小さな森林狼シルバーの旅~お母さんに逢いたくて~

愛花

アニマルファンタジー【短編】

 カナダのオンタリオ州(首都オタワ)の森林に生息する大陸狼の亜種である森林狼は、イヌ科イヌ属に属する哺乳類動物である。


 狼の中で最も体長が大きく頑丈な体つきをしており、灰褐色から白い毛に覆われ、四十センチから五十センチの長い尾を持つ。夜行性で、鹿、猪、野兎、齧歯(げっし)類などを食す。


 鋭く釣り上がった食肉目の双眸に獲物を捕らえ、最高時速七十キロで二十分も走り続けことができる。そして二キロ以上先にいる獲物の匂いを感知できる驚くべき嗅覚を持っているのだ。


 狼は群れで狩りをする動物だ。その群れを率いるリーダーをアルファと呼び、その下はベータ、最下位はオメガ、と厳格な優劣順位が位置付けられている。 


 この社会的な狼の群れをパックと云い、アルファ雄とアルファ雌のあいだに産まれた一年目の子供と、二年目の子供でパックが形成されている。よって、多くの狼の群れは、血縁関係なのである。 


 狼の子供は成長し一歳で成体になるが、性的には成熟していない。二歳を迎えた時点で性的に成熟したとき群れに残る狼も居れば、伴侶を求めて群れを去る狼もいる。または現在の群れの上位に君臨しようとしたが闘いに敗れ、群れを去りゆく狼もいる。


 どんな理由にせよ、群れを去るということは一匹になるということであり、これが“一匹狼”の語源である。


 一匹狼を経験した狼、そして一匹狼からアルファに君臨した狼達は言う。


 我らの体に流れる血は、鮮紅色の誇り――――



□□□



 ――異国――

 ここは、カナダ、オンタリオ州の森林奥地にあるアルファ雄ジュダの縄張りだ。


 真冬の夜空には燦然たる星々が瞬き、仄かな蒼を帯びた月の光が白い大地を照らすと、雪の結晶がキラキラと反射し、まるで白銀色の真珠を散りばめたように美しい光景が広がっていた。


 生い茂る木々の梢は、葉の代わりに雪と艶やかな氷柱(つらら)を纏っている。梢が冷たい風に揺れるたび、氷柱と氷柱がぶつかり合い、夜のしじまに透明感のある大自然のシンフォニーを奏でた。


 十一匹の狼を率いるアルファ雄のジュダが、粉雪が舞う大地に歩を進め、ほんの少し群れから離れた位置に立った。銀糸の毛が夜風に揺れて煌めきを放つと、群れ全体に威厳を与えるかのようだ。


 青灰色の双眸で満月を眺めながら、ジュダはふと考える。


 春を迎えれば、群れから出ていく子供たちもいるだろう。独りで生きて行くというのは想像以上に厳しいものだ。あいつらにできるのだろうか……。

 親として教えるべき事は全て教えたつもりだ。

 しかし、大地に降りしきる雪のように心配事は募る一方。

 きっと、自分の両親も同じ思いをしていたのだろう。引き留めてはならない。一生の伴侶を求め放浪の旅|(ディスパーザル)にゆくのだから。

 辛いものだな……。


 ジュダが親となり、子を育てて、もうすぐ二年が経過しようとしていた。厳格な優劣順位があろうとも、可愛い我が子。自分の群れから出て行くであろう子供たちを見つめ、慮(おもんぱか)る毎日。子を送り出すのは初めての経験だ。心配しても仕方がないことだが、どうしても考えてしまう。


