップを煽りながらぼんやりそんなことを思い出していた。
メラニーとはその後あっさり別れた。横恋慕しかかっていたのは事実だけど、あえてあのフランソワーズから掻っ攫うほどの勇気も積極性もない。
オレは、茜色の町をあてもなく歩き始めた。タイル張りの地面とオレの靴が当たって響く足音は、もっと数多の喋り声に掻き消されていく。久々に、一人になった。そんな気がした。イロと共に過ごした時間は、一週間もないというのに。
オレは、それまでの一人旅を思い返していた。故郷から、ルカの出身である広大なLPを通って、FKにやってくるまでの半年間の旅。
慣れない土地に心を躍らせ、一人であることに幸福を感じてはしゃいでいた日々。そのくせ、ぽっかりと体に空いた穴を無視することもできなかった毎日。楽しいという思いの奥底には必ず、表現のできそうもない鬱陶しい渦があった。ぐるぐると捻れ波打つそれの正体を、オレは掴めないでいる。あの時も、今も。唇を噛み締める。そのことを、もう考えていたくなくて、頭を振った。前をしっかり見据えて歩こうと、改めて顔を上げた。
そこでちょうど、町角に佇む長方形の箱が目に入って、驚いて足を止めた。公衆電話だ。見たのは20区以来だった。他の区は文化財保護のためなのか、近代的なものは所々排除されたり、巧妙に隠されたりしていたのだ。
脳裏に浮かぶのは、家族のことだった。故郷においてきた家族には、国を発ってから一度も連絡していなかった。FKに行ってくるとは言ってあるけど、音信不通の期間はもう一年くらいになる。そろそろ、連絡したほうがいいのは、自分でもよくわかっていた。
地味に重い扉を押し開けて、受話器を手に取った。自宅の番号を押そうとして、コレクトコールに切り替えた。ここは海外だった。音声案内に従っていくうちに、胸中に言いも言われぬ思いが沸き上がっていた。今すぐ、受話器を下ろしてしまいたい衝動に駆られる。汗がいつの間にか全身から噴き出していた。最後の番号を押す指先が、細かく震えていた。小さなカチッという音の後、呼び出し音が耳元で響く。
脈を打つ心臓の存在が、克明に感じられた。
「はい、アレスです」
機械越しの妹、キーラの声に、息を呑んだ。
「……………………あ、お、オレだ」
やっとのことで、それだけ言った。
「お兄ちゃん!? え、ほんとにフィリップお兄ちゃん!? 今どこにいるの? どうしてたの? えっ、ちょ、ちょっと待って」
動転したキーラが弟のリチャードを呼ぶ声を遠く聞こえる。多分、父親はちょうど帰路についている頃だろう。騒がしい向こう側の声を聞きながら、オレは空いた片手でジッポの開け閉めを忙しなく繰り返していた。何かをしていないと、気分が落ち着かない。
「えっと、……リチャードだけど」
「お、おう」
「キーラ、テンパってるみたいだからとりあえず代わった」
「そうみたいだな」
「とりあえず、声を聞く限りは元気そうだね。こっちもみんないつも通りだよ。兄さんは、FKに着いた?」
「……着いた。イロって奴と一緒に、挑んでるとこだ。17区にいる」
「そっか。……無事ならいいんだ。こっちのことは心配しないで。キーラはうるさいけど、いつものことだし何とかしておくからさ。父さんもそろそろ帰ってくる頃合いだとは思うけど、忙しいよね? 兄さん」
「そう、だな」
時間になんて全く追われてなかったけど、助け船につい乗っかってしまった。
「色々、やることあるし」
苦しい言い訳を続ける。
「だよね。じゃあ、今日はこのへんで。また連絡できる時にしてくれると助かるよ。FKにいるんじゃ生死の確認もまともにできないからさ。キーラの……いや、父さんのために頼むよ」
「できたら、な」
「うん。できたら」
数秒の沈黙。
「それじゃあ、またね」
「おう」
ツーツーと、受話器から発せられる音にしばらく耳を傾けていた。ひんやりとしたガラスに妙に熱く感じる背を預けて、脱力する。色んな思いが、頭の中を駆け巡っていた。
リチャードに気を使わせてしまった罪悪感とか、キーラとまともに話せなかった後悔とか、どうしようもなかった自分の態度とか、色々。
二人との間の溝を深くしてるのはまぎれもなく自分だとわかっていながら、歩み寄ることができない。それがやっぱり鬱陶しくて、早く記憶が戻ればいいのにと、考えなしにガラスに頭突きをした。じいんと広がっていく痛みに、ちょっとだけ涙を滲ませながら、惨めな自分を笑った。やっぱり、『無慈悲な神』に祈るしかないんだ。他に方法はない。
ああ、オレの失った記憶はどんなものだったんだろう?
