第2話 刹那
二章 刹那
私は生まれてから一度も、この町を出たことがない。ふしぎだが、そうなのだ。私はいま十八歳。高校三年生で、地元の全寮制の女子校、霞桜女子学園の生徒だ。家族は父ひとりだけ。母には会ったことがないし、話を聞いたこともない。さらに奇妙なことだが、父親とも直接会った覚えがない。私が小さい頃は、浅野昌幸という三十代の前半くらいの男性が世話をしてくれていた。だから、どちらかといえば、浅野さんのほうが私の父に近い。他にも、いわば仕事仲間の颯太はこれまた弟みたいなものだし、今現在、私の眼の前で熟睡中のこの男も、悔しいが兄みたいなものだ。
その男の名前は、凜という。女の子みたいな名前のくせに、仕草も口調も男そのもので、もちろん性別は男性。まあ、顔は綺麗だから、女装すれば凛々しい女性に見えることだろう。因みに私より二つ年上で、いつもはぼうっとしているだけの人物。これが、怪奇との闘いとなると事情が違う。的確な判断で敵を蹴散らす頼れる人物となる。
私はとりあえず凜の顔を眺めることにする。昼も夜もしょっちゅう寝ている人だから、今叩き起こしても仕方がない。
ほんとうによく寝ている。私はちょっとだけいたずら心が生まれて、彼の頬を人差し指で軽くつついてみた。凜は目を閉じたままちょっとだけ顔を顰める。でも、結局起きなかった。つまらない。
--そういえば私が初めて彼に出会った時も、こんな風に眠っていた。
それは今から四年前、秋の終わりのことだった。
私はその時十四歳。浅野さんに呼び出されて、外出届をもらって学園の寮からその人の事務所に向かった。ちょうど少し風が肌寒くなり、きらめく光よりかは、揺らぐ影のほうが濃くなった頃、私はそこの扉を叩いていた。
「…すまないな。呼び出したりして」
浅野さんは珍しくリビングルームにいた。普段は会議室にいるのに。私は驚きながら問いかけた。
「いえ、特別許可は今年初めてなので平気です。でも、なんですか?」
私はそう言いながら、浅野さんが座っている向かい側のソファに近づいた。そして驚いて凍りついた。
--そこには人がいた。横になって目を閉じている。眠っているのだろうか。
そんな私の反応に苦笑して浅野さんは言った。
「…この彼のことでな。少し協力してほしい」
顔を覗き込んだ。制服を着ている。高校生くらいだろうか?黒髪が少し湿っているような気がする。それにしても微動だにしない。私も浅野さんも普通の声で話しているのに。
--まさか、死んでいる…?
「死んではいないさ。でも、半分は死んでるな」
心を読んだように浅野さんが答える。意味がわからないまま、私はじっとその顔を見つめていた。
--こんな風にして、私と凜は出会った。
「いったい何があったんですか?」
私の問いかけに浅野さんはため息をついた。
「水落鬼、聞いたことあるか?」
私は一瞬考え込んでしまった。それから頭の中にふっと記憶が蘇る。
「…聞いたことが…あります。確か妖怪…?」
溺死した人間の成れの果てと言われている、古くからいるモノ。
--人の思念や存在は、生き物の記憶のみならず、非生物にも記録される。中でも、水はいくらでも姿を変えられるその性質から、そういったものが記録されやすい。おまけに、具体的な形を伴って動くことすらある。そんな風にして生まれたものが人のような形をしていたとき、水落鬼と呼ばれることになる。
「…でもその水落鬼がどう関係あるんですか?」
「入れ替わろうとしたらしい、そこのそいつと」
眠ったままの少年を指差して浅野さんは答えた。
--溺死した人は死にたくないと思いながら死ぬ。だから、水に記録される想いも「死にたくない」というもの。それがあまりに強すぎると水を肉体代わりにして、生きている人間を殺して本当の肉体を手に入れようとする。でも、水落鬼となってしまった人の「生きていた時間」--いわば「魂」のようなものの全てが水に記録されているわけじゃない。そうなると結局、肉体を手に入れたところで生き返ることなんてできない。狙われた人はただ溺死するだけだ。その遺体は川や海の中で見つかることもあるが、時には川や海から少しばかり離れた場所で見つかることもある。水落鬼に襲われれば、たとえ陸地でも溺死してしまうから、襲われながら陸に逃げた人とかがそうなる。
「…でもこの人、死んでないですよ。助けられたなら、意識が戻らないのは変です」
水落鬼は人を殺して肉体を奪う。失敗したなら、なんともないはずだ。
「そういうことだ。だからお前に調査の手伝いをしてほしい」
なるほど、私を呼び出したのはそういうことか。
でも、考えてみればそれ以外に呼び出される理由なんてなさそうだ。
--寒い。
とにかく寒い。まだ秋なのに。
--ああ、さっき訳のわからないバケモノに襲われたせいか。
とにかく街中を移動して、自宅に近づいたがそこで気づいてしまった。単純だが恐ろしいことだ。
--誰も俺を見ていない。途中で数人にぶつかったが、彼らは皆不思議そうに中空を眺めるだけで、こちらを見ることはなかった。
普通なら、ありえないと否定する。だけど俺は人には見えないものを見たことがあるから、否定もできない。幽霊の類だ。よく街角をうろついているのを見る。人に話しても皆笑うだけだ。彼らには見えないから。とすると、今の俺には肉体がないということになる。それは寒いに決まってる。…いや、肉体がないのに寒いなんてことはありえないか…?
