第3話 殺人儀式

三章 殺人儀式


「殺人」というのは一体どういうことだろうか。簡単に言えば命を絶つことだが、そこにも細かな定義が必要そうだ。

--個人的には…

「殺人」は、自分の全てを覆す何かがある。

やっぱり、こういうことは難しい。完全には理解できないし、完全に納得もできない。


--でも、これだけはいえる。

「殺人」は「儀式」だ。

それも、人が執り行える中で最も重い「儀式」だ。



今日は朝から呼び出された。最近、事件が多い気がする。こんな生業だから、休みなんてあってないようなものだ。何処かに出かけることもままならない。

とはいえ、俺はこの街から出たことはないから、どこか行きたい場所がある訳ではない。結局なにもなくても家でだらだらしてるだけだ。


--俺の仕事は、怪奇事件を解決すること。

世の中には、気づかないだけで死霊や生霊、そして異能者が結構いるらしい。そいつらが引き起こす事件を片っ端から追いかけて、原因を見つけて解決する。場合によっては原因となるモノと戦闘になる。そういう時は、モノの中にある時間を壊してしまえる俺の異能は役に立つようだ。なにせ、存在の基礎たる時間そのものを破壊するから、相手が生きていようが、死んでいようが関係ない。そんなこんなで今までにも何人かやりあったことがある。

そして、今回もまたそんな物騒な話になりそうな気配がある。


テレビは朝から猟奇殺人のニュースばかりだ。俺たちが関わるような怪奇事件は必ずと言っていいほどこの街で起こる。少なくとも俺が知る限りはそうだ。

--つまり、治安最悪。霊やらモンスターやらで溢れた場所ってこと。

なんか悪いパワースポットみたいだ。


『…今回の被害者はこれで五人となりました。依然として犯人は不明です。被害者が五人とも十〜二十代の女性であったことや、遺体からすべての血液が抜かれていたことなどから、"吸血鬼殺人"と言われています。ではここで犯罪心理学者の…』

--まさに猟奇事件といった感じだ。でも、血を吸うなんてどうかしている。人の血なんて飲んでも何の得もないだろうに。

「…凜、始めるぞ」

浅野だ。相変わらず厳しい顔をしている。

「浅野さ〜ん、綾花は?」

どっから湧いたのか、颯太が現れる。瞬間移動の能力者であるこいつはいつもそうだ。

「綾花はいない。いる者だけで始めるぞ」

今回の事件は今までとは少し違う。今までの事件は、大概の場合世間には気づかれていなかった。強いて言うなら霞桜の椎名真子が起こした事件がニュースになったくらいだ。それも結局は真相は闇の中という感じになった。

「…さて、今回の事件は"吸血鬼殺人"。気づいているだろうが、これは明らかにこちら側の領域だ」

「なんで?別に、注射器とかで普通に血を抜けばいいんじゃない?」

颯太が首を傾げている。確かに、それもそうだ。遺体の血を抜く、というのは異常な行動ではあるが、異能や怪奇が関わってるとは限らない。怪奇事件じゃなくて、猟奇事件であるだけということだ。

「…例え注射器やなにか道具を使っても、体内の血液を一滴残らず取り除くことは困難だろう。それに、被害者の遺体の首には噛みつかれたような跡と、犯人のものと思われる唾液がついていた」

--さすがに、驚いた。

テンプレ通りの吸血鬼だったとは。

「…吸血鬼と殺しあうのは初めてだな」

俺が頭の中で思ったことは、言葉になって勝手に出て行ってしまった。

「…さっそく荒事を起こすつもりか?凜。いいか、今回もいつもと方針は変わらない。できるだけ傷つけずに監視下に置く」

浅野はいつもこれだ。どうでもいいといえば確かにそうだが、納得のいかない面もある。

「殺人鬼は異能を奪ったところで殺人鬼だろ?」

思ったことをそのまま言葉にした。浅野は溜息をつく。

「…自分の異能にのまれているだけである可能性もある。それに、むやみに人を殺すなど間違いだ」

「…人を殺す?俺がやりあうのは"吸血鬼"だ。どこが"人"だ。害獣じゃないか」

とりあえず言いたいことは言っておく。浅野はやれやれと首を振った。

「お前は殺人鬼になりたいのか?」

前にも聞いたようなセリフだ。

「だったらどうする?」

適当に返す。

--時折、耐え難いほどに、それこそ暗雲を裂く雷光のように、激しく残虐な衝動が生まれることがある。自分の枠組みから外れたどこかで、それは張り詰めていく。

空間を断つ刃の光が、壊され無残に散る時の破片が、時折脳裏に浮かんで消えなくなる。

--別に、殺したいわけではない。壊したいわけでもない。ただ、絵画を愛でるようにそれを眺めてみたいだけ。


--あの景色は、世界と自分を繋いでいるように思わせるから。


「…とにかく、無闇に手を出すな」

浅野はそう言った。これで俺は単独で"吸血鬼"とやらを殺しには行けなくなった。

これが浅野の異能。「絶対命令」の異能。口に出した命令を、相手に確実に履行させる能力。

厄介な異能だ。こいつだけは俺にもどうしようもない。

溜息をついて俺はその場を立ち去った。


外に出ると、少し寒かった。空はよく晴れていて日当たりは良いのだが、真夏のような鋭さがなくなっていた。

--そういえば、さっきメールが来ていた。

見れば、綾花からだ。


--今日は外出日で、みんなで港に買い物に行ってるから、夜迎えに来て!

待ち合わせは…


色々と言いたいことはあるが、大体そんな内容だった。

なんだって俺がわざわざ迎え行かなきゃいけないんだ。あいつだってもう子供じゃないってのに。

--でも、港か…。ここしばらく行ってない。

結構前から再開発が進んで、ランドマークタワーとか遊園地とか、そういったものが増え、有名な観光地になった。昔からある港だから、歴史的な建物も多い。その辺りも含めての観光スポットなんだろう。

--珍しく、自分から行動する気になった。

港に行ってみよう。バイクに乗って三十分もかからない。

俺はさっさと自宅マンションに戻って支度を済ませることにした。幸い、今日は天気もいい。自分で思ったよりも億劫な気持ちは浮かんでこなかった。


坂を下って、大通りへ。バイクに乗っていると晩秋の風は少し冷たい。とはいえ、俺は暑いより寒い方がいい人間だから、その方がよっぽど都合がいい。

平らな街並みが、やがて聳え立つビルに変わる。歩いて行く人々の服装も、段々と派手になっていった。

俺は適当なところでバイクを降りて、ヘルメットを外した。

--潮の香りがする。

目の前のランドマークタワーを思い切り見上げた。こんな建物だったか…記憶にない。俺は取り敢えず綾花に指定された待ち合わせ場所を目指すことにした。

--少し歩くことになるが、今日はそんな気分だった。

適当な駐車場にバイクを置いて、人混みをうまくよけながら歩く。橋の向こうには、遊園地の観覧車が見える。橋の下を流れているのは、海水なんだなと思うと少し変な気分だった。

--綾花との待ち合わせは夕方だ。こんな早い時間に来ても俺には特にやることはなかった。

まあ、待ち合わせ場所を確かめたら適当にその辺を歩き回っていてもいいか…。

大桟橋の近くまで来た頃、遠くから船の汽笛が聞こえてきた。人の流れに従って桟橋の上を歩いて行く。桟橋の先端からは水平線がよく見えた。俺は柵にもたれかかって、ゆらゆらと揺れるその線をしばらく眺めていた。


