5 Le jeu a déjà commencé. 勝負はとっくに、始まっている。

 無機質な壁に、小窓から太陽光が降り注いでいた。大気中の塵が舞ってるのがよく見える。穏やかと言えば穏やかな光景だ。ここが、もしも監房の中じゃなければ。

 備え付けの固いベットに横になったまま、ため息を吐く。両手に手錠をかけられると、こんなにも動きづらいというのを初めて知った。物を掴むという作業すらとてもしづらい。ポケットに入ってたジッポを取り出すのにも苦労した。意地になって取り出したはいいものの、手元でカチカチ鳴らし続ける行為も気持ちを落ち着けてはくれない。いつもと違ってイライラが増幅していくような気さえする。いや、その音を聞いてイロがよりいっそう不機嫌なオーラを醸し出すせいだ。

「少しは静かにしてろ」

「だって」

「だってもでももヘチマもない」

 イロは相変わらずとりつく島もない。二人して狭っ苦しい監房に閉じ込められてるんだから、もうちょっと仲良くしてほしいもんだ。隅っこに座り込んで、手錠のかかった手で器用に手帳をめくってる。何が楽しくて小まめに手帳なんか開くんだか。おかげで話し相手にもなってくれやしない。ここには、オレが寝転がってるベッド以外に家具も何もないから、体よく退屈を紛らわすこともできない。辛うじて没収をまぬがれた荷物にも、残念ながら都合よく時間を潰せる物なんかあるはずがない。そもそも一人で物を取り出すのが億劫だ。せめてもの抵抗として、ジッポを開け閉めし続けるのが唯一の手慰みだった。

 ……そうでもしないと、向かいの檻からの視線が痛くて耐えられない。通路を挟んだ向かい側から、さっきからずっと見つめられてる。正直、とても居心地が悪い。

 視線の主は、オレより少し幼いくらいの年頃に見える。十三か四か、それくらいの少女だ。くりくりした琥珀色の目でこっちをじーっと観察してる。むしろ、観察したいのはこっちだ。ベッドに座り直して、その派手な姿を改めて見る。腰辺りまであるウェーブのかかった栗毛と人形みたいに白い肌はいいとして、その格好がすごい。黒と白のみで構成されたゴスロリに身を包んで、監房の中だというのに日傘を差してる。確かに小窓から太陽光が差し込んではいるけど、わざわざ傘を差すのはなかなかの神経をしてる。日に焼けるのってそんなに嫌なことだろうか。

「おい」

「……あら、喋ったわ」

 試しに声をかけてみると、心底意外そうな独り言が返ってきた。

「じーっと見んのやめてくれねえか?」

「嫌。暇なんだもの」

「奇遇だな。オレも暇だ」

「あら。それなら、ギラック神話の成立過程に関する考察でも交わします?」

「……遠慮しとく」

 なんでこんな時にそんな答えのなさそうなしちめんどくさい話をしなきゃいけないんだ。

「それよりも、FKの歴史のおさらいでもしたほうが有益かしら? FKを覆う城壁の着工から、かの有名な内乱時代を経て、伝説の英雄の存在した奇跡の運命時代が訪れ、そうして幾ばくもの時が過ぎ、あの双子の区長たちが幅を利かせるようになった頃までのお話を。……当の昔に聞き飽きた出来事ですけれど」

「双子の区長?」

「あら、ご存じなくて? わたくしたちを捕らえているのは、あの双子でいらっしゃいますのに」

「知ってる」

 手帳に目を落としたままのイロが口を挟んだ。

「17区と16区は仲の良い双子が共同で治めてるんだろ。で、18区の区長とは険悪で、向こうの緩い許可で通ってきた奴らなんか信じられないから、17区の入り口で激しい検閲を行うって聞いてる。最もと言えば、最もな理由だ。FKのシステムだと、前の区長の判断で自分の支配領域に誰が入れるかが決まるんだ。反発も当然あってしかるべき。……だけどまさか、牢屋にぶち込まれるとまでは思ってなかったな」

 それは同感だ。17区にたった一歩踏み出した途端、検問に掴まって、商人用の通行手形もパスポートのスタンプもないとわかると、速攻半地下に閉じ込められるなんて、あんまりだ。

「一つ、訂正がございます。あの双子に仲の良いなんて表現、生ぬるいですわ。あれは狂信的な愛です。共依存と言い換えても構いません。あの子たちは、言うなれば『無邪気な神』なのです。二人のためになることなら、容赦なく実行する悪魔のような神ですわ。たとえば、わたくしをこのようなカビ臭い場所に一人で取り残してくれているところなど、本来なら懲罰ものですのよ? はあ、どうしてこんな目に合わなくてはいけないのか、甚だ疑問ですわ。わたくしを一体誰だと思っているのか問い詰めたいところですわね」

「オレも知らないな」

 高慢に区長たちを堂々と見下す少女は、釘を刺すようなオレの声に今気がついたという風に居住まいを正した。

「そういえば、貴方がたにはまだ御名乗りしていませんでしたね。失礼。わたくし、フォレスティエ家令嬢、フランソワーズ・フォレスティエと申します。どうぞお忘れなきよう」