狭い電話ボックスの中で、うずくまってわかるはずもないことを考えていた。
流石に日が沈み、街灯に明かりがつき始めた頃になって、ここにいてはまずいと思って、緩慢に立ち上がった。でもやっぱり当てはなかった。どこか宿に入ればいいことはわかっていたけど、そんな気分にもなれなかった。酒でも呑んで、思い出してしまったこの渦を忘れてしまいたかった。都合よく記憶が操作できればいいんだけどなあ。思い出したいことだけ思い出して、忘れたいことだけ忘れる。そういうことができたらいい。
どんだけ求めても薄れていくものがある。歯を食いしばっても、肝に銘じて見ても、気づけば薄らいでる。たとえば、頑張って思い出そうとしてみても、母親の顔は靄がかかったように曖昧になってしまった。死んでから、一体何年たったっけ? ……もう、五年か。懐かしいあの手の平の感触が、なんとなく思い起こされた。オレの頭を撫でて褒めてくれた、優しい手。オレだけの、母親。今頃はあの世で穏やかに暮らしているだろうか。病気なんてしてないといいんだけどなあ。
くだらない考えだとわかっていた。けれど、母親のことを考えると不安定だった気持ちがゆっくりと凪いだものへと変わっていった。
それを頭の別の部分で意識しながら、オレはやっぱり、と思う。母親が死んだ十二才の夏が終わる頃から十四才の春までがオレの失った記憶の大まかな期間だ。父親は否定していたけど、皮切りとなったのは、母親の死で間違いない。ガンで仕方なかったとはいえ、当時の自分には受け入れられなかった。母親が死んで、死ぬほど苦しかったのをよくよく覚えてる。多分その後、オレは荒れでもしたんだろう。母親が死ぬより前も喧嘩は強かったほうだけど、記憶を失った後、いっそう腕っ節がよくなってたのは、気のせいじゃない。その間のことを、どうして脳だか心だかが忘れたがっているのかははっきりしないけど、それは過去の自分の思いだ。忘れてしまうという事態が何を引き起こすか知らなかった頃の自分の決断だ。撤回できるうちに、撤回してみせる。オレは、キーラとリチャードときちんと家族になりたい。あそこはまぎれもなく自分のうちだって胸を張っていられるようになりたい。父親の申し訳なさそうな顔を、もう見たくはない。
間違ってるのは、オレなんだ。あの家の異物は、オレなんだ。オレが思い出せば全てが丸く収まってくれる。オレの記憶が戻れば、日常は返ってくるんだ。
そうやって、まるで何かに急かされるように競歩するオレはきっと奇妙に映ったことだろう。無防備にすら見えたのかもしれない。実際、周りはよく見えていなかった。人気のない方向へ足を進めてる自覚もなかった。
だから、通り道をいきなり塞がれた時も、オレは何が起こったのかよくわかっていなかった。燻ってる思いを誤ってぶつけてしまわないよう、黙って立ちふさがった男女の二人組を見ていた。裏路地へ折れたところだったから、邪魔だなあと感じながら。
「ガキ」
ハスキー声で、女が言った。猫耳のついた真っ黒なフードから覗く目の輝きは、隙のなさが現れていた。凶暴な野良の黒猫。隣にいるのは、鼠色の野良猫だ。首に巻いたくすんだスカーフの色からそう連想した。
「あたいらが先に通るんだ。退いてくれ」
厄介な輩に絡まれたなあと、淡々と考えていた。
「さあ、早くしな」
眠りかけていた渦が起き上がって、首をもたげていた。
「それとも、殺り合いたいのかい?」
蛇のように敏捷で、海のように凶猛な渦が合図をじっと待っていた。ぴんと張った糸が切れてしまうのを、心待ちにしていた。
黒猫はおもむろに煙草を取り出し、ライターで火をつけた。
「ゼロ」
それが、引き金になった。オレは襲いかかってきた鼠猫の脇に肘鉄を入れ、黒猫の懐に潜り込んだ。鳩尾に一発入れようと拳を引いたところで、ふいに体が宙に浮いたのを感じた。くるりと視界が反転して壁に叩きつけられる。そのままずり落ちるかと思ったが、黒猫が片手で容赦なく首を掴んで、尖った黒爪を喉に食い込ませてきた。窒息しない程度の痛みに、オレは呻いた。