不意に、背後から影が伸びてきた。


呼吸が乱れる。心臓が突然に早鐘を打つ。身体は無意識に硬直して、振り返ることもままならなかった。

--何が起こったのか。

とてつもない恐怖が全身を支配し、周囲の音はすべて消えた。

背後の影が、ゆっくりと手を伸ばしてくる。気配が嫌にはっきりしていて、見ていなくてもよくわかる。


手が、肩に触れた。

何かが弾け飛んだように振り返った。


「…え?」

小さな呟きが溢れた。

俺の背後には、誰もいなかった。いつの間にか、周りのざわめきも戻っていた。

大きく息を吸って目を閉じた。鼓動がゆっくりと静まっていく。

--今のはなんだったのか。

悩んでみても、心当たりなんてあるはずがない。なんとなくじっとしていられなくなって、桟橋を後にした。

白い客船がゆっくりと港から離れて行くのが見えた。

--そういえば、俺は船に乗ったこともないんだった。あの船はどこへ行くのだろうか。国内か、それとも海外?

あの船に乗るひとは、どんなことを考えて乗るんだろう。どこか遠いところに夢を持っているんだろうか。

--どこか、この街ではない場所に。

ビル街を振り返って、その時思い出した。そういえば、四年前までここで暮らしていたはずだということを。

それならもう少し何か思い出でもあるはずじゃないかと思ったが、あの頃に出かけたことなんてほとんどなかったし、思い出なんてあるはずもないことに思い当たった。

やれやれと頭を振って、人混みを突っ切った。まさか、ここで育ての親とすれ違うということもないだろう。すれ違ったところで気づかないかもしれない。いや、気づかない方がいい。もしも気づいたところで四年も連絡を取ってない相手だ。お互い困惑するだけだろう。だが、そう思うと尚更周りが気になるのだから仕方がない。できるだけ不審な動きをしないように変に気を使う羽目になった。



--やがて、綾花が指定してきた公園に着いた。

時間は昼過ぎ。綾花が来るまで後どれくらいだろうか。

俺は適当なベンチを見つけてそこに座った。ぼんやりと空を見上げると、それは真夏よりも少し遠かった。


--突然、視界が暗転した。

いや、正確に言い直そう。誰かに目を塞がれた。

「だぁ〜れだっ!」

陽気な声が聞こえる。こんなことをするなんて一人しか思いつかない。

「綾花?何してんだお前」

目を覆っていた手がするりと外れた。

「あれ?怒ってる?」

俺の声は思ったより白けていたようだ。綾花は少し不安げに顔を覗き込んできた。

「別に?単純に買い物行くんじゃなかったのかと思って」

ちょっと左に詰めた。綾花はそのスペースにすとんと座る。

「あれはウソです!」

「…はぁ?」

いよいよ訳がわからない。

「どうせ外出日なんてみんな直行で家に帰っちゃうもの。家族がなんだかんだ恋しいのね」

綾花は目を伏せて自分のつま先を眺めた。こいつにも実の家族はないから、こういう時に複雑な気持ちになるのだろうか。

「と、いうわけで、私今日暇なの。付き合ってね」

急に俺の腕を掴んで立ち上がった。

「ちょっとまて、付き合うって何に?」

俺が聞くと綾花は振り返った。怪訝そうな顔をして、それから笑う。

「何にって…なんだっていいでしょ?門限とかないし」

そう言って歩き出した。

「門限はないけど…お前、浅野から聞いてないのか?」

綾花に引っ張られながら、俺は一番気になっていたことを聞いた。

「吸血鬼?知ってる。浅野さんからメールきたし、朝からニュースで騒いでるし」

--知っていてこれか。危機感がないのかなんなのか。

俺が黙ったままなのを良いことに綾花はぐいぐい腕を引っ張る。

--でも、まあ、たまには良いかと思う。

何でと聞かれても、困るけれど。



私は凜の腕を引っ張りながら、少しだけ安心した。とにかく、私の提案は拒絶されることはなかった。単に、抵抗するのも面倒だと思われただけかもしれない。でも、とにかく彼は私についてきてくれている。

--私の高校は全寮制の女子校だ。普段は外出するにもなかなか面倒な手続きをしなければならないが、今日は年に二回定められた「外出日」だ。今日だけは寮から出て実家に帰っても良いと言われている。みんな実家に帰るついでにこのあたりで遊んだりするのだがこの頃物騒なのと、もう三年生なのとが重なって、クラスメイトは殆ど全員家に直行だった。

--でも、私に血の繋がった家族はない。母親の顔も父親の顔も知らない。父親はとりあえず電話やメールをした事があるから生きていることは間違いないんだろうけど。

--今日、久しぶりにそれを寂しく感じた。その時思いついたのが、凜を呼び出してみることだった。迎えに来て欲しいとメールすれば、彼は来てくれると思ったからだ。あえて時間も夜に。そうすれば疑われにくそうだし、凜はきっと指定した時間よりずっと前に来ると思った。

私の勘はよく当たる。

--ふたりでいれは突然生まれた孤独感も消えるはず。

私のわがままだけど。

振り返ると凜は腕を引っ張られながら面倒そうに歩いていた。

「りーん、笑え、せっかく遊ぶのに面倒臭そうな顔すんなー」

私が言うと、彼はちらっと視線を向けた。そして口元だけに貼り付けたような笑みを浮かべた。そして視線を外してすぐにいつもの顔に戻った。

やれやれ、何でこの人はこうなんだろう。反抗期かと言いたくなる。まさか、二十歳にもなってそんな馬鹿なと思いたいけど。

「いい加減、手放せよ」

凜が唐突に言ってきた。私はおとなしく手を離す。ちょっと歩くペースを落として彼と横並びになる。

「どこか行きたいところある?」

「…いや…ない」

--一瞬空いた間で一応考えてくれたということにしておこう。特にない、じゃなくて、ない、であるところが気になるけど。

「じゃあ、あそこ」

私は腕を伸ばして向こうのビルを指差した。大きな商業施設で、色々と珍しいものも売っているはずだ。でも、あんまり色々買いすぎないようにしよう。凜は今日、黒のライダースジャケットを着ている。ということは今日はここまでバイクで来たはず。なら、私はその後ろに乗ることになる。大荷物は運べないだろう。

人の群れに乗ってビルの中に入った。凝った内装と小さなブースごとに分かれたお店には煌びやかなモノが沢山並んでいた。私はその中でガラス細工のお店の前で立ち止まった。小さな猫や犬や鳥をかたどった細工がずらりと並んでいる。それを一つ一つ眺めながらゆっくり奥へと向かう。凜も黙ってついてきた。

「ねえ、これ、似合うかな?」

四つ葉のクローバーの形のペンダントを手に取ってみる。

「…悪くないと思う」

凜はそんなこと聞くなよ、という顔をしていた。まあ、それらしい答えを返してきただけマシか…

「そちらのデザイン、とても人気なんですよ」

不意に店員さんが近づいてきた。

「そうなんですか?可愛いですよね」

私は笑顔を見せる。凜も悪くないって言ってるし、これを買ってみようかな?

