3 Vent au visage rend l'homme sage. 逆風は人を賢くする。
パスポートに押された胡蝶を象ったスタンプを何となく眺める。金色のインクで押されたそれは今にも羽ばたきそうなほどの躍動感がある。意図せず、笑みが浮かんでくる。
やっとスタート地点に立てた。そんな気分だ。
憧れのFKで『無慈悲な神』に祈るための資格を一つ、手に入れた。何とも言えない嬉しさがある。
昨晩は、胡蝶のオペラ座で一泊させてもらって、睡眠はばっちり。ちなみにイロは夕方、パスポートの発行が終わった途端に19区へ渡ってしまったからもう別れてる。縁があればまた会えるだろう。そんなわけで、オレは一人、いつでも戦えるという万全の状態を整えてから19区に入ったわけなんだけど、一歩敷地内に踏み出した時点で少し引き返したくなった。
吊り橋だ。20区と19区を隔てる塀の扉を通り抜けたと思ったら、踏み出した先は、ゆらゆらと揺れる不安定な吊り橋だった。時代がかった年季物であるということが、古びた木材やら縄やらから伝わってくる。腐り落ちている板がないだけマシって感じだ。
短く口笛を吹いた。真下に空いた大きな穴に反響していった音がする。吊り橋の架かっているのは、本当に大きな穴だった。件のオペラ座がまるごと落ちていけそうなくらいの直径がある。底は、暗闇に包まれて何も見えない。
「初っぱなから肝試しか」
高所恐怖症ではないから、渡ることに別段の問題はないけれど、なんというか先が思いやられた。19区区長は一体どんな無理難題を課してくるのやら……。また誰かを殺せと迫られないといいけれど。この前みたいな切り抜け方はそう幾度も使えない。
微風で揺らぐ吊り橋をさっさと渡り終えてしまうと、賑やかな街の入り口に辿り着いた。通りの左右から赤提灯がずらりと垂れ下がっている。ここかしこ居酒屋らしい。酔っぱらいの声や陽気な音楽が漏れ聞こえてくる。街を歩く人も、酒瓶を手にしているのがちらほらいる。
19区は酒の街らしい。オレも酒は好きだ。母国では十七になるまで飲めない法律があったから、初めての飲酒はついこの間のことだが、最高だった。あの時の味を思い出しながら、オレは勇んで居酒屋の一つへ足を踏み入れた。
「いらっしゃーい!」
狭い店内は、朝食を食べている客で埋め尽くされていた。なかなか人気の店らしい。立ち飲み屋のようだが、些細なことはどうでもいい。適当なカウンターに身を寄っかからせて、駆け寄ってきた店員に、生一つ! と人差し指を立てる。気持ちのいい瞬間だ。店員は慣れた様子で注文を繰り返すと、手が上がった他の卓へ走っていった。
生ビールのジョッキは数分も待たずに運ばれてきた。店員は早速口をつけたオレに向かって、苦笑気味に聞いてきた。
「受付は、……されないんですか?」
「え?」
言っていることの意味がわからなかった。まるで、酒だけを飲みにきたことに文句を言われているようだ。
「それとも、一回の失敗でへこたれちゃった口ですか? 先週のも大変だったらしいですからね。『無慈悲な神』に祈ろうとする人々は大変ですねえ。同情します」
他の卓に届けるらしいジョッキを更に三つほど抱えながら、店員は肩を竦めてみせた。
「あたしみたいに、ここで生まれ育てば、あんな区長の道楽に付き合おうなんて気、さらさらなくなるのに。高望みは禁物ですよ。FKは下手なことすれば、簡単に命を落とせる場所なんですから」
「ここで、受け付けてるの?」
「あれ、知りませんでした? いつものとこに張り紙出てたでしょう? 今日はうちの店が受付になってるんですよ。どうです? 挑戦します?」
「勿論!」
そうか。居酒屋がその区長の道楽とやらの受付になっていたのか。酒好きなのかもしれない。何にしても、最初に入った店が受付だったのは運がいい。20区の時は裏路地に入るまで、真っ昼間の往来を行ったり来たりしまくって大変だったんだ。20区はFKの入り口だし、区内への出入りが制限されてないせいで、冷やかしの観光客も多かったから、こうやって20区を越えてきた者と19区の出身者しかいないのはありがたい。FK内部に入り込んだんだなって感じがする。大きな塀の内側は秘密基地みたいだ。
「お仲間はこれから呼べばいいよね。何人?」
注文票らしき紙を取り出しながら、店員は聞いてきた。
「へ?」
「だから、一緒に挑戦するの何人なんですか?」
「一人、なんだけど……」
言った途端、店員の眉間に皺が寄った。
「お仲間に愛想でも尽かされました? 事情は知りませんが、ちゃんと最低限の人数ぐらい集めてきてくださいよ。最低二人からの挑戦って、大々的に知らせているでしょう?」
「マジで?」
そんな情報は、ちょっとも耳に入っていなかった。
「マジですよ。じゃ、夜までにちゃんと相方見つけてきてくださいね。五時まで受付はしてますから〜それじゃ!」
店員はそこまで言うと、怒鳴り声を上げている卓にジョッキを持って走っていった。