「フォレスティエ家!?」

 飛び出してきた予想外の名前に、思わず立ち上がる。

「ええ」

「どうした、フィリップ」

「どうしたもこうしてもないだろ!? あの、あのフォレスティエ家!?」

 檻の鉄格子を掴んで、限界まで近寄ってまじまじとフォレスティエ家の令嬢と名乗った少女を見る。信じられない。この目でフォレスティエ家の人間と会う日が来るとは……。

「ええ、千年前にこの地であのテオ・ルロワ王に仕え、最後まで王家に忠誠を誓った騎士、ジュール・フォレスティエの末裔ですわ」

 堂々と胸を張るフランソワーズ・フォレスティエに感嘆のため息が零れそうだった。

「悪い。さっぱりわからない」

 なのに、イロは何の感動も覚えていないらしい。

「お前! 下準備がどうこういつも言うくらいなら、このくらいの歴史は抑えておけよ! FK成立に関わる重大事項だろ?」

「そういう過去のことに興味はない」

「伝説の英雄については詳しいくせに……」

「知らないほうが幸福かもしれませんわよ。所詮、面白くもない話です。興味が沸いた時に図書館の児童向けコーナーにでも行けばいいんですわ。テオ・ルロワ王の叡智と19人の騎士の物語なんていくらでも絵本が溢れていましょう」

「行く機会は多分ない。だから、一言で説明してくれ」

「お断りしますわ」

「……フィリップ」

 視線をこちらに向けてきたイロについため息が漏れた。

 あっちが高慢ならこっちは傲慢だ。自己中心的な二人に挟まれたオレはしぶしぶ解説を始める。

 今より千年は昔のこと。FKがFKという名を持つきっかけはこの時代にある。その頃、現在1区がある付近には小城が建てられていた。そこに住まう王家の血族は、代々この地を治め続けていた。王家に忠誠を誓っていたのは、19の貴族。どれも名高い騎士のいる素晴らしい家々だった。この中に、フォレスティエ家も存在する。今では18区に当たる土地を所領としていたらしい。

 だが、テオ・ルロワ王の御代、ルカの故国であるLP——当時はLa liberté de prairie〈草原の自由〉ではなく、 La Valor de prairie〈草原の勇猛〉 という国名だったらしいけれど——を始めとした隣国との戦が激化。テオ王は、国の周辺に高い城壁を造らせた。それが、現在FK全体を覆う壁の元となっている。その城壁は無事完成したものの、国全体での籠城に等しい行為は、戦が長引けば長引くほど、忠実な騎士たちの精神を削り、大規模な反乱に繋がってしまった。19人の騎士たちは王に従う者と王に逆らう者で二分され、各々の領地の間に即席の壁さえ造って交戦する始末だ。その時、テオ王に最後まで忠誠を誓い、戦地で果てたのがジュール・フォレスティエだ。勇猛果敢な騎士といえば彼をおいて他にいない。けれど、そんな血で血を洗う争いは、彼の死だけでは終わらない。テオ王の子、孫、曾孫と続いていき、最終的には約二百年にも及ぶ戦乱の時代となってしまった。

 その戦乱を終わらせ、平和を築いたのが、かの伝説の英雄——神風。FKこと神風の運命を作り上げた張本人。英雄の黒髪と後の世に伝わる濡れ羽色の髪を持った男は、新たな20人の従者を連れて東洋の果ての果ての辺境からやってきた。勇猛果敢な神風は、七日七夜でこの地を制圧してしまったという。八日目の朝、占領した小城のバルコニーにて神風が語った演説によれば、全ては『無慈悲な神』の力によるものだったらしい。それでも神風が伝説の英雄として祭り上げられることにかわりはなかった。伝説の英雄は、その後五年かけて国を民主的なものに作り替えると、まるで役目を終えたかのように永眠した。壮大な葬儀ののち、1区に葬られた伝説の英雄は、オレたちにとってほとんど神みたいな、そんな特別な英雄だ。

「その伝説の英雄については、よく知ってるだろ?」

 そう、語り終えたオレが確認しても、イロの返事はなかった。カリカリカリカリと手帳にペンを走らせている。途中で命令されて、紙を押さえてページをめくる役をやっているけれど、何を書いているかはさっぱりわからない。その文字は西洋語のアルファベではないし、東洋語の簡体字でもない。どちらかといえば東洋語に近いような気がするけれど、意味を読み解くことは不可能だった。途中で尋ねようにも、口を止めると話を続けろと促されるので、どうしようもなかった。いつの間にか、フランソワーズは退屈そうに眠ってしまったっていうのにお構いなしだ。イロの命じるまま、うろ覚えのFKの歴史を語り聞かせたけれど、そんなに興味を引く内容だったんだろうか? 面白かったにしても、一言で済ませろと言ってたくせに、聞けば聞くほどもっと詳しい話をしろって要求してくるのは、もうやめてほしい。口が疲れた。

「お前、語るの下手だな」

 それが、手を止めたイロの最初の台詞だった。

「せっかく話してやったのに、それかよ!?」

「話が途中で飛ぶし、何となくとか多分とかそんな言葉ばっかり混ぜやがって……最悪の語り部だな」

「そのくせ、ねちねち質問してきたのはどこの誰だ?」

 この野郎、一発殴ってやろうか。

「いい情報源だった。ありがと」

「全然感謝が感じられないぜ。ったく」

「助かってはいる。ただ、なら当然だろ?」

「都合いい時だけそういう風に使うつもりだな? イロ」

「イロって呼ぶことに文句言ってないし、これくらいいいだろ」

「それとこれとはまた別だろ? 発音できないんだってお前の名前」

「じゃあ練習するか? 都月浩。と・つ・き・ひ・ろ」

「……と・つ・き・い・ろ」

「わざとか!? 浩だって言ってんだろ!?」

「本気だ! 真面目に難しいんだって!」

 西洋語を母語とする人間にとってどれだけイロの名前が発音しづらいかは名状しがたいんだぞこの野郎!