「そちらの方はお兄さんですか?」

店員さんが何を言ったのか一瞬分からなかった。そちらにいる男は凜しかいない。

「…え?」

凜もきょとんとしている。…珍しい。

「あ…失礼しました…えっと…」

店員さんは困ったように私たちを見比べた。

「ただの友だちです」

私は手短に答えた。

--カップルにしてはノリが悪いから兄妹と思ったのだろうか?それとも私たちの顔は他人から見たら似ているのだろうか?

「…えっと…これ、ひとつください」

生まれてしまった沈黙をさっさと破りたくて、私は言葉を発した。少し高かったけど、この頃贅沢はしていないし、たまには良いだろう。小さな紙袋に入ったそれをそっと鞄にしまった。


--次に向かったのは文房具のお店。私はそこで少しおしゃれなボールペンを買った。私はセーラー服の胸ポケットに挟んでみた。クリップ部分の飾りが白い布地によく映えた。

こうしている間は、私は普通の人だ。変な能力があったり、怪奇事件の相手ばかりしていたり、複雑な家族関係だったり、そんなのは全部関係なくなる。


--ようやくわかった。私は今日、私が他のみんなと違うと思い知らされたから寂しくなったんだ。

私は、普通でいたかったんだ。


結局私たちは日が暮れるまであちこち見て回った。すっかり暗くなってしまってから、凜に連れられて駐車場に向かった。そして、以前二人乗りしたときみたいに、プロテクター付きのジャケットとパンツを受け取って、公衆トイレでさっさと着替えた。私は少し横着して、セーラー服の上からジャケットを羽織った。スカートは邪魔だったから脱いでからパンツを穿いた。駐車場に戻ると、凜はもう準備万端だった。私は急いでヘルメットを被って彼の後ろに乗った。

「…さっき浅野からメールが来た。さっさと帰ってこいってさ」

くぐもった声が聞こえた。

「変なの。何かあったのかな」

私が聞くと、凜はさあねと肩をすくめた。そしてエンジンがかかる。私はそっと腕を伸ばして彼に掴まった。

--日は落ちて、キラキラしたライトが港町を彩っている。ビルの窓から漏れる光が、近すぎる星明かりのようだ。いくつもかかる橋は光の筋に、建物は遠い影に変わった。

--風が、少し冷たい。もうすぐ冬が来る。

流れていく景色が、季節が、なぜかどうしようもなく惜しい。

「…凜、今日はありがとね」

私の声は届いただろうか。風にかき消されることなく、聞こえただろうか。


「…楽しかったよ、それなりに」


帰ってきた答えに、驚いた。彼は一度もそんなそぶりを見せなかったから。

--たとえ嘘だとしても、嬉しかった。



綾花から返事はなかった。でも、多分聞こえただろう。

--本当に、今日は何かおかしい。全く、俺はどうなってるんだ。

正面に意識を集中してるはずなのに、自分の後ろが気になって仕方ない。

今までずっと、何をしても楽しくないのが自分だと思っていた。事実、自分の異能を使うとき以外は大した興奮も楽しさも感じることはなかった。

--でも、それは違ったのかもしれない。

俺がただ、自分の感情にフタをしていただけかもしれない。

それなら、そのフタを外してもいいだろうか。だって、自分の気持ちは、自分のものじゃないか。


--そのはずなのに、どうしても、何かが引っかかっていた。


沈黙しているうちに、都会の影は遠くなり、あたりは住宅街に変わっていた。この辺りまで来ると道も狭くなってくる。俺は少しスピードを落とした。

「…誰もいないね」

綾花の呟きに、思わず辺りを見回した。

--確かに、誰もいない。静まり返っている。まだ日が暮れてからそう時間は経っていないのにもかかわらず。

何かあったのか…?


不意に、ポケットのスマホが振動した。バイクを停めて一旦降りた。

「…浅野?」

画面に表示された番号を見て電話に出る。綾花も降りてきて、俺を見上げていた。

「…どうした?今帰ってるところだけど」

『どこにいる?』

唐突な質問に固まった。

「…どこって?」

『今、どこにいるかだ!』

切迫した空気が伝わってくる。

「…住宅街、二丁目の…」

言いかけると浅野が叫んだ。

『いますぐそこから逃げろ!』

何かはわからない。でも、何かがあったのだろう。俺は綾花の手を引いて、バイクに乗ろうとした。

「…凜…!」

綾花が立ち止まった。彼女が指差す方向に視線を向ける。


--なにか、いる。


『おい、凜!?どうした?』

浅野の声が電話から響く。

「…ヤバイのがいる。こいつがいるから逃げろって?」

声を押し殺して訊いた。周囲の空気が一気に重くなった。

『…まさか…』

動揺が手に取るようにわかる。時間が無限に引き伸ばされていく。

--ゆっくりと、謎の影はこちらに向かってくる。やがて、スポットライトのように街灯がその姿を照らし出した。


血塗れの服、長い髪。左手には二つの生首。


--そして俺は、その生首の顔を知っていた。


ここで俺は四年前まで暮らしていた。そして、なんという偶然か、四年前の今日、俺はあの二人から逃げ出した…


「…みぃつけた…」

ざらざらした声が聞こえる。


綾花の手を引っ張った。彼女をバイクに乗せて、一気に加速した。逃げろと本能が叫ぶ。アレとは戦いたくないと心が慄える。

甲高い笑い声と、湿った足音がついてくる。綾花の手が震えているのがわかる。

「…あいつ!ついてきてる!」

震える声が危機を知らせる。あっという間に住宅街を抜けて、川にかかった橋の上に来ていた。ここを超えて、しばらく行けば、いつもの街にたどり着く。

--だが…アレはついてきている。このままでは街に連れ込むことになる。どこかで追跡をふりきらなければ…

俺はハンドルを切って、山道へと進んだ。綾花だけでも逃すべきかと思ったが、彼女だけでは、襲われた時に戦う術も逃げる術もない。


暗い山道をひたすらとばす。足音はずっとついてくる。


--突然、足音が途切れた。

背後で風を切る音がする。


俺は反射的にブレーキをかけた。綾花を抱えてバイクから飛び降りる。地面に思い切り背中をぶつけたが、雑木林の土だったために、少し息が詰まっただけだった。

「…あいつ…」

化け物はバイクを押しつぶしていた。おそらく、背後から飛びかかったのだろう。そいつはすぐにこちらに気づいて立ち上がった。ヘルメットを外して投げつける。それから綾花を引っ張って走った。

何も見えない雑木林の中。何度も何かにつまづいて転びそうになる。化け物との距離は確実に詰められている。足音はどんどんはっきりと聞こえてくる。

「…凜!もうっ…すぐそこまで…」

--戦うしかない。

俺は綾花を背後に隠した。化け物は目の前に迫ってくる。正確に狙いを定め、迎え撃つように飛びかかった。

空中で相手と激突する。縺れながら地面に落下した。相手の抵抗を力ずくでねじ伏せて、俺はその化け物を組み伏せた。

--思ったよりも、力は弱い。髪も長いし、女か?

とにかく、早く「時」を引っ張り出して切ってしまわなくては。


「…殺すのか…?」


女が声を発した。思わず手が止まる。

「…私を殺すのか?」

俺は顔をしかめた。

「だったらなんなんだよ」

そいつが笑ったのがわかった。

--その顔を見て、心臓が止まりそうになった。


あの時、こいつが手に持っていた生首と同じ顔だった。

俺の、育ての母親と、同じ顔だった。


「そうか!殺すのか!」

さも愉快だというように笑っている。

「そうか、そうだよな!お前はいつもそうしてきたんだから!」

意識が無理やりそいつの言葉に引き寄せられる。

「生みの親も、育ての親も、みんな犠牲にして、お前は生きる!お前は殺すだけ!そんな奴のために、みんな死ぬなんて!」

思わず後ずさった。

「…なんで…そんなこと…」

--そんなことを、知っている?