その後ろ姿を見つめつつ、オレは頭を悩ませる。どうしよう。19区になんて知り合いはいない。そもそもFKに自体いない。顔見知りと言えば、昨日出会ったイロくらいのものだけれど、ペアを組もうと言って快く頷いてくれる相手じゃないのはわかってる。そもそも、イロのことだから、凄く強そうな、有益になりそうな奴らと昨日のうちにでも親交を深めていそうだ。ということは、オレは自分の力で仲間を作らなきゃいけないわけだ。学校で友達を作るのとは要領が違うよなあ。ジョッキを煽りながら、周囲を見回す。客は老若男女、強壮も痩身も各種取りそろえてあるって感じではあるが、大抵が誰かと談笑している。あそこに割って入るとしたって、誰と組むのがいいだろう。やっぱり強そうな奴かなあ、などと思考を巡らせていた時、暖簾を潜ろうとしていた一人の青年と目が合った。
イロみたいに少年と表現しなかったのは、イロよりも身長が高かったのもあるし、オレより年上っぽい雰囲気があったからだ。痩身で利発そうな顔立ちだった。その青年は暖簾を押し上げて中の様子を探っていたけれど、オレと目が合った途端、なぜだか目を輝かせ、青いマントを翻しながらこちらに駆けてきた。
「あの!」
青年はずり落ちそうになった青のマリンキャップの鍔を掴んで、オレに向かって言った。
「僕と組んでくれませんか!?」
青年の名は、ルカ・ブランシュ。FKの東側に位置するLPことLa liberté de prairie〈草原の自由〉出身で、二十歳ちょうど。両親は幼い時に亡くなっていて、義理の両親が経営している宿屋で育ったらしい。なんでもFKに来たのは、18区が有名な宿場町だかららしく、そこに修行をしに来たそうだ。最初の20区はなんだかんだと通過することができたけれど、この19区で足止めを食らってしまったらしい。もう何度も挑戦しているというのに、幾度も失敗を繰り返して一向に18区に辿り着けそうもないのだという。18区へ常日頃から自由に行き来するような商人たちはとっくに専用の手形を持っているから頼りにならず、常に挑戦しているような人々はペケの回数が二桁になってしまったルカともう手を組もうとしないらしい。よって、新顔のオレを見掛けて勇んで声を掛けてきたという。
早口に捲し立てるルカから聞けた情報はそんな感じだった。なんとなく、他の奴らが断る気持ちは察せてしまった。ルカの体は針金みたいに細長く、厳しいと言われている試練に打ち勝てるようには、正直とても見えなかった。
「今日は運がよくて、さっき頭の良さそうな子を既に一人捕まえてあるんだ! その子と、体格が良さそうな人がもう一人いると心強いと話していて、探していたところだったんだ。ねえ、フィリップくん! どうかな? まだ一緒に挑戦する人決まっていないなら三人で!」
灰色の瞳をキラキラさせて迫られると、なんとも断りづらいものがあった。それに、これからわざわざ人を探すのも面倒だったから、オレは了承した。全力で喜ぶルカに呆れつつ、オレはジョッキを空にして店を出た。
ルカのいうもう一人が待つのは、店から少し行ったところにあるこじんまりとした宿だという。ルカもそのもう一人もそこに宿泊しているらしい。一体どんな奴だろうと、オレは想像を膨らませていたけれど、早々に気づくべきだったと思う。ルカは、今日、頭の良さそうな子を捕まえたと言ったんだ。数日前とかじゃない。そしてそれは当然、ルカと今日が初対面の奴だったはずだ。20区からやってきたばかりの奴。オレが吊り橋を渡ったのは、まだ朝の時間帯だ。オペラ座に泊めてもらったのはオレ一人。出立時に人の気配なんてなかった。だから早朝に20区でのあの無理な二択を迫られた奴らはいなかったということだ。つまり、オレのすぐ前に吊り橋を渡って、新顔としてルカと会うことができたのは、あいつしかいなかったのである。
再会したのは、宿のロビーだった。ソファに深く腰掛けて何やら手帳に筆を走らせていたのは、あいつ——イロだった。イロは、ルカの帰還に頬を緩ませるよりも前に、オレと目を合わせてしまった。途端に、信じられないという顔をされた。
「よお。久しぶり」
返答はない。そんなに酷い別れ方をした覚えはないんだけれど、イロにとっては結構会いたくない相手だったらしい。……そんな気はしていたけど。
「え! 知り合いだったんですか?」
ルカが一人、嬉しそうな声を上げている。この場の微妙な空気にはいまいち気がついていないみたいだ。
「それならちょうどいい! 三人で仲良くやりましょうね!」
「僕、そいつとは組みたくない。他の人にしよう。探してくる」
手帳を素早くしまい、頭陀袋を背負いなおして、イロはさっさと立ち上がった。
「ま、待って! 一緒に挑戦してくれるって約束したはずだよね?」
「ちょっと、そこの奴と顔を合わせたくないので」
「随分嫌われたもんだな。そこまで機嫌悪くするようなことしたか?」