 重苦しい溜め息をついた時、後方から足音が聞こえた。ジュダは振り向かなくても誰なのか直ぐに分かった。


 愛する我妻の愛しい足音。そして愛しい匂い――――


 ジュダの妻であるレイラは白い毛を靡かせ、ジュダに歩み寄る。レイラは珍しいオッドアイだ。右目が琥珀色で、左目は瑠璃色の美しい狼。


 レイラは笑みを浮かべてジュダに話しかける。

 「なに黄昏(たそがれ)てるの?」


 ジュダは振り返ってレイラの顔を見る。

 「子供たちの事を考えていたんだ」


 艶っぽい仕草でジュダに体を摺り寄せた。

 「私の事も考えてくれてるのかしら?」


 「いつも考えてる」

 そう……いつも考えてる。

 君以上に美しい狼はいない。

 初めて君を見たとき、余りの美しさに驚いた事を未だに忘れられないよ。


 レイラに一目惚れをして、やっとの思いで妻にしたジュダは、懐かしいあの頃に想念を巡らせ、レイラの頬に自分の頬を押し当てた。


 「ジュダ、愛してるわ」


 「俺も愛してる」


 「ねえ、子供が欲しいのよ。暖かな春に可愛い赤ちゃんを沢山産みたいわ」


 「ああ、俺も子供が欲しい」レイラにキスをした。「なにより今は君が欲しい」


 ジュダとレイラは生い茂る木々の中へと入っていった。

 美しい満月の今宵、深く愛し合い、レイラは待望の赤ちゃんを授かった。



□□□



 極寒の地の雪が解け、花々が繚乱とし、緑の息吹が大地を覆う季節が訪れた。暖かな春の木漏れ日が優しく群れを包み込むと、狼たちは気持ち良さそうに野原に寝転んだ。


 ジュダが想像していた通り、伴侶を求めて一匹狼となり、ディスパーザルにゆく子供も三匹いた。ジュダとレイラ、そして群れに残った子供たちも涙を呑み、旅立つ兄達に未来を託して笑顔で送り出した。


 その後、大きなお腹のレイラは巣穴で元気な赤ちゃんを五匹産んだ。赤ちゃんは生後約七十日目で離乳し、八週程で巣穴を離れ、群れと共に生活を送る。


 そして今日が八週目だ。元気な幼い子供たちが巣穴から出できた。一番最初に巣穴から飛び出してきたのは、レイラにそっくりな顔立ちのオッドアイの雄だ。毛並みはジュダに似ており、眩しいくらいに輝く銀色の毛を持つ小さな“イケメン君”はシルバーと名付けられた。


 コロコロ、モフモフと愛らしい子供たちは初めて見る外の光景に歓喜の声を上げた。成体の兄妹達は可愛らしい新たな兄弟を囲んで愛おしそうに体を舐めてあげると、シルバーがベーターの兄リランの脚に絡みついた。


 「お兄ちゃん遊ぼうよ」


 プライドが高いリランは、少しぶっきらぼうに答えた。

 「子供と遊ぶのは趣味じゃないが、遊んでやる」


 シルバーとリランは沢山の花が咲いた野原に飛び込んだ。花びらが宙を舞った時、光り輝く一頭の銀色の蝶が、羽を羽ばたかせてシルバーの頭の上に留まった。


 「お兄ちゃん、これなあに?」


 「蝶々」


 「蝶々さんも一緒に遊ぼうよ」


 するとオメガの兄ノントが二匹のもとにやってきて、蝶を眺めた。

 「生と死を司る神様がこの森林に住んでいるんだよ。死んだご先祖様の魂が蝶々になって地上に舞い降りてくるんだ。だから自分たちの毛と同じ色の羽を持つ蝶々は傷つけちゃダメなんだよ」


 リランが呆れる。

 「くだらん迷信だ」


 「おいらは信じてるよ。きっとご先祖様も可愛い兄弟たちを見にきたんだ」


 「じゃあ僕も信じる!」蝶が羽を広げ、空を飛んだ。「蝶々さん、また遊びに来てね」


 ジュダとレイラが歩み寄り、ジュダがリランに言った。

 「俺も母さんも蝶々がご先祖様だって信じてる」


 リランは鼻で笑う。

 「そんな父さんまであり得ない迷信を信じてるんですか?単なるちょっと綺麗な蝶々ですよ」


 レイラが言う。

 「この子は目に見えるものしか信じないのよ。本当に夢がない子ね」


 「ほっといてくださいよ」


 蝶が去ってからシルバーは、レイラの乳首に吸い付いた。

 「お母さん。おっぱい欲しいよぉ」

 

