星に願いを

歌峰由子

第1話 星に願いを


  さあ、一緒に眠りましょう。


  流れ星が地上に降り注ぐまで。


  星の炎が大地を舐めて、灰が地上を閉ざすまで。


  波が全てを浚って、何もかも洗い流されるまで。


  ――少女の歌うように軽やかな声が、僕の意識を白く染めていった。





「レイ、あなたは何をお祈りしたの?」


「お祈り?」


 つるりと真っ直ぐな黒髪を肩口で揺らし、隣の少女が僕を藍色の眼で見上げた。それに瞬きを返し、何の話か考え込んだ僕に、少女は言葉を付け加える。


「そう。流れ星にお祈りすれば、願いが叶うのでしょう?」


 ながれぼし。口の中だけでそう繰り返して、僕は視線を青空へ戻した。まだこれから昼を迎える時間帯。研究所の中庭で少女と二人、ボンヤリと雲一つない晴天を見上げていたところだ。


 彼女の名はマリア。僕の所属する研究所の所長が、ほんの十日ほど前に預かってきた十一歳の少女だ。毎日研究所にまで遊びに来て、研究員たちを相手におしゃべりを楽しんでいた。


 僕の所属するここは、地球意識研究所という。地球意識とは、個人、国家、民族、人種、更には生物種も越えて「地球生命」すべてが共有する集合的無意識のことだ。この地球意識は、人々が深く共感し、互いに同情し、高揚する時に大きく発露する。


 二十世紀末から研究の始まったこの分野は、最初オカルトまがいの似非科学と侮蔑されたが、近年に大飛躍を遂げた。なぜなら人類に、今までになく重大で、残酷で、互いに深い同情と共感を覚える不可避のイベントが、十年単位のスパンで迫って来たからだ。


「流れ星、か」


 周囲には、小鳥と蝉の声が入り混じっている。


 夏のまだ若い日差しが、僕らを焦がし始めている。


 眩しい太陽に照らされた晴天に、流星など見えるはずもない。一見ちぐはぐな問いだが、彼女の指す『流れ星』が何を指すか、僕にはすぐ分かった。それを知らぬ者は、赤子以外には居ないだろう。


 『流れ星』――太陽の方向から一直線に地球へ向かう小惑星が発見されたのは、三十年あまり前のことだ。小惑星の直系は約十五キロメートル、軌道計算によると、九割の確率で地球と正面から衝突する。


 隕石は、直径が一キロメートルもあれば、生物種を絶滅させるような未曽有の大災害必至と言われる。それが十五キロメートルともなれば推して知るべし、だ。


「……そういえば、そんな民間伝承が以前はあったらしいね」


 僕が生まれるより数年前に、そういった隕石・流れ星・彗星に関するロマンは全て吹き飛んだ。今ではすっかり忘れられているその伝承を、この少女はどこで知ったのだろう。


 この地球を、僕たちの世界を壊しに来る『流れ星』は、僕らの頭上で太陽を背にひた走っている。だがその姿は、大気圏突入が始まらない限り昼間に見えるわけなどない。それを知っていながら、僕も、周りの皆も、滅びを目の前にやることのなくなった人間はみな空を見上げていた。


「お祈りか……思いつかないな」


 もし本当に願いが叶うのならば、その願を掛ける『流れ星』そのものに消えて貰いたい。そう答える人間は多いだろう。ほんの一握りの富める者たちは火星へ避難してしまった。一縷の望みをかけて、遠い宇宙へ旅立った者たちもいる。地球に残された僕たちはいわば負け組だ。世間には深い諦観と、ある種独特な共感が流れていた。


 あまりに大きすぎる『天災』を前に、人々は不思議と穏やかだ。


 自暴自棄になって自分勝手な振る舞いに出る者よりも、ただ隣人と手を取り合って穏やかに、安らかに最期を迎えようとする者が圧倒的に多い。世界の最期を前にして、人々は恐らく、人類史上初めての連帯感と友愛を感じている。


 火星移住者、外宇宙移民者を合せても、地球人類の一パーセントにも満たない。彼らへの羨望や怨嗟は、いつの間にやら掻き消えた。


「仕事は全部終わってしまったし、叶えたい想いもないし、共に過ごしたいと思うような家族や恋人もいないし……もうやり残したことも思いつかないしね」


 苦笑して再び少女に視線を遣ると、少し不満そうに少女は眉を寄せる。


「本当に何もないの?」


 小惑星の大気圏突入予定時刻は、今日の正午過ぎだ。正確な衝突日や衝突予想時刻は、今月に入ってからも何度も再計算・再発表され、数日前にようやく今日の午後と確定した。しかし、今年の今頃であることはもう何十年も前から――僕が生まれる前から分かっていたことである。僕らの世代は、物心ついた頃から「何歳で終わりを迎えるのか」を知って、その日までをどう生きるか考えながら育った。今更、この人生の延長戦について想像はできない。