「弱っちいのに喧嘩売るんじゃないよ」
黒猫はそれだけ言うと、煙草の火を眉間へずいと突きつけ、寸止めで嫌らしい笑みを浮かべながら、オレの顔の傍で揉み消した。上がりそうになった悲鳴は、なぜか喉が押し潰れてしまったかのように、声にならなかった。ぱっと解放されて地面に崩れ落ちたそのままの体勢から、身動きすることができない。苦しい。苦しい。酸素が足りない。息をして、息をして、それなのに、風景が回る。手足が痺れたように動かない。どうして。なんで。やめてくれ。いやだ。いやだ。やめて。やめて……。息が、息がっ! やめてくれえええええええ!!
それから、どのくらい経っただろう。症状がやっと治まった頃には、当然の様に二人はいなくなっていた。それに気がついて、正直ほっとした。何が起きたのか自分でもよくわからなかった。ただただ息が苦しくて辛かった。死ぬかもしれないとまで思った。こうやって、息ができていることが奇跡だと思った。
寝転がったまま、仰向けになって真上を見上げた。
夜空に星がいくつか瞬いてるのが、ぼうっとした視界でも何となくわかった。それにまた少し安心する。大丈夫だ。まだ生きてる。息もできてる。深呼吸だってできる。
何の問題も、もうなくなっていた。けど、起き上がる気にはなれなかった。オレは疲労に任せて、目を閉じて、深い眠りへと落ちていった。
翌朝、猫の鳴き声で目が覚めた。寝ぼけ眼で見えたのは、毛繕いする三毛猫だ。赤い首輪についた小さな鈴が時折鳴った。舞い上がってる塵までよく見せてくれる朝の淡い光に照らされて、舞台の主役のようだ。
頭が覚醒してきて、次第に昨夜のことを思い出して気分が悪くなったけど、暖かい日差しに立ち上がる気力がでてきた。地面に寝転んだせいで節々に鈍い痛みがあるけど、まあ軽く体をほぐせば大丈夫だろう。屈伸したり伸びをしたりしてると、迷彩柄の鉢巻きをした老人が路地に入ってきた。手にはバゲットのはみ出した紙袋を持ってる。
「ミケ」
嗄れた声で老人が呼ぶと、三毛猫は毛繕いをやめて足首にまとわりついた。この老人の飼い猫だったらしい。
「こら、行くぞ」
鼻につく香ばしい匂いが恨めしかった。近くのパン屋で買った朝食だろう。いいなあ。ぐうっと腹が鳴った。人様の前で申し訳ないが、美味しそうな匂いを嗅いだんだから仕方ない。
「……食べたいか?」
とはいえ、そんな風に声をかけてくるとは思わなかった。
「くれるのか?」
思わず、そんな風に返してしまう。
「タダとは言わん」
「そりゃ、もちろん」
「それなら、ほれ」
老人は、紙袋の中に手を突っ込むと、一つを投げ寄越した。パニーニだ。受け止めたオレはありがたくかぶりつく。うん、うまい。焼きたてでほかほかしてて、なかなかいい。
「なんだ、食べる金もないのか?」
「いや、そんなことはなくって……」
金ならちゃんとある。昨夜行き会った二人は厄介な輩だったけど、スリではなかった。ポケットにも荷物の中にもちゃんと金は入ってる。敢えて言うならちょっと億劫だっただけだ。それに、くれるっていうならほしい。
「理由はなんだっていいが、食べたんだ働けよ」
パニーニをあっさり完食したオレに向かって、老人は顎をしゃくった。ここで反論するべくもない。オレは、素直に従って路地を出た。
老人はドミニクと名乗った。それ以上のことは教えてくれなかった。オレに何の仕事をさせる気なのかも全く持ってわからない。見た目から職業を判断できる推理力は持ってないし、そもそもドミニクの本業に関わってることを頼もうとしているのかもわからない。今だって、気まぐれに歩む三毛猫のミケについて行くドミニクの後ろを進んでる。不安になってないというと、嘘になる。口数が特別少ない奴でもないのに考えてることが読めなかった。元々、人の機微には疎いほうだから、二回り以上違う相手の思考を見通すことなんて、そもそも無理なんだけどさ。