少し心外である。20区ではむしろオレのおかげで二人ともオペラを鑑賞することができたと言って過言ではないだろう。
「僕は人から手助けをしてもらいたくない。結ぶのは利害関係だけで十分だ」
「ルカともそうなわけ?」
「勿論。ルカは過去十三回も挑戦して失敗している。……それだけ情報を持っているということ。備えあれば憂いなし、だ」
「へえ、なるほど。オレはその点、邪魔だと」
「ああ。役に立たない。頭数に入れる気にはならない」
そこまで言われると、意地でもチームを組んでやりたい気持ちになってきた。ずいと近寄って見下しながら言う。
「オレは、ここの攻略に不可欠だと思うけど?」
「どこが」
「オレとお前は喧嘩したら、オレのが強い」
「試してないだろ」
「腰抜かしただろ? オレがナイフ向けた時」
「あれは……、あれ。これはこれだ」
「どーだか」
「腕っ節だけしかないのならお断りだ」
「多少は頭も使える。一応、学校も卒業してるからな」
初等教育五年間に、中等教育五年間きっちり受けている。成績が物凄くいいとは言わないけれど、人並み程度の勉強はできる。
「学校の頭の良さと、実戦で使える頭の良さは別物」
「あのなあ、何にしても20区で最終的に生きて出られたのはオレの力だろ?」
「向こうが、僕に選択権を与えなかったから、何をしたってフィリップの力になるだろ」
「屁理屈言うなよ……」
往生際の悪い奴だ。
「イロくん、いいじゃん。フィリップくんだってこう言っていることだし。三人で頑張ろうよ!」
見かねたルカも説得に加わってくれたが、イロは首を横に振った。
「他人とは、できるだけ関わりたくない。二人組でもいいならそうするのがいい。フィリップと組むより、マシだ」
信頼とか信用とかそういうのと全力で縁を切った人の言葉だった。寂しいと、素直に思う。もうちょっと人を頼ればいいのに。お礼が言えないほど冷酷無情でもないはずなんだが、どうにも距離を取ろうと躍起になっている節が見受けられる。なんだかなあ。
「イロくん。そこまで頑ななんだったら、僕は君と組まなくてもいいんだ」
思いがけず、ルカが低い声で淡々と物を言った。
「力になってほしいとはお願いしたけど、無理なんだったら他の人を探して。僕だって、人を選ぶ権利はあるはずだ。協調性がないっていうなら、これから一緒に挑戦なんて不可能だよ。……少なくとも僕はそう思う」
イロは、戸惑った様子だった。こういう流れは想像していなかったらしい。オレもだ。
「わかった。……悪かった。我が儘を言った。ごめん」
存外、イロは素直に頭を下げた。オレにというよりルカに向かってだけど、まあそれは許容範囲内だ。
「ありがとう。三人で、頑張ろうね」
ルカの灰色の瞳が、柔らかく細められた。案外、食えない奴なのかもしれなかった。
夕方五時前、再度あの居酒屋を訪れたオレたちはルカをリーダーとして受付を済ませて早めの腹ごしらえをしていた。
「簡単に、19区の試練についてもう一度説明します」
ボロネーゼをフォークに巻きつけながら、ルカは物憂げな顔をしていた。以前までの失敗を思い出しているのかもしれない。
「パスポートにサインを貰う条件は、ランダムに出題される五問全てに、どのチームより早く正解すること。と言っても、頭脳だけを試されるわけじゃなく、体力や筋力などを試されながら解くことになる。僕が経験したのは最大三問目まで。多くの場合そこで失敗することが多いんだ。さっきあらかた説明した通り、ランダムな出題とは言ってもある程度パターンが存在する。出題される問いは違ったとしても、その間肉体的に求められることはそこまで変わらない。だから重要なのは手早く問題を解ける知力に、それまで耐える運動能力ってところかな」
メモをしていた文章と照らし合わせていたイロは、軽く頷いて手帳を閉じた。
「了解。作戦としては、対策方法を即座にルカが判断する。それに基づいて僕が問いを解き、時間稼ぎはフィリップが担当する」
「成功しなきゃ、来週まで挑戦は持ち越しと」
「そう。週一の開催だからね」
その週一の開催日が今日ということだ。簡単な復習はあっさりと終わって、オレたちは結局のんびり夕食をいただく算段になったんだけど、どうにもイロとオレとの間にある確執が埋まったような気がしない。ルカを真ん中に挟んでカウンターに並んで座っているわけだけど、その一人分の距離がオレたちの実質的な心の距離と言ってよかった。ルカはそういうことに頓着しない性格というか、あんまり人の機微には敏感じゃないようで、一人美味しそうにボロネーゼを食べている。オレはナンを囓りつつ、イロはドリアのブロッコリーをスプーンでつついている。会話らしい会話は弾まない。この三人組で果たして大丈夫なんだろうかという疑問が、やっぱり少し浮かんでしまった。
「なあ、イロ」
しぶしぶ話し掛けてみると、イロはブロッコリーを咀嚼しながら鬱陶しそうにこちらを見た。目が「イロと呼ぶな」と告げている。本当に嫌われてるらしい。
「三人組だってこと、忘れないでくれよ?」