 「もう出ないわよ。甘えん坊さんね。いつまでもおっぱいを欲しがるのはシルバーだけよ」


 レイラは注意しながらも目を細め、シルバーの頬を舐めた。幼い兄弟の中でも特に甘えん坊のシルバーは、離乳した今でもおっぱいを欲しがるのだ。


 シルバーが欠伸をした。

 「お母さん、僕眠たいよ」


 ノントもつられて欠伸をする。

 「おいらも眠い」


 ジュダが横になった。

 「みんな、そろそろ寝よう。今夜の狩りに備え、体力温存だ」


 群れは全員ジュダに返事を返す。

 「はい。父さん」


 彼ら狼は夜行性なので日中睡眠を取り、そして深夜狩りに出かける。いったん狩りに行くと、朝まで戻ることはなく、一晩中獲物を捜して走り回るのである。

 しかも狩りの成功率は10%以下なので、幾日も食事にありつけない事もしばしばなのだ。

 故、一度に沢山の食事を胃袋に収める事ができる。獲物は無駄追いはぜず、成功率を上げる為、なるべく子供の動物を狙うのが狼の狩りのスタイルだ。


 深夜、ジュダが遠吠えで狩りの合図をだした。表情や遠吠えでコミュニケーションを図ることをボディランゲージ(身体言語又は非言語コミュニケーション)と云う。

 狩りに出かける五匹の兄妹達はジュダの許へ。幼い子供達を守る為に留まる二匹の兄妹はレイラの許に歩み寄った。


 ジュダがレイラに言う。

 「子供たちを頼んだ」


 「ええ。心配いらないわ。狩りに専念してちょうだい」悪戯な笑みを浮かべた。「そろそろ鹿肉が食べたいわね」


 苦笑いして答えた。

 「できれば俺も鹿肉が食べたい。今日こそ頑張るよ」


 とは言ったものの、今日の収穫はゼロ。仕方がない、よくあること。狩りに出かけた群れを責める者は一匹もいなかった。しかし、次の日も、その次の日も獲物を捕らえることができなかった。ジュダの群れは食事にありつく事ができずに十日が経過した。

 コロコロとした愛らしい幼い子供たちが痩せていく。それなのに、お乳はもう出ない。レイラは子供たちが死んでしまうと、強い焦燥に駆られた。


 そして、深夜になり、ジュダが狩りの合図である遠吠えをしたとき、レイラがジュダに声を張った。

 「私も狩りに行くわ!」


 「レイラ、君が行っても無駄だ!狩りの腕も落ちているだろう。黙って子供たちを守ってろ!」


 レイラは身籠ってから今まで、狩りはジュダと成体の子供達に任せていた。その為、数か月狩りをしていない。ジュダの言う通り、たぶん狩りの腕は落ちているだろう。だが、それを一番よく分かっているのはレイラだ。

 それでも幼い子供達に少しでいいから何か食べさせたい、と思う親心から狩りに行く決心をしたのだ。


 「行くって言ってるでしょ!このままじゃ子供たちが飢えてしまうわ!」


 「そんなの見れば分かる!お前は黙ってここに居ろ!狩りに着いて来られても迷惑だ!鈍った狩りの腕では邪魔なだけだ!」


 ジュダも空腹だ。苛立ちが募り、思っている以上の事を強い口調で口にしてしまった。レイラにとってショックは大きかった。今までジュダに酷い暴言など吐かれた事はないのにと涙が込み上げたが、意地っ張りなレイラはムキになり、言わなければいい事を口にしてしまう。


