4 Sous le ciel sans fin 果てしない空の下で
本日も、快晴。雲一つない秋晴れだ。そのせいか、ルカの声も透き通るように響く。
「イロくんもフィリップくんも早く! ほら、走って!」
18区に入ってからのルカはこれ以上ないほどテンションを上げていて、軽く二日酔いの身としては結構辛かった。確かに、様々な種類の宿が建ち並ぶ宿場町は圧巻と言ってよかったし、美しいとは思う。けど、ルカと同じテンションでは流石に騒げなかった。今朝も一人、早起きして半睡しているオレたちを引きずるようにして、19区から18区の門を抜けてきたんだ。パスポートに酒樽のスタンプを押してもらうのを、図々しくも区長を叩き起こしてやらせたくらいだ。
ルカがどれほど18区に来たかったかがよくわかる。わかるけど、やっぱり眠いし、頭が痛い。それは、イロもあんまり変わらないみたいだ。オレよりは悪酔いしなかったらしいけど、代わりにオレよりルカに引き回されてるから、調子の悪さに大差はない。
「最高だ!」
跳び上がって喜ぶルカをまたしても宥めつつ、オレたちは急ぎ、ルカが行きたいと切望していた宿に向かった。このままだと、町中を見て回って日が暮れるまで休めなさそうな勢いだった。どこにこんな元気があり余っていたんだろう。体力の底知れなさに、げっそりする。
「あった! ルカ、宿があったぞ!」
救世主を見つけたかのように、イロが看板を指差して叫んだ。オレも、似たような思いだった。全身から幸せオーラを撒き散らしながら、ルカがスキップしながら宿に入っていくのを、二人で見送る。ルカの姿が見えなくなると、どっと疲れが押し寄せてきた。近くにベンチでもあったら、倒れ込んでたことだろう。代わりに近くの街路樹に二人して寄りかかる。ほんと、疲れた。
一息吐いてから、改めて宿を見る。かつて伝説の英雄が好んだという宿の外観は、東洋によくある民宿というようなこじんまりとした雰囲気だった。木材の黒みがかった色合いや傷跡から、年季の入った老舗なのだろうということが伺える。だからと言って、ぼろいわけじゃない。大切に受け継いできたことが、看板の磨かれ具合から伝わってくる。建物を覆う庭の木々が淡く紅葉してるのが目に優しくて和む。自然を堪能してゆっくりと過ごすには最高なんだろうなあ。
「ちょっとー! 二人とも早く! チェックインしないと!」
引き戸を開けて顔を覗かせたルカをあしらって、オレたちはよっこいしょと、民宿の敷地へ足を踏み入れた。
内装も、予想通りの雰囲気だった。のんびりと寛げるロビーのソファは柔らかそうだ。振り子時計は左右に行ったり来たり。水槽の金魚は、こっちに向かってパクパクと口を動かした。呑気だ。時の流れが一段と遅くなったような心地がする。
「二人には最上の部屋を用意してもらいましたからっ!」
ルカはオレたちにサインを書かせるとすぐに階段へと押しやってくる。しぶしぶ、急で狭い階段を上って、背後の指示通りに進む。イロもオレも、ルカの強引さに諦めがついていた。
「さあ、ここが天空の間です!」
大げさな名前だと呆れながら部屋を見渡して、すぐに思い直した。
「うおおおお!」
窓に駆け寄って、景色を間近で眺める。窓辺には大木が生えていた。その紅葉も美しい。けど、本命はそれじゃない。蒼穹を背景に、色とりどりに染まった山並みがそびえ立っていた。標高としては大したことはないのだろうけど、その鮮やかさや地に根ざしたような姿は、圧巻だった。FKにそびえる母なる山、クレール
「すげえ!」
「そんなに、感動するほどか?」
「だって、……見ろよ!」
後ろで苦笑してるイロを引っ張って、この光景を見せつける。
「綺麗だろ!?」
「綺麗だな」
力説しても、イロは半笑いのままだ。ルカに応戦を頼もうかと思ったけど、当の本人は備えつけのお茶を早速入れているところだった。