「お二方、そろそろ言い争いはおやめになったら? ……来るわよ」

「来るって、何が」

 オレの問い掛けに、フランソワーズは目で通路を示した。耳を澄ますと、足音が聴こえてきた。リズムのいい、愉快な足音だ。フランソワーズは憎々しげに音のするほうを睨みつけてる。太陽光の届かない薄暗い通路を歩いてきたのは、十二、三才くらいの少年だった。白い羽根のついた黄緑の帽子を被り、同じく黄緑のポンチョを羽織る少年は、心底楽しそうな笑みを浮かべていた。

「やあやあ、確かフィリップ君とイロ君だったっけかな? よろしくよろしく。今日はこの僕が審判だ。存分に実力を発揮してね。とってもとっても楽しみにしてるからっ」

 にこにこと柵越しに満面の笑みを見せる少年の無邪気さにオレはぎこちなく微笑み返した。

「おう、頑張るわ」

 一体何を頑張ればいいのかはちんぷんかんぷんだけど。

「で、向かいはフランソワーズかー」

 くるりと振り返った少年は、つまらなそうに大げさな身振りで嘆いた。

「あら、残念そうな声を上げてどうしたのです? わたくしが息の根を止めてその悲しみを消して差し上げましょうか?」

「いやいや、いいよいいよ。君がただ彼女に会いたいがために不機嫌になってることはよくよくわかってるからね。だからまあ、せいぜい頑張ってよっ」

 それだけ告げると満足したのか、少年は次の檻へ向かって闇に消えていった。その足音と喋り声が完全に聞こえなくなると、真っ先にイロが口を開いた。

「あれは、誰?」

「あれこそ、17区の区長、アラン・マルタンですわ。忌々しい」

「あれが!?」

 つい去ってったほうを見るけれど、もう影も形もなかった。あんな子どもの区長もいるのか。それも双子ってことは、最低もう一人はいるんだよな。信じられない。加えて、こんな気軽に姿を見せてくるなんて。区長は最後まで現れないラスボスみたいなイメージがあったんだけどなあ。18区なんて結局区長と顔会わせてないし。

「何にしても、早く準備をしたほうがいいですわよ。アランが現れたということは、もうすぐなのですから」

「もうすぐ?」

「ええ。壮絶な勝ち抜きトーナメントの開幕ですわ」

 檻の中、屈伸を始める令嬢は、得意げな笑みを浮かべた。


 コロシアム、と言えば想像しやすいだろうか。屋根はなく、代わりに鱗雲が青空を覆っている。その下、中央に正方形の闘技場があり、まわりにこじんまりとした客席が用意されている。わりかし小規模なコロシアムだ。北側にあたる客席は一際豪華で、王座と呼ぶに相応しいような煌びやかな椅子が用意されていた。座ってるのは先ほどの少年、アラン・マルタンだ。

 オレたちは、支給された牛乳とロールパンを囓りつつ、東側の客席から鼻歌を歌ってるその区長を見ていた。両手の手錠はコロシアムに案内された途中で外してもらえた。ありがたい。代わりに手に入れたのがこの牛乳とロールパンである。左隣でふんぞり返ってるフランソワーズ曰く、客席にいる約二十人は全員挑戦者らしい。いや、この場に限っては出場者か。この闘技場でこれから『壮絶な勝ち抜きトーナメント』とやらが始まるらしいのだが、詳細はよくわからない。フランソワーズの面倒臭そうな説明は聞き流したし。多分、勝ち抜けばパスポートにスタンプがもらえるんだろう。真面目にメモを取るイロの反応からそれだけは理解した。オレはとりあえず、栄養補給としてもらった牛乳を飲み干すだけだ。案外美味しい。

「さあさあ、皆々様。本日は17区の区長である僕、アラン・マルタンが審判を務めるよ。どうぞ、ご存分に実力を発揮してねっ」

 マイクを持つアラン区長は、そのまま司会も務めるようだった。彼の頭上に備えつけられてる電光掲示板を指し示しながら朗々とした声で進行していく。

「さあさあ、早速、第一試合を始めよう!」

 電光掲示板に、数多の名前が映し出されては消えていく。どうやら対戦者はランダムに選ばれるらしい。

「東は……都月イロ!」

 浩だってと右隣から毒突く声がする。名前について大分拘るよなあ、こいつ。……などと、油断してる場合じゃあなかった。

「対する西は、フィリップ・アレス!」

「は?」

「へ?」

 イロと、ハモった。

 二人して立ち上がって、まじまじと電光掲示板を見つめる。けど、映し出された表示は変わらない。

「あら、お仲間同士ですか。お気の毒に。自らの運の悪さを呪うのですね」

「運の悪さより、フィリップを呪いたい」

「物騒なこと言うなよ……」

 冗談に聞こえない。いや、本気の可能性が高いんだろうけどさ。

「フィリップ、……手加減はなしだ」

「はいよ」

 オレは片手を上げて、西側へと向かって走り出した。少し、わくわくしていた。20区でイロにナイフを突きつけた時は、単なる牽制だったから、こうやってまともにやり合える機会が巡ってきたのは嬉しかった。きっとオレが勝つだろうけど、精一杯楽しんでやろうと、心に誓った。

 改めて、闘技場でイロと向かい合うと変な感じがした。今までずっと敵意を向けられてきたとはいえ、ちゃんとした組み手すらしたことがなかった。ああ、ほんとわくわくする!