しょうがないからオレは、17区の町並みをぼんやり眺めていた。建物の外観なんかは、FKの外なんかと大して変わらない標準的な装いだから、正直面白くも何ともないんだけど。強いて言うなら、行き交う人は商人やら職人やらが多いように感じる。朝だからというのも関係してるんだろうけど、多分この17区自体がそういう地区なんだろう。イロがいたら解説してくれたんだろうが、オレじゃあなぜなのかまではわからない。ドミニクに聞くほどの興味もない。わからないことはわからないままだっていい。オレの記憶に関することじゃなきゃ、大抵はどうでもいいんだ。
「アレス、と言ったか」
「そうだけど」
「武器は何か扱えるか?」
「武器?」
脈絡のない問いだった。尻尾をくねらすミケを見下ろしながら聞くには、物騒すぎる。眉を潜めて真意を探ろうとしたが、いいから答えろと急かされてしぶしぶ答えた。
「タガーの持ち方くらいはわかるけど、そのくらいだ。まともな武器なんて拳くらいだぜ」
本当のことを言うと、蹴りもそこまで得意じゃない。おかげで攻撃の幅狭まってる自覚はあるんだが、慣れっていうのはなかなか根強いもんで、いざって時は拳が出てくる。記憶をなくす前から喧嘩になった時は文字通り手が出たから、その名残だろう。FKでこんなに戦闘することになるんだったら、もう少し幼い頃から習ってた武道の一つや二つあればよかったんだけどなあ。そうすれば、本当にどっかの冒険小説らしく楽しいのに。
「その拳の自信は?」
「ほとんど、ない」
肩を竦めてみせた。昨夜のこともそうだし、フランソワーズとのこともある。自信なんてものは今や存在しない。
「使えねえな」
ぼやきはごもっともだ。オレも同意する。弱いのを自覚し直したのはここ数日だが、弱いのは昔からだ。父親から聞き出した話の断片を繋ぎ合わせて知った事実として、オレの記憶喪失は心因性とはいえ、きっかけは何らかの怪我であったらしい。その時も力がなかったから怪我をする羽目になったんだろうし、やっぱりある程度戦闘能力という奴を所持しておくべきだったんだ。不良少年じみたことをやってた当時は特に。
この両手の拳なんかだけじゃ、心許ない。イロみたいに銃を持つか、ルカみたいにタガーを持つか、それともシモンの毒針かフランソワーズの仕込み傘か。何であってもいいが、武器の一つくらいは持つべきなんだろうなあ。扱える自信は全くと言ってないんだけど。
「まあ、アデルより弱いのは仕方ねえか。なんでもいいが、商品を守り抜くくらいの気概は見せろよ」
と、釘を刺すからには、ドミニクは商人なのだろう。守り抜くべき品物は不明だが、簡単な仕事ではなさそうだ。パニーニ一個で腹が満たされたわけじゃ全然ないけど、今更割に合わないと逃げ出すわけにもいかない。オレはおうと頷くだけに留めておいた。
三毛猫のミケによって導かれたのは、崩壊しかけの壁の傍だった。いや、崩壊しかけというか、記念として一部分遺してあるというのが正しいらしい。壁の前に設置されたパネルに説明文が書いてあった。タイトルは、「16区と17区の旧境界」。
「え?」
旧境界という言葉に、思わず壁のあった場所へ目を向けた。記念として遺された一部以外、面影は全くない。人々は何の感慨もなく境目を行き来していた。この大通りには躊躇って足を止める奴なんて誰もいない。
慌てて、パネルの本文に視線を戻した。
『千年前、19の騎士たちの仲違いによって築き上げられた壁。ここ17区と16区の間は幾たびも改修が繰り返され、現在見られるような煉瓦造りの形が残っている。二年前、17区アラン区長と16区アニー区長の取り決めによりその大半は取り壊されたが、文化財保護の観点により一部が保存された。』