下手したら、オレは途中で置いてかれない。イロは鼻で笑うようにして食事に戻ってしまった。ううん、どうしてここまで嫌われなきゃいけないんだか。
しばらくして、皿が空になった頃合いに、店主らしき男がマイクを握っていた。
「どうも! お集まりの皆さん! 初めての方もいらっしゃるようなので、一応ご忠告いたします。この試練はまれにですが、命を落とす方もいらっしゃいますので、自己責任の参加でよろしくお願いします。取り止めるなら今です。私のように、隻腕になりたくないのなら、お止めになるのが賢明ですよ!」
彼は肘から先のない左腕を宙に掲げてみせながら言った。19区の試練によってなくしたのか定かではないけれど、威嚇効果としてはなかなかだ。ぞくぞくする。
「まあ、ここでおやめになる方なんていらっしゃいませんよね。それでは、入り口まで共に参りましょう!」
店主の先導により、オレたちが連れられたのは、あの吊り橋だった。大きな穴が夕暮れの薄明かりを呑み込むように口を開けている。
「本日に入り口はここになります! 穴に飛び込めばスタートとなります。合図は私のカウントです。いいですかー? アン、ドゥ、トロワ! はい! いってらっしゃいませ!」
声掛けと共に、二十人以上いる挑戦者たちがロープなどでゆっくりと暗闇の中に下りていく。イロとルカもかぎ爪を地に埋め込んでいた。話には聞いていたけれど、随分なスタートだ。本当にここは肝試しの場所らしい。ああ、わくわくする。
「イロ、ルカ! こっちだ!」
もたもたしている二人に声を張り上げて、オレは吊り橋のほうへ駆けていく。今、吊り橋には誰もいない。好都合だ。咎めるようなイロの声が聞こえたけど、すぐに舌打ちとともにオレを追いかけてくる。そういう判断のはやいところ、好きだ。三人で揺れる吊り橋の上に乗る。
「何するつもりだ! 時間勝負なんだぞ!」
「ああ、こっちのが早い!」
言うなりオレは、ルカの腰からタガーを抜き取って吊り橋の縄を切り落とした。支えを片方失った吊り橋は、穴の底へ向かって落ちていく。
「ええええええええええええ!!」
「フィリップウウウウウウウ!!」
驚愕と憤怒の声も風にさらわれていく。ああ、なんて気持ちがいいんだろう! 服も髪も落下のおかげで煽られるのが堪らない。ルカが青のマリンキャップを、イロが器用に回収していたらしいかぎ爪を抱えているのが滑稽だった。全員、吊り橋の踏み板や縄を掴めたおかげで、オレたちは真っ逆さまではなく、向こう岸の崖に振り子の要領で叩きつけられようとしていた。
「受け身取れよー!」
直後、体を丸めたオレたちは無様に崖に叩きつけられた。だが、踏み板から手を離した者は一人もいない。上出来だ。上を見上げると茜色の空と、まだまだゆっくりと下りている挑戦者たちが唖然としているのが見える。よし、一番乗りだ!
穴の底までの距離はたかが一メートルくらいだった。ぱっと飛び降りて、二人に手招きをする。青ざめた顔をした二人はオレよりも慎重に底へ足をつけた。
「な、早かっただろ?」
「せ、せめて、事前に言えよ!」
イロが肩で息をしながら怒鳴る。
「いや、咄嗟に思いついたからさ。とにかく、早く行こうぜ! あ、そうだ。タガーありがとな」
握り締めたままだったタガーをルカに手渡したけれど、生返事しか返ってこなかった。「こんな経験すると、思わなかった……」などとうわの空だ。軽く肘で小突きつつ、辺りを見回した。穴の底は薄暗い。壁際に時折白熱電球が埋め込まれているくらいだ。そもそも次、どこに向かえばいいのかすらよくわからない。ルカの指示が必要だった。
「ルカ、辛いのはよーくわかるけど、この後はどうしたらいい。教えてくれ」
銃弾の装填をしながら、イロが気の毒そうな調子で言った。
「えっと、この穴からの場合、あっちにエレベーターがあるんだ」
深呼吸して気を落ち着けたルカは、オレンジの古びた蛍光灯が光る場所へオレたちを導いた。横並びに五つあるエレベーターは真っ黒な扉で、その全体が岩壁に埋め込まれている。ルカが下向きの矢印を押すとそのうち一つの扉がすぐさま開いて、無機質な空間が現れた。五人くらいは一気に乗れそうな広さだ。オレたちはさっさとそれに乗り込んだんだけれど、階数を選ぶボタンを押そうとしたイロが首を捻った。
「ない」
開くや閉じるのボタンはあれど、数字の書かれたボタンが一つもなかった。代わりに、何も書いていない長方形のボタンが一つある。それをルカが脇から手を伸ばして押した。
「これを押すと、ランダムでどこかの階に止まるようになってるんだ。どの試練に当たるかは運次第ってこと」
なるほど、よくできている。区長というのは色々考えて趣向を凝らすものなんだなあ。
「いつでも戦える態勢はとっておけよ」
壁に背を預けてぼんやりしてると、イロの厳しい声が飛んできた。確かに、何が起こるかわからないから気は抜かないほうがいいだろう。首肯して、黒手袋をはめ直した。同時に、エレベーターが目的の階に辿り着いたらしく、ゆっくりと扉が開かれた。