「掃除も隅々まで行き届いていて、素晴らしいね。やっぱり」
と、上機嫌である。憧れの宿に満足してるようで何よりだ。やっと解放されていい景色が堪能できたオレも大満足だ。畳に胡座を掻いて、入れてくれたお茶を飲みながらお茶菓子をつまむ。至福のひとときだ。
「フィリップくん。イロくん。ありがとう。二人がいなかったら、僕は18区に来ることはきっとできなかった。残念だけど、僕はここで修行するからこの先の旅にはついていけない。代わりに、この部屋を楽しんで。18区は、どこかの宿に一泊してアンケートを区長に提出するだけで、17区にいけるから。……それじゃあ」
そう言って、あっさり席を立とうとするルカを慌てて呼び止めた。
「待てよ。一緒にここに泊まるんじゃないのか?」
「ううん。僕はすぐに修行を始めるから、お別れ。働くのはこの宿だけど、最初は下働きだから会うことはないと思う。さよならだ」
一抹の未練もないらしかった。ルカの顔は、一人前の大人らしい晴れやかさだった。
「そうか。じゃあな」
イロの挨拶は味気なかった。もっと、名残を惜しんでもいいだろうに。そう思うのは、身勝手なんだろうか。
「ルカ、頑張れよ。応援してるからな!」
かと言って、固く握手することくらいしか、オレにだってできないんだけど。
「ありがとう。二人とも。本当に」
青いマリンキャップを外して丁寧に腰を折ったルカは同じく青いマントを翻して去っていった。その堂々とした去り際は、なかなか忘れられそうになかった。
窓辺に腰を落ち着けてると、吹き抜けてくる和風に穏やかな気持ちになる。伝説の英雄が好んだ宿だというのがわかる気がした。この雰囲気を満喫しているオレだったけど、対してイロは涼しい顔で座卓に向かっている。流されるまま、イロと同室になったわけだけど、態度が軟化したわけではない。いや、声を荒げて文句を言われないだけ以前よりマシなんだろうか。イロは黙って手帳に書き物をしている。お茶を啜る音くらいしか、部屋には響かない。穏やかな時間がイロを見てるとどうもぎこちないものになってしまう。
「なあ、せっかくだし、観光にでもいかないか?」
恐る恐る誘ってみる。顔を上げたイロは、覚悟してたような不機嫌な表情を見せなかった。少し思案する素振りをしたのち、頷いたのだ。これは、オレのほうが驚いた。まさかそんなあっさり了承してくれるとは思っていなかった。
「行かないのか?」
手短に身支度を終えたイロに言われて、オレは慌てて荷物をまとめた。なんだろう。距離感が掴めない。結局オレはイロに嫌われているのか、そうじゃないのかどっちだろう。
慣れた様子で階段を下りて宿を出るイロに続きながら、オレは背後から観察していた。イロは小柄だ。目算だけど、百六十センチ前後しかないと思う。オレとは三十センチ以上も差がある。東洋人と西洋人の違いだろうか。残念ながら、東洋にまで足を伸ばしたことはないから断言はできない。FKで名を馳せた伝説の英雄もそういえば、東洋の果ての果てにある辺境の出身だと聞いたことがある。イロが果たしてそんな辺境出身とは限らないけど、名前の響きが似ていたり、伝説の英雄に関する知識を持ってたりするのにはイロの故郷と関係があるのかもしれない。少なくとも、東洋人であることと、西洋語が母語でないことだけは確実だ。血のような赤毛は多分、染めたんだろうということは察しがつく。オレのオレンジみたいな赤毛とは違うし、東洋人は大抵色素の薄い茶髪だ。まさか、英雄の黒髪ではないと思うけど。英雄と同じ黒髪を持つ者は、それこそ辺境にしかいないと聞く。オレも黒髪の奴なんて会ったことがない。言語に関しては、アクセントに東洋系のなまりがあるから明白だ。なまりがあるにしろ、よく西洋語を覚えたよなと感心する。オレにとっては母語だけど、よその語圏からすると動詞の活用の多さに辟易する言語らしい。まあ、それにはオレも同意見だ。稀に間違えることもあるくらいだから。語学って難しいよなあ。尊敬する。