 「男なんかに任せておけないわ!役立たずの甲斐性なし!!」


 ジュダは顔色を変え、声を荒立てた。

「なんだと!?もういっぺん言ってみろ!」


 「何度だって言うわよ!」


 初めて目にする両親の喧嘩に、幼い子供達は怯え、兄と姉の後ろに身を隠す。

シルバーが涙ぐむ。

 「怖いよぉ」


 すると、いつも狩りに同行するリランが溜め息をつき夜空を見上げた。

そんなに大声出したら、余計に腹が減るだけなのに……。


 そして同じく、狩りに同行しているノントが余計な一言を言う。

 「痴話喧嘩、空腹の狼でも食えやしない。な~んて。おいらウマいな~」


 ジュダは鼻に皺を寄せ、怒りをあらわにし、ノントにじりじりと近寄った。

 「黙れ」


 ノントは慌てて仰向けになり、ジュダに腹を見せた。ジュダはノントの腹の上に乗る。ノントは歯を剥き出し、首を曲げた。ジュダのは怒りの表情だが、ノントのは服従のボディランゲージである。優位の立場に立つジュダの鼻を舐めっておべっかを使う。


 「お、おいら、こんなにお父さんに服従してるよ。こんなにいい子いないよ。おいらは美味しいご飯を食べれたら、それでいいんだよ。おいらの事、怒るの?いい子なのに、怒っちゃうの?あ~、おいら可哀想。か弱い狼なのに」


 ジュダは舌打ちし、ノントの上から立ち上がった。


 共に狩りに行くオメガの妹が、ノントの耳元で言う。

 「余計なことは言わないのが利口でいい子なんだよ。ノントはおバカさん」


 「うん。おいら気をつける」


 ジュダは幼い子供達を外敵から守るために留まる成体の子供達に言う。

 「わがままなレイラが子供達から離れる!しっかり守ってやってくれ。だが、くれぐれも気をつけるんだぞ」


 子供達は声を揃えて返事する。

 「はい。お父さん」


 実際レイラは泣く寸前だった。ジュダの言うことに角がある。

 お腹が空いてるのは皆一緒だというのに、まるで子供じゃない!いいえ、子供達だって我慢しているのに、ジュダは子供以下よ。


 レイラは小声でポツリと言った。

 「本当に最低よ」


 「なんか言ったか?」


 「別に」


 仲睦まじい二匹は初めて本気で喧嘩した。一緒に狩りに行くというのに、ジュダの近くにいたくなかったレイラは、アルファでありながら先頭をゆくジュダから離れ、群れの一番後ろを走ることにした。ジュダは時速三十キロで走りだした。狼は時速二十キロから四十キロで五時間以上走っていられるのだ。

 久し振りに走るレイラは必死だった。体力が落ちていることに直ぐに気づいたが、ジュダに馬鹿にされたくないので涼しい顔で走って見せる。だが五時間も走破する自信がなかった。


 足手纏いにはならないわよ!絶対に獲物を仕留めて見せるわ!


 狼の縄張りは約百平方キロメートルから千平方キロメートルだ。ジュダの縄張りは約七百平方キロメートル。


 彼ら狼は縄張り内で狩りを行うのだが、ジュダ達の縄張りは森林の奥地の小高い丘の上にある為、右方には危険な断崖絶壁の崖が存在し、ジュダ達は崖に細心の注意を払い、狩りをする。万が一、崖から転落した場合、確実に命がないからだ。


 ジュダの群れは幼い子供達が待つ位置から六百平方キロメートル隔てた場所で小鹿を発見したが、またしても逃げられてしまった。


 周囲にいた動物たちも狼の襲撃に逃げ惑い、命の危機と最悪の難から逃れようと必死に走り続けた。狼も喰わねば死んでしまう、動物たちも狼に捕らわれれば死を意味する。両者ともに真剣勝負なのだ。


 レイラは崖の手前で混乱している野兎に目をつけた。


 小さいけど、ないよりマシだわ。子供達に食べさせてあげたい!