なんて書いてある。
唖然とした。こんなに平然と、FKの名物とも言える壁を取り壊してるなんて、勿体ないにもほどがある。
「古びた物はいずれ消えていく。当然のことだろう」
感慨に浸ってるオレが物珍しかったのか、ドミニクは眉根を寄せた。ミケは、呑気に壁の上で伸びをしてる最中だ。
「過去は過去。千年も前の歴史や文化を遺して何になる。もしやアレス、FKを神話の中の特別な国とでも勘違いしてたんじゃないだろうな? 馬鹿馬鹿しいにもほどがある。ここ16区と17区は事実上統合されてるのと同じもんだ。恒例の試練はただの双子の暇つぶしと言ってもいい。……あの双子は、それに目を瞑ってあまりある功績をこの地に与えてる」
「あんな子どもが?」
「オレに言わせら、お前も子どもだ」
半笑いで言い返される。
「そして、……その子どもは侮るもんでもない。区長になるのには、公平に選挙で選ばれなくちゃいけないことぐらい承知してるだろ? あの双子はオレらに選ばれたからあの座についてんだ。そこんとこ、忘れちゃいけねえな。双子の思想に賛同するものが住むのがここだ。18区みたいに古き良きとか、伝統とかそんなものはくそくらえ。この区画は先駆けにすぎやしない。来週の議会で、路面電車の開通は決議される。飛行場ができるのだって遠い未来じゃない。ここは、そういう場所だ。……それを受け入れられないんだったら、さっさと戻れ」
背筋を冷たいものが走った。数拍遅れて、ドミニクが怒ってることに気がついた。
「わ、わりい」
「思ってもないこと口にすんじゃねえ。阿呆か」
口ついて出た謝罪は一刀両断されて、二の句が継げなくなった。
「予想以上に出来の悪いのを拾っちまったか」
隠す気もない独り言は、耳に痛い。
「まあいい、アレス」
ドミニクは日常会話のように、命令した。
「オレを——見殺しにしろ」
「は?」
耳を疑った。聞き間違いかと、結構本気で思ったけど、ドミニクはただ同じ言葉を繰り返した。
「オレを、見殺しにしろ」
二人の間に落ちた沈黙は、ミケの鳴き声で打ち消された。
「ど、どういう意味だよ」
おかげで硬直が解けたたが、震える問いかけしか投げかけられない。
「そのままだ。パニーニの礼としては、楽なもんだろう?」
「楽っちゃ、楽だけど……」
そんなこと、頼むべきことか? 赤の他人を連れてきて、わざわざ見殺しにしろって命令する必要がどこにある?
「じゃ、決まりだ」
歯切れの悪いオレの発言を勝手に了承と捉え、ドミニクはもといた道に戻ろうと人混みをかきわけていく。問いただそうと半歩近寄った時、ドミニクが踵を返した。はっきりとオレを見、次にミケを見、頷いた。あまりの真剣な目に、頷き返すこともできなかった。そうして、ドミニクはすぐさま人混み走り抜けてあの旧境界である壁を思い切り蹴り飛ばした。老人の脚力とはいえ、その古さは折り紙つきだ。直撃した辺りにヒビが走った音がする。いくら何でもそれはまずいんじゃないかと、声を上げようとした。
その瞬間、銃声が響いた。ドミニクの脳天を、一発の弾丸が寸分の狂いもなく貫いていった。ゆっくりと傾いでいくその体に、条件反射で駆け寄りそうになって、すんでで思い出した。
「オレを、見殺しにしろ」
それがどういう意図を含んでいたのかは、今更確かめようがないけど、まさか破るわけにもいかない。そして、頼み事はそれだけじゃない。三毛猫のミケは、飼い主のドミニクの傍でみゃおーんと鳴いている。あいつを、助けないといけない。無意識に震えちまった足を叱咤する。さっきから周りで上がってる悲鳴も聞こえないふりをする。鼓動を早める心臓の存在も忘れ去る。