「あの女!死ぬ直前までお前のこと喋ってたよ!血塗れの手でお前の写真を掴みながら!「なんで来たのよ」ってな!」

狂ったように女は笑っている。

「…嫌われてるなぁ、お前。かわいそうになってくるよホント。実の親はお前ごと死のうとするし、育ての親には死ぬ間際まで呪われるなんて!なあ、お前、存在認められてないんじゃないの?」

何を言われているのか、ほとんど頭に入ってこなかった。


潰れた車と紅く染まった地面。

たった一人だけ、生き残ってしまった。


「あのとき、一緒に死んでいればよかったのに」

自分がいなければ、あの二人は苦しまなかった?


--望まれたのはいつだって、「死」だった…

それなのに、どうして自分は生きているんだろう…




アレが何を叫んでいるのか、私にはよく聞こえなかった。でも、凜に駆け寄ったとき、なぜか彼が呆然と固まっているのが見えた。

「どうだ?事実だろう?」

突然はっきりとそれだけが聞こえた。凜が驚いたように顔を上げる。そいつは、彼の頭を鷲掴みにした。

--凄まじい力だった。

それは凜の頭を思い切り木の幹に打ち付ける。私の目にはスローモーションに見えた。

--彼は最初の一撃で気を失ったようだった。なのに、そいつは何度も何度も繰り返し打ち付けていた。

私の手は、勝手に動いて、被っていたヘルメットを投げつけていた。鈍い音がして、そいつは動きを止めた。

「おやぁ?お連れさん…逃げたと思ってたのに」

凜から手を離す。彼はそのまま地面に倒れた。

私は歯を食いしばってそいつを見つめた。策なんて、ない。

「…いいね、可愛い。その血をもらおうかな…」

--こいつ、やっぱり、例の吸血鬼だ。

ゆっくり、近づいてくる。私は一歩ずつあとずさる。吸血鬼は嬉しそうに笑っている。暗くても、雰囲気でわかる。


吸血鬼の足に力が入る。跳躍の準備だ。私は身を硬くした。


「…ぎゃっ…!」

小さな悲鳴が聞こえた。

「…凜…!」

いつの間にか目を覚ました彼が、吸血鬼の首根っこを掴んでいた。凜はそのまま勢いをつけてそれを空中に投げ、思い切り蹴り飛ばした。吸血鬼は数メートル吹き飛び、斜面を転がり落ちた。すぐさま彼は私の手を引いて、走り出した。

「大丈夫なの!?」

私は叫んだ。でも、返事はない。彼の息は荒く、足はふらついていた。このままじゃ、長くは走れない。

--それでも、できる限り、逃げなきゃいけない。


必死で走った。吸血鬼の足音はしない。でも、きっと追いかけてきている。でも、私たちのスピードはどんどん落ちて…

「きゃっ…」

何かに足を取られて私は転んだ。急いで起き上がる。

--私の一歩先で、凜も倒れていた。

「…凜!大丈夫?聞こえる!?」

反応がなかった。手で触れればわかるくらいの血が出ていた。放っておくわけにはいかない。でも、あいつは来ている…。


--突然、目がくらんだ。

まるで、過去を見るときのような感覚だった。


割れたガラスや、ゴミが散らばったコンクリートの床。

向こうで吸血鬼が笑っている。

--これは、未来だ。本能がそう言っている。

私にはそんな力はなかったはずなのに。


ビジョンは消えた。私はあの吸血鬼に攫われる。でも、すぐに殺されはしない。それなら、どこに連れて行かれるかを伝えられれば…

あの建物には覚えがある。以前、ポルターガイスト的なものが出ると聞いて、凜と行ったことがある。

--どこかにこれを書き留めたい。

そのとき、私は思い出した。このジャケットの下はセーラー服のままだったこと、そのポケットには買ったばかりのボールペンが入っていたことを。

素早くジャケットの前を開けてセーラー服のスカーフを抜き取り、ボールペンを取る。そしてビルの場所を、できるだけ大きくはっきりとスカーフに書いた。そのスカーフを倒れたままの凜のジャケットにねじ込んだ。

--助けに来て欲しいという願いを込めて。


私はゆっくり立ち上がる。吸血鬼の足音はもうすぐそこだった。



--声が聞こえる。自分の周りで誰か、何かを話している。

頭が痛い。吐き気までする。

霞んだ視界に人影が映る。

「…意識が戻ったようです…!」

救急隊員だろうか?昨日の雑木林の中だ。担架か何かで運ばれている。

「…おい、凜、聞こえるか?」

浅野の声だ。颯太の姿も見える。だけど、彼女がいない。

--あの後、アレに襲われた…?

「…綾花を…」

--助けないと。まだ、生きてるはずだと信じたい。


助けないと…

もう、たくさんだ…。


ふと気がつくと、日が落ちていた。ここは多分病院の中だろう。

「…起きたか」

視線を動かすと、浅野がいた。

「…命に別状はないらしい。吸血鬼に襲われたのに運が良かったな」

そんな事を言っている。アレは吸血鬼だったのか。

「…綾花は?」

言葉にしてから、息が詰まった。

「あの場に遺体はなかった。まだ生きている可能性もある」

身体に温度が戻ってきた。まだ、生きているなら…

「…いま、颯太が居場所を探している。見つけ次第対処する」

それを聞いて、俺は起き上がろうとした。

「…凜、お前は来るな」

「…なんで…?」

浅野の言葉に思わず苛立ちを感じた。

「動ける状態じゃない。おとなしくしていろ」

--動けなくなった。「おとなしくしていろ」は、浅野の絶対命令だったということだ。

浅野は背を向けて病室を出て行った。

俺はえもいわれぬ焦燥感を感じて窓の外を睨んだ。


--お前は殺すだけ!

--そんな奴のために、みんな死ぬなんて!


あいつの言葉が繰り返し響く。


--なんで…

なんで、死ぬことばかり望まれなきゃいけないんだ。

俺をこの世に生まれさせたのはそっちなのに。

なんで、みんなを犠牲にして、それでも生きているんだ。

犠牲を生むだけの存在なんて無意味じゃないか。

--全部、俺が望んだわけじゃない。

それなのに、なんでいつも、否定される…?


--いや、違う。

俺を否定しないものだってある。この異能だ。この力があれば、否定されない居場所がある。時を破壊し、存在を否定するその力が、一番俺を肯定する。


--だから、あいつを殺さなきゃいけない。

殺して、否定して、証明しなくてはいけない。

この存在は、認められていることを…!