なんて、町をぶらつきながらいくらイロを分析してみたって、感情を読めるわけじゃない。思考回路は依然読めないままだ。余計わからなくなったような気さえする。
「観光っていったって、見たいとこあるのか?」
「いや、特に。そもそも何があるか知らないし」
オレの返答に、イロはあからさまに呆れた。
「安らぎと癒しの宿場町。18区。ここの区長は温厚なことで有名だ。そのおかげか、17区と16区の区長とは仲が悪い。19区のほうとは何だかんだ折り合いがついてるって話だ。酒の輸出入とかが関係してるらしい。まあそれでも、物騒なことが嫌いな人柄って噂から喧嘩とかはなるべく避けるに限る。治安も悪くないし、住みたいFKの区、上位五位には確実に入るだろうな。実際には旅行客が多いらしい。ここは古今東西の宿が建ち並んでるからな。ルカみたいに、わざわざFKの外から足を運ぶ客が後を絶たない。18区に直行で来られるヘリのツアーもある。その場合はパスポートを持ってないわけだから、行動が色々制限されるらしいけど」
「ちょっと待て。20区から順番に越えてこなくても18区に来れるのか?」
初耳だった。そんな楽で裏技みたいな方法があるなんて。
「観光程度だったら、区によっては飛行手段を利用しての移動を許可しているところはいくつかある。10区や2区なんかがそれだな。スペースの関係上、飛行機じゃなくヘリが一般的だけど」
「へー。よく知ってるな」
「FKに来る前に事前に下調べしておかなかったのか? 基本情報なら、FKの外であっても調べられる。区によっては通過のための条件を広く公開しているところだってあるくらいだ。それに、FKの入り口にガイドブックもあっただろ?」
そんなもの、見た記憶はなかった。
黙りを決め込んだオレに、イロは肩を落とした。少し情けなくなる。知識量では絶対に勝てそうにない。
「ま、そういう観光手段を用意してるから土産物屋やちょっとした行楽ができる場所はある。……あっちだ」
けど、蔑むような視線はない。イロは自らオレを先導してくれる。一体いつの間に、心を許してくれたんだろう。
美しい景色をいくら見せてもらっても、美味しそうなお土産をつまんでも、そのことが気になって仕方なかった。
「おい。観光したいって言ったのはフィリップだろ?」
公園での散策途中、今ひとつテンションの上がらないオレに向かって、眉間に皺を寄せたイロがやっと文句を言ってきて、安堵したくらいだった。その場に立ち止まって、素直に謝る。
「悪い。楽しいことは、楽しかった」
嘘じゃない。宿は多種多様の建物が揃っていて、それを見るだけでも飽きなかった。口にした土産物も、種類が豊富でどう考えても大半は輸入品だろうなあなんて下世話なことも考えてしまったけど、うまかった。
「気もそぞろだったくせに。何がそんな気になってるんだ?」
真っ正面から問われて、口ごもる。公園は、紅葉した木々でいっぱいで、傾いてきた夕陽の色に染まってて綺麗だった。
「言えよ」
イロは、答えるまで動こうとしないだろう。それくらい、もうわかってる。濃く伸びた影が二つ。公園にぽつねんと取り残されていた。
「オレは……お前のことがよくわからない。名前と性格くらいしか、把握してない。けど、なんつーか、その頑固さは悪くないって思ってる」
イロは口を挟まなかった。だからオレは、黒々しい影を見下ろしたままでいた。
「きっとこの先、FKでの試練はもっと危険が待ち構えてる。それはまぎれもない事実のはずだ。だったら、一人より二人のほうがいい。そんで、一緒に組むなら気心の知れた相手がいい」
「別に、僕とお前は気心知れてないだろ」
先回りして否定されて、苦笑するしかなかった。でも、語を継ぐことをやめたりはしない。