--でも、幽霊とは違う。
今俺は往来のど真ん中に突っ立っている。そのせいで人がどんどんぶつかってくる。彼らの肉体がすり抜けることはない。つまり見えないだけで、まだ生きているのだ。まさか、透明人間にでもされたのだろうか。だとしたら…本当に…。本当に…、なんだろう?
悲しい?それとも楽しい?いや、違うな。これは…
--どうでもいい、だ。
だって、元から生きていながら死んでいるようなものだった。
両親の無理心中から生き残った自分は、親戚の家に引き取られた。でも、その家だって裕福なわけじゃない。子供もいないから、引き取ったものの扱いがわからないようだった。虐待はされなかったが、特に親しくもなく、淡々とした関係だった。けれど二、三年前の不景気でますます家の収入は減り、おまけに自分は中学生になって何かと金がかかる。だんだんと親戚の態度は冷たくなっていった。
ほとんど口もきかないことが多くなった。そしてある時、仕事のストレスでイラついていた「母」は言った。『あんたの親はロクなものを残さなかった、あの時一緒に死んでおけばよかったのに』と。そしてその時知った。この家が大変なのは、自分の両親が残した借金のせいだと。
--あんな言葉≪モノ≫で傷つけられるとは思わなかった。でもあの一言は、必死で忘れてきた暗い疑念を思い出させた。
--どうして自分は生きているのだろうか。死ぬべきだったんじゃないだろうか?
その疑念は延々とつきまとってきた。でも答えは出なかった。
そして卒業式の頃、気づいた。
--自分は生きていたいと思っていない。だから、死にたいとも思わない。未来に何の祈りもなく、過去に何の執着もない。
それは…生きているとは言えないのではないだろう。
そう思った日から、何もかもどうでもよくなった。「両親」の態度も、気にならなくなった。だってそれが辛いのは、明日も明後日も来年も、そのままかもしれないと思うから。今このとき、この刹那しか思い浮かべられなくなった自分には、どうでもいいことだった。
だから、こうして行き場をなくしても何も感じない。
どうせ、帰る場所もいきたい場所も、ないのだから。
ふらふらと歩き回っていると、いつの間にか川岸に来ていた。あのバケモノが自分を襲ったところだ。別に自分の身体が落ちているわけでもない。ってことはつまり、俺はやっぱり透明人間なのだろうか。
--少し疲れた。橋の下まで行って、柱にもたれた。もう夜だ。眠いし、このまま寝てしまおう。
私は川岸に来ていた。浅野さんが件の少年を見つけたところだ。
何のために来たか、それは単純だ。私がこの件を捜査するため。
「よし、この辺でいい。綾花、たのむ」
その声に従って、私は頷いた。
--私には、超能力がある。
ある場所で起こったことを、目の前に再生できる。"過去再生"の異能。その場所にあるモノや空間そのものに記録された過去を蘇らせる脳力は、捜査にはもってこいだ。
私はしゃがんで川岸に掌を当てた。目を閉じ、この川辺の風景を頭に思い描く。--よし、そろそろいいだろう。
ゆっくりと目を開ける。辺りは真っ暗、夜だ。彼が襲われたのは夜だったのか。
川岸に制服姿の少年が降りてくる。彼だ。不思議そうに水面を覗き込んでいる。彼は肩をすくめて首をかしげる。
『気のせい…か』
そう呟いたあとにくるりと背を向けて歩き出す。しかし、先ほどまで何もなかった水面は、静かに盛り上がり始めた。
水の滴る音を響かせながら、水落鬼が現れた。
少年は気づいていない。つまらなさそうに川縁を歩いている。その背後から水落鬼は膨れ上がって襲いかかった。
--避けて!