激しい感情は、爆発的に俺の中を駆け巡って行った。

--身体は簡単に動いた。起き上がって部屋の中を見回す。

昨日着ていた上着が壁に掛けられていた。その下には靴が置いてある。なぜか、そこに視線が吸い寄せられた。

上着のポケットが膨らんでいる。何か入っているのだろうか?そっと手を伸ばしてそれを取り出してみた。

--赤い布だった。細長い形だ。

「…スカーフ…?」

間が空いて、俺はそれがなんなのか理解した。綾花のセーラー服のスカーフだ。彼女が残したのだろうか?焦る心を抑えて、丸まっているそれを開く。

--四丁目の廃ビル…

それだけがボールペンで書かれていた。眼の底で閃光が走った。

--見つけた。彼女を助けなければならない。

吸血鬼(あいつ)を殺さなきゃいけない。

俺はベッドから跳ね起きた。足を靴にねじ込んで、病衣の上から上着を羽織って、窓辺に寄る。ここは二階だった。窓を見つめて、そっと指先でなぞる。すぐに虹色の糸が絡まりながら現れた。それを千切るのは、刃物なしでは少し骨だった。数十秒の格闘の末、糸は途切れ、窓は溶けるように消えた。

--外はすっかり暗くなり、風が冷たかった。窓枠から飛び出して、音もなく地面に着地する。これだけ動ければなんの問題もない。俺は暗い街を走った。街には誰もいない。吸血鬼のニュースはこの辺りの人々を恐怖させるに十分だったようだ。でも、逆に俺には都合がいい。これなら脱走に気づかれても、すぐには見つからないはずだ。

--沈黙の中に、自分の足音だけか木霊した。



私は顔を顰めて、吸血鬼を睨んだ。椅子に縛り付けられたまま、吸血鬼の動きを観測し続ける。

「…なんでさっさと血を吸わないのよ」

私が声を発すと、吸血鬼はのんびり振り返った。

吸血鬼は私をさらってここに縛り付けてからほとんど丸一日、どこからか持ってきた写真を眺めていた。写真の量は尋常ではなく、床をほとんど埋め尽くしている。それを並び替えたり重ねたりとひたすら作業を重ねていたのだ。

吸血鬼はそんな状態の床をひょいひょいと歩いてきた。

「うん、ちょっといいこと思いついて」

「…いいこと?」

私が聞き返すと、そいつはにっこり笑った。

「ほら、この娘どう?見た目はフツーだけど、歌がうまいんだって」

鼻先に突きつけられた写真をみて、私は困惑した。吸血鬼は構わず続ける。

「この男は頭が良くて、おっさんはプロのピアニスト」

次から次に写真が目の前をちらつく。

「いつも集めた写真からテキトーに決めてたんだけどさ、今日たまたまお邪魔したアパートでいいもの見つけたんだよね」

決めてた、というのは次の「獲物」のことだろう。こいつは、この町の家々に押し入り、住人の写真と情報を集め、ここでこうしてターゲットを選んでいた、ということか。

--なぜ、そんなに慎重に選ぶのかはわからないけど。

「住人の女、結構美人だと思ったけど、意外と年増だったから萎えたよ。でも、この写真見て元気になっちゃった」

私の目の前にまた写真が突きつけられる。私は目を凝らしてそれを見て、それから息を呑んだ。

「…凜…」

吸血鬼は私の反応を見て、満足そうに笑った。

「そうそう、彼。イケメンで、運動神経も良くて、好みなんだよねぇ。それで、次のターゲットに決めて、下準備に親を殺っておいたってわけ。見た?あの顔。驚いて呆然としてたよ、ホント!いいもの見れたよ…出来ればもっと絶望した顔も見たいな…」

そいつは愉快そうに鼻歌を歌っている。

「オマケに大家のおばさんから聞くには、両親は心中したあげく、育ての親とも険悪で家出したって言うんだよ?最高、なんてエンターテイメントのある人生なんだ…!」

--こいつ、狂ってる。

「ああ、大家のおばさんなら、三〇三号室の家族のこと洗いざらい吐け!満足したら帰ってやる!って言ったらベラベラ喋ったよ。あの情けない顔!汚いから殺して捨てたけど」

「…あんた…」

--救いようがない。いつか凜が言っていた。一線を踏み越えたやつは、二度と帰ってこれないと。

「…そうそう、話が逸れた。で、まぁ凜くんだっけ?彼をターゲットに据えたわけだけど、漸く見つけたと思ったら、追加の収穫あり!」

不気味な白い指が、私の顔に伸ばされる。私は身をよじってできるだけ離れた。

「…君の見た目も結構好み。彼、君を助けにくるかな?来て欲しいな…はやく来て欲しいな…そうしたら、彼の眼の前で、君を殺してあげるよ!どんな顔するかな?思いっきり絶望した顔してくれるかな…!?」

長い髪を振り乱し、空を仰いで恍惚とする。

--こんな奴に、殺されてたまるか…

「はやく来て…この子と君のを混ぜたら、いいものができそう…」

どういう意味?私は吸血鬼を睨んだ。

「混ぜる?血を?凜と私の血液型違うから、固まるわ。それに、そんなことして何が楽しいのよ」

吸血鬼は虚をつかれたように振り返った。私は唇を噛んで睨み返す。

「血を混ぜる?…あは?あはは、もしかして、あたしが、血を吸うと思ってる?」

口が裂けそうなほどに開いて、ガサガサした笑い声が響いた。



--電話が鳴っている。そうか、上着のポケットに携帯も入ったままだったのか。

俺は走りながらそいつを取り出した。画面に表示された名前に目を見張った。

--淳一、綾花の父の名だった。

『…凜か。綾花の居場所はわかったか?』

「…何もかもお見通しってか?」

俺は苛立ちながら答えた。相変わらず淳一の電話はノイズがひどい。

『…わかったのならいい。今から言うことを覚えておけ』

「…今更、娘を心配する気になったのかよ」

俺がぶつけた言葉は、結局なんの効果も引き起こさなかった。淳一は俺の感情を無視して言葉を続ける。

『…お前がこれから対峙する者は、ただの吸血鬼ではない』

--ただの吸血鬼ではない?

どういう意味だろうか。吸血鬼にただの、もなにもあるのだろうか?

『…あれは血を吸うのではない』

血を吸わない吸血鬼?

『…あれが吸うのは、人の、「生きてきた時間」だ』

--思わず、立ち止まってしまった。

「…なんだって?」

もう一度聞き返すのが精一杯だ。

『あれは人の生きてきた時間を奪う異能の持ち主だ。体を常に巡り続ける血液は、人の中に流れる時間の象徴。生きてきた時間を奪う時に、一緒に抜けてしまうのだろう』

つまり、アレにとって、血は副産物。飲まなきゃ死ぬわけではない。

あいつの殺人は、生きるためではない。

「…生きてきた時間を奪ったら、そいつに変化は?」

俺の問いに、淳一は全く動じずに答える。

『…対象が人生の中で培った、外見、能力、そして異能すらも完全に模倣する』

--厄介すぎる。今一体どんな状況になっているのやら。

「今まで奪った外見や能力は?」

『外見に関しては次の犠牲者を出した時点で消える。今は一番最後に襲った者の姿だ。能力は残るようだ』

つまり、そいつの顔が綾花の顔じゃなかったら、まだ助けられるということか。

『…お前の能力を奪われないように気をつけろ。以上だ』

電話は切れた。大きく息をついて顔を上げる。辺りの気配は閑散としている。

--生きるためではないのなら、なんのために殺す?