 レイラは全力疾走で崖まで走った。


 ジュダがレイラに大声を声を張った。

 「雪が解けだばかりだ!地盤が緩んでいる!危ないぞ!!」


 その声はレイラの耳に届いていた。だが、レイラの頭の中には、痩せていく幼い子供たちの可哀想な姿しかなったのだ。美味しそうに食べる幼い子供たちの笑顔が見たい……。


それだけだった――――


 レイラは素早く野兎の首元に噛みつき、獲物を捕まえた喜びに心が躍った瞬間、レイラの体重で一気に足場が崩れたのだ。


 ジュダと子供達の目の前からレイラの姿が消え、数秒後、地面に体が叩きつけられるけたたましい音が響いた。


 ジュダが叫んだ。

 「レイラー!」


 子供達も信じられない光景に戦慄の渦に巻き込まれた。

 「母さーん!」


 ジュダと子供達はレイラが落下した崖へと駆け寄り、恐る恐るその下を覗き見る。六メートル下の岩場に頭を強打し、大量の血を流したレイラの姿があった。


 ジュダはレイラに必死で呼びかける。

 「レイラー!返事をしてくれ!」


 そんな!

 そんな!

 レイラが死ぬはずがない!


 リランは涙を流して、ジュダに言った。

 「父さん……。母さんから生きてる匂いがしない。血の匂いしかしないんだ」


 ノントも嗚咽をかきながら、愛する母レイラが命を懸けて捕らえた最後の獲物を見つめた。

 「これ……幼い兄妹達に食べさせないと。母さんの最後の……最後の愛情だから。お、おいら……おいら、母さん……嫌だよ、母さん、ねえ……返事してよ」


 風に揺れる梢も悲しみを湛え、泣いているようだった。すすり泣く声が静寂な森林に、憂いの風を吹かせた。


 ジュダは涙に濡れた双眸で愛する妻に問い掛ける最後の遠吠えをした。だが、生と死を司る神に哀訴の声が届くことはなく、鼻を掠める匂いは、リランの言う通り生きた匂いがしない赤い死の匂いだった。


 「父さん、今日は幼い兄弟たちが待つウチに帰ろう」リランは、レイラが仕留めた野兎を口にくわえた。


 ジュダはその場から動こうとしなかった。

 誰もいない断崖絶壁の崖の下、たった一人ぼっちで……。可哀想だ。

 「リラン、俺はもう少しここに居たい」


 リランは口にくわえた野兎を大地に置いた。

 「幼い兄妹たちが待っている。母さんが望んでいるのは、父さんが落ち込むことじゃないはずです。

 母さんは大地に帰ったんだ。きっとここには綺麗な花が咲くよ。父さんが蝶々になるって言うのなら……いつか真っ白な蝶々に身を変えて地上に舞い降りてくるはず。母さんは……」

 声を詰まらせた。

 「俺だって悲しいんだよ。父さんがしっかりしてくれなきゃ……幼い兄妹達は誰を頼ればいい?父さん、あなたしかいないんです」


 「リラン……」自分が知らぬ間に大人へと成長したリランを見つめポツリと呟く。「お前は気丈な奴だな……俺なんかよりずっと」


 愛する妻を失ったジュダは悲しみの滴を流し、群れを率いて幼い子供達が待つ家路へと引き返した。


 走りながら思うことは母親の死をどうやって幼い子供達に伝えよう。死を理解するには幼く、母親を失うには幼すぎる……。


 しかし、それ以上に後悔の念が、頭の中でぐるぐると廻り続けた。


 狩りに出がける前、苛立っていたとはいえ酷い事を言ってしまった。後悔してもしきれない。心にも思っていない暴言を吐いた俺が代わりに死ねばよかったんだ!なぜレイラが!