「それでもオレは、単純にイロだったら信頼できるって思った。いざとなったらお前、オレを全力で突き飛ばしてでも先に進むだろ」
「当たり前だ」
間髪入れずの返答に、笑みがこぼれる。
「だから、お前がいい。オレは、後悔しない相手と組みたい。こいつとだったら、なんかあったって許せるって思える、そんな奴を相方にしたい。だから、イロ。一緒に『無慈悲な神』のところまで行こうぜ」
「フィリップは、本当に『無慈悲な神』がいるって信じてるのか? ……違うだろ? それなのに、そんな誘い文句」
「信じてるさ」
ねちねちと続きそうな非難を、オレはきっぱりと遮った。
「というか、信じていたい。『無慈悲な神』がいなかったら、オレの記憶は戻らない。そんなの、嫌だ。オレは、失った時を取り戻す。絶対に」
決意を込めて、イロの茶色の目を見据えて、宣言した。吹き抜けるそよ風が、二人の色の違う赤毛を揺らしていく。
「僕は、フィリップのことを信じられない。きっと、死ぬまで。……それはフィリップのせいじゃなくて、多分僕のせいでもない。もう、どうしようもないことだ。変えられない事象だ。だから僕はいざとなったら、お前を突き飛ばすどころじゃない。容赦なく殺すよ。たとえ卑怯だと言われようと、背後から撃ち殺す。この世界の全員から恨まれ疎まれようと、僕は自分の願いを叶える。それだけのために、今ここに立っている」
辺りが、茜色に染まっていた。もうすぐ日は完全に沈んで夜になる。イロが取り出したアサルトライフルみたいに真っ黒な夜がやってくる。
「フィリップ。それでも、僕と組みたいって言うのか。殺すっていうのは冗談でもなんでもない。ゴム弾だってこれだけ至近距離なら致命傷になり得る。それをわかってないわけじゃないだろう?」
イロは幾度となくオレに銃口を向けてきた。今だって、はっきりと突きつけてる。その意志が本物じゃないなんて、オレは思ってない。——だけど。
「プーカの言った通りだと、オレは思う」
「は?」
「イロは、人を殺すのが下手くそだ。狙うなら、殺す意志を表明したいなら、心臓か頭を狙わないと」
銃口はオレの腹に向いていた。そんなんじゃ必ず致命傷になるとは言えない。出血多量で死ぬ可能性もあるけど、内臓に当たらなかったら助けを呼ぶくらいは何とかなるだろう。ここは幸い観光地となってる公園だ。誰かが見つけて手当てをしてくれるはずだ。それを不可能にしたいなら、喉や目を狙ったほうがいい。それとも動きを鈍くさせるのが目的なら、足のが効果的だ。
「大丈夫。オレは、イロを騙そうとは思ってない。でももしそう見えるなら、ずっと疑ってればいい。違うか?」
「疑われ続けることを、選ぶっていうのかよ」
銃口と声が、震えていた。
「どーだろうな」
しばらく、イロは沈黙を守っていた。その間に公園の薄暗さは増していく。濃かった二つの影は、周囲と混じり合おうとしている。
「わかった。一緒に行こう。『無慈悲な神』のおわすところまで」
長い沈黙の後、アサルトライフルを下ろしたイロが、右手を差し出した。その手を固く握る。埋もれかかっていた二つの影は、確かに繋がった。
握り返してくる手の必死さが、握手を終えた後でさえ、強くこの手に残っていた。
翌朝、17区との境目近くに置かれていた箱にアンケートを突っ込み、係員に「またのお越しをお待ちしております」と書かれたスタンプを押してもらった。18区を出る前に、ルカに一言挨拶しておきたかったけど、身に纏った青色を見つけることすら叶わなかった。
「おい、行くぞ。フィリップ」
「おう!」
代わりに、青く透き通った空へ別れを告げてオレは18区を後にした。相方となったイロと一緒に。
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