 黒手袋をはめ直して、深呼吸をする。口角が上がるのを、どうしても抑えられなかった。

「フィリップ!」

 叫び声が、緊張感のない空気を鋭く引き裂いた。びりりと、心臓が震える。

「僕は、負ける気はない! 引き分けもなしだ!」

 意志のこもった瞳は、どこか楽しそうに輝いていた。多分、オレだってそんな瞳をしてるはずだ。

 腰を落として、臨戦態勢を整える。息を吸って、止める。

「ではでは、試合開始!」

 アラン区長の合図と共に、オレは一直線に走っていった。イロは唇を噛み締めてる。いつも背負っているアサルトライフルはない。多分だけど、オレを傷つけたくないってことなんだろうなあ。イロは、優しすぎる。そこが隙だ。隙と見せかけて、実は銃より素手のほうが強いかもしれないけど、こういう時は怯えず向かっていくのが一番だ。怯んだほうが負ける。

「うおおおおおおおおおおお!!」

 咆哮して気迫を削ごうとしたけど、そのくらいでは動じなかった。じっくり、チャンスを伺ってるんだ。あの表情は。

 その顔に右手の拳を叩きつける。が、あっさりしゃがんで避けられる。それくらいは予想済みだ。続けて左足で肩に一撃入れようとするのを、受け止められるとは思わなかったけど。両手でがむしゃらに左足を掴まれた。素人の悪あがきだ。勢いよく上に蹴り上げることによって拘束から逃れると、そのまま踵を振り落とす。半ば這うようにして避けたイロの腹に正拳を一発ぶち込むと、すぐに呻いて丸くなった。明らかに喧嘩慣れしてない。うーん、楽しむってほどでもなかったみたいだ。少し残念だなあ。

 そう思いながらも、両手を拘束して、羽交い締めにすることは忘れない。格下とわかっても油断は大敵だ。こういう素人ほど無闇に暴れようとして余計危ない。だからしっかりと抑えつける。イロも例に漏れず抵抗するけど、これくらい屁でもない。悪態を吐きながら手足を無理に動かそうとする様に、なんだか物悲しくなった。馬鹿みたいに必死だった。額からは汗が滴り落ちて目の脇を伝っていった。悔しげに引き結ばれた口元のせいで、涙みたいだった。

「勝者、西のフィリップ!」

 オレが手を離して立ち上がっても、イロはしばらく起き上がらずに無言で汗を流し続けていた。

 客席に戻っても、イロは口を開かなかった。オレに負けたのが相当悔しいのか、それとももっと別の何かが気にくわなかったのか、タオルで乱暴に汗を拭ってる。

「お見苦しいこと」

 フランソワーズの言葉に、カチンときた。敗者にかけるべきものじゃないのは明白だ。怒鳴りつけてやろうとしたけど、フランソワーズにきつく睨まれて気圧されてしまった。浮きかけた腰を下ろすと、フランソワーズは再びイロに向き直る。

「貴方、自分が敗北を悔いているのではなく、脆弱さを嘆いているということに気づいています? それは酷く滑稽で醜いのですわよ。お相手にも無礼な行為ですわ。自覚なさったほうがよろしくてよ。それも早々に」

 イロを見下したフランソワーズは優雅な一礼をして、闘技場へと下りていった。第二試合の決着がついて、第三試合はフランソワーズの名前が呼ばれたのだ。

 オレはどう声をかけたらいいかわからなくて、イロの隣で黙っていた。フランソワーズが不遜な態度で啖呵を切ってるのが遠く聞こえる。もう何も聞きたくない気分だった。試合に勝ったっていうのに気持ちは晴れない。

 微かに鼓膜を振るわせたのは、右隣からの「わかってる」という呟きだった。固く握り締めた拳の上に、ぽたぽたと水滴が落ちていた。オレはやっぱり、隣に座ってることしかできなかった。

 しばらく経って、区長にもう一度オレの名前が呼ばれた。いまだ動かないイロが心配だったけど、行かないわけにもいかない。

 闘技場に駆けつけると、よれよれのスーツを着た中年男がウイスキーを飲んでいた。瓶に直接口をつけて煽っている。向かい合っただけでも、酒臭さが臭ってきた。空を見上げて確認すると、太陽はちょうど真上に来ていた。真っ昼間という表現がふさわしい時間帯だ。それを気にする様子は全くない。酒は好きだし、朝から飲んだこともあるから何とも言えないけど、これから戦う時にそれはどうなんだかなあ。

 ちらりと横目で確認した電光掲示板には、『東 フィリップ・アレス 西 ニエル・コクトー』と表示されている。視線を戻して構えると、ニエルはひっくとしゃっくりをした。どうも、気が抜ける。

「さあさあ、試合開始!」

 合図の声がまだ耳で響いてる間に、ニエルはオレの眼前に迫っていた。反射で上半身を反らしてから、しまったと思うものの今更どうすることもできない。胸の下を突かれて背後に崩れ落ちる。追撃は右手に転がって逃れたけど、息が苦しくてすぐに立ち上がれない。更に足が降ってくるかと思ったけど、オレが息を整えて上体を起こしても、ニエルは平然と立ってしゃっくりをしていた。

「うう〜ん、しくじっちまった」

 そり残された顎髭を触りながら顔を顰めている。その様子を見ていると先ほどのスピードが嘘のようだ。一瞬で距離をつめられたのは、オレの油断だけが理由ではない気がする。ゆっくりと立ち上がりながら、できるだけ距離を取る。その間、目線は決して逸らさない。