すでに起きたことだから、無駄だとわかっていても私は念じずにはいられなかった。
膨れ上がったそれは少年を押し倒して包みこんだ。彼の抵抗はやはり激しく、暫く水落鬼は激しく凹んだり伸びたりしていた。だが、暫くするとその動きも鈍くなっていく。
--と、そのとき、そこに走り寄る人影を見た。あれはきっと浅野さんだ。走り寄ってすぐに、水落鬼に何かを当てた。そうすると一瞬その動きが止まった。その直後に、風船がはじけるような音を鳴らしてそれは砕けた。
--水落鬼が消えた後、浅野さんは少年を抱き起こした。でも彼は全く動かずにぐったりしている。ここまでは私が浅野さんから聞いた通りだ。つまり、注目すべきはこの後。
目をこらす私の目の前で浅野さんが彼を抱えて川岸から離れた。だけど、川岸には何かが残っている。さらによく目を凝らして、私は驚いた。運ばれていったはずの少年がそこにいたから。
彼はゆっくりと起き上がって、辺りを見回している。その後ふらふらと川から離れて行ってしまった。
映像が消える。私の隣で浅野さんは黙り込んでいた。
「…身体は川から離れたのに、その後も何か残っていたな」
浅野さんが少年の身体を運んだ後、残っていたのは何だったのだろうか。幽霊?
「あれは何だろうな。生霊のようなものか?」
--そうだ、あの少年はとりあえずまだ生きている。だから、死霊じゃない。となると、生霊だと思うのが妥当だが…
「…でも生霊なら、どうして肉体に戻ってこないの?」
生霊は、本人の強い思念が空間などを伝わって具現化したもの。だから、肉体と完全に別離しまっているわけじゃない。肉体が眠りから覚めた途端に消えてしまう。
「とにかく、アレの行方を追う方が大切だな」
浅野さんはそう言って歩き出した。確かにそうだろう。『彼』を見つけ出せれば、少しはわかるかもしれない。
私はゆっくり一歩を踏み出した。また水落鬼が川から上がってきそうで怖かった。
ここから少し下流に橋がかかっている。その下はホームレスが溜まっていたりして、私はあんまり好きじゃない。治安が悪いとか、そういうことではないのだけれど、何となく、その雰囲気が嫌いなのだ。今も、その橋が見えてくるだけで不快な気持ちになっている。
「今日は誰もいないんですね」
私は呟いた。そう、今日は橋の下のホームレス群は影も形も無かった。
「この間追い出されていたからな。もう少し経ったらまた元どおりだろう」
浅野さんはあっさり答えた。成る程、彼らは追い出されてしまったのか。そう思うとそれはそれでかわいそうな気もしてくる。私は黙ったまま橋の下の暗い闇を見つめた。
最初は気づかなかった。でも、直後に気づいた。その柱にもたれ掛かって誰かが座っている。蹲るような姿勢のまま動かない。
「…浅野さん…」
私は声を潜めた。浅野さんは静かにこちらにやってきた。
「…あそこにいるのは…」
あの制服、見覚えがある。それによく見れば、その人の身体は半透明に透けている。ってことは、ホームレスなんかじゃない。私が浅野さんを見上げると、彼は静かに頷いた。それからそっと近寄る。その人影に、そっと手を伸ばした。肩に手が触れる。でも、反応が薄い。やっぱり幽霊だろうか?