 僕のチームの最後の仕事だった、地球意識覚醒プロジェクトも三日ほど前に終了している。仕事がなくなり、さりとて次を探す必要も既になく、暇を持て余した僕は、こうしてボンヤリと研究所の中庭で、空を見上げて過ごしていた。最期を共にしたい相手が居る者たちは引き揚げてしまい、この研究所には所長と僕と、マリアしかいない。


「うーん、もう『ガイア』の存在は証明してしまったし……」


 ガイアとは、地球意識に付けられた名だ。由来は言わずもがな、ギリシア神話の地母神である。地球意識覚醒プロジェクトは、このガイアの存在の証明を目標にしていた。別に隕石をどうにかしてもらおうなどといった希望を抱いたわけではない。ただ、この最後にして絶好の機会に、今まで全く実証出来なかった「ガイア」の存在を明らかにしたい。それだけのために突っ走って来たプロジェクトだ。


(最初はガイアと交信したい、とか思ってた気もするけど……きっと、そんな必要はないんだ。彼女は「在る」。それだけで良い)


 地球意識に性別があるとは思えないが、僕らは慣習的にガイアを『彼女』と呼ぶ。僕は誰より彼女に焦がれて研究に打ち込んで来た一人だが、ガイアへの理解が進むにつれて、そんな風に思うようになった。僕に、ちっぽけな人間の表層意識などに理解出来るような「言葉」を、恐らく彼女は持たない。


 次第に蝉の声が大きくなり、小鳥のさえずりがなりを潜める。気温が上昇し、ぬるい風が僕らを撫でた。マリアの黒髪が、さらりと数本揺れる。膝丈の深緑色のワンピースが、歳に似合わぬ落ち着きを醸し出している。白い脚を少し揺らして、マリアがふうん、と曖昧に頷いた。マリアが『ガイア』を理解しているのかは分からない。聡明な子なので、多少分かっているのかもしれないが。


「他には?」


「そうだな……ゆっくり眠りながら最期を迎えたいな。苦しい思いも怖い思いもしたくないからね。幸せな夢を見たまま、何も知らない間に天国へ行きたいよ」


 無邪気に食い下がられて、僕はのんびり歌うように答えた。


 阿鼻叫喚の地獄絵図など、この世界の全てが滅ぶ様など見たくない。


「眠れれば良いの?」


「そうだね、どんな火花でも、轟音でも、灼熱でも目覚めないくらい深く」


「それが、レイの望み?」


 念を押すように確認し、マリアが藍色の眼で僕を見上げる。気軽に頷いた僕に、ふうん、とマリアが視線を逸らした。見えない星を探すように、空を見上げる。しばらくそのまま青空を眺め、一瞬ふわりと目を閉じた。


「じゃあ、一緒に眠りましょう。私と、レイと、みんなで」


 ぱっと明るい笑顔を咲かせて、マリアが僕を見る。その可愛らしさに微笑んで、僕は少し首を傾げた。


「それは良いアイデアだけど、こんなに明るいのに眠れるかな」


 空には太陽が輝いている。虫たちは宿命を知らず夏を歌っている。緑は濃く生い茂り、白いベンチは眩しい。午睡にもまだ早い時間帯だ。


「大丈夫。私が子守唄を歌ってあげる。レイが望むのなら、それを叶えてあげる。あなたは誰よりも『私』を愛してくれたから」


 ふふふ、と楽しそうにマリアが笑う。うん? と僕は戸惑い気味に頷いた。誰よりマリアを可愛がっていたのは所長のはずだ。そりゃあ、仕事のなくなったここ数日は、僕が一番マリアと一緒にいるけれど。ちなみに元々本の虫だった所長は、毎日書庫に籠りっきりである。


「僕が……? ありがとう、光栄だよ」


 良く分からないが、今更こんな些細なことを気にしても仕方がない。笑って礼を言った僕に、マリアは満足そうに頷いた。


「どういたしまして。ずっとお話してみたかったの」


 酷く大人びた、慈悲深い微笑みを浮かべ、マリアが歌うように言葉を紡ぐ。


「さあ、一緒に眠りましょう。流れ星が地上に降り注ぐまで。星の炎が大地を舐めて、灰が地上を閉ざすまで。波が全てを浚って、何もかも洗い流されるまで。みなで一緒に眠りましょう――」


 急激な眠気が視界を白く染める。くらりと平衡感覚が消え、天地を見失う。





 白濁していく意識の中。

 ベンチに倒れ込んで見上げた青空を、突如オレンジ色の閃光が埋め尽くした。

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