「さってと、小僧。めんどくさいからギブアップでもしてくれねーかあ? これもそろそろ空になりそうなんだよお」

 ウイスキーの瓶がこれ見よがしに振られた。

「いーや、お断りするぜ。オレまで泣くわけはっ、いかないからなあ!」

 地を強く蹴って、一気に間合いをつめる。右手を伸ばして、奧襟を固く掴んだ。そのまま背負い投げるが、体を捻られて諸共転がる。起き上がろうと思った時には、俯せに縫いつけられていた。顔の傍で、酒臭い息のまま、いーち、にいー、さあーんとカウントされる。反射的に足裏で地を蹴り隙間を作ってエビのように体を跳ねさせて逃げ出した。反撃に出てくるとは思っていなかったのか、ニエルはオレを追うこともせずにしゃがんで酒を煽っていた。顔は既に真っ赤だ。十分に距離を取って構え直したオレは、つい舌打ちしたくなる。内心で格上だと判断を下してしまってる自分が嫌だった。そこでふと、さっきのイロの震えた肩が思い起こされた。もしかしてあいつもそれが悔しかったのかもしれない。力量差を自覚してしまうのは嫌なもんだ。オレとニエルの差より、オレとイロの差のほうがでかいだろうから、余計苦しかったかもしれない。負けず嫌いって感じだし。だからと言って、勝ったオレはあいつに何も言えるわけないんだけどさ。

「あーあ! ……湿っぽいのは勘弁だ」

 さっさと勝とう。それでイロが喜ぶとは到底思えないけど、負けて戻ってくるよりマシだ。

「ニエル、勝負だぜ」

「ひっく」

 返答はしゃっくりだったけど、ゆらりと立って確かにこっちを見た。さて、格上の相手にどう戦おう。地元でちょっと喧嘩が強かっただけのオレだ。さっきみたいに隙を作って逃げる方法ならまだしも、立ち向かい方はさっぱりだ。手持ちの武器だって一つもない。うまく扱えない物を持ってても荷物になるだけだからそれはそれでいいんだけど、気を反らさせるのが難しい。しっかりと隔離された闘技場って予測不可能な物がなくて不便だ。その辺に石でも転がってたらいい飛び道具になるのになあ。

 なんて考えて、視線を下に落としたのがいけなかった。気がついた時には、首を掴まれて壁に押しつけられていた。片手だけで、だ。息苦しさに手を引き剥がそうともがき暴れても、ニエルはだるそうにしてる。その垂れ目に怒りが込み上げてきて、渾身の力を振り絞って右足を振り上げた。金的への蹴りが成功した感覚と共に、ニエルの口から声にならない悲鳴が上がって、首を抑えつける力が緩まった。同じ男として気の毒に思いながらも、続けて容赦なく鳩尾を殴りつけた。半分に体を折ってふらふらと後退したニエルは、やがて膝を突き、酒らしきものを全部吐き戻してぶっ倒れた。

 区長がオレの勝利を宣言するのを聞きながら、心の中で一応、ごめんと謝っておいたけど、多分許してくれないだろうなあ。ほんと、ごめん。でも、恨まないでくれよ……。

 情けとして、担架に乗せられて運ばれていくのを途中までは見送ってから、客席に戻る。出迎えてくれたイロは目を髪の毛みたいに真っ赤にしていたけど、平常心は取り戻していた。

「お疲れ」

「おう」

 小さく頷いて、隣に腰を下ろす。大丈夫かと聞いておきたい気持ちは山々だったが、頑張って別の話題を振った。

「次も勝てると思うか?」

 違和感がないと、いいんだけど。演技力に自信はない。

「勝てよ。次が決勝だぞ」

「え、もう?」

 素で驚いた。まだ二回しか戦ってないっていうのにもう決勝なのか?

「先程きちんと説明致しましたでしょう? 一度のトーナメントで参加できるのは十名のみなのです。うち二名は前日のトーナメントで二位と三位だったものがシードとなります。残りはランダムですので、参戦できない日も存在するのですよ」

「へー」

 イロを挟んだ向こう側からフランソワーズが解説してくれるのを聞いて、素直に感心した。どこの区長も面白いシステムを考えるもんだなあ。オレが区長だったら、どんな試練を用意するだろう。どういう力を持つ奴が次へ進む資格を持ってると判断を下すのか、自分でも想像がつかない。

「イロだったら、どんな試練を出す?」

「は?」

 脈絡のない問いに、怪訝そうな顔をされた。でももうそんなのは慣れっこだ。

「もしも区長だったら、どんな奴にスタンプを押したい?」

「……本気で『無慈悲な神』に祈りたい奴、かな」

 こういう時に、案外真面目に答えてくれるのがイロだ。茶化したりあしらったりしない。

「わたくしは、強くて美しい婦人とお茶でもしたいですわ」

 フランソワーズのようなふざけた答えもしてこない。

「フィリップは? 何かあるのか?」

 真剣に聞き返してくる始末だ。イロは気を抜くってことがない。いつだって肩を張って、四六時中アンテナを張り続けてる感じ。いつか、ぷつっと糸が切れたりしないか心配だ。まっすぐすぎるのも考え物だ。でも、それでも。

「一本気な奴がいい。一芸に秀でてるとなおいいな」

「ふーん」

 簡単に揺るがない固い意志は、FKで重要な要素の一つに違いないはずだ。

 それに、やっぱりオレはそういう奴が好きだ。昔の親友のジャン=クロードも一本筋が通ってた。今の相方であるイロもそうだ。負けたら悔しいと思える。何かを成すために他の全てを斬り捨てようとする。茨の道こそ、力強く歩んでいく。憧れる存在だ。

 もしも区長になれるなら、そんな奴を讃えたい。

 加えて意志だけじゃなく、何か特技があるといいなあ……っていうのが空想のオレの区だ。冒険小説の敵みたいになるのは楽しいだろう。きっと毎日わくわくしそうだ。区長の仕事のメインは政治とかしちめんどくさいことばっかりだとしても、だ。まあ、いつか何かの巡り合わせで区長になれる時が来ても、断るんだけどな。オレはFKにいたいんじゃない。オレの故郷はいつだって家族のいるあの場所しかありえない。貧弱な父親も死んでしまった母親も、血の繋がらない妹も弟も、学生時代の友達だってあっちで待ってるはずだから、必ず帰ってみせる。絶対に、全てを思い出して、晴れやかな気分で家の敷居をまたいでみせるんだ。