「…大丈夫か?」
浅野さんが屈んでそっと声をかけると、その幽霊のようなものは顔を上げた。しばらくぼんやりとこちらを見つめていた。その顔は間違いなくあの少年。私はじっとその顔を見つめていた。
「…誰?」
少年が問い返してくる。よかった、声は聞こえている。
「浅野昌幸というものだ。お前を助けようと思ってな」
その言葉に少年は首をかしげる。
「俺が見えてる?」
「ああ、よく見えてる」
浅野さんはそう言って、ゆっくり立ち上がった。
「詳しい事情は後だ。ついてきてくれるか?」
それを聞いて少年は頷いた。真剣さよりは気怠さを感じる動きだった。元に戻れるチャンスなのに、なんでだろう。
「そうだ、名前は?」
浅野さんが聞くと、少年は短く答えた。
「…凜」
少年--凜は名乗るとき、視線をそらしていた。自分の名前が気に入らないのかもしれない。私は、別にいいと思うけど。
「さて、と。お前は水落鬼っていう怪物に襲われた。アレに襲われると水落鬼に殺害された後、肉体を奪われる。だが、お前が死ぬ前に私が鬼を殺した。本来、それでお前は無事なはずだった。だが実際には、お前は分裂してしまっている。それがなぜなのか、どうやったら戻れるのかはわからない」
事務所で、浅野昌幸とか名乗った男が滔々と喋っている。一応俺は突っ立ったまま対面しているが、俺の姿が見えないものから見たらさぞ滑稽なことだろう。浅野は空気にむかって話しているから。
俺は困惑したまま、斜め後ろのソファに視線を移した。そこにはぐっすり眠っている「俺」がいる。俺は幽体離脱でもしたんだろうか。あのなんとかという怪物のせいで。
「とにかく、なんとか身体に戻れないか試してみるのはどう?」
浅野の娘だろうか、綾花と名乗った少女が言ってくる。
「戻れないか試すってどうするんだよ」
俺が言うと、綾花は肩を竦めた。
「体当たりでもしてみたら?」
原始的な方法だ。コイツ、特に考えもなしに言いやがったな。でも、確かにそれ以外に良い方法なんてなさそうだ。仕方なく俺は立ち上がった。そして自分の身体に近寄る。そっと手を伸ばすと触れられるが、戻らない。思い切って飛び乗ってみた。でも、やっぱり何も起こらない。
「…ダメか…」
綾花は残念そうに呟いている。当たり前だ。お前、ダメもとで言ったんじゃなかったのか?--ため息も出ない。
「俺がもし、このまま身体に入れなかったらどうなる?」
浅野は一瞬顔をしかめて、それから重々しく口を開いた。
「…消える」
--そんなもんだと思った。
「凜、お前は…そうだな、肉体に記録されている「生きてきた時間」が分離してしまっている状態だ」
--時間が分離?時間って形があるんだろうか。
「分離させられたあとも、お前はなんとか記録媒体を空間に移し替えて自我を保ってるようだ。お前はとんでもない奴だな。そんなことができる人間は初めてだ」
へえ、そう。…だったらなんなんだ。
「だが、空間というものは流動的で不安定だ。空間にはそれぞれいろいろな時間が流れているからな。だから、このままにしておくとお前は消える」
--そして、空っぽの肉体が残り、それもやがて死ぬ。
それを聞いても、やっぱり何も思わなかった。明日死ぬとしても、別にいい。別れを告げておきたい人も、やり残したと思うことも特にない。だから、どうでもいい。
それを告げると、浅野は視線を鋭くし、綾花は顔を顰めた。
「お前がどうでも良くても、そうですか、というわけにはいかない」
浅野はそう言って上着を羽織った。
「少し出かけてくる。綾花、颯太が来たら、電話するように言ってくれ」
そんなことを言って出て行った。俺はそれを眺めている。
「…颯太って誰?」
「仕事仲間」
綾花は短く答えた。俺は話を続ける手立てを失って黙り込んだ。
凜は黙ってしまった。私は颯太が来るのをじっと待った。颯太は私より二歳下。まだ十二歳の小学生だ。遊びたい盛りだし、無理矢理に呼び出すのは…というわけで連絡はするが、来るか来ないかは好きにするように言ってある。でも、気まずいから早く来て欲しい。凜は黙ったままこっちを見もしない。仕方がない、話しかけるとしよう。
「…ねえ、凜って何歳?」
凜はゆるりとコッチを振り返った。
「十六、高校一年」
あぁ、年上か。二歳も上だとは思わなかった。
「お前、浅野とはどういう関係だ?」
凜は躊躇いながら聞いてくる。
「…親代りかな。私には父さんがいるはずだけど、あったことないし」
凜は不思議そうな顔をしている。それはそうだろう。私だって変だと思ってる。
「…電話やメールはしたことあるよ。でも、直接に顔を見たことがないの」
「…なんだそれ。そんなんでいいのかよ」
良い悪いの問題じゃない、私はそう思う。だけど、それを言うなら凜もだ。元に戻れようと戻れなかろうとどうでもいいと言っていたけど、家族はどうするのか。でも、彼のこの反応では家族はいないか、或いは問題があるのだろう。
--また静かになってしまった。私はこういう沈黙は苦手だ。
「…えっと…水落鬼に襲われた時のこと覚えてる?」
凜は眉を寄せて思案している。心なしか、その姿がさっきより薄れているように見える。浅野さんが言ってたようなことが起こっているのかもしれない。
--それもそうだ。凜がこうなったのは昨日の夜。もうすぐ一日が経つ。そろそろ限界だ。私は慎重に彼を観察する。
「さあ?あんまりちゃんとは覚えてない」
やがて帰ってきた答えは想像通りに期待はずれで、私は溜息をついた。この男、ロクに会話する気がないんじゃないか?