体格のいい黒犬が三匹、こちらに向かって唸っていた。背後には物々しい鉄の扉がある。19区の区長は吊り橋やら鉄の扉やらといった、それらしい雰囲気のものがお好きらしい。その証拠にか、こぢんまりとした部屋は床も壁も天井も青一色という奇抜ぶりだ。鉄の扉と黒犬たちが浮き上がって見える。悪趣味だ。
「ケルベロス! ご、ごめん! 僕がこれに当たったの最初の一回目だけで、その時これで失敗してるんだ!」
「はあ!?」
エレベーターから足を踏み出すよりも前に、ルカの宣言は高らかに響いた。当初の計画というのはこうもあっさり崩れるもんなのかと、実感した瞬間だった。
「ケルベロスについて僕が知っていることは二つ! こいつら三匹の名前はケルベロスだってこと! どうやらこの三匹をどうにかしないと鉄の扉に近づくこともできないってこと!」
冷や汗を垂らしながらもたらしてくれたのは、なんとも役に立たなそうな情報だった。先ほど素っ頓狂な声を上げたイロは、ぶつぶつ言いながら頭を抱えている。お気の毒にと声を掛けてあげたくなる可哀想さだった。
「ケルベロス。ギリシャ神話……じゃない、ギラック神話に出てくる冥府の番犬。三つ頭の怪物を指す。名の意味は底無し穴の霊。まさに場面としてはぴったりだな……。対処法は、確か音楽とパン!」
だが、イロは悲観していたわけではないらしい。自分の知識を絞り出していただけのようだった。顔を上げて、オレたちを睨むように見る。
「この中で音楽のできる奴!」
「オレ、パス」
残念ながら、音楽の成績は悪かったんだ。
「僕も無理。得意じゃない」
「……僕もだ」
悔しそうなイロの声が続く。
「ダメじゃねーか」
「うるさい! じゃあパン!」
「食料がいるとは思ってなくて……」
「右に同じ」
対策を思いついたのにも関わらず、ものの数秒で全案却下になってしまった。エレベーターのボタンを押し続けながら、イロは苛立たしげに足で床を叩く。
「落ち着けって」
「スピード勝負なんだぞ! 落ち着けるか!」
前から薄々感じてはいたけれど、なかなかに短気だ。こういう時は冷静さも大事だろうに。
オレはイロの代わりに、真っ青な部屋をもう一度見回した。天井からつり下がる電球も青い光を降り注がせているということを発見するけれど、それくらいだ。鉄の扉には問題が表示される液晶パネルの他には何もないし、三匹の黒犬がこっちへ向かって唸ってるという状況は変わらない。三匹の黒犬はこちらがエレベーターから一歩でも出てこようとすると、鋭く吠え出す。鎖に繋がれているわけではないから、体を少しでもはみ出させれば、きっと噛みつき放題にされるんだろう。
「これ、本当にケルベロス関係あるのか?」
「は? ルカがそう言ってただろ」
新たな案を思いつかないイロはオレの単なる思いつきに鋭く噛みついてくる。ため息を吐きながら、質問相手を変えた。
「ルカはなんでケルベロスだって思ったんだ?」
「え、だって僕の国のギラック神話は有名だろう? 三匹の黒犬って……いや、正確には三つ頭なんだけど」
「そう。三つ頭じゃないから、これはケルベロスじゃなくてただの番犬ってことになったりしないか?」
「バカか? だとしたって、鉄の扉に近づく方法がわからないことには変わりがない。問題はあそこに表示されるんだ」
「……だよなあ」
万事休すと言った気分だ。いや、諦めようとは思っていないけど。イロも苛々しげではあるが、問いを投げかけ、必死に頭を巡らせ続ける。
「とりあえず、ルカ。前回は何があったんだ? 事細かに教えてくれ。ヒントがあるかもしれない」
「え、えっと……前回はエレベーターから一歩も出れずにタイムオーバーだった。最初のチームが区長のもとに辿り着いたみたいで、ほとんど何もせずに終了しちゃったよ」
「ということは、部屋に入ってどうなるかはわからないってことか」
「試しになんか投げてみようぜ」
手短にあったルカの青いマリンキャップを放ってみる。が、何の反応も示さない。無視して唸り続けている。
「うーん、だめか……」
「だめかって、僕の物さっきから勝手に使わないでよ」
「あ、悪い」
なんとなく、身長差的な関係で目についただけで深い意味はなかった。
「ちょっと待て。犬ってああいう飛んできた物に普通反応しないか?」
訝しげにイロが眉根を寄せた。
言われてみれば確かにそうだ。
「変だな」
「変だね」
オレとルカも首を傾げる。
「よし。ルカ、行ってこい」
勢いよく背を押すと、ルカはあっさりとつんのめって、三匹の真ん前に膝を突いた。声にならない悲鳴を上げながら、青いマントを引き延ばして、身を守るように縮こまった。たが、三匹とも鼻先のルカでなく、オレとイロに向かって唸ったままだ。
「おお、うまくいった」
「お前、ほんと容赦ないな……」
「終わりよければ全てよしって言うだろ?」
批難げな視線を送ってくるイロに微笑むとため息を吐かれた。失礼な。