 ——そのためには、まずここで勝たなきゃいけない。

 他人同士の試合に興味がないオレは、ジッポいじりを再開した。開け閉めを繰り返してると、少しは気がまぎれる。イロのことを気に揉まなくて済む。もう平然としてるとは言ったって、オレが決勝まで勝ち進んでイロが一回戦負けってのは面白くないだろうから。フランソワーズが遠慮なく喋り倒してくれるのがこの時はありがたかった。

 やがて、同じく勝ち進んでるらしいフランソワーズも名を呼ばれて、軽快に闘技場へ向かっていった。さっきはイロのせいでどういう戦い方をするのかも見れていなかったから半ば身を乗り出すようにして、試合開始の合図を待った。

 対戦相手は、全身紺色に身を包んだ人だ。顔も目元以外覆っているから性別はわからない。電光掲示板には、『西 シモン』と名字だけが載ってる。そんな相手に向かって、フランソワーズは「わたくしに、傷一つつけないでくださいませ。これでも嫁入り前の娘なのですよ」なんて意味不明な台詞を吐いている。角度の問題で背中しか見えないが、嘲るように笑ってそうだ。大胆不敵というか、唯我独尊というか。

「準備はいいかな? はいはい、試合開始!」

 区長が高らかに宣言してもどちらも動こうとしなかった。フランソワーズは日傘を差したまま、シモンは棒立ちでお互いの様子を伺っている。緊迫感も何もない。早く仕掛けちまえばいいのになあ。

 そこから、十分以上も何も起きなかった。見つめ合った二人は、一歩も動こうとしない。客席がいくらざわついても、区長が退屈そうに欠伸をしても、一歩も動かない。

「おい、フランソワーズ! そろそろ攻撃しろよ!」

 耐えきれなくなって野次を飛ばす。イロが腕を掴んで制止しようとしてきたが、構ってられるか。日が落ちるまでに決勝ができなくなったらどうしてくれるつもりだ。

「フィリップ・アレス。少々、口を閉ざしていてくださらないかしら。勝負はとっくに、始まっていますのよ」

 背中を向けたままこっちを一瞥すらしないフランソワーズは重苦しく答えた。意図がさっぱりわからない。シモンはそこまで警戒する必要がある奴じゃないだろうに。決して体格がいいわけでもないし、威圧感があるわけでもない。むしろ存在感は限りなく薄いくらいだ。攻撃を渋る理由が全くわからなかった。

「フィリップ。……よく、見てみろ」

 腕を再び引っ張られて、しかたなく闘技場に目を走らせる。でも真上から眺める限り、別段変わった点は見つけられない。反論しようとして、イロに首を振られる。

「違う。壁だ」

 言われた通りに、壁を注意深く見る。オレが試合した時と特に変わらない。念のため身を乗り出して、フランソワーズが背にしてる東側の壁も覗き込んだ。

 そこには、大量の針が突き刺さっていた。ちょうど、フランソワーズの真後ろに当たる場所だけを避けるようにして。

「イロ、これって……」

「勝負はとっくに始まってたってことだ。フランソワーズの言う通り」

 そうは言っても、正直信じられない。針を投げるために腕を上げれば気づきそうなものなのに、全く捕らえられないなんてありえるのか? けど、凝視してると針が次第に増えていくのがわかる。微かな音を聞きつけて視線を向けると、新たな針が突き刺さってる。一本ずつだったり数本ずつだったり、針は確実に放たれていた。シモンが針を投げ、フランソワーズがそれを何らかの手段で弾いてる。信じられないけど、多分そういうことだ。

 ヤバイ。これじゃあどっちと戦うにしたって、オレに勝ち目はなさそうだ。気づかぬうちに息の根を止められそうだ。どうしようか。

「あら。脅しはもう終わりですの?」

 黒扇子を取り出して、フランソワーズはパタパタと仰ぐ。どうやら、針の攻撃は一旦止んだらしい。

 シモンは口を開かない。ただ、おもむろに歩き出した。フランソワーズに向かっていき、会話がしやすそうなくらいにまで距離を縮めた。だからと言って、口を開きはしないのは何なんだ?

「その目、疑問ですの? わたくしがなぜ数多の毒針を受けても身動ぎさえしないのか。ふふ、秘密ですわ。一つだけ教えて差し上げるとするならば、この特注のゴシック・アンド・ロリータの防護力のおかげですわ。服に刺さったものにおいては、肌まで届いておりません」

 その言葉に再び身を乗り出した。もしかして、避けてたんじゃなく、全部受けてたのか!? 予想は的中した。黒扇子で風を送るフランソワーズの手には、針が突き立ったままだ。血も滲んでるように見える。フランソワーズはいまだこっちに背中を向けてるから言い切れはしないけど、高確率で体の正面に針が突き刺さりまくってるってことだ。痛くないわけがない。たかが針と言ったって、あの壁みたいに針だらけだと思うとぞっとする。それもフランソワーズの言ってることが正しければ毒針だ。全身に毒が回ってて全然おかしくない。そんな状態で、平然と会話をする? 身体しんたいも精神もおかしいんじゃないか!? たとえ、服を着ている場所は大丈夫でも、手の甲だけで八本は刺さってる。正気の沙汰じゃない。胸の奥底がぞっと凍てついた。強いとか弱いとか、そういう問題じゃない。針を目にもとまらぬ速さで投げつけるよりも、ある意味恐ろしい。一体なんなんだ。フランソワーズ・フォレスティエ……。