俺には…分かる。分かってしまう。

--それは、得るために…

形あるものであれ、無きものであれ、自分が持っていないものを、抜け落ちてしまっているものを得るために。



私の目の前にいた吸血鬼は、私の反応を楽しんでいた。

「どう?びっくりした?あたし、あんたから何もかも奪えるんだよ?」

私はただ黙ってそいつを見つめるしかない。吸血鬼は笑っていたけど、さっきまでとは雰囲気がまるで違った。いよいよ獲物を狩りとるケダモノの眼差しになってきていた。

--こいつは、他人から生きてきた時間を奪って自分のものにしてきた。それは確かに凄まじい能力だと言える。だけど…

「…そんな事をしても、あなたは偽物のままよ」

私の言葉に吸血鬼は首をかしげる。

「他人から奪って身につけたものは、たとえ綺麗でもあなたのものじゃない。あなたの中身はなにも変わらない。むしろ、着飾ってばかりじゃ、中はどんどんボロボロになる」

視線を鋭くして私は告げた。

「…本当のあなたはどんな人?もう自分でもわからないんじゃない?外に気を遣いすぎて、中を疎かにするから、肉体にとらわれないはずの精神の自立はもう成り立っていない。自己というものが崩壊しかかってる」

--そう、吸血鬼はもう崩壊しかかっている。アイデンティティを失って、ひたすら他者の人生を渇望するだけの存在になりつつある。私はそんなに長く生きてるわけじゃないけど、外を着飾ってばかりじゃダメなことくらいわかる。

「…くだらない…」

ハッとした。吸血鬼の声は今までとあまりにも違った。

「…ホントのあたし?馬鹿げてるね。そんなものを大事にしろって言ってるわけ?あんたね、自分の見た目が結構可愛いからそんな理想論を言えるんだ」

突然、吸血鬼は私の首を鷲掴みにした。圧迫感と同時に息が詰まって、目の前がクラクラする。

「外より中が大事とか、内面を磨けとか、個性は内からとか、馬鹿じゃないの?そんなのみーんな嘘!そんなこと言ってもね、どうせ見た目が可愛くなきゃ、誰も見向きもしないのさ!外を見てよしと思えば初めて中を見る。それが現実!本当の自分がどれだけ綺麗でも、見た目がダメなら、誰も認めようとはしないのさ!」

いよいよ、息が苦しくなってきた。

「…あたしね、あんたの時間と彼の時間を混ぜてみることにしたよ。新しい発想さ。そうすれば、もっと良いモノが手に入るかもしれない。どうだい?完全に他人の模倣だとは言えないだろ!」

手足の感覚が痺れたようになってきて、意識が遠のいていく。

「その前に、彼はあんたを必死で探して、やっとの思いでここに来て、だけどあんたは目の前で殺されて…そんな悲劇を見てみたい!ああ、なんて、愉快!」

不意に手が放された。私は咳き込んで、必死に酸素を得ようとする。なかなか肺に空気が入らなくて、余計苦しかった。

--気付くと、目の前に二、三滴の血が落ちていた。顔を上げると、吸血鬼が呆然とした様子で自分の手を見つめていた。その手にはガラス片が突き刺さっている。

「…よう、吸血鬼。お前、悪趣味だな」

暗がりから聞きなれた声がする。静かに足音が近づいてくる。

--彼はそこにいた。頭に包帯が巻かれたままで、手にはガラス片を握って。

いつかと同じように、眼の底に爛々とした光が浮かんでいた。


俺が投げつけたガラスはうまく当たったようだ。とにかく、間に合ってよかった。

「あはぁ、早かったねぇ!嬉しいよ!」

気色の悪い笑みを浮かべて、そいつは俺を見ている。

「…ああ、俺もお前を殺せそうで何よりだ」

ちりちりと指先から熱が伝わってくる。力が理性を無視して飛び出していきそうだ。こいつを殺せと本能が嗤っている。こいつを殺して証明しろ、と。

--自分は、無意味じゃないと。他者の命に干渉することすらできるのだと。

「うれしいね、殺しあおうっての?」

バケモノは相変わらず笑っている。暗い眼の奥に狂気が渦巻いて見える。

「それなら、あんたはあたしの仲間だ」

突然の言葉に、何を言って良いかわからなかった。

「あんたあんまりにもカワイソウな奴だからさ、少し可愛がってから食ってやろうと思ってたけど気が変わった」

「…お前に同情される謂れはない」

一歩、距離を詰める。

「私と同じだよ、誰にも認められなかった、必要とされなかった」

吸血鬼はのんびりとこちらに向かって歩いてくる。裸の足がペタペタと音を立てる。

「あたしは醜悪な外見だった。デブで肌が汚くて、ほんとどうしようもない見た目だった。運動神経は最悪。でも、学校の成績だけはよかった。毎日のようにクラスで罵られたけど、そんなのどうでもよかった。いつかみんな本当のあたしに気づいて認めてくれると思ってたから。でもね、ダメだったよ。だぁ〜れも変わらなかった。それに、あたしには妹がいた。妹はバカだけど見た目だけはよかった。そっちは家族にもちやほやされて、しょうもないど底辺大学に進んで、あたしは超一流大学に進んで、それなのにあたしは無視され続けた。近づいてくる男はみんな妹狙い、就職は難航、みんなに見捨てられた」

それの顔が目の前に近づいてくる。俺は黙ったままその首筋にガラス片を突きつけた。

「ある時あたしは妹と喧嘩した。突きとばしたら当たりどころが悪くて死んだ。その血を舐めた時に、私は自分の力に気づいた。世界が変わったよ!自分はこんなにも特別なんだって!」

嬉しそうに、笑っている。

--俺は…自分の力に気づいた時…自分の存在理由を見つけた。

「お前の能力は使える」と言われたから。この力があれば、必要とされる、認めてもらえるとわかった。

吸血鬼の首筋に赤い線が入る。俺が突きつけたガラスが、その皮膚を傷つけたのだろう。自分の掌からも、ゆっくりと血が滲み出した。

迷うところじゃない。俺はどんな奴だって消せる力を持っているから、必要とされた。だったら、こいつを、その力で殺せばいい。殺して、証明する。自分はこんなにも…


--特別なんだと…!


この殺人は、儀式だ。

俺が、過去を捨てて、疑念を捨てて、能力の使い手として完全であるための。


ガラスを思い切り引いた。僅かな鮮血が飛び散ったが、致命的なものにはならなかった。

吸血鬼はひょいと間合いを取った。

「一般人の女を殺したのが間違いだったな。そんな状態で戦えるのか?」

俺の言葉に吸血鬼は笑った。

「へーきさ。外見は年増女になっちゃったけど、奪った能力は残ってるから」

--淳一が言ってたことは確からしい。外見は変わるが能力は残る。戦うとなれば厄介だ。

相手は素早く綾花に接近する。俺は地面を蹴って、そいつに突進した。狙うのは首。次こそ深々と傷をつける。

「さっすが、速いね」

攻撃は空を切り、吸血鬼の声は背後から聞こえた。反射的に振り返り、攻撃をかわした。

「あたしの方が速いけど」

--この能力は知っている。自分の時間だけを早回しにして、凄まじいスピードで動き回るものだ。それなら、盲滅法攻撃してもどうにもならない。

「ほら、おいでよ!はやく!」

声だけが聞こえる。とても肉眼では捉えられない速さだ。

でも、あいつは"とてつもない速さで走っているだけ"。颯太のように、空間を飛び越えて瞬間移動するわけではない。それなら、対処のしようはある。

--目を閉じて、意識を集中する。風を切る音、笑い声、足音…それらが自分の周りを駆け巡っている。

目を開ける。あいつがどこを動いているのか手に取るようにわかる。足音は、あいつが通った後に聞こえる。それならその先を見通せばいい。足の向き、重心のかけ方、それでわかる。