ドミニクは、ほぼ間違いなく即死だった。あえて見殺しにする必要もないくらいに。そうだ。見殺し役なんて、端から必要なかった。ドミニクも用意する気はなかっただろう。必要だったのは、ミケを護る奴だ。あの、ミケを見て頷いたドミニクの目。死ぬことを覚悟していたくせに、飼い猫だけは見捨てることができなかったんだろう。何がどうして撃たれたんだか知らないが、随分愛護精神溢れる奴だ。はっきり言おう。嫌いじゃないぜ、そういう一本芯のある奴は。
「ミケ!」
叫んで、両手をめいいっぱい開いた。ミケはオレの呼びかけに顔を上げ、素直に胸元に飛び込んでくる。それと同時に、パアンッと、発砲音が響き渡った。パンパンパアンッ! 響き続けるそれらを無視して走り出す。足を止めたら、負傷しちまう! 人混みを駆け抜けて、適当に道を曲がる。すぐに発砲音はしなくなったけど、油断しちゃいけない。
狙撃手の目的はわからないから、オレがこのまま襲われ続ける可能性は十二分にある。ったく、これ、パニーニ一個じゃ釣り合わないぜ。ドミニクが持ってた紙袋にもパンは残ってたみたいだけど、取りに戻るのは不可能だしなあ。あーあ、めんどくさいことに巻き込まれたみたいだ。
口角が、自然と上がっていた。
わくわくする。どきどきする。ミケが腕の中でにゃあと鳴いた。
「おう! 行くぜ、ミケ!」
しっかりと地を踏みしめて、更にスピードを上げる。ミケは、抵抗もせずに大人しかった。存外、懐かれてるみたいだ。そうか、原因はこれか。今朝、オレの傍にミケがいたから、役立たずでも弱くても連れてきた。なるほどなあ。意外とその人選はよかったかもしれない。犬派か猫派かと聞かれたら、猫派だ。にゃおーーんっ!
なんて、ふざけてる場合じゃなかった。気がつけば、坂道の上、正面に黒猫が立っていた。昨日の、黒猫だ。隣にいたはずの鼠猫はいない。つい、足が止まりそうになる。表通りだ。人も多い。オレに用があるとは限らない。のだけども、黒猫は仁王立ちしていた。オレを見つけても走り寄ってきたりしない。それが不気味だ。ただ、煙草の煙を緩慢に吐き出してる。
方向転換した。わざわざ自分から向かってくこともない。何もなければ、それはそれでいいんだから。そうやって、変に人通りの少ない道へ折れ曲がってしまうのがオレの悪いところだ。多分、イロみたいに考えがある奴だったらこんな行動はとらないんだろう。最低でも、待ち伏せされてないなんて、甘い考えは持ってないはずだ。
だから、何にも備えてなかったオレがその攻撃を避けられたのは運がよかったと言うしかない。持ち前の反射神経で、隣家の窓からの発砲を、オレはすれすれでかわした。真横からの前触れのない攻撃なんて、本当に参る。不意を突く手としてはなかなかだった。避けられたのは、以前みたいに窓を梯子代わりに上れないか考えて目を向けてたからだ。そうじゃなきゃ、室内にある銃身を視界に入れることはできなかった。本当に運がよかった。けど、一発目は避けることができても、二発目はどうしようもない。表通りに引き返して逃げ出した。室内にいる輩は、窓から飛び出して追って来はしなかったが、それも時間の問題だ。さて、どうしよう。再び、あの黒猫の前へ戻ってきてしまった。さっきと同じ場所に立ち尽くしたままだ。その脇を不審そうに、人々が行き交ってる。それにまぎれることは、おそらく無理だろうなあ。
必死で頭を巡らせながら、オレは一直線に走っていた。黒猫をわざわざ避けたってしょうがない。どうせこのままじゃ、他の道に逃げたところですぐに追い返されるのがオチだ。覚悟は、早々に決めるに限る。息を呑んだ。昨日のことを思い出すと、恐怖しかないけど、やるんだ。黒猫はうっすらと微笑んだように見える。末恐ろしいたらありゃしない。何を考えてるのか全く読めなかった。ぐんぐんと距離が縮まってくのに、一歩も動こうとしない。このまま脇を走り抜けてやろうか。こっちから攻撃するのよりは、マシな気がする。敵だとも限らないんだし。