「もしかしたら、この部屋が一面青いのが関係してるのかもしれない。ルカ、鉄の扉まで行ってみてくれ」
「う、うん」
確かに、ルカはマリンキャップもマントも青い。部屋も真っ青だ。青い物は襲わないというように躾けられているのかもしれない。ヒントはこの部屋そのものだったってことか。
青いマントから肌とか他の色がはみ出さないようにルカは床を這い進んで、液晶パネルに表示された問題文を読み上げた。
「問題、(x-y)2-(x-y)-6の答えは?」
「因数分解?」
イロとハモってしまった。つい、顔を見合わせる。互いの顔が解けないと明らかに告げていた。というか、解き方を忘れてしまった。学校通ってた頃なら簡単だったんだけど、公式はなんだったっけ。二人でルカに救いの視線を送ると、平然と答えを入力しているところだった。鉄の扉はなにやら電子音を立てながら壁の中へ引いていく。
「開いた! 簡単でよかったあ」
安堵しているルカに、オレたちは曖昧に頷いてみせた。流石、年上。無関係な賞賛の言葉を胸内で贈っておく。
しかし、問題はまだ解決していなかった。三匹の黒犬は相も変わらずこっちを睨みつけている。こいつらの気を反らせる物も関心を向けないようにする青色もない。これはやっぱり、走り抜けるしかなさそうだ。イロに目で合図を送る。エレベーターの鏡に背をくっつけ、呼吸を合わせて飛び出した。助走の勢いを利用して、三匹を跳び越える。振り返って即座に噛みつこうとしてくる黒犬から逃走して、鉄の扉の向こうに転がり込んだ。そこもまた、エレベーターの中。鉄の扉は、駆けてきた黒犬の鼻先でぴったりと閉じた。
オレとイロはそれを視認すると、息を吐いた。間一髪だった。ふう。エレベーターを操作してくれたルカはそんなオレたちを見下ろしながらも、既にあの長方形のボタンを押していた。エレベーターは更に降下していく。もう少し休憩したかったけれど、そんな時間はほとんどなかった。次にオレたちを待ち受けていたのは、水位の上がる小部屋だった。問題は英雄に関する豆知識で、イロの指示に従ってオレが天井のパネルを操作して解答。正解したが水位は変わらず、今度は水中を潜って隣室に移動するはめになった。
その最中にさえ、問題が出てくるんだから辟易した。知力も膂力も存分に試されてるのが嫌というほど実感できる。もう一度これに挑戦なんて、ほんとごめんだ。問題を見つけたルカが素早く解答してくれなかったら、息が続かなくて溺れてたことだろう。こういうスリリングさは好きだけど、正直もう着衣泳は勘弁してほしい。幾度となく挑んでるルカに尊敬の念すら沸いてきた。幸い、音楽とは違って水泳は全員できたのが救いだったけど。
そしてびしょ濡れになって辿り着いた先が、断崖絶壁だ。水面から出て一息吐くだけのスペースしか地面がなかった。よくよく見ると、壁に沿ってつま先を置くだけの場所はあるみたいだったけれど、これじゃあぴったり身を寄せてそろそろ歩くしかなさそうだった。どこまでいけば終わりがあるのかは壁が湾曲していて見えない。因みに、崖の底も見えない。落ちたら串刺しになる可能性くらい考えておいたほうがいいだろう。ここの区長は、どうやらこういう穴がお好きらしい。最初の吊り橋しかり、ここしかり。それでも立ち止まるわけにはいかない。オレたちは、叱咤激励し合って、崖っぷちを歩き始めた。
オレ、ルカ、イロの順だ。全身から滴り落ちる水滴が闇の中に落ちていくのを見ながら歩いていくというのは、予想以上に精神にくるもんだった。べったりと張りついた衣服の不快感も相当だし、さっさと終わらせたい思いでいっぱいだ。けど、足を誤って滑らせないようにするのに集中していないと本当に危険だった。オレたちは無言で進んでいく。時折、危ない場所があったらルカに目配せをした。ルカがそれを身振りでイロに伝える。地味な作業だったが、空気は酷く張りつめていた。穴からは風が冷たく吹き上がってくる。服がはためく度に肝が冷えた。19区でも死者が出るというのがまったく持って冗談じゃないということをひしひしと感じさせられる。
「なあ」
そこで口を開いてしまったのは、やっぱり恐れからだったんだろうか。
「なんだ」
答えたのは、イロだった。ルカは、懸命に足を伸ばしている。声が聞こえていないらしい。
「……なんでもない」
結局、オレは口を閉じて前に向き直った。立ち止まってはいられないんだ。
「大丈夫。きっと、乗り越えられる」
けど、確信に満ちた声に、再び振り返らざるを得なかった。ルカだった。恐る恐る手足を動かしながら、だらだらと汗を流しながら、堂々と言い切った。こっちに目を向ける余裕もないのに、はっきりと。
「何度も失敗してるくせに、どうして信じられる?」
イロが発したのは、苛立ちが混じったような声色だった。それは、もしかして憧憬だったのかもしれない。だってオレがそうだったから。ルカがこれ以上なく頼もしく見えたから。