「そこだ!」

投げつけたガラスは、何もない空間を通って行った。

「…いたっ…!」

小さな声と同時に、影が地面を転がる。倒れた吸血鬼は、初めてその顔に焦りを浮かべた。

運がいい。見ればガラスはそいつの足に刺さっていた。厄介な移動を止められたのだ。あとは、とどめを刺すだけ。

「動くなよ吸血鬼。一撃で消してやる」

その身体を押さえつけて、俺はその辺に落ちていたガラスを拾った。いつの間にか自分の掌までざっくりと切れている。でも、不思議と痛みは感じなかった。

--そいつの身体から"時"を引きずりだそうとした瞬間、自分の身体が宙に浮いたのが分かった。放り投げられたのだ。すぐにバランスをとって着地する。

「お前、いったいどれだけの能力を奪った?」

多分、この怪力も元は誰かの能力だったのだろう。

吸血鬼は答えない。それどころかまた笑い出した。

「…楽しい…やっぱり仲間だ!ぶっちゃけさ、あたしにとって奪い取るのだけが楽しみだったんじゃないんだあ。今まで散々あたしを見下してきた奴、みんな殺せるのも、かなり良かったんだよね。そうだろ?あんたも、自分を否定する奴を殺したいんだろ?」

--一瞬、思考が固まった。

次の瞬間、地面に叩きつけられて息が詰まった。吸血鬼が身体を押さえつけ、首筋に指を食い込ませてきている。

「どうだ?図星だろう?あは!」

身を捩ってみても、拘束は緩まない。息ができなくて、頭の中心が痺れてきた。

--心がこいつを殺せと叫んでいる。こいつを殺して、自分の存在を肯定しろと。こいつはお前を否定すると。


「…ふざけないで!」

鋭い声と同時に、吸血鬼が吹き飛んだ。見れば、綾花が吸血鬼を蹴り飛ばしていた。

俺は咄嗟に起き上がって、彼女を背に隠した。綾花はいつの間にか拘束を解いたようだ。

--なんで忘れていたのか。俺は綾花を助けに来たのに。

急激に体温が下がって冷静になっていく。肩に置かれた綾花の手は微かに震えていた。

「…凜を、あんたみたいなイカれた殺人鬼と一緒にしないで」

綾花の声が、闇に響く。俺はただその顔を見つめるしかなかった。

「凜は普通のひとなのよ!あんたみたいに他人を妬んでばっかりの奴なんかとは違うのよ!」

--今、彼女は、なんと言った?普通のひと?俺が?

いったいなんの根拠があって、そんなことを言うのか。

こんな異能を持った人間が、いつ殺人鬼へと変貌してもおかしくないような存在が、なぜ普通の人なのか。

「…凜はね、あんたとは違う。誰かが傷つくのをそんな風に笑ったりしない。傷つけられたことを恨んで、傷つけ返そうなんて考えない」

どうしてなんの根拠もないのに、そこまで信じてくれるのか。

俺は吸血鬼を殺して、笑おうとしていたのに。

育ての親の無残な死に、小さな驚きしか感じなかったのに。


わかりきったことだ。言葉にすれば簡単なことだ。


初めて出会ったあの日から四年間、他愛ない日々も、切羽詰まった事件も共に過ごしてきた。

最初は全く息が合わなかった。衝突もした。年齢も性別も、生きてきた人生も違うのだから当然だ。

だけど、いつの間にか…お互いの呼吸は同じになり、見えているものも近くなった。どちらかが、どちらかに合わせたわけじゃない。自然とそうなった。自然とお互いがお互いに馴染んでいった。

そうしていくうちに、隣にいることが当たり前になった。ある時は事件解決のためのパートナーとして。ある時は味気ない夕食を少しでもましなものにするための友人として。

--その当たり前に、俺は、今この瞬間まで気づいていなかった。

当たり前のように隣に居られるなら、それが許されるなら。きっと、異能だけではない、凜(オレ)という人間が認められているんだ。それは時間と沢山の言葉、それから多くの変化が必要だったけれど。

--そう、誰かに必要とされたいのなら、されるように変わればいい。その場所にいたんじゃどうしようもないなら、場所を変えてみればいい。だって、少なくとも俺には、そうできる選択肢があったのだから。

何も変わらないまま、何も変えないまま、誰かに必要とされたいなんて、あまりにも都合が良すぎる。

--そしてもし、必要としてくれるひとが現れたなら。すべてをかけて、その人と、その人が信じた自分を守ればいい。


本当にバカだと思う。目の前のことを見落として、思い込みにとらわれて。どこまで本当かわからない、他人の言葉に一喜一憂して。自分の在り方なんて、悩むまでも無かったのに。ここにいる時点で、わかっていたのに。