--もういい、私はこんな沈黙に我慢ならない。
「颯太を迎えに行ってくる」
本当はここを離れてはいけない。だけど、私は耐えられなかった。
--今思えば、私も幼かったのだ。後悔しても、仕方ないけれど。
都会の秋は、夏とあまり変わらない。ただ、日が落ちるのが早くなって、道行く人々の服がくすんだ色の重たいものになって、全ての色合いが暗くなる。私は悶々とした気持ちで歩いていた。
あの、凜というやつはどこまで変な奴なのだろうか。ただ、浅野さんが言った通りの離れ業をやってのけたなら、私と同じように何らかの異能を持っているのかもしれない。
それなら、無事元に戻れたら、仕事仲間に加わるかもしれない。
なんというか、それは困る。でも、この仕事に失敗しても困る。やっぱり私は悶々としていた。
そうだ、何が一番の問題かといったらあの雰囲気だ。
なんだか、何に対しても希望がないようなそんな感じだ。私はそういう人は好きじゃない。
--自分勝手な理由だけど、こっちまで元気が無くなってしまうから。
きっと凜は家族と何かしらの問題を抱えているんだろうけど、私だって家族と…父親と会ったことなんてない。
そういう意味ではおあいこ。
そんな風にこころの中でブツブツ文句を言って、私は颯太が通っている小学校の前にたどり着いた。
携帯を取り出して、颯太に電話をかける。友達と遊んでいるところだったら悪いけど、今日だけは強引にでも来てもらう。
電子音が無機質に鳴る。私はじっと待つ。
『もしもし〜?』
颯太の声だ。
「あ、颯太?仕事なんだけど来てくれない?うん、学校の正門にいるんだけど」
私は強引に話を進めた。
『うん、今浅野さんのところにいるよ』
意外な返事が返ってきた。
なんでもう知ってるのよ、というか浅野さんの居場所がどうしてわかるのよ!
色々言いたいことはあるが仕方がない。私はやることを失って立ち尽くした。浅野さんのところにいるのに事務所に帰ってこいとも言えない。
--仕方ない、凜となんとか過ごそう。
「ただいま。凜?」
事務所は殺風景なまま目の前にあった。
いつもと変わらない風景。
誰もいないがらんどうの部屋。
--そう、いつもと変わらず、誰もいなかったのだ。
「凜?どこ!?」
私は焦って叫んだ。私がいないうちに、ついに消えてしまったのか?だけど、それなら凜の身体は残っているはずだ。
そう、事務所には生霊みたいな凜も、その身体もなかった。
元に戻って立ち去ったのだろうか…それならいいが、嫌な予感がする。私は目を閉じた。こういう時こそ、私の能力の出番だ。
ゆっくり意識を集中する。ほら、見えてきた。
--過ぎ去った時の残滓。
凜は窓辺に立っていた。私が出て行った後、特に何かをするでもなくぼんやりと。その姿はやっぱり半透明で、窓の外が透けていた。ソファの上には相変わらず昏睡したままの凜の身体。
--しばらくはそのまま、なんの変化もなかった。
だけど、不意に風が吹き込んできた。部屋は締め切っているのに。凜は不思議そうに周りを見回していた。
--やがて人影が現れる。私の知らない人だった。
「こんなところにいたのか。想定外だ」
やれやれ、と男がつぶやく。凜が男を睨んでいる。
男の手が凜へ伸びた。
そうしてゆっくりと透き通った凜の腕を掴む。それを振り払おうと腕が荒っぽく動かされる。
「往生際の悪いやつだ。知らないわけではなかったがな」
ぐっと男の腕に力が入った。凜が驚きに目を見開く。
--次の瞬間、景色は暗転した。
私は驚いて顔を上げた。無理矢理に過去から引き離されたような感覚で、頭の中がふらふらした。
とんでも無いことになったことだけはわかった。なんで凜を連れてったのかとか、私の能力で追跡できなくなったのか、とかはわからないけど。
--まるで理科室みたいだ。
目を開けて最初に俺が思ったのはそれだった。だって、周りにはビーカーやフラスコっぽいものがたくさんあったから。
次回は滲んで、状況が掴めない。
でも、俺のすぐ横で誰かが動いているのは分かる。
「…おや?目を覚ましたようだね」
誰かが覗き込んでくる。無精髭の中年男。オマケにメガネ。オタクっぽい。でも、太ってはいないな。じゃあ、違うかな。
--違う?…そうだ、俺を攫った奴とは違う奴だ。あいつはメガネなんてかけてなかった。じゃあこいつは、仲間?