「あら。驚愕で声も出ないのですか? では、わたくしが悲鳴を上げさせて差し上げますわ!」

 言うなり駆け出したフランソワーズは、日傘を投げ捨てた。いや、日傘の鞘を投げ捨てた。仕込み傘だ! 白刃が陽光で煌めく。心臓を狙って振りかぶったそれは、上体を傾けるだけであっさりと避けられる。攻撃が大振りすぎる。あれじゃあ、隙はつけない。フランソワーズは幾度も反りのない小刀を振り回すけど、一向に当たらない。最小限の動きで回避し続けるシモンにフランソワーズの苛立ちが募ってきてるのが、太刀筋でわかる。あれじゃあ、相手を倒せない。防御に関しては並外れた忍耐力を発揮したフランソワーズも、攻撃はからっきしらしい。今は実力を誤差なく計るために泳がされてるだけだ。いつか、決定的な一撃がくる。それに、フランソワーズが耐えきれるかが、勝負の分かれ目だ。

 気づけば、客席は静まりかえっていた。みんなが固唾を呑んで、決着を見守ろうとしてる。ただ、フランソワーズの息を切らせる音だけが大空に響いてる。イロが傍でごくりと唾を飲み込んだのが、馬鹿みたいに鮮明に聞こえた。

「は、はあああああ!!」

 柄を両手に持ち直して振り下ろされた渾身の一撃は、当然のように空振りして、切っ先は地に深く突き刺さった。勢い込んだせいで膝を突いてしまったその体勢はあまりにも無防備だった。すぐさま体に跨られ、首に右腕が回る。フランソワーズは咄嗟の抵抗で右腕に噛みつき引っ掻いたけど、すぐに頭ごと抑え込まれた。抜かりは一切ない。これ以上動けばフランソワーズの命はない。いくら頑丈とはいえ、窒息となれば話は別だ。シモンが殺そうと決意した瞬間に、終わりだ。反撃の余地はない。

 そう、オレは思った。だが甘かった。絶望してるはずのフランソワーズは、確かに微笑んでいた。

「あら。即効性のある毒ではなかったのかしら?」

 唐突に、悠然と疑問符を浮かべる。それにシモンが何やらはっとした様子で飛び退いた。注意深く観察すると、その腕には噛み痕の他に毒針が数本刺さってる。フランソワーズが自分に刺さってたのを突き刺し返したんだ。シモンは懐から取り出した丸薬を素早く口に含もうとして、その寸前で動きを止める。指先が震えていた。丸薬が手を離れ、ころころと転がっていって、フランソワーズがそれをゆっくりと拾い上げる。毒針を体の至る所に刺したままにした物騒な令嬢は、緩慢な仕草で丸薬を口へと放り込み、唇を舌でぺろりと舐めた。

「わたくしに、地についた薬を飲ませるなんて酷いお人」

 莞爾と笑む姿は悪魔の如くだった。


 勝者は、フランソワーズ・フォレスティエ。シモンは毒の効果で全身が痺れ、自ら解毒薬を飲み下すこともできずにあっさりと敗北した。おそらくフランソワーズは毒の耐性を持っていたということなんだろうけど、それにしても納得がいかない。——いや、恐ろしい。どんな攻撃をすれば、フランソワーズにまともな傷を負わせることができるんだ?

「フィリップ。……やられるなよ」

 闘技場へ歩みながら、おうと返事するので精一杯だった。心臓がさっきから早鐘を打ってる。高らかにオレとフランソワーズの名前を呼ぶ区長の声は遙か彼方だ。一歩一歩、あの場所に、フランソワーズに近づいてると思うだけで体が震えるのを止められない。息が荒くなる。果たしてオレは、勝てるだろうか。あの攻撃を避けること自体は、そう難しくない。けど、決定打をいつまでも与えられなきゃ、不利になるのはこっちだ。ルカみたいに無尽蔵に体力があるわけじゃない。長期戦になる前に倒す。それしかない。それしかないんだ。

「あら。そんなお顔をして、いかがなさったんです?」

「恐怖と緊張と昂揚で、ちょっとな」

 小刻みに震える手足をどうすることもできなかった。武者震いであると断言しきれないのが、どうにも嫌だぜ。全く。

「ふふ。心配なさらずとも、きちんとわたくしが楽にして差し上げますわ」

 優雅に目を細める様が、正直恐ろしい。自分より年下で背も随分低い令嬢に怯えるのは馬鹿らしかったけど、警戒しないでやられるよりきっとマシだ。

 オレは腰を深く落として、身構える。相変わらずフランソワーズは、ゆったりと立っているだけだ。一応毒針は全て引き抜いたみたいだけど、もしかしたら隠し持ってる可能性もある。それが一番危険だ。解毒薬はこの場にない。体内に毒の侵入を許した時点でオレの負けになる。わずかな傷一つが命取りだ。ったく、どうしてこんな綱渡りみたいな試合に出ないといけないんだか。恐怖の底でうずめく喜びに、口角が吊り上がった。

「やっとやっと、決勝戦になったよ! 東は、フィリップ・アレス。西は、フランソワーズ・フォレスティエ。本日の優勝者は誰かな誰かな!? それじゃあ、試合開始っ!」

 一拍の呼吸もおかず駆け出したオレを、フランソワーズは琥珀色の目で見据えてる。やっぱり、甘く見ていい相手じゃない。決意を固め直し、手加減のない一撃を頬に見舞う。難なくあしらわれる可能性も考えていたが、実際は見事に命中してフランソワーズは大きく転がった。握られていた日傘が宙を舞う。手を突いてしっかり受け身を取っているところ見ると、勢いを殺すために転がったんだろう。用心して追撃はせずに、フランソワーズが埃を払って立ち上がるのをじっと観察する。

「妙齢の女性の顔を狙うなんて、よろしくないですわよ。傷が残ったらどうしますの?」

「妙齢?」

 せいぜい、年がいっててもオレと同い年くらいだろ? 妙齢っていうには若すぎないか?