念のため、臨戦態勢は整えてじっと黒猫を睨みつける。当然のように、睨み返された。けど、それだけ。手出しはしてこない。あっさりとオレは、黒猫の傍を走り抜けられた。拍子抜けだ。ちらちら振り返りながら走り続けるけど、黒猫はこっちを見向きもしなかった。オレのことで立ってたんじゃないのか? 訝しげに思いながら、ミケに視線を落とす。
そこで、やっと失態に気がついた。ミケじゃない。腕の中には確かに猫がいたけど、本物の黒猫にすり替わってた。いつから、なんて考えるべくもない。慌てて踵を返すけど、既にあっちの黒猫の姿はない。まるで最初からいなかったかみたいに、消えていた。まずい。とりあえず、抱えたままだった黒猫を解放してやって、オレは辺りに忙しなく視線を走らせる。だが、そう簡単に見つかるはずもない。どうする。どうすればいい。
頭が真っ白だ。こういう時の判断はできないんだよなあ、オレ。足の動くまま、仁王立ちの黒猫がいた場所に戻ってはみるけど、だからと言ってどうすることもできない。
逃げたのはどっちだ? そもそもミケを入れ替えたのはあの黒猫だったのか? 疑問がぐるぐる回る。だめだ。立ち止まってたら、ミケを連れてった奴の思うツボだ。一番近くにあった脇道へ飛び込んだ。そこにいたのは、最上階の窓に長い梯子を立てかけてタンスを運び込んでる引っ越し業者だ。室内にタンスを受け渡した奴は、キャップを外して息を吐いてる。ちょうどいい。オレは、次のカラーボックスを持ち上げかけてた奴と壁の隙間を通り抜けて、梯子を駆け上る。四方八方から怒声が飛ぶけど、気にしてなんかられるか!
「わりい!」
梯子の上にいた奴がオレの勢いにエビぞりになって避ける。おかげで、わずかだが足場ができた。そこから跳び上がって、屋根の縁に縋りついた。懸垂の要領で体を引っ張り上げる。悲鳴のような歓声のような引っ越し業者の声が背後に聞こえた。だけど、そんなのにかまけてる暇はない。
服の汚れを払うこともせず、すぐに周りを見回す。ミケはどっかの屋根にいるってことではないみたいだ。人っ子一人見当たらない。目につくのは、暖炉の煙突や貯水庫くらいのもんだ。まあ、しかたない。そもそも、屋根にいるとは思ってない。こっから、探すのが目的だ。屋根の上を慎重かつ素早く歩いて、とりあえずこの建物の周囲の道路を確認してみたけど、それらしき人影も猫影もない。
今、気づいたが、もし室内に逃げ込まれたらこの方法、何の意味もなさないんじゃないだろうか。焦りが、判断力を鈍らせていく。どうしよう。かと言って、今更飛び降りて引っ越し業者に頭を下げるのもごめんだ。
黒手袋をはめ直して、気合いを入れ直す。大丈夫。見つけてみせる。体力はないが、意地ならある。
助走をつけて、屋根から屋根へと飛び移る。一先ずは、外にいる可能性に賭けるっ! 飛んで見渡して、飛んで見渡しての繰り返しだ。地道な作業に焦燥感が募るけど、諦めたほうが負けだ。そう決意を固めてから、いくつの屋根を渡っただろう。息が荒くなって、足が棒になってきた頃、あの黒猫を見つけた。フードの猫耳が目にとまって、外壁にへばりついてた雨水管を伝い、一も二もなくその背後へ下りる。
「おい!」
歩いてた黒猫は、じれったくなるほどゆっくりと振り返った。
「やあ、また殺り合いたいのかい?」
その口調は、やっぱり間違いなく昨日の黒猫だ。もしこれで、ミケを抱えでもしてくれたら手間が省けたんだけど、残念ながらそんなことはない。オレが来るのをわかってて隠したのか、それともそもそも黒猫は何の関係もないのか。どっちだろうなあ。さっぱりわからない。
「三毛猫を知らないか?」
だから、真っ正面から聞いた。
「三毛猫?」
半笑いで返される。
「三毛猫だ。さっきすれ違った時にオレが抱えてた三毛猫」
「あんたが抱えてたのは、黒猫だろう?」
「いいや、三毛猫だ」
「本当にそうか?」
「そうだ」
「もし、本当に三毛猫だったとして、あたいが知るはずがないじゃないか」