「気分はどうだい?」
何も言わない俺を不審に思ったのか、意味のないことを聞いてくる。
「…身体がないのに、良いも悪いも何もあると思う?…まあ、精神的な面だけでいうなら最悪だよ」
答えて、思い切り睨む。
「そうか、まあ、いいや」
顎を掻きながら、そんなことを言っている。俺は起き上がろうとした。
「…おっと、動かないでくれ」
目があった。それだけなのに、その途端に動けなくなった。
「これが僕の能力だよ。空間を固定する。そうしたら君はそこから動けない。まあ、君も似たような能力があったようで驚いたけど」
男の言葉に、何も言えない。こいつは完全に超能力者だ。空間を固定…と言うのは微妙だけど。
黙って男を見つめていると、やがてそいつは何やら刃物を持って近づいてきた。あの形状…メスだ。
「…怖がらないんだね。普通は殺さないでください!ってみんな言うんだけど。というか、今まではみんなそうだったんだけど」
死にたくない、とはあまり思わない。それよりも、今まで、という言葉に俺は耳を疑った。
「…お前、まさか…」
嫌な予感というのは、よく当たる。
「君で七人目。僕の偉大なる研究に協力してくれて嬉しいよ」
…笑ってる。こいつにとって偉大なる研究とやらが相当大切らしい。
「…協力なんて…してない」
言い返すと、男は肩をすくめた。
「…協力しただろう?だって君、一度逃げたのに僕の家の前に来てくれたんだから」
何を言ってるのかわからない。
「仲間に俺を探させて、攫ってきたんだろ?」
男は首を傾げている。中年オヤジのそんなポーズ、全くありがたくない。
「…何を言ってるんだい?…まぁ、いいや」
こいつにとっては、そんなことよりも俺が目の前にいることが重要らしい。メスを持って近づいてきた。
「…最期に、いいこと教えてあげるよ。この世界は、おかしい。全てが歪んでいるんだ。その原因は、時間にあると僕は考えた。だから僕は水落鬼を使って、人々から生きてきた時間…つまりは魂を抜き取って空間に固定し、こうやってできるだけ細かく切り抜いて、観察することにした。そうすれば、世界の歪みの原因がわかるかもしれない。実際、あと少しだ」
急に、手首に痛みが走った。血は出ていない。だけどよく見れば、この部屋の暗がり、そこに打ち捨てられてる俺の身体--その手首から紅い血が流れていた。
「…世界を救うんだ。悪く思わないでくれ」
--意味がわからない。世界が歪んでる?それを正して世界を救う?