「わたくし、若く見られることが多いですけれど、実年齢は三十六歳でしてよ」

「三十六!?」

 見えない。とてもじゃないが見えない。

「ええ。この幼顔、いいでしょう。お気に入りなのです」

 近くに落下した日傘を拾いながら戯けてみせても、余計幼く見えるだけだ。何の自慢にもなってない。

 にしても、三十六か……。フランソワーズの底知れなさに拍車がかかったな。

「なんと言ったって、彼女が愛してくださるお顔ですから」

 にこにこしてるフランソワーズにげっそりした。その彼女が誰だっていいが、おそらく悲しませることになるだろう。余裕そうな表情を浮かべ続けられて、もう五発くらい殴っておきたい気分だから。それに、フランソワーズが直接肌を晒してるのは、顔、首、手、膝くらいだ。もしも本当にあのゴスロリに防御機能が備わってるなら、そこを重点的にやるしかない。

 深く息を吸って、また走り出した。これで、決める。

 フランソワーズは日傘をまた差し直して、こっちをじっと見てる。日傘の鞘から仕込み刀を取り出そうとはしない。それほど、防御に自信があるんだ。

 隙はきっと、そこにある。

 オレはもう一度、さっきよりも右手を大きく引いて頬を殴りつけようとする。流石に今度は、フランソワーズも反射的に避けた。それでいい。オレはそのまま右手で日傘の柄を乱暴に掴んで奪い取った。腕力はオレのがある。あっさりとフランソワーズの手から武器を奪い取ることに成功した。目を見張ったフランソワーズを適当に蹴り飛ばして、間合いを取る。だが、オレが日傘の鞘を払った時には、尻餅を突いたはずのフランソワーズは栗毛を振り乱して一直線に向かってきていた。瞬間、後悔した。慣れない刃物を奪い取ってしまったことは失策だったかもしれない。代わりに毒針を使うという判断を下させてしまったんだから。フランソワーズの手の内で光る毒針に、どう対応しようか迷う暇もほとんどなかった。咄嗟に片手で日傘を開いて盾とすると、フランソワーズの足が止まった。ほっと一息を吐く。が、それも一呼吸の間だけ。強引に日傘をわしづかまれて、引っぺがされる。慌てて後退して、力尽くで閉じられた日傘による一閃を見送る。攻めに回るとどうも凶暴化して危ないな。冷や汗が首筋を伝い落ちる。右手で握った小刀が妙に重かった。やっぱり、武器を奪い取るなんてやめておけばよかった。でも、今更手放すのも惜しい。続く日傘の太刀筋を小刀で受け止める。柄の金属と組み合う鈍い音がした。

「はっ!」

 気迫を込めて、左足で腹に蹴りを見舞うけど、フランソワーズは一歩も退かない。さっき蹴り飛ばした時も思ったが、何やら固いものが服の下にあるらしい。コルセットだか防具だかしらないが、厄介だ。これだけの固さなら、毒針が通らなかったのも頷ける。しかたない。狙うのは、顔か首だ。一番は顎を殴って昏倒させることだけど、刃物があるなら有効利用すべきかなあ。

 なんて考えてる間も、攻防は続いてる。斬りつけて防がれての繰り返しだ。終始、攻め手はオレだったけど、防御に関してフランソワーズは一級品だ。どんな方向からのもきっちり受け止めてくる。対してこっちは小刀なんて使い慣れてないから、状況は芳しくない。結局、数分悩んで未練は捨てることにした。下手に縋っててもしょうがない。オレは隙を見て、背後に向かって小刀を投げ捨てた。壁にでも突き立ったような音が響く。瞠目したフランソワーズとの間合いを大きく詰めて、左腕で抱え込むようにして日傘を抑え、引っ張った。不意を突かれてこっちに傾いだフランソワーズの顎を遠慮なく殴りつけた。普段ならここで勝利を確信するところだけど、フランソワーズに対しては念入りに、背負い投げをしたうえで距離を取る。本当は馬乗りになって動きを封じたいけど、さっきの試合みたいに毒針を刺されたら大変だ。

 だが、オレの心配は奇遇だったらしい。フランソワーズは起き上がる気配がなかった。

「おい。意識あんのか?」

 無言だ。意識があったって、普通敵に返事するわけがないか。遠巻きに観察したが、やっぱり気を失ったらしい。よかった。脳みそ揺らしても平気とか言われたらどうしようかと思った。

 ほっと肩を下ろした頃合いに、区長の声が高々と響き渡る。

「本日の勝者! 東、フィリップ・アレス!」

 歓声が沸き上がって、胸になんとも言えない充実感が生まれてくる。手を挙げて客席に答えるのが誇らしい。うおー、オレ勝ったんだな。

 運がよかった。さっきの試合もそうだったが、体勢を崩されるとフランソワーズは弱いらしい。そうじゃなかったら、顎への一撃はあっさり防がれてただろう。はー、よかった。

「フィリップ!」

 一際、鋭い声がオレの名を呼ぶ。顔を向けると、眩しい笑顔がそこにあった。

「やったな!」

「おう!」

 蒼穹に突き上げた拳が、何よりも清々しかった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る