「だって、僕は一人じゃないし。それに、乗り越えられるって僕が信じていたいから。信じるだけだよ」
オレは、小さく見え始めてきていた鉄の扉のエレベーターとその周囲の地面に視線を戻した。その前には広い足場がある。あそこまで行けば、一息吐けるだろう。気力を振り絞って、歩むペースを上げた。ルカを少しでも早く、向こう側に連れていくために。
背中に視線を感じたけど、振り返ることはもうしなかった。
対岸に辿り着いて足を地につけると、汗がぶわっと噴き出してきてオレたちはしばらく歩くこともできなかった。床の上に刻まれた文字をそれでも何とか読み上げる。
「道ですれ違う人には嫌われ、共に行く人には歓迎されるものとは?」
「ここに来てなぞなぞか」
胡座をかいたイロは、俯いて思案している。ルカのほうは、呼吸を整えるので精一杯みたいだ。だからオレは、思い付きを胸に壁面のパネルへにじり寄る。『風』と入力すると、エレベーターは事もなく開いた。正解らしい。オレたちは半ば這うようにしてエレベーターに乗り込んだ。長方形のボタンを押して、オレはそのまま床にへたり込む。幸運なことに、タイムアップの知らせはまだ入っていない。おそらく、最初に吊り橋を落としたおかげで、まだギリギリトップで進めてるんじゃないだろうか。何にしても、残すところはあと一つだけだ。
「へばるなよ」
と、文句を言ってきたイロも腰を下ろしている。ルカは辛うじて壁に寄りかかって立っていた。意外に体力があるみたいで羨ましい。
「さあ、これで最後だ」
エレベーターの扉が開くと、目に飛び込んできたのは、ガラスだった。曇りガラスが左右に長く続いている。今までいた絶壁みたいな自然に手を加えただけの場所とは全く異なっていた。人工的に整備された床は、靴底を軽く当てただけで甲高い音を立てる。壁も天井も金属で覆われている。一気に時代を飛んだみたいな感覚がある。まあ、さっきから液晶パネルを指で操作していたんだから、変わらないといえば変わらないんだけど。
「それぞれ、部屋に別れろって書いてある」
曇りガラスに表示された説明を読んでいたルカが言った。よく見ると、曇りガラスには一定間隔で取っ手がついている。いくつも部屋があるらしい。
「それなら、ここでお別れだ」
イロは手近な取っ手を掴んで、素っ気なく去っていった。ルカと顔を見合わせて苦笑する。
「それじゃあ、また」
「おう」
ルカとオレは各々扉を開き、中に足を踏み入れた。内装は先ほどと特に変わりはなかった。壁は一面曇りガラスに変わっていたけれど、床と天井は金属性のままだし、細長い電球があるのもそのままだ。
「対話の間にようこそ」
ただ、背の高い丸テーブルに肘を預けた女がいたことが少々予想外だった。
「どうも」
女は、この場には不釣り合いな格好をしていた。淡い色合いで花柄があしらわれたカジュアルなフレアスカートのワンピース。ここがお洒落な喫茶店であったら、とてもよく馴染んだだろう。いや、そんな格好よりもその顔面のほうが本当は驚きに値する。右目周辺を覆い隠すように彼女は髪を長く垂らしていた。けれど隙間から否応なく覗く醜い傷跡は息を呑むには十分な代物だった。
「できるだけ、はっきり話してくれると嬉しいから、よろしく。なんせ、片耳がないもので」
彼女はそう言って惜しげもなく右耳を晒した。いや、右耳のあった場所を晒した。そこには目も当てられない傷跡と空虚な穴があるだけだ。
オレは黙って頷くので精一杯だった。
「これからいくつか質問をするから、正直に答えて。あなたたちは何人で参加している?」
「三人」
「どこで知り合った?」
「一人は20区、一人は19区で。つい数日間の話だ」
会話はテンポよく進んでいく。
「19区で知り合ったのはどんな人?」
「ルカは、弱そうに見えて意外に芯があるやつ」
「20区で知り合ったのは?」
「イロは、めんどくさくてねちっこくて短気」
「その二人とともに挑むことにしたのはなぜ?」
「タイミングがちょうどよかったから」
「なら、結果的に足手まといになっちゃった人とかはいた?」
「そんなのいなかったけど」
「逆に頼りになったのは誰?」
「それも特に。どっちも同じだろ」
肩を竦めてみせると、彼女は満足そうに微笑んだ。
「ありがと。今ので気持ちはほぐれた? 本題はここから」
そこで、彼女は声のトーンを落とした。
「あなたは、酷い怪我を負ったことがある? 私みたいな」
「ない。身体的なものは」
記憶を無くすというのは、怪我とはまた異なる。
「そう。ではもしも、私みたいな怪我を負ったらどうする?」
「どうもしない。変わらない」
当てつけのような台詞を、彼女は意に介さずに紡ぐ。いっそ、面白がっているようなトーンで。
「神に祈ることを諦めたりは?」
「しない」
そんなこと、万が一にもない。
「そもそも生きていくということが、真反対なくらいにひっくり返ってしまうのに?」
「もうとっくに、ひっくり返ったよ」
記憶を失う前のオレと失った後のオレは、やっぱり別物だから。