俺は、この異能だけを拠り所にしてきた。それが俺をこの世界につなぎとめてくれると思ったから。だからずっと、俺じゃなくて、力が認められているんだと思っていた。

でも、そんなはずあるわけないんだ。


--なんだ、簡単なことじゃないか。ゆっくり息を吸う。

「…俺はお前を倒す。だけどそれはお前が俺を否定するからじゃない」

一歩、また一歩と間合いを詰める。掌の傷が痛いと思った。

「…俺を信じるひとを、信じてくれるかもしれないひとを守るために」

--お前を、倒す。

そう、殺さずに、倒す。

綾花と、彼女が信じてくれた自分を守るために。


手を伸ばす。相手の額に指が触れる。

--見極めろ、どこを断ち切り、どこを繋ぐか。

こいつの異能だけを、消し去るために…。


虹色の糸が弧を描いて宙を舞う。ガラスに反射して、雨上がりの虹のように煌めいた。

--断ち切られた糸が、燃え尽き果てるまで、俺は吸血鬼の目を見つめていた。



耳を劈く悲鳴が聞こえて、やがて静寂がそれを飲み込んだ。

全て終わったと、私は理解した。

吸血鬼は倒れ伏したまま動かない。それでもその肉体は消えないから、彼は成功したのだろうとわかった。きっと、吸血鬼の能力、その時間だけを斬り裂いた。

「凜!」

呼びかけて、私は駆け寄った。ガラスを握っていた彼の右手は血だらけだった。

「…はやく、病院に戻ろう。何かあったら大変だもの」

触れた手が、いやに冷たい。顔色も悪い。やはり無理をしていたのだ。

「…脱走がバレたらどうなるかな…」

凜はそう言って顔をしかめる。

「…浅野が怒りそ…」

--不自然に言葉が途切れた。彼は頭に手を当てていた。

「…どうしたの?」

私が問いかけると同時に、凜は突然倒れた。

--身体を支えていた力が、突然瓦解してしまったように。

一瞬の間が空いた。

「ど、どうしたの?ねえ!?」

私は彼の肩を揺する。私の口からは同じ言葉が何度も発される。まるで壊れたレコードみたいだ。

凜は苦しそうに咳き込んでいる。頭を抱えて、痛みをこらえるように歯を食いしばっていた。

--これを、私は知っている。椎名真子の時と同じだ。

異能は、自分の限界を超えて使ってはならない。超えたら、死んでしまう。それは異能者(わたしたち)に課せられたルールだ。

凜は吸血鬼の能力、その時間だけを切り取った。つまり、それは彼の能力の範疇を超えていたのだ…

私は彼の上着のポケットに携帯が入っているのを見つけた。何度もとり落としそうになりながら、画面を触っていく。

救急車を呼ばなければ。はやくしないと…

七月の終わり、山道にこだましたサイレンが蘇る。少女の最期の姿が見える。


--動転しきった私の連絡は、それでもちゃんと理解されたようだ。救急車がやってきて、瞬く間に病院へと走り出した。赤い光が眼の前で不吉にちらつく。


慌ただしい足音と、飛び交う声。それなのに、何度呼びかけても、凜は目を覚まさなかった。呼吸はだんだん浅く、はやくなっていく。

私の目の前で、集中治療室の扉が閉じられるまで、私は周りの状況を理解できなかった。

--浅野さんがやってきて、そのすぐ後に白衣の医師がやってきて、重苦しい顔で何やら話し始めた。

脳内に出血が見られるとか、外傷による硬膜外血腫かもしれないとか、手術が必要だとか…

結局、私には半分も理解できなかった。

それでも唯一わかったのは、本当に彼が死ぬかもしれないということだった。

--怖かった。

私が凜を呼び出したせいで事件が起きて、そのせいで死んでしまったら?そんなことないと言われても、私は信じられなかった。ただひたすら、夜が明けるのが怖かった。

でも、私はそのまま無理やりに浅野さんの事務所に閉じ込められた。私の心を心配してのことだろうけど、あまり心境は変わらなかった。


--夜更けに、電話がなった。

震える手が、それを取る。私は無言だった。


--一命は取り留めたと、短く告げられた。

泣きそうだった。安心して、心が緩くなっていた。


それから三日間、凜は眠っていたらしい。らしいというのは、私が彼のお見舞いに行くことを禁じられたからだ。浅野さん曰く、今の精神状態で外に出たら、無意識に異能を発動してしまうかもしれないからだという。そんなことないと言いたかったが、私には反論する術はなかった。



--不思議な夢を見た。

綾花が目の前にいて、でもいつものと違う制服を着ていた。見た目も今より少し幼くて、入学式と書かれた看板の横でピースしていた。写真を撮っていたのは浅野で、今までにないくらい緩みきった顔をしていた。

俺はそれを横から眺めているわけだが、なんというか、角度がおかしい。俺と浅野の身長は大差ないはずなのに、なぜかやたら下から見上げる形になっていたから。

暖かいけど、むず痒かった。

--これじゃまるで、家族みたいだと。


目を開けてみると、最近見たような光景が広がっていてげんなりした。俺はまたしても病院送りになったらしい。オマケにどちらも意識不明で、「気付くと病院のベッドの上だった」というパターンだ。

--眠い。さっきまで寝てたのに。いや、寝すぎたのか。

看護師が来て、医師が来て、診察のようなことと、いくつか質問をされた。--されたはずなんだけど、頭の中がぼんやりしていて、何を訊かれたのか覚えていないし、まともに受け答え出来た自信がない。

--とりあえず、脱走については笑顔で厳しく怒られて、監視がきつくなった。

これで本当におとなしくしているしかなくなった。こうなったら仕方がない。三日間昏睡していたとか言われた気がするが、また眠ってやろう。

--と、思ったのだが、音もなく病室に入ってきた人影を見て俺は起きていることを決めた。

「…なんともなかったようで良かったな」

口では良かったなと言っているが、目が怖い。

「…さっきまで死にかけてたやつに説教か?」

やっぱり寝ておけば良かった。

「それだけ喋れるなら問題ないな」

浅野はどさりと横の椅子に腰掛ける。

「お前に話があってきた。吸血鬼事件の被害者のことだ」

浅野は言葉を濁したけど、何を言いたいのかはわかった。

--俺に関係がある、事件の被害者。それはあのふたり、育ての親に違いない。俺の感情は思ったよりはっきりと顔に出たらしい。浅野は溜息をついた。

「…これを読んでおけ」

紙袋に入った手紙のようなものを渡された。

「あの日、被害者宅に残されていたものだ」

心の奥がざらつく。受け取ったきり固まっている俺を放置して、浅野はさっさと出て行ってしまった。

--これを見るべきだろうか。見るべきだろう。これは間違いなく両親が俺に宛てて書いた手紙だ。内容がどんなものだろうと、向き合うべきだ。

--封筒を開ける。白い便箋が、数枚出てきた。

それは長い手紙だった。

そしてそこには、俺が知りたかったことが、書いてあった。


四年前の秋、あなたがいなくなって、私たちは動転しまし

た。探しても見つからず、捜索願まで出しました。けれど、

そのあと、浅野昌幸という方が来て、あなたは家には帰りた

くないのだということを知らせました。

当然だと思います。私たちは、あなたを傷つけるだけでし

た。あなたが来た時、私たちはどうすれば良いのか分からな

かった。戸惑いのあまり、あなたと信頼を育むことができな

かった。そして、自分たちの都合が悪くなったら、あなたに

酷いことを言いました。親として最低だったと思います。

その日以降、あなたは私たちとの接触を絶ってしまいまし

た。あなたはきっと、私たちをひどく憎んでいると思いま

す。浅野さんもそう言いました。だから、あなたが家を出た

後は、浅野さんから今のあなたについて時折聞くだけになり

ました。とても臆病だったのです。あなたと正面から接する

ことができなかった。

そして今日、港であなたを見かけました。女の子と一緒にい

ましたね。元気そうで嬉しいです。

許してくださいとは言いません。それでももし、少しでも話

しをしてくれるなら、家に来てください。すぐには関係を修

復できないと思います。それでも、少しずつでも、あなたが

心を開いてくれるならそれ以上のことはありません。



ああ、そういえば。俺はあのふたりと、ほとんど話したことがなかった。


ふたりの戸惑いを、俺は忌避だと感じた。

ふたりが俺を否定するようなことを言ったのは、あの一度だけだった。

家を出てからふたりがどうしているのかなんて知らなかった。

浅野が時折出かけていくのは、そういうことだったのか。


--せめて、一度だけでも、本当の気持ちをぶつけてくれたら。

せめて、一度だけでも、本当の気持ちをぶつけられたら。


少しでも、変わったかもしれなかったのに。


後悔しても、どうにもならない。

その時の俺に、親の本当の気持ちなんて分かるはずがなかったのだから。

それでも、息が詰まって苦しかった。

なんで、来たのだろう。吸血鬼はなぜあの家に行ったのだろうか。もし違ったのなら、今からでも変えられたのに。

息を吸い込んで、その呼吸が乱れているのに気づいた。泣いているんだとわかった。

どうにもならない現実が悲しくて、やっと救われた心が痛くて、涙が止まらなかった。

--ここに綾花がいなくて良かった。こんなところを見られたら、恥ずかしくてたまらない。

俺を否定しなかったひとは、ずっとそばにいた。

いてくれたことが、嬉しい。

それなのに気づけなかったことが悲しい。

--初めから、この存在は否定されてなんかいなかった。異能をふるい、その力に依存しなくても初めから認められていた。だったら、だからこそ…この異能は、誰かを殺すためじゃなくて、救うために使おう。同じ悲しみをまた背負わないように。目を背けて逃げるのではなく、正面から向き合えるように。そして、誰かを殺そうなんてもう、考えない。誰かを殺してしまったら、誰かが認めてくれた自分を殺してしまうから。



--やっと見つけた。

俺が、生きて、ここにいる理由。


螺旋の境域 第三章 殺人儀式 --完--

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