「そうか?」
「あたい、今日は指一本猫に触れてないからね。調べれば体毛が一本たりとも残ってないのがよくわかると思うが、どうする?」
「遠慮しとく」
小賢しい細工なんか、絶対に見破れない自信がある。そもそも、こういうやり取りからして苦手なんだ。人の裏をかくとか、言動で他人を操るとか、勘弁願いたい。
「昨夜の二の舞になりたくないなら、さっさと消えてくれないかい? 目障りなんだ」
黒猫は、すうっと目を細めた。
「それとも、あたいらと殺り合う気があるのかい。本気で」
「殺り合いたくは、ないなあ」
それが、本心だ。
「それじゃあ……」
「けど、」
「けど?」
「ミケを見殺しにするわけにはいかないんだ」
飼い主は見殺しにするしかなかったけど、ミケならまだ間に合うはずだ。諦めるなんて、したくない。足掻けるだけは足掻いてみせる。イロだって、勝ち抜きトーナメントを頑張ってるはずだ。オレは何もしてないってわけにはいかないだろう。これでも一応、相方だ。あんまり馬鹿でもいられない。それに、強くなってやるなら、今が絶好の機会じゃないか?
「へえ……」
興味深そうに、片眉を上げた黒猫はポケットから両手を出してみせた。武器は何も持ってないことを証明するみたいに。——いや、尖った黒爪を強調するみたいに。
首筋に痛みが走ったような錯覚を抱く。恐れが、首元から背骨を走って足先にまで伝わった。あの過呼吸が再び引き起こされるかと思うと、心臓のばくばくが止まらない。目を逸らさないでいるのが、やっとだった。
「かかってこいよ。先手は譲ってやるぜ」
それでも、余裕であるように取り繕って挑発した。腰を落として、いつどんな攻撃が来てもいいように身構える。恐ろしいからこそ、前を向くくらいしかオレにできることはない。
「それじゃ、遠慮なく」
黒猫はそう言ったくせに、こっちに走って来さえしなかった。代わりに煙草を取り出して吹かし出す始末だ。
「おい!」
「何だ。あたいから攻撃していいんだろう? 待ってなよ」
しくじった。単に黒猫はオレを足止めすればいいだけだ。その間に、ミケはオレの手の届かないとこに行く。簡単な計画だ。無駄な挑発なんてするんじゃなかった。何の痛手にもなってやしない。どうすればいいんだ、本当に。ここで立ち止まっていたってしょうがないのにっ!
「ああもう、仕方ないね。構ってやるから、動くなよ」
黒猫が落ち着きのないオレに煙草を向け、ぴしゃりと言い放った。つい、それに従って動きを止めてしまう。黒猫が煙草を靴裏で踏みつけるのを呆然と見てしまう。
「アン、ドゥ、トロワ」
ぺたんこの靴がリズミカルに打ち鳴らされた。だからオレは、てっきり黒猫が動き出すんだと思った。けど、違った。攻撃は真後ろからやってきた。にゅっと伸びてきた腕が首を絞めてきたのに反射で抵抗すると、背にのしかかられて身動きを封じられた。腕も足もすぐさま縄だかなんだかで縛られていく。視界に映ってるのは一人の靴と一人の腕だけだったが、足を縛ってる奴もいることから最低三人がかりだったみたいだ。誰かはわからない。でも、黒猫の仲間なのは間違いなさそうだ。
やっぱりこいつ、ミケを連れてったに違いない。昨日みたいにちょっかい出して放置する気はさらさらないらしい。
「死体と一緒に、連れてきな」
その指示だけで、仲間たちは迅速に動いた。オレを抱え上げて歩き出す。叫んで暴れようとしたけど、口元に布を当てられて意識が遠くなっていった……。すい、みん、やく…………か……よ……。
赤毛の語り部 雨夜灯火 @amayo_tomoshibi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。赤毛の語り部の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます