螺旋の境域
アンジオテンシン
第1話 残響追憶
螺旋の境域
--それは一秒で終わる永遠の世界
一章 残響追憶
『では、本日のニュースです。午前八時頃、霞桜女子学園の副校長、片岡 芳樹さん四十五歳が、校内の倉庫で亡くなっているのが発見されました。調査によりますと、遺体の損傷は少なく、死後数時間が経過しているとのことです』
--また変死事件だ。
『同学園では今年五月にも、三年生の学年主任が自殺しています。全寮制の学園では前代未聞の事態に不安が広がり、夏休みを前倒しして全生徒を帰宅させる計画が持ち上がっています』
テレビ画面の中の男は淡々と原稿を読み終えた。ソファに座ってアイスを食べていた人物は、ニュースが終わるとテレビを消した。
「…霞桜女子学園やばいなこれ、どうよ凜」
相変わらずバニラアイスを食べ続けている人物の背後から、もう一人の少年が現れる。アイスを食べていた凜はその手を止めた。
「絶対怪異が関わってる。こればかりは間違いようがない」
つまらなさそうに答えるその声に少年、颯太はニヤニヤする。
--なんでこいつはいつもこんなにヘラヘラしているんだろう。
「なあ、凜チャン?綾花ちゃんが心配じゃないのかね?なんたって将来の花嫁候補だろ?」
なにも言わずに黙る。
「なあなあ、綾花ちゃんあそこの生徒だろ?様子見に行ったらどうだ?」
颯太はさらにニヤニヤしながら周りをうろつく。
「うるさい。あと凜チャンっていうなバカ」
刺々しく笑って答えた。
自分の名前は気に入ってない。なんでこんな名前なんだと名付け親に問い詰めたいくらいだ。だが、残念なことに--そう、本当に残念だ--もうその人間はこの世にいない。
颯太は肩をすくめた。
「へえ、それならどうしてさっきまでのんびり食べてたアイスを急いで食べ終えたのかな?」
「…」
黙ったまま立ち上がる。その迷惑極まりない勘の良さにはもう腹立たしさしかない。そのくせ、年上の人間に丁寧にするという意識はないときた。別に、どうでもいいといえばどうでもいいことだが。
「七月の五日 土曜日。本日の気温三十度。熱中症に気をつけて」
颯太がひらひら手を振るのが見える。なんだか苛立たしくてそれを睨んだ。
「…お前もさっさと高校行けよ。遅刻しても知らないぞ」
「大丈夫、大丈夫。俺は遅刻しないのさ。速いからな」
勢いよく扉が閉まる音が響いた。
自宅アパートまえのバス停に、ちょうどよくバスが来た。この炎天下、歩いて学園まで行きたくはない。それにあそこは山の中。蚊に刺されるのも御免だ。
バスの中は空いていた。こんな日にわざわざ出かけるものはいないということだろう。さっさと後ろの方の席に座って窓の外を眺めた。バスはゆっくり坂道を登り住宅街を出て行く。坂道の向こうに灰色の市街地が長々続き、その向こうには空を写したような海がある。見慣れた町並みをじっと眺めた。
--霞桜女子学園の一連の事件は、ただの事故や事件じゃない。所謂"怪奇事件"だ。
それなら今度は何が関わっている?異能者か?それとも霊の類か?
異能者は特に、綾花の父が放ってはおかないだろう。いざとなれば綾花の父--淳一が解決を指示する。そうなれば事実上その部下のような扱いの自分達はふりまわされるのだ。
--いや、それ自体は別に問題はない。
いままで、何かにつけて面倒だとか思ったことはない。だが、断じて自身が真面目なわけではない。なぜなら、やりがいを感じたこともないからだ。
でも、強いて言うなら、霊よりも異能者の方がいい。霊を相手にしても、フワフワと実感がない。実感がないなんて最悪だ。やりがいなんてもちろんあるわけがないから。
--とにかく、事件のことは綾花に聞いてみよう。何か違和感はなかったか、奇妙なものを見なかったか。それから淳一に連絡すればいいだろう。
それにどうせあの男に連絡したところであいつ自身は来ない。今までだって一度も会ったことがない。今回も代理人とかいう浅野 昌幸…あのメガネ男が来るだけだ。
--自分の娘が通う学園で、事件があったっていうのに。
「…気に入らない…」
口に出してつぶやいてしまってから、しまったと思った。
隣の席の子供がこちらを見ていたから。
寂れたバス停でバスを降りる。体にまとわりついていた冷気がさっと散った。セミの鳴き声がうるさい。毎年のことだが、夏場になるとせっせと騒ぐセミはある意味おそろしいものだ。
アスファルトに陽光が照りつけて、陽炎が見える。ガードレールの向こうに目を向ければ、街を俯瞰できる。街は小さく遠かった。
--そういえば、生まれてこのかた、ほとんどこの街を出たことはない。
あるのは…あの日の「家族旅行」だけ。
でも、別にどこかに行きたいとは思わない。どこにいっても同じだろうし、そんな憧れや夢はもっていない。
きっとそれは、いつかそれを失うのが怖いから。
目の前でガラス細工が割れるみたいに、とても綺麗なそれが壊れてしまうのはあまりにも悲しいから。
--でも、それで構わない。
チャイムの音が聞こえてきて、坂の上を見上げた。視線の先には校舎の影と真っ白な積乱雲があった。
「綾花!ちょっと!」
微妙に抑えた声で話しかけてくるものがある。今朝方の副校長変死事件で、学園の生徒は全員教室に集められ自習していた。教師は職員会議を臨時に開いているようだ。
「なに?未奈?」
私は友達の未奈を振り返った。彼女は席に着かず立っていた。彼女はなんというか、少し落ち着きのない人だから。
「なになに?なんかあったの?」
未奈に訊くと、彼女は意味深そうに笑った。ゆっくりと私の耳に顔を近づけて来る。
「…我が校の校門のまえに…」
「うんうん」
「…人がおるのです!!」
未奈は期待の眼差しを私に向けている。私が驚きの声をあげることを期待したのだろう。
「…へえ。あんな事件のあとだから、警察かマスコミじゃない?」
私の答えは見事に未奈の期待を裏切ったようだ。でも、私からすれば校門に人がいるとか、何が面白いのかわからない。
「ちょとあんたねぇ…んなわけないでしょ?それじゃ誰も騒がないよ。この山奥全寮制女子校を一般人らしき人間が見つめてるんだぞ?」
未奈の言葉を聞いても、私は全く彼女の興奮がわからない。
「…本当に何が面白いの?」
呆れながら席を立って私は窓に張り付いた。彼女があんまり騒ぐから、相手をしないのも少しかわいそうな気がした。
眩しい太陽が校庭を焦がしている。白く反射するグラウンドの砂と、濃い緑の木々と、その根元の真っ黒な影。激しいコントラストの色合いに眩暈がした。
目的の人物は校門の柱に凭れている。左手でスマホを弄っているようだ。そのせいで俯いていて顔がわからない。
「…ん?」
私は思わず眉をひそめた。見覚えのある容姿だ。まさか…。
窓から離れてカバンを開けてスマホを取り出した。画面を見るとそっけなく "ちょっと校庭の門まで来いよ" とメッセージが来ていた。
「…!!」
外の明るさをはるかに上回る強さで頭の中が真っ白になった。
--頭に血が上っている。隣で未奈がぽかんとしている。
私は一気に教室を突っ切り、外へ飛び出して行く。まるで自分の体に何かが取り付いてしまったようだ。それくらい私は焦っていた。
スカートが翻るのも気にせず灼熱のグラウンドを駆け抜け、私は校門にたどり着いた。それに気づいて人影がひょいと右手を挙げる。
--暇人め!
私の心に電光石火で相手を指す最高の言葉が浮かぶ。
「よう、さすがに教室に乱入するのはやめ…」
「それでも目立ってるわ!」
私は柵の隙間から腕を伸ばしてその人物を思い切り殴る。走ってきた勢いもついてかなりの威力だった。その人物--凜は額を押さえてしゃがみこんだ。痛いだろうけど、私は謝らなかった。
私はそのまま肩で息をしながら相手を見下ろす。凜はしゃがんだまま恨めしそうにこちらを見ている。
「で、何の用?」
問いかけると凜はようやく立ち上がった。それでもまだ額をさすっている。そんなに痛かったのなら…ちょっとだけ、申し訳なく思う。
「…用件だけ伝える。夜、寮の部屋の窓、開けといてくれ」
その一言で、すぐわかる。これは一連の事件がらみだ。解決しろと父に言われたのだろう。
「珍しいのね。自分から来るなんて」
私が言うと、凜は肩をすくめた。黒髪が微かに揺れて、白い光が滑り落ちる。
「…近場だったからだよ」
--バスに乗らなきゃこられないようなところが?
私はツッコミをこらえて、ふーんと笑いながら凜を眺める。凜は舌打ちして目を逸らした。
--私が心配だったって言って欲しい。
私の自意識過剰かもしれないけど。
「早速、今夜調査?」
私はとにかく凜の行動予定を聞いた。
「…そう。あと、学校で変なモノみたら報告しろよ」
それだけそっけなく言って、じゃあな、と凜は手を振る。もう少し話したいような気がしたけど、引き止めても無駄だろう。四年も付き合いがあればなんとなくわかってくる。世間的な四方山話を好む人じゃない。
ゆっくりと遠ざかるその姿はやがて炎天下の山道に消えた。そうなると突然寂しくなって、そして冷静になる。
--驚いた…というほどでもない。とにかく、凜がやってきた。つまりアレは怪奇事件。凜や私はそんな事件を解決するのにしょっちゅう使われている。確かに、この手の事件は私達みたいなのが解決するしかない。だけど、危険だってもちろんある。普段は忘れているけど、そんな闇が私の背後にはある。ちょうど、真夏の影法師が静かに背後についているように。
--最近は何故か、それが怖い。
その日の夜、あの人物、つまり凜と知り合いなのかと騒ぎ立てる未奈をなんとか寝かしつけて、私は寮の部屋の窓を開けた。ここは三階だ。どうやってくるのだろうと思うけど、凜ならその持ち前の運動神経でどうにかやってくるだろう。
窓の外を眺めると満月が輝いていた。ここは山奥過ぎて港は見えない。夜の港はさぞ綺麗だろうに。
私はとりあえず、ベッドに横になっておくことにした。見回りの先生が来た時に面倒なことにはなって欲しくないから。
私の学校は規則が厳しい。騒いだりしてなくても、消灯時間後に目を開けているだけで怒られることもあるんだとか。だけど、さすがに嘘じゃないかなとは思っている。
私はそっとベッドに潜り込む。暗い天井が目の前に見える。
それからゆっくりと呼吸する。
やがてあたりの音が静かに遠くなっていく。
「…おい、綾花」
突然声が聞こえて驚いた。瞼を開けると目の前に凜が現れる。
「ど、どうやってきたの?」
「屋上からロープで降りてきた」
淡々と会話をして、それから凜は首を傾げた。
「…寝てた?」
「寝てない」
凜はふーんとあまり信用していないそぶりで私を見て、それから言った。
「じゃあ、調査開始だ」
さっさと部屋を出て行こうとする凜に私は慌てた。ベッドから跳ね起きて、二段ベッドの下を覗き込む。よかった、未奈は寝ている。そうこうしているうちに凜は半分くらい部屋から出て行ってしまっている。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
本当にどうしてこの人はいつもこう唐突なのだろう。靴に足をねじ込んで立ち上がる。
「よし!行こう」
私を呆れたように振り返って、凜は返事もせずに歩き出す。私は一瞬遅れてその後をついて行った。
寮から出て、教室棟の廊下を私達は肩を並べて歩く。
「今回の事件、どう思う?」
凜の問いかけに私は戸惑う。特に…考えはないけど…
「どう思うって…そうだなぁ…私は特に変なものも見なかったし、不気味としか言いようがないね」
ありきたりな答えに凜はふーんと頷いた。それからゆっくり口を開く。
「今回の被害者、一人目は三年生の学年主任の溝口。夜中に歩道橋から飛び降り自殺。二人目は副校長の片岡。災害用備品倉庫内で心臓発作で死んでた」
淡々と並べられる「死」にほんの少しだけ寒気がする。私はこの手の話は苦手だ。
--青く冷たい月明かりが廊下を滑っていく。昼間のコントラストが嘘のように全てがかすんだ白銀に染まり、立体感を失っていた。
「…やっぱりこの事件は父さんの仕事に関わるような怪奇事件?」
私が問いかけると凜は立ち止まった。ひたりと視線がぶつかる。
--ああ、この目だ。いつもガラスのようなのに。どこも見ていないような瞳なのに。こういう時だけは、爛々とした何かがその底に埋もれているのが判る。
ぞっとして、目がそらせなかった。
それに気づいたのか、凜の方から目をそらしてしまった。わずかばかり瞑目して、凜は言った。
「…確証はないけど。多分。その確証を得るために今日ここにきたんだよ」
それから私たちは廊下の先の闇を見つめた。そこは渦を巻きながら様々なものを飲み込んでいきそうな暗さだった。
「…あと、勘だけどこの事件はまだ続く」
ため息交じりの凜の言葉に私は眉をひそめる。それは嫌な話だ。是非阻止したい。
「…それなら次に狙われるのは?」
「さあ?でも、また誰も気づかないところでひっそりと犯行をすると思う」
凜はゆっくり歩き出す。その足音が木霊して空気が震える。
「夜の歩道橋にしろ、備品倉庫にしろ、なかなか人目にはつかない場所だ。犯人には何か人目を避けておく必要があるんだろ。もっとも、大半の殺人犯はそうだろうけど」
私達の足音だけが薄暗い廊下を満たしていく。私たちは黙ったまま曲がり角を曲がった。
「…止まれ…!」
不意に凜が私を制した。私はおもわず息を潜めて廊下の向こうを伺った。
--何かが、いる。青白い光に包まれたように輪郭がぼんやりと光っている。しかし、その肉体は半透明に透けていた。
その姿に見覚えがある気がする。
「…あれは…?」
「…今回の事件の犯人、或いは無関係な浮遊霊」
しばらく観察したのち、私にとどまるように指示し凜はその霊に近づいていく。私は体の芯が凍えていくような感覚に襲われた。
近づくにつれてその姿がはっきりと見えてくる。
セーラーカラーは紺色で、胴の部分は白い。そのセーラー服は間違いなくこの学校の制服で、余計に体の冷たさが増した。
浮いていた霊は静かにこちらを振り向く。長い黒髪が揺れ、黒いスカートが広がり、胸元の青いリボンが花弁のように開いた。
「…よう、浮遊霊。こんなところで何してる?」
少し警戒しながら話しかけた。霊は薄青いその顔を困惑の色に染めた。
《私が、見えるの?》
どこか遠くから響いてくるようなその声に黙って頷いた。
「…ちょっと他の奴とは違ってさ。お前みたいなのと関わりが深いんだ」
《そう…》
霊はそう言って再び元の方向に向き直った。思ったより動きや声がはっきりしている。生霊だろうか?浮遊霊のあまりの生々しさに綾花がさっきの曲がり角で息を飲んだのがわかった。
「…で、何してるんだ?ここ、校長室だろ」
霊は何も言わなかった。ただ、じっと扉を見つめている。思わず溜息をついた。こちらの言うことには興味がないのだろうか。
「…まあいい。こっちが聞きたいことは一つだ。お前、連続変死事件と関係あるのか?」
霊は振り返った。そして笑う。不自然な笑みだった。
「…おい…」
怪訝そうな声を出した瞬間、目の前に青白い顔が近づいた。
《私といっしょに来ない?》
霊は彼に抱きつこうとするかのように両腕を広げた。真夏の雲のように白が広がり、迫ってくる。
「一緒に来ない?」こんなことを言うとは、こいつ死霊か?それなら本当に珍しい。こんなにはっきりと人格が残っているなんて。
小首を傾げて霊はこちらを覗き込んでいる。虚ろな目の向こう側に廊下が透けて見えていた。
「…悪いけど」
ゆっくり透き通ったその肩に手を伸ばした。
「…お前とあまり変わらないからな。生きようとか死のうとか考えたこともない」
伸ばされた指は、普通は霊をすり抜ける。しかし、その指先は霊に確実に「触れた」。軽く霊は後ろに押され、「二人」の距離が少し開く。
《私に…触れた?》
霊の声に、思わず笑ってしまった。余りにもありがちな反応だったから、耐えられなかった。
「…言っただろ、他のやつとは違うってさ」
霊は狼狽え、こちらを見つめている。その姿を見て、懐かしい感覚を得た。
--体の隅々まで、熱が駆け抜けていくような感覚だ。
その感覚に従って、笑みを深くする。
「…さて、教えてもらおうか?さっきの答えを」
少し、また少しと霊は後ずさりした。やはり何か事件に関して知っているのか?それなら是が非でも聞き出さねば。
思い切って一歩踏み出す。
すると、霊は突然素早く動き出した。
「…おい、待て…!」
手を伸ばすより前に、霊は月明かりに溶けて消えてしまった。
仕方なくしばらく霊が消えた方向を見つめていたが、やがて追いかけても無駄だとわかった。
「…逃げられた」
凜は私の元へ戻ってくる。しかし、不意にその脚は止まった。
「…綾花?どうした?」
それは私がしゃがみこみ、肩を抱いていたから。きっとその顔は先ほどの幽霊のように青くなっている事だろう。
「…大丈夫か?」
凜はそっとしゃがんで私の顔を覗き込む。時折こんな優しい側面を見せる。でも、今はそれに感謝できるほどの余裕がない。
「…あ、あの浮遊霊…」
震える声で私は言う。
「…長尾 奏…」
「え?」
唐突に告げた名前に凜は戸惑っている。当たり前だ。凜の知らない人だから。
「…去年の三月、階段から落ちて亡くなった、クラスメート…。彼女に間違いない…」
私の体は他人のものみたいに震えている。言葉も、私の頭の中で完成する前に開いた口から出て行ってしまう。
「…でも、違う。違うの。奏は、あんな話し方じゃなかった。奏の髪は黒髪じゃなかった…。なのに、顔は、声は、奏のものなの…」
つまり、あの霊は死霊だった。なのに生前と姿が異なる。
不可解な現象に、凜は呆然としていた。
『…へぇ、そんな奇妙な…』
翌朝、自宅で颯太と電話した。
「…長尾奏については綾花に調べてもらってる。ああ、ついでに言うと、もう彼女は死んでいる。つまりアレは死霊のはずだから、事件と直接に関係は無いんじゃ無いかと思うんだけどな」
そう告げると、うーんと電話の向こうで颯太が唸る。
『でもな…死霊が生前の姿とそんなに違うなんて…』
凜も困り果てて天井を見つめる。
--霊は生前の人物の名残。生前関わった人や場所に残ったその人の記録が再生されることで存在している。従って基本的な情報は生前とあまり変わらない。服装などに関しては、生きているうちに何度も変わるから、情報がごちゃ混ぜになり、「白い服」という認識になってしまう事も多いが。
--それにしたって髪の色や話し方まで変わるとは聞いたことが無い。それに、綾花が嘘をついたとは思えない。
「…考えれば考えるほど分かんなくなるな」
整理しようと躍起になったが、それは無意味だった。
『…捜査の行き詰まりを感じてるだろ?そんな凜チャンにグッドニュース。ちょっと面白いもんを見つけたんだ』
「…面白いもの?」
背後に気配を感じて振り返ると、ニヤニヤとした颯太が立っていた。その手には分厚いファイルがある。
「…ああ、昼休みか」
もうどうでもよくなって電話を置く。
「そのファイルは?」
聞いてみると颯太はますますニヤニヤした。
「…実はな…」
この先の答えは想像がついている。どうせ…
「…警視庁からお借りしたデータが入ってるのさ」
--やっぱり。もうだいたいこいつの行動は読めてきた。
オレンジ色のファイルを颯太は差し出す。二人でソファに腰を下ろしページをめくる。数ページ進んだところで目的のものを見つけた。
「…霞桜女子学園の三学年主任教師自殺…」
一連の事件の中の最初のものだ。颯太が横から覗き込んでくる。白い紙の上に黒い明朝体で淡々と事件のあらましが書かれていた。薄暗い印象の文面に外の真夏の光がさしこんだ。
「へえ、目撃者がいたんだ」
颯太が書面を指でつついて言った。つられてそこに目を移す。
「…本当だ。二人か…」
それから細かい情報を読み取るべく視線を滑らせた。
--死亡した男は、夜の歩道橋を一人で歩いていた。何やら酒に酔って いるようで、足取りがおぼつかない様子だった。突然立ち止まり、中空を見つめて悲鳴を上げた。回らない舌で喚き、両手を振り回して暴れた。「やめろ、私は無関係だ!やめろ死にたくない!」と言っていた。そして走って歩道橋の柵を越え、道路に落下した--
かなり細かい情報だった。おかげで一つ確証を得られた。
「…やっぱりただの自殺や事故じゃないな」
ファイルを閉じた。息をついて天井を見る。先程と影の位置が変わっていた。
「…見えないモノを見て、殺された」
颯太も同じく溜息をついた。
--中空に見えたのはきっと霊の類だ。大声で喚いたなら、それは絶対にそこにいてはらない存在のはず。それは長尾奏の死霊であった可能性が一番高い。しかしそれでは矛盾が生じる。
--まず、長尾奏の霊は校舎から出られない。なぜなら、霊という存在が、生前のその人の記録の再生に過ぎないからだ。生前の人が記録されるのは人の記憶のほか、何度も行き来した場所や建物だ。長尾奏が何度もここを行き来したならあり得るが、彼女は全寮制の学校の生徒。家はずっと遠くだし、この歩道橋を通る理由がない。
--さらに死霊は死にたくない人間を殺すことはできないのだ。死霊が人を死なせるためには、死を目の前で見せて、惹きつけるしかない。
イライラしながら頭を掻く。矛盾が多すぎる。
「やっぱり、あの死霊は無関係か?でも…」
「とにかく、綾花ちゃんが長尾奏について調べ終わるまで待たないと。彼女の調査能力は信頼してるんだろ?」
ゆっくりと視線を窓の外に移した。奇妙なほどに眩しい世界がガラスの向こうには広がっている。
「…信頼してる。でも、事件は次の犠牲者を生むかもしれない」
隣で沈黙が起こった。
「珍しく焦ってるな。いつもは何人死のうが国が壊滅しようが興味ないお前が」
図星を突かれて黙り込んだ。勘のいいやつだ。
「…さては綾花ちゃんか。彼女が巻き込まれるのを恐れてるんだな」
強く脈打ちすぎて心臓が痛い。綾花が巻き込まれる?それは困るに決まってる。
だけど、口から出るのは正反対の言葉だ。
「…っ…誰がそんなこと…」
あっさり見抜かれて颯太はクスクスと笑っている。
「いや、誤魔化すだけ逆効果だぜ凜チャン。俺に誤魔化しは効かない」
何も言わずに立ち上がった。この時ばかりは颯太を殴りたい衝動に駆られた。しかし、そんなことをしても無意味だと悟って溜息をついた。
こいつと一緒に事件を解決するようになって何年?もう三年は経ってるはずだ。なのにこの三年間、こいつに腹を立てなかったことは一度もない。悉く相性が悪い相手だ。
いや、違う、今考えるべきはこんなくだらない事じゃない。長尾奏の死霊が事件と関わりがあるかどうか、だ。
現状、あの死霊には事件を起こせないと考えるのが自然だ。
だけど、綾花が言っていた事は気になる。
"生前の姿と死霊の姿が大きく異なる…"
凜は綾花から受け取った長尾奏の写真を眺めた。颯太はいつの間にか背後にやってきて肩越しにそれを覗いている。
ポニーテールの茶色の髪は緩くカールして、溌剌とした印象を受ける。すらりと伸びた手足を短めのスカートが強調していた。霞桜女学園には珍しいタイプだ。それでも整った顔のおかげで嫌な感じはあまりなかった。
「凜が言ってた霊の印象とは似ても似つかないね」
颯太が首を傾げている。
「人々の彼女に関する記憶が曖昧ってことか?」
颯太の疑問に一つの答えを示す。
「いや、彼女の死霊は、はっきりと言葉を話していた。霊の人格は他人にどれだけその人柄を覚えてもらっているかで決まるから、彼女と周りの人の関わりは多かったという事になる。人々の記憶にそれだけはっきりと彼女の人格が記録されているんだから…」
しかし、それなら彼女の容姿に関する情報がそこまで錯綜する事はないはずだ。生前の姿と死霊の姿が大きく異なるときは大概、その人が周りとの関わりが薄く、再生される記憶が曖昧なせいだ。
「…もう少し情報が欲しいな。颯太、監視カメラの映像とかって手に入れられるか?」
颯太にファイルを返し、聞いてみる。
「ケーサツが持ってればね」
颯太は笑っている。
「じゃあ、もしありそうだったら手に入れてきてほしい」
「りょーかい」
呑気な返事が聞こえた次の瞬間、相太の姿は消えていた。一息ついてスマホを取り出し、綾花にメールを打った。
送信中のマークが消えて、送信済みになる。そのまま意味もなく画面を見つめた。表情の無い顔が黒い画面に仄かに写り込んでいる。
あの霊は今日もどこかをさまよっているのだろうか。過去を反復する以外になすことはなく、いつか無へと崩れ落ちる存在として。
--それでも、そんな姿でも、この世の誰かは彼女を必要としているのだろうか?
「…奏についてかぁ…そうはいってもねぇ」
ようやくエアコンが効き始めた教室で、未奈は首をひねった。元々彼女が答えを知っているなんて期待はしていない。
「あんたが知ってる事以外になんて知らないと思うけど。運動神経抜群で頭脳も明晰、そのくせ自由奔放で明るくて、クラスの人気者だった。先生たちは手を焼いてたらしいけど」
未奈の言葉に綾花は頷く。皆の評価と変わらない。
「…だよねぇ…」
しばらく私達は黙っていたが、突然未奈が私の肩を掴んだ。突然のことにびくりと体が震えた。
「ところでなんであんた急にそんな事聞くのさ。もう亡くなってから三ヶ月以上経ってるじゃん…さては、昨日の彼、奏の知り合いだったの?」
「…深読みしすぎ。アレは昔からの知り合いってやつ」
始業のチャイムが鳴って、私は席に着こうと動いた。突然に未奈が振り返った。
「奏の事知りたいなら、ほらあの子。隣のクラスの椎名 真子。あの子が一番仲良かったでしょ。あの子に聞きなよ」
--椎名 真子。聞いた事のない名前だ。
「…わかった。ありがと」
この授業が終わると昼休みだ。椎名真子を探す事もできるだろう。
私はノートを開いた。一応教室の暑さは緩和され、快適だ。
夏休み直前の、しかも期末テスト後の授業なんてオマケだ。どうせ退屈なので、私は今まで長尾奏について調べたことをまとめることにした。ノートに一つ二つと項目をまとめていく。私はふと、また父の代理人、浅野さんと仕事をするのだろうかと思った。
父は怪奇事件を解決しているらしいが、実際私自身、父の顔をまともに見たことはない気がしている。とすると、いちども私とあっていないのだから、父と呼ぶ意味はないかもしれない。
終業のチャイムと同時に私は立ち上がった。ことは早く済ませたい。真っ先に隣のクラスへと向かうことにする。
「椎名真子さんいる?」
教室の扉を開けると同時に呼びかけた。
「…え…私?」
教室の後ろの方でためらいがちに立ち上がった生徒がいた。綺麗な黒髪だが、顔の方は分厚いメガネも相まって地味な印象を受ける。
--この人が椎名真子…
きっと、運動神経抜群、頭脳明晰な美少女であった長尾奏の隣にいたのでは、まるっきり引き立て役だっただろうに。
「…ごめんね、ちょっと聞きたいことがあって…」
「…なに?」
警戒心をあらわにしている彼女に私は微笑んだ。
「えっと…長尾奏さんと仲よかったよね…」
その一言で椎名真子はますます警戒した顔になった。私はこの手の話を持ちかけるのは苦手だった。
「それで?」
冷たい返事に私ははますます戸惑うしかない。諦めてためらいがちに切り出す。
「あ…えっと…奏の髪って黒髪だったっけ?」
「…ここに入学して染めたのよ。茶色に。先生たちは散々呼び出したりしてたけど、奏にとってはそんなの関係ないもの」
真子は冷たく答える。警戒を解くそぶりはないし、メガネ越しにこちらを見つめる目は何の色も含んでいない。完全に失敗だ。
--あれ?でも、奏がそんな風に呼び出されているところなんて私は見たことがない。第一髪を染めたりなんかしたら、親呼び出し間違いなしだ。でも、奏ならやりかねない…かな?
「…話はそれだけ?」
真子に聞かれて私は曖昧に笑った。これ以上深入りできない雰囲気くらいは分かる。
「…そうだね。うん。それだけ」
なんだか居心地が悪くなった。話を切り上げ、立ち去ろうと思う。
「…あの奏が、階段から足を滑らせて死ぬわけがない…」
小さな呟きが耳に聞こえて私は振り返る。でも、真子はこちらを見ることはなく静かに自席に戻っていった。
--不意にスマホが振動して着信を伝える。
凜からメールだ。3年の学年主任の不自然な死についての内容だった。
--死んだ男は長尾奏の死霊を見ていたかもしれない。そう考えたほうが自然だ。でも、死霊じゃ生きている男を殺せない。
淡々とそんな内容が書かれている。そして画面をスクロールさせると続きが出てきた。
--これは間違いなく怪奇事件だから、淳一に連絡する。
やっぱり私の日常には、非日常との境界がない。
建物の中は電波が悪いのだろうか。さっきからガサガサと雑音がしている。窓辺に寄っても相変わらずで、凜はスマホを耳につけたまま顔をしかめた。
そういえば、淳一に電話をするといつも雑音がしていた。つまり、悪いのは電波ではなく、あいつの携帯の方だということだ。
「どうせ知ってるだろうけど、一応連絡。霞桜女子学園の一連の変死事件はこっち側の話だ」
『そうか。では浅野のところへ向かえ』
いつも通りの返事。まさに反復だ。何時もなら気にも留めないそれが今日はどうしても引っかかった。仕方ないから、言いたいことは言わせてもらう。
「…お前…自分の娘が通っている学校で起こってるんだぞ。少しは心配したらどうだ」
『心配はしている。だから浅野と協力しろと言っている』
噛み合わない。こいつはどうしても相容れない。直接会ったことなどないが、いつもそうだ。
「…わかったよ。で、解決のためには何をすればいい?」
『…何でもいい』
黙ったまま電話を切ってやった。何となく苛立ちを感じたから。
どうしてかはわからない。今までそんな気持ちになったことはなかったからだ。
四年前のあの日、初めてお互いを知った日から、別段淳一に反感を持ったことはなかった。別に彼を好いていたわけではない。他人に対する興味はあまり持たないタチだから。
なのに、近頃は苛立ちを覚える。少しずつ、自分が変化している。それは、嬉しいような、怖いようなそんな感じだった。
唇をかんだまま外を見つめる。浅野が関わる気なら、彼の事務所に行くべきだろう。颯太もどうせ学校を抜け出してやってくる。
落ち着かない気持ちのまま外へ出る。自宅のマンションの前は緩やかな下り坂だ。誰もいない真夏の昼下がり、奇妙な静けさの中ゆっくりと坂を下る。空が蒼い。その蒼さにふと脳裏に過去の情景が浮かび上がった。
今までなんども追憶し、しかし思い出したところで何も感じられない。そんなただの記録に過ぎない記憶が。
--子供のころ、ずいぶん狭苦しい部屋に住んでいたのを覚えている。父と母と自分の三人で。お世辞にも綺麗とはいえない建物だったが、母がせっせと手入れをして、清潔に保っていた。
あの時は、別段その暮らしに疑問はなかったし、周りの人間と比べて疑問に思っても不満はなかった。特に、自分はきちんと三食食べて、学校にも行き、贅沢はできなかったが必要なものは全て買い揃えてもらっていたから。
しかし、今思えば、貧しかったのだろう。父や母が食事をしているところをあまり見たことはないし、二人は仕事用の服を除けばろくな服を持っていなかった様な気もする。
そんな真夏のある日、両親は自分に出掛けようと言ってきた。幼かった自分はもちろん喜んだ。父が近くで車を借りてきて、母と三人で車に乗った。
--空が蒼かった。驚くくらい、明るく、鋭く。
家族揃って綺麗な渓谷が見える山奥に出掛けた。山の頂上の剥き出しの岩が空をついていて、真っ白な入道雲がその上に乗っている様に見えた。それをはしゃぎながら母親に伝えたのを覚えている。さらに、不安定な吊橋の上から遥か下方の翡翠色の川を眺めた。そして、濃い緑の山に向かって叫んで、やまびこを楽しんだ。
昼には、今まで全く入ったことのなかった様な少し高級そうなレストランで食事をした。なんでも好きなものを食べてよいと父は言っていた。だけど、そこで食べたものの味は全く覚えていない。
夕方、真っ赤に染まった空の下、行きと同じ様に車に乗って家に帰る…筈だった。なぜか母は助手席ではなく、自分の隣に座った。
曲がりくねった峠道。グラグラと体が揺すぶられるのを少し怖がりながらも楽しんでいたとき。
--ごめんね…--
不意に母が抱き締めてきた。その声の響き、その腕の細さ、その身体の冷たさ…全て、克明に、覚えている。
--三人を乗せた車は、そのままガードレールを突き破った。
気が付いたとき、車は崖下に落ちていた。潰れた車から這い出して、振り返った。辺りは赤かった。夕焼けと、血の色で。
自分はただ、その赤さをずっと見つめていた。時が止まった様にいつまでも赤いそれを。
--あの日、未来は壊れた。二度と訪れなくなった。
それなのに、どうして自分はここにいるのだろうか。
ふと息をついて、回想を断ち切った。こんなことを思い出して何になる。思い出したところで、ふたりは帰ってこないし、答えも得られない。ただ、あの日に知った未来の崩壊の音は、今も自分の中に残響しているのだろう。
ゆっくり顔を上げる。目の前に見知ったビルがあった。いつの間にか浅野の事務所の下に来ていた。いつも繰り返していることは、意識しなくても簡単にできるものだ。そのまま四階建ての雑居ビルをぼんやり眺めていると、不意に声をかけられた。
「久しぶり」
浅野の声だ。雑居ビルの一回は小さなカフェになっている。実は浅野はそこのオーナーをやっている。おかげで結構な金持ちらしい。
そんな浅野を一別して目を背けた。だってあの顔はあまり得意じゃない。相変わらず眼鏡の奥で、何を考えているのかわからない目が光っている。
「意外と早かったな。とにかく入れ」
促されるままにビルの二階へ向かう。
二階の会議室は、いつも陰湿な空気を漂わせている。でも、窓を開けて光を取り入れると、少しはすっきりとする。それから、いつもそうしている様に、開いた窓のそばに古びた椅子を引き寄せて座った。
静かに、そのまま空間は黙り込んだ。浅野はゆっくり窓の方を眺めている。いつも通りの場所で、いつも通り、ぼんやり外を眺めた。
「…なあ、浅野」
不意に話しかけられて浅野は慌てたようだ。話しかけられるとは思っていなかったのだろう。いつもは黙りこくったままだから。
「…淳一にあったことある?」
「…一度くらいかな」
--いつのことだか覚えてもいないが、お互い知り合って初めての仕事を任された頃。不思議なことにその顔も声もほとんど覚えていない。
浅野はそんなことを語った。結局、その答えだけでもう興味をなくしてしまった。
「…あのぉ?これ入って大丈夫なヤツ?」
奥の扉を開けて、颯太がやってきた。この沈黙に颯太はいつまで経ってもなれないようだ。浅野は無言で彼を招く。
「…監視カメラの映像、あったか?」
問いかけると颯太は頷いた。そそくさとモニターに何かしらの機械をつないで、リモコンを手に取る。
「ほら、俺も見たけど、特に何もなかったかな?」
モニターに荒れた映像が映し出された。
暗い歩道橋を、男--溝口が歩いていく。歩道橋の下も車は通るが、人通りはない。しばらく経つと、事件の報告書にあった通りに溝口は暴れ始めた。両手を振り回してめちゃくちゃに走る。
ふとその時、画面の隅、歩道橋の下に白い影が見えた。
「…颯太、止めて」
その声に従って颯太は映像を停止した。目を凝らして歩道橋の下をじっと見る。
「…これ、霞桜の制服?」
颯太は呟く。浅野は荒れた画像から素早く特徴をつかみ、似顔絵を描き起こした。
制服の少女は、歩道橋を睨んでいた。
--ありったけの憎悪を込めて、
--どこか楽しそうに。
私は廊下に佇んでいた。あれっきり進展はない。やっぱり…普通に調べようとしても無理かもしれない。そう思った時、スマホが振動して、私は驚いた。
また、凜からメールだった。
『こんなヤツ知らない?』
そんなメッセージとともに、一枚の似顔絵が貼られている。
--息が、止まった。
その顔は、知っている。だって…
その時、突然教師が息を切らして飛び込んできた。
「…みなさん、次の授業は自習です。絶対に、教室から、出ないように」
私は呆然とそれを眺めていた。ああ、止められなかった、と他人ごとのように感じている。
炎天下に揺らめく外からサイレンが微かに聞こえてきた。
「…ふふっ…」
背後で笑い声がして、私は背筋に冷たさを感じた。
「…椎名…真子…」
彼女は笑っていた。
先ほどまでの冷たさは何処へやら、わずかに頬を上気させ、さも楽しそうに笑っていた。
--まるで、いたずらを成功させた子供のように。
「…あなた…」
私が思わず詰め寄ると真子は小首を傾げた。
「なあに?私はずっとここにいたじゃない」
その一言で私は確信した。彼女が犯人だ。間違いない。
でも、普通なら彼女にはなにもできない。ずっと教室にいたのだから。けれど、彼女は多分、普通じゃない。
だって、彼女の背後には、長尾奏の死霊が漂っているから。
死霊の黒髪と、真子の黒髪は全く同じだった。
「ねえ、私を…」
「≪捕まえられる?≫」
死霊の声と彼女の声は綺麗に重なった。
『…校長が、次のターゲットだったみたい。白昼堂々と校長室で殺害したって』
凜は綾花からの電話を受け取って唇をかんだ。
『犯人は椎名真子。でも、どうやって長尾奏の霊を操って人を殺させるの?』
大きく溜息をついてしまった。この可能性は盲点だった。
「…長尾奏の霊は、彼女に関する記憶の残滓によって再生されたものじゃない。つまり、死霊じゃなかった。椎名真子個人が、長尾奏を追憶し、そのイメージから作り出したものだ。言わば彼女のもう一つの肉体。生霊だ。椎名真子はそんな異能を持っていたんだな」
電話の向こうで綾花が息を飲むのがわかった。
『…半分は彼女の生霊だったから、髪の色や話し方が違った…』
「…そういうことになる」
そのまま窓の外を見つめる。椎名真子は逃げるだろうか。
『真子は言ってた。私を捕まえられる?って』
--完全に、自分の異能に飲まれている。
それなら、こっちが取るべき行動は決まっている。
相手が異能者なら…こちらも相応の相手をする。
こちらも…"異能をつかう"。
--これが、自分たちの正体。浅野も、綾花も、颯太も、当然自分も異能者だ。異能者によって、異能者を裁く。--これが自分たちの役目だ。
「…夜には人がいなくなるな?綾花」
不安げな返事が返ってくる。
「…日が暮れたらそっちに向かう」
短く伝えて電話を切る。目撃者は少ないほうがいい。
一息ついてから浅野と颯太を振り返った。
「…犯人は椎名真子。能力は多分、時間の再生。生きていたものの残響を追憶して、自在に操れる霊を生み出す」
浅野は腕を組んでいる。颯太は目を丸くして固まった。
「…椎名真子とかいう女…目的はなんだ?」
軽く肩をすくめる。
「…さあ?知らない。本人に聞けばいい」
息をついて窓の外を見つめる。それからふと笑った。
「…もっとも、理由なんてないかもしれないけど」
異能は、それだけで凄まじい影響力がある。人を操ったり、殺すなんて簡単だ。そして誰だって、そんな能力があるなら使おうとする。
--そして使えば、取り憑かれる。
誰だって、自分が誰よりも強いなら、それに酔ってしまう。
だから、能力者(かれら)は、みな狂っていく。能力に溺れ、自己を失って。
「哀れだな、能力者は」
浅野が静かに言う。思わずそんな男を睨んだ。颯太は気まずそうに目を逸らした。
「同情とは余裕だな浅野。そんな哀れな能力者(バケモノ)の力を借りなきゃ、世の中は殺人鬼やら生き霊やら怪物やらで溢れかえるってのに」
浅野はそんな言葉を無視し踵を返して部屋の隅に向かう。そこに置いてある引き出しの一番下に鍵のかかった引き出しがある。鍵を開けてそっと手前に出した。
そこには大小様々なナイフが中に入っていた。浅野はその中から一番手ごろな軍用ナイフを取り出し、こっちに渡してきた。
「いいか、できるだけ彼女を説得する。行為をやめさせて、私の監視下に置く。いいな、"それ"は万一のためだ」
「本当、お前はバカだよ浅野。一度境界を飛び越えた奴は絶対に元には戻らない。説得なんて徒労だ」
苛立たしげにつぶやいた。そしてさっさと部屋を出た。背後で颯太が引き留めようとする気配があったが、浅野がそれを制したみたいだ。
「…大丈夫だ。あいつはそんなすぐに行動を起こしはしない」
ただ、凜はこういう時だけは…自分の異能をつかう機会が生まれた時だけは、不意に"生き返る"のだ。
自分はとうに能力に飲まれているのではないか?それが怖いから能力者に対して冷たく接する。
「…同情なんていらない、か…」
颯太はつぶやいた。
--それが怖いなら、凜は人間だ。
彼はそう思っていた。
薄暗い廊下で銀色の刃が鋭く光っている。勝手に口許に笑みが浮かぶ。じわりと自分の理性がぼやけるような気がした。
--久しぶりだ。この時を待っていた
理性の外から声が聞こえる。
この衝動を、普段は一切の気力を奪うだけの衝動が、弾けそうに膨らんでいる。
--ぶつけたい、全力で、この爆発寸前の力を。
指は自然と廊下に落ちていた空き缶を拾い上げた。耐えきれない、というようにその表面を指先でなぞる。糸を紡ぎ出すような繊細な動きだった。そして静かに糸を引き抜くように指を動かす。空き缶から、虹色の糸が輝きながら伸びてくる。躊躇わずそこにナイフを振り下ろした。
一切の障害を感じさせず、その刃は糸を断ち切った。そして刹那の後、缶は忽然と空中で消えた。
--自分の異能を使いたくてたまらない。この衝動を解き放つ時だけは、自分はここにいるんだと実感できる。この時だけは世界を身近に感じて、ありとあらゆる思いが胸に去来する。
--でも、自分は異能(こいつ)に飲まれたくない。
きっと、その先には何もないから。
校長室には『Keep out』と記された黄色いテープが張り巡らされていた。私の案内に従って、浅野さんと颯太と凜は扉の前に立った。
「…今回の遺体は酷い状態だったらしいよ。私も見てはいないけど」
私は凜を見上げた。夜、人気のない校舎に私達は佇んでいる。肌が、ピリピリと痛む。恐ろしい緊張感だ。
「…見ないほうがいいだろ。お前の"能力"も使わないほうがいい」
凜は緊張感を振り払うようにそう言って校長室に背を向ける。私を背に庇ったままゆっくりとナイフを構えた。
「来いよ、椎名真子。隠れてないでさ」
廊下は深淵へと続くように見える。そこに声がこだました。
--微かに笑い声が聞こえる。眼を凝らすと、闇の最中に真子の姿が見えた。
「…来たのね。待ってたわ」
そう言ってゆっくりと歩み寄ってくる。奏の姿をした霊も彼女の背後にいる。「二人」の影はゆらゆらと月明かりに揺れた。
「…ねえ、綾花さん。その人、あなたの友だち?」
凜を指差して微笑む。白くて細い指先だった。指差された彼は肩を竦める。私は黙ったままだった。
「…本当に異能があるみたいだな。管理のリストから抜けていたのか」
浅野さんはそう呟いてから、真子へ視線を移す。
「…椎名真子…お前は何のために異能を使った?」
彼の問いかけに真子は微笑む。不気味なほどに完璧な笑みだった。
「何のために?愚問ね?あの社会のゴミを、世のために殺したのよ」
「随分な言い草だな。その言い分、詳しく聞かせてもらおうか」
真子は愛おしそうに自分に寄り添う霊に手を伸ばした。
「…あの日、奏が死んだのはあいつらのせいよ」
凍りついた微笑みを浮かべたまま静かに語り出した。
--長尾奏はある日、ひょんなことから校長と副校長の学費の不正使用に気がついたらしい。そして学年主任がそれに加担していることにも。しょっちゅう校長室へ呼び出しをくらっていた彼女は、おそらくそこから持ち出したであろう証拠資料を手に三人に詰め寄った。
--ちょっと、あんたたち!これはどういうこと?
--なっ…!お前、いったいどうして…
--こ、これは何かの間違いだ!
--これのどこが間違いだって!?ふざけんな!
そんな言い争いの声を真子は教室で聞いていた。さすがにただならぬものを感じたため、その声が聞こえる方へ歩いて行った。
--その資料を渡せ!
--あんたらの不正だ!誰が渡すか!
--ふ、ふざけるな!
荒々しい怒鳴り声の直後だった。
--あっ…!まて…っきゃあぁぁっ!!
悲鳴と何かが落ちる重たい音がした。急いで廊下の一番奥まで走る。非常口の向こうの非常階段。そこから声は聞こえた。
--扉を開け放った。外は夕日で赤く染まっていた。そしてコンクリートの長い階段の下、奏は仰向けで倒れていた。夕日よりも赤く染まって。見開かれたままの彼女の瞳は暗い色を映していた。
呆然とする彼女の視界の下で、三つの人影が走り去るのが見えた。
「…私は確信したのよ。奏はあの三人に殺されたって。勿論、警察にはありのままを話したわ。でももう不正使用の証拠は消され、元からあの三人が嫌われ者だったのも相まって、私はあいつらを嵌めようとしているだけと思われてしまったの」
ゆっくりと霊から手を離して真子はこちらに向き直った。
「…だからね、決めたの。奏の仇は私がとるって。奏のためにも。奏もそう願ってる」
何の音もなくなった。生きているものの鼓動がうるさく感じるほどには。
「…動機は復讐か…」
そう言って浅野さんは私の方を振り向いた。
「綾花、"見せて"くれ。真実を確かめてみよう 」
私は頷き目を閉じた。頭の中に奏が亡くなった非常階段を思い浮かべる。ゆっくりと正確に描き出し、それから目を開ける。
--真子は目を見開いた。目の前の景色はいつの間にかあの日の非常階段に変わっていた。
「…どういうこと…?」
呆然とする彼女に凜は言う。
「これが綾花の能力さ。ある場所と時間を正確に思い出すことでそこで起こったことを目の前で再生できる。"時間再生"の異能」
颯太が続きを引き受けた。
「君の異能は自分の中で過去を追憶することで特定の人物を"再生"した。"時間再生"の一種だ。君は作り出したイメージに自分の意思を分け与えて操れる。だがそれは既に亡くなった生き物限定での"再生"だ。綾花は再生するだけ。その代わり自分が知っている場所ならどこでも、そこで何が起こっても再生できる」
そんなことを話していると、突然非常口のドアが開いた。校長、副校長、学年主任の三人が入ってきた。
「…例の件、そろそろ保護者の中にも疑う人が…」
「…構わん、適当に繕える」
「…し、しかし…」
凜はその光景を眺めて溜息をついた。
--絵に描いたような悪人会議ではないか。
激しい音を立てて再び非常口が開く。颯爽と飛び込んできたのは奏だった。
「…ちょっとちょっと、あんたたち!これはどういうこと?」
手に持っていた資料を三人に突きつける
「なっ…!お前、いったいどうして…」
「こ、これは何かの間違いだ!
「これのどこが間違いだって!?ふざけんな!」
さっきも聞いたような台詞が繰り返される。校長が彼女の手の中の紙束に手を伸ばす。
「その資料を渡せ!」
腕を掴まれた奏は抵抗する。
「あんたらの不正だ!誰が渡すか!」
「ふ、ふざけるな!」
激しい抵抗に激昂した校長は奏の頬を打った。奏は思わず資料を手放す。その隙に資料を鷲掴みにした校長は一目散に階段を下る。副校長と学年主任もそれに続いた。奏はハッと顔を上げた。
「あっ…!まて…」
立ち上がり、後を追おうと階段に足を下ろす。しかし、その足は空を踏んでいた。奏の目が見開かれる。何かにつかまろうと伸ばした手が、紅の空に虚しくひらめいた。
「っきゃあぁぁっ!!」
重い音の後には、想像通りの惨状があった。
--ゆらゆらと景色が消えて、再び青白い光の中の廊下に戻った。
「彼女の言い分は確かに一理ある。あの三人が突き落としたわけじゃないけど、間接的にはあの三人のせいね」
私の顔はきっと少し青くなっている。凜は頷き、それから真子をまっすぐに見据えた。
「…だけど、問題はそこじゃない」
真子を見つめる目が鋭い光を宿した。
「…なあ、お前。何故親友の死の瞬間を見てもそんなに平然としてるんだ?」
--その視線の先、真子は口許に相変わらず凍りついた笑みを浮かべていた。
私は息を飲んだ。きっと、颯太も、浅野さんも。
「…奏のため、この殺人はそのためだとお前は言った。でも、本当にそうか?」
凜は一歩、真子に詰め寄る。
「…本当に彼女のためなら、どうして全て終わった時点で自首しなかった?どうせ信じてくれないからか?」
真子の顔から笑みが消えた。
「…なに?ふざけたことを言わないで」
低く唸るように発せられた声は到底彼女の元は思えなかった。こちらを睨みつけた瞳に冷たい色が宿る。
「…本当に彼女の死を悼んで、その死のために殺人をするなら、彼女の最期の瞬間を見た時、咄嗟に体が動くなり、叫ぶなりするはずだ」
私はハッとした。真子が奏の最期の瞬間を見たのはあれが初めてだったのだから、確かにあんなに平然としていられるはずがない。
「…黙れ…」
真子の瞳は射殺すほどの殺気を放ち出した。
「…お前は長尾奏のために殺人をしたんじゃない。自分楽しみのために殺戮をしただけだ」
--次の瞬間、彼女のそばに控えていた霊が、凜に飛びかかった。
しかし、凜は全く動じない。霊の首筋を左手で掴んだ。そのままゆっくりと指先に力を込めていく。霊は首を絞められたところで苦しくはない。しかし、この霊は真子と繋がっている。彼女は首筋に軽い圧迫感を覚えたようだ。
「…凜、よせ」
浅野さんが凜の肩を掴んだ。その瞬間に切れそうなほどに張り詰めていた空気が少し緩んで、私は胸をなでおろした。
「我々は君に危害を加えるために来たわけではない。交渉だ」
浅野さんはじっと真子の瞳を見つめた。こんな状態で交渉できるのだろうか。
「…条件は、まず君の操っているその霊。それを消せ。それから我々の監視下には入り、その異能の調査に協力してもらうことだ。」
「…私が、奏を操っている?」
そうか、真子は気づいていなかったのか。自分の能力にも。
「そうだ。君は自身の記憶からすでにこの世にない人を追憶することで、自身の意思の及ぶ霊体として再現できる」
浅野さんの説明は真子に届いただろうか。私からは真子の顔は俯いているからわからない。
「…私が奏を操って人殺しをしたですって?そんな筈ないわ」
彼女は相変わらず無表情にこちらを睨んでいる。
「じゃあお前、これが奏の意思だっていうのかよ」
霊の首をつかんだまま凜が苛立たしげに声を上げる。真子はそちらを一瞥した。
「ええ、そうじゃなかったら何なのよ。それとも、友達なら止めてやれとか言うつもり?」
「…そうじゃない。君が連れているその霊をよく見てみると良い」
浅野さんの目には真剣な光が浮かんでいた。ここが勝負だ。そんな色だった。それもそうだ。彼女が説得に応じないなら、意味がない。
真子は気だるそうに自分が連れている霊を見上げた。
「確かに、長尾奏の顔だ。でも、髪の色が違う。長尾奏は茶髪だ。その霊の黒髪は君と同じだ。それに君は彼女が髪を染めたと言っていた。でも、本当は彼女の茶髪は生まれつきだ。君がそれを知らない筈がない」
しん、と空気が再びはりつめる。
「わかっていたんだろう。自分の意思が混じることで彼女の霊の姿が変わってしまったこと、この霊は、自分の半身に他ならないことも」
真子は、強く思いつめすぎた。だから、自分の意思とつながった霊体を、親友の姿で作り出したとき、それを親友の霊だと思い込んでしまった…。
--ああ、それは…なんて悲劇。そしてなんて滑稽なこと…
真子の表情が凍りついた。
「…違うわ。私は…楽しみのためになんて殺してない!」
真子が叫んだ。凜が掴んでいた霊が突然暴れ出す。凜は舌打ちして手を離した。霊は天井付近まで飛び上がった。
「もうやめろ。今ならまだ戻れる」
浅野さんがさけぶ。でも、真子がその呼びかけに答えることはなく、霊は急降下した。体当たりされそうになって凜は後ろに飛び下がった。真子は肩で息をしながらこちらを睨んでいる。
「…私は…何も間違ってないわ!奏はここに居る。その望みに答えるのは当然よ!」
「…見ろよ浅野。手遅れだ。さっさと片付けよう」
凜はいよいよ気怠げに、でもどこか爛々とした目で霊と真子を見つめている。私の心臓は、もう圧力でつぶされそうなほどになっている。
ゆっくりと頭をもたげた霊は、凜を殴りつけるように腕を振った。しかしその腕は凜に軽々と受け止められた。
浅野さんが唇を噛む。
「…仕方ないな」
その指示に、凜は笑った。
受け止めた腕を振り払い、指先で何かを摘むように腕を引く。虹色の細い糸のようなものが見えた気がした。
--右手のナイフは、その糸を躊躇わず断ち切った。
一瞬だけは、何の音も、変化もなかった。
しかし、次の瞬間、長尾奏の霊は忽然と消えた。ライトの電源を落としたみたいに、プツリと存在が消えた。
「なにを、したの?」
呆然とした様子で真子がこちらを見ている。凜はゆっくりナイフを下ろし、彼女を見下ろした。
「…この異能はものに流れる時間を斬ることができる。未来を断ち切れば、その存在は過去に置き去りにされ、過去を切れば存在はなかった事になる」
--生を終え、死すらも超えて、時間のない虚ろに消える。
「霊を切ったの?」
「ああ、だから次はお前だ」
真子はその言葉を聞いてうつむき、黙り込んだ。
「…私を殺すつもり?」
声が震えている。真子はきっと、初めて凜を恐ろしいと思ったはずだ。
「お前は殺さない。お前の能力が、これから先に残らないようにするだけだ」
真子は顔を上げた。その顔に怒りの色が浮かんだ。
「…私は死者を蘇らせることができる。その能力を消すの?」
凜は真子を静かに見据えた。
「死者は蘇らないさ。生と死は不可逆だ。だから、お前が追憶して生み出すものは、所詮残響。いつか無へと崩れていく一瞬の幻と同じだ」
真子が強く目を閉じた。未来を断ち切られた長尾奏は、彼女がどれだけ追憶しても、ここに生み出すことはできない。奏はどんな姿でも、凜に斬られたあの瞬間より先には進めないからだ。私はこの能力ほど恐ろしいものを知らない。たとえ不死身であろうと、過去を断ち切りその存在すらなかった事にすることも、未来を断ち切り、過去に置き去りにすることもできてしまうから。ひとの人生をなかった事にできてしまうから。
でも、真子は、目を開いた。
--次の瞬間
目の前に広がったのは、薄い色の景色だった。
見ればそれは、霊だった。今回の事件で死んだ、学年主任の溝口先生、それから、副校長、最後に校長。それ以外にも何人か、霊が目の前に漂っていた。
「真子…貴女、何をしたの!?」
私は必死に叫んだ。けれど、彼女は振り返らずに廊下の向こうへ走り出した。
「…逃がすか…」
小さな声で呟いて凜が走り出す。しかし、溝口先生の姿の霊が飛びかかってきた。
「この全てを一斉に操っているのか…?」
浅野さんは目を見開いている。たしかに、これだけの霊を一斉に操るなんて、とんでもない事だ。彼女にはかなりの負荷がかかっているはずだ。
「…颯太、椎名真子を探せ!」
浅野さんの命令に颯太は頷いた。硬い顔だ。きっと緊張しているんだろう。そして颯太は一瞬で消えた。
颯太は、念じるだけで、全ての空間と時間の制約を超えて、目的の場所に一瞬で行ける。
浅野さんは…ある意味一番恐ろしい能力者だ。
「じゃあ、あとはこいつらを片付けるだけだな…!」
凜はそう言って走り出した。
まずは一人目、学年主任の溝口先生。
無表情にゆらりとこちらにやってくる。凜は一息にその距離を詰めた。そのまま、体当たりをするようにナイフを突き立てる。一瞬の間も置かず、素早くそれを引き抜き、刃先に絡まった時の糸を引きちぎった。次に、背後に忍び寄った副校長の霊。振り返りざまにその心臓を鷲掴みにするように左腕を伸ばし、引き出した糸を切る。最後は廊下の奥の校長。凜は凄まじい跳躍でそれを頭から二つに斬り裂いた。本当に、数秒の出来事だった。
私はそれを見つめていた。何度見ても不思議な光景だ。
切られた虹色の糸が、真夏の雪となって廊下に散った。
真子は学園から飛び出し、山道を走り続けた。
あの人たちに、見つかってはいけないような気がした。
頭痛が止まらない。一気に三つの霊をだして操るなど、やっぱり無茶だったのだろうか。
街灯の明かりが、ポツポツと並んでいる。東の空は白み始めている。
その時、背後から音がした。突然に明かりがやってくる。
--車だった。彼女が振り返った時には、それは目の前にあった。
--避けられない。彼女は目を閉じた。
「身構えて!」
声がして、そこには颯太がいた。抱きしめられた次の瞬間、二人は道路の反対側に移っていた。
「…貴方…何を?」
彼女の唇は震えていた。颯太は少し笑った。
頭痛が止まらない。遠くから走ってくる人影が見えた。
あの三人だ。逃げなきゃいけない。
--この能力をなくしたら、私は別れに耐えられない。だって、別れた人と二度と会えなくなってしまう。
そんな悲しみはいらない。そんな虚しさは知りたくない。
真子は颯太の腕を振り払って立ち上がった。
誰か、誰でも良い。思い出して、生み出して、あの人たちを止めないと。
必死で、目を瞑る。
「…止めろ!それをやったら、お前、死ぬぞ!」
誰かが叫んでいる。でも、構わない。虚しく、悲しい中で生きる方が嫌だ。
痛みで頭が割れそうだった。
そして、頭の中が真っ白になった。
凜は急な坂道を駆け下りていった。真子を止めようと叫びながら。私もその後から必死で走った。
しかし、私は真子が崩れ落ちるのを見てしまった。
--能力は、自分の限界を超えて使ってはならない。そんなことをしたら、死んでしまうから。
だから、何が起こったのかなんて、すぐにわかった。
私の足は、坂道に引き摺られるように加速していった。
坂の下では、颯太と凜が呆然と立っている。私はその後ろに肩で息をしながらたどり着いた。
浅野さんが黙って私の横を通り過ぎていく。
そうして硬い表情のまま片膝をついて真子に触れた。
真子は少しだけ微笑んだ。諦めたように、悟ったように。
そうして小さな声で囁いた。
--小学生の頃、可愛がっていた猫が死んだ。私は泣きながら何度も何度も猫のことを思い出した。そうしたら、猫が横に現れて、昔と同じように飛び跳ねていた。
中学生の頃、甘えさせてくれた祖母が死んだ。私は祖母を必死に思い出した。すると祖母はまた微笑みをたたえて私のそばに佇んでいた。
--そうやって私の中で生と死の境界は曖昧になっていった。
知っている人が死んでも、思い出せばそばにいる。誰かが生きていても、死んでいても、あまり違いはないじゃないか。そう思った。
--でも…、猫も祖母も、時間が経つにつれて薄れて消えた。でも、その理由を私は深く考えられなかった。喪失を惜しむ心は私にすでになかったのだから。
--私は、誰とも別れたくなかった。永遠に、一緒にいたかった。
だって、死ぬのは怖いでしょう?誰かと、二度と会えなくなるなんて。悲しくて、虚しいでしょう?
そうして全てが余りにもあっけなく、終わってしまった。
救急車のサイレンが遠くに消えていった。凜はその消えていった闇を見つめていた。
「…綾花、行こう。もうどうしようもない」
そう言って背を向けた。私は躊躇いながら頷いた。だって、少し凜と話したかったから。
差し掛かった曲がり角、ガードレールの向こうに小さく街が見えている。
「…ねえ、凜」
話しかけると静かに振り返った。
「…永遠に一緒にいることなんてできるのかな」
真子が言っていた。別れは虚しくて悲しいと。
夜明け前の街を見下ろしながら凜は答えた。
「…簡単だよ。そんなの。形がなくても」
それはどういう意味だろう。私は凜を見上げた。
「…じゃあ、たとえ死んでしまった人でも?」
凜は立ち止まった。
「覚えていれば、な。形なんてないほうが良い。記憶だけは、実体よりも綺麗に残る」
そういうことか。形がなくても、いや、形がないからこそ、永遠が約束される。私たちが覚えて、生きている限りの永遠が。
「どれだけはっきりと姿を見ることができても、それは所詮生きていた頃の残響。何も生まない、消えていくだけのもの」
生者は、生者。死者は、死者。生者は未来へ。死者は過去へ。生きているものは、既に亡き者に縛られるべきじゃない。
遠くを眺める凜を見て、私は一つだけ伝えておこうと思った。だから私はゆっくり凜を見つめた。
--あなたは、生きていることをどうでもいいという癖に、死というものをきちんとわかっていて、それをとても恐れているように思えるから。
「…じゃあ、私はきちんとあなたを覚えておく。そうすればあなたは未来に残るでしょ?」
それが、死者を「生かし続けること」。縛られるのではなく、暖かな追憶として、今と未来に傷ついた心の寄る辺として。
そんな言葉を聞いて、凜は目を丸くして立ち止まった。それから肩をすくめて目をそらす。
「…バカ言うな。俺はまだ生きてるだろ」
--彼はそう言って東の空を見上げた。
夜明け前は静かだった。そしてこの時よりも蒼い空を、私は見たことがなかった。
残響
音が鳴り止んだ後も、壁や天井への反射により音が引き続き聞こえる現象。また、その音。
追憶
過ぎ去った事に想いを馳せること。過去を偲ぶこと。追想。
螺旋の境域 第一章 追憶残響 完
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