そんなこと、興味ない。世界の歪みなんて知らない。
メスでますます深く手首に傷をつけられた。俺の身体からは、血がどんどん出ていく。痛みだけが、幽霊みたいな俺に伝わってくる。
--痛い。
--本当に、痛い。
--血は止まらない。紅い色で、流れていく。
--生命が、流れ出ていく。
--そうか、俺は、生きているのか。
未来なんてなくても、この刹那、俺は生きているんだ。
--そうだ、生命は、刹那のものだ。
手は、勝手に動いていた。男の異能を打ち破って。
伸ばされた半透明の腕は、男の右手を掴んだ。俺は跳ね起きて、男からメスを奪った。男の見開いた目に、自分の顔が見える。
--どうすればいいかは、知っていた。きっと、生まれる前から。
俺はそのメスを迷いなく男の首に向かって突き出した。男はそれを避けようとしてよろけた。結果、メスは首ではなくて、肩に刺さった。
「…何を…」
俺に押し倒されたまま、男が喋った。
黙ったまま、メスを抜き去る。呻き声が聞こえる。
--メスの刃先には、虹色の糸が絡まっていた。
知ってる。これが何か、俺は知ってる。男もわかったようで、突然震え始めた。
「…ダメだ、それは…やめてくれ…やめろ!」
ゆっくり息を吸い込む。とは言っても、霊体の俺には気分でしかないけど。
「…へえ、今まで何人も殺したのに、今更?」
本当に、馬鹿げてる。くだらない奴だ。
--虹色の糸は、時の糸。魂と肉体とに共有される、ものの存在そのものを支える、時間。
だから、これを断ち切ればいい。それで、終わる。
この男の存在は、未来へ行くことができなくなる。肉体を失って、死霊になっても。誰かの記憶や、何かの記録にしか、残らない。
--メスを持ち上げる。
流れるように、曲線を描いて糸は宙に踊る。
何の音もなく、糸は途切れた。
刹那、何もかもが静止した。
そして、男は跡形もなく消えていた。
--忘れていた痛みが突然走って、俺は現実に引き戻された。
左手首から血が出ている。
「…戻ってる」
男が消えて、空間固定がなくなったからだろう。俺にはきちんと自分の身体があった。その辺にあった包帯でとりあえずの止血をした。
--改めて辺りを見回す。男はいなかった。
「…俺は…」
--殺してしまった。
--殺せてしまった。
--完璧に、殺し尽くせた。
部屋の真ん中に置いてあったテーブルに座った。右手に持ったままのメスを眺める。
不意に声が聞こえて、驚いた。周りに誰かいるのかと思ったけど、違った。だってその声は自分のものだったから。
--小さく、俺は笑っていた。自分でも気づかないうちに。
そう気づいて、ぞっとした。
俺は、異能を使って誰かを殺すことを喜びとしている?
だって俺は、この異能を使うことをずっと求めてたじゃないか。
でも、それは…
「…冗談じゃない」
声に出して言ってみた。
それは、あの男と同じだ。いや、それ以下だ。
あいつはまだ一応、大義名分があった。
でも俺は、もしこのまま心のままに人を殺すなら、楽しみのために殺すことになる。
「それの何が悪いんだ。そんなことどうだっていいじゃないか」
--でも、そんなこと…は望まない。
「…誰だって?」
座ったまま、頭を抱えた。誰が、俺の殺人を望まないっていうんだ。
知らない。俺はそんな奴は知らない。
--でも、それだけは失ってはならないような、そんな気がする。
ゆっくり、掌で顔を覆った。視界が暗闇に堕ちる。
--微かに鉄の匂いがする。手首の出血は止まってないようだ。
一回、二回と息を吸う。
「…これからどうすべきか?」
問うまでもない。一連の出来事を伝えるべきだ。
「…誰に?」
それも愚問だ。こんなことを話せる相手はそうはいない。
俺は手を下ろした。そして顔を上げる。
テーブルから降りて、後ろを振り返った。
主人を失った部屋は、ただ沈黙していた。
私は、じっと俯いていた。浅野さんの事務所はいつになく陰気だ。
私のせいで、凜はいなくなってしまって、事件の真相も闇の中だ。浅野さんは私に怒らなかったけど、本当は絶対に怒ってる。
--いつの間にか、雨まで降り始めた。夜の雨は不安を煽る。
颯太も気まずそうに私と浅野さんを見比べている。
沈黙が、重苦しい。
トントン
扉から、軽いノックの音が聞こえる。浅野さんが立ち上がった。
「何か?」
そう言いながら、そっと扉を開けた。
私は、目を見開いた。
--凜がいた。ずぶ濡れで、でもちゃんとした身体があった。
「…お前…」
浅野さんも驚いたように声をだした。どこに行ってたのか、どうやって元に戻ったのか、そして、どうしてここに来られたのか?わからないことしかない。
凜は呆然とこっちを見ている。だけど、彼は不意によろけた。