「だったら、何が起きても進む覚悟はあるのね」
無言で、頷く。
「じゃあ、最後に一つ。酒は、好き?」
「勿論」
莞爾と微笑み返してくれたのが、印象に残った。
彼女はそのまま簡単なシャワー室へ案内してくれた。服は最新の設備でシャワー中に乾かしてくれるという贅沢なサービスつきだ。三匹の犬との一悶着から着衣泳を経ての絶壁歩きは相当な疲労があったから、とてもありがたかった。彼女曰く、ルカとイロも同じようにしてもらってるらしい。これは期待できそうだ。
やがて彼女に促され、更に別の部屋へと通されると、そこには豪勢な食事が用意されていた。広い部屋の真ん中にある円卓には、まさに酒場の料理そのものみたいな、塩気の強いつまみやら何やらが積み上がってる。当然のことながら、酒もちゃんとあった。壁沿いには酒樽がいくつも積み上がってる。
やっぱり19区の区長は酒豪らしい。
思わず笑みを浮かべていると、さきに座っていたイロとルカが声を上げた。
「遅い」
「よかった。無事で」
「当然」
二人の間の一脚に座ると、にんにくや酒の匂いが香ってきて、唾が出てきた。お腹が空いてくる。二人に倣って、手をつけることはしなかったけど。
それに、オレが腰を落ち着けると、正面にあった扉から男が現れて食べるどころじゃなくなった。三人同時に、息を呑んでしまった。じっと観察してしまう自分に気づいて目を逸らそうとして、それも失礼だと思い直す。できるだけ無遠慮にならないように、その男と目を合わせた。
その青い目は優しかった。それがむしろ、恐かった。睨まれたほうがマシな気がしてしまった。その見た目ならば、威圧感をもっと醸し出してもいいと思った。そうでもしてくれないと、この動揺をどう誤魔化せばいいかわからない。
五体満足とは口が裂けても言えない姿をした男。
手も足もないと表現すればいいのか、それとも腕も腿もないと言えばいいのか。特注らしき車椅子に乗った男は、胴体と頭以外の部分を持っていないらしかった。それでも、平然と微笑んでいた。
「オレの試験、楽しんでもらえた?」
咄嗟に、三人の誰も答えられなかった。動揺してしまっていた。勝手な思い込みだったけど、19区の区長はこんな試練を用意するくらいだから、筋肉隆々の男だと思っていたのだ。確かに、さっきの彼女の傷を目にしてはいたけど、それは区長の情の厚さによるものだと解釈してしまっていた。まさか本人が、車椅子に乗っていようとは、欠片も想像していなかった。
「楽しいというより、苦しかったかな」
愚痴を漏らす形で答えたのは、ルカだ。
「何度挑んでも、なかなか乗り越えられなかったから。これは、今度こそ、乗り越えられたってことでいいんですか?」
「そういうことになる。今日の通過者はお前ら三人だ」
ルカの顔に、花が咲いた。それは自分が通過できたってことよりも嬉しかった。イロの緩んだ表情を見るに、気持ちは同じらしい。
「さあ、これからは祝宴だ。存分に飲んで食べてくれ」
区長の言葉に遠慮なく、手近にあった肉を囓り、酒に手を伸ばした。ルカもパンを手に取っている。
「その前に、最後の問答はなんだったのか聞かせてください」
イロは、真剣な目で区長を見据えていた。こいつは頑固だ。納得できないと先には進めない。何も考えずに豪勢な食事を貪るなんてことはできない奴。それは、ある意味で損かもしれないけど、ちょっとかっこよくもある。そういう強固さを自分が持ち合わせてるとは思えないから。
「あれは、何を計っていたんですか。やっぱり、自分がどんな怪我を負っても意志を変えずにいられるかと、そういうことなんですか?」
……実体験に基づくものだったんですか? なんて、飲み込んだ台詞が聞こえた気がした。
「いや。足手まといはいたか? と聞きたかっただけだ。他の質問は所詮おまけだ」
「足手まとい?」
それは、予想の斜め上をいく返答だった。つい、身を乗り出してしまう。
「自分が傷を負った時、どうするかなんて、どうなるかなんて、そもそもオレにはわからない。オレのこの体のことを指しているなら、お門違いだ。これは先天性。元からこうだから、そうじゃなかった時からの変化なんて、知るか」
突き放した言い方に、呆然としてしまった。後天性の奴は勝手に頑張れと、心底どうでもよさそうに言い捨てた。
「オレは、チームを組んで共に挑んできた奴を足手まといなんて言いやがる馬鹿野郎がいやしないか、確かめただけだ。お前ら三人の中にはそんな奴はいなかった。通過の許可を与えるには大事なことだろう?」
自信たっぷりに胸を張る区長の青い目は、一瞬だけ得意げに煌めいた。
オレたちは、もうこれ以上何か問う気は失せていた。
「さあ、乾杯だ!」
四つのグラスが奏でる音は、部屋中に高らかと響き渡った。
宴は、朝まで終わらないだろう。
そんな嬉しい予感がした夜だった。
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