「…おい!」
浅野さんが慌てて支える。凜も踏ん張ったらしく、倒れるのは回避した。それでもやっぱり足元が覚束ない。
なんとか彼をソファに連れてきて、横になってもらった。見れば、左手首に乱雑に巻かれた包帯が真っ赤になっていた。
「…これ、切ったのか?」
浅野さんが問いかける。凜は天井を見つめたまま溜息をついた。
「…切ったんじゃない。切られたんだよ」
そう言って、ことの顛末を語り出した。
暫くして、彼は語り終えた。私もみんなも、何も言えなかった。
「…俺にはとんでもない能力があるんだな」
小さく凜は呟いた。浅野さんは黙って考え込んでいた。
「…殺した…か。確かにお前は人を殺した。だが、な」
そう言って私を見てくる。私はちょっとたじろいだ。
「…あなたが悪いって言い切れない」
私はとりあえず思った事を言った。
「…俺だって、罪悪感とやらに押しつぶされそうだとか、そういうわけじゃない。…だけど…」
凜は黙ってしまった。暫く間が空いた。
「…自分の能力を使いたい。だけど、誰も、殺しちゃいけない…」
独り言のように凜は呟いた。
浅野さんが息をついた。何かを決めたらしい。
「…凜、お前の能力は、怪奇への強力な対抗策になりうる。私たちと共に仕事をするなら、お前の異能を存分に使わせてやる」
凜はただ黙って浅野さんを観察している。
「…俺があんたの言うことを聞かずに暴走したら?」
浅野さんは笑った。
「…お前は私の命令を聞くしかないさ」
そう言って凜を真っ直ぐに見る。そして、これはあまりやりたくないんだけどな、と呟いた。
「…凜、立て」
その言葉を受けた途端、凜は突然立ち上がろうと身体を起こした。
「…凜、やめていいぞ」
そう言われて、凜は身体を横にした。
「…一体…?」
彼自身、自分に何が起こったのかわかってないみたいだった。ただ浅野さんを見つめている。
「…私が命令として発した言葉は、物理的に不可能でない限り、確実に相手は実行する。絶対命令の異能だ。これのせいで若い頃は思い上がったものさ」
苦笑して、そんなことを言っている。私も、羽目を外しすぎるとアレを食らった覚えがある。
「…いいよ、あんたの仲間になってやる。後は、好きにしろ」
凜は今までよりも幾分明るい声で、そのくせ投げやりな口調で答えた。浅野さんは静かに問う。
「…覚悟はあるか?ここに来たら、怪奇と戦い続けることになるぞ。それこそ毎日、ずっとだ」
凜はすっと視線を天井に移した。
「…構わない。未来とか、永遠なんて関係ない。俺にとっては、この刹那が、全てなんだから…」
--刹那が、全て。その言葉を、前にも誰かが言っていたような気がした。私の記憶の底、遠く彼方に沈んだ場所で。
「…ってことは…仲間が増えた!」
今まで黙り込んでいた颯太が、はしゃぎながら凜の顔を覗き込んだ。
「凜…だっけ?俺、颯太!よろしく!」
明るく元気にごあいさつ、だ。だけど、凜から返事がない。
「…あれ?凜…寝てる!?」
見てるこっちが驚くくらいの動きで颯太は振り返った。浅野さんとばっちり目があった。
「…おい、凜、寝るな。そんなずぶ濡れじゃ、ソファがいたむ。あと風邪を引くぞ。凜、起きろ、おい!」
--浅野さんの異能は、寝てる人には効果がない。空気が一転、騒がしくなった。私は自然と笑ってしまった。
--新しい日々が始まったことに気づいたから。
そうそう、結局この人はそれで翌朝まで寝て、見事に風邪をひいて三日また寝込んで、そのくせ家族は捜索願すら出してなかった。それで結局凜は家を出て、こうして一人暮らししている。
「…りーん、おーきーろー!」
私は彼の耳元で叫んでやった。あの日から四年たった今も、こういうところはさっぱり変わらない。
私は高校三年生になって、凜はもうハタチ。彼は高校卒業後は進学しなかったから、事件がない限りはただの暇人だ。
「おーきーろーぉ!」
「…うるさい」
頭をバシッとはたかれた。なによ、ぐうたら寝てる方が悪いのよ。
凜はいかにも眠そうにむっくり起き上がった。
「…なんか用?」
「失礼な!わざわざ夕食に招待しに来たのに!」
「へえ、珍しいな。浅野の事務所?」
今日はみんなで一緒に夕食を食べる。私のちょっとした楽しみ。凜が来るのを待って、玄関から外に出る。
「…今日のメニューは?」
「私がハンバーグ作ります!」
「え?お前そんな器用だっけ?」
「なによ!バカにして!」
他愛ない会話。夕暮れの坂道。私たちの日常。
秋になって、空は高く晴れ渡っている。
これは、私の宝物。
--平穏で、一番綺麗な刹那。
第二章 刹那 ≪完≫
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