 愛していると、もう一度伝えられたなら……。

 どうして……大切なものは失ってからじゃないと気付くことができないのか……。

 俺は愚かだ……。


 なあ……レイラ。

 もう一度お前に伝えたい。

 愛しているんだ――――


 俺は一体どうしたいい?この先、君なしでどう生きて行けば……。



□□□



 狩りに出かけた群れが、幼い子供達が待つ場所に着いたのは夜明けだった。成体の子供二匹と幼い子供達が、首を長くして彼らの帰りを待っていた。


 幼い子供達を守っていた成体の妹が異変に気付き、ジュダに尋ねた。

 「ねえ、母さんは?」


 ジュダは一瞬重い口を開いだが、すぐに閉ざし、話を逸らした。レイラの死は、体力がない幼い子供達が食事を取ってからにしようとした。なぜなら、ショックが大きすぎて食事を口にできないかもしれないと考えたからだ。それでは命を懸けたレイラの愛情が無意味になってしまう。


 「か、母さんは……。後でゆっくりと話す。今はこの子たちに野兎を食べさせてやってくれ」


 「わかったわ」


 成体の兄妹達は野兎を幼い兄妹たちに与えた。お腹が空いていたシルバーも無我夢中で貪るように胃袋へと収めていった。お腹一杯ではないが、なんとか飢えを凌げた幼い子供達は、ジュダを見る。子供達の目は無言で“お母さんはどこ?”と尋ねているようだった。

 狩りに出かけ、レイラの死を目の前にしてしまったノントはむせび泣く。他の子供達も同様だったが、リランだけは涙を堪えていた。


 俯いてレイラの死を告げるジュダの口元は震えていた。

 「か、母さんは、崖から落ちて死んでしまったんだ。きっと蝶々になって、いつまでもお前たちを見守ってくれる……。だから、皆で頑張ろう……」


 幼い子供達も、ここに留まった成体の子供も大声で泣いた。受け入れがたい真実に胸が張り裂けそうだった。


 「お母さんが僕を残して死ぬわけないもん!崖から落ちたんだよ。今頃痛くて泣いてるよ!どうしておいてきちゃっの?お父さんのバカー!お父さんは狩りに行く前、お母さんを虐めたもん!お母さんが嫌いだからおいてきたんだー!」シルバーは泣きながら言った。「お母さーん、お母さーん!」レイラを恋しがり、何度も呼び続けた。


 ノントがシルバーを宥める。

 「言いすぎだよ。父さんは母さんを誰よりも愛していたんだ。そんなこと言っちゃだめだよ」


 「お母さん!いやだよぉ」


 レイラと同じオッドアイの瞳に号泣され、罵倒されて、居た堪れない気持ちになり、ジュダは耳を下げて群れから距離を置いた。


 まるでレイラに罵倒されているように思えた……。


 私を愛していなかったのね……。


 そう言われている気さえした。


 「違うんだレイラ。俺は君を愛して……」


 ジュダはレイラと愛を交わした木々の中で、潸然と涙を流した。


 シルバーはジュダの背中が僅かに震えているのを見て、ジュダのそばに歩を進めた。そして、ジュダに話し掛けた。

 「お父さん、さっきは言い過ぎてごめんなさい」


 ジュダは涙に濡れた瞳でシルバーを見る。「いいんだ。父さんは母さんに酷いことを言った」少し間を置いた。「でもな……でも、本心じゃないんだ。父さんは、母さんが大好きで……もし、ここに母さんがいたなら、愛してると伝えたい」


 「お父さん……」


 「シルバーすまない」


 シルバーは初めて父親の涙を見た。いつも強くて、自分たちを守ってくれている父親の涙は、シルバーにとって見るに耐え難いものだった。


 お母さんは死んでないんだよ。きっと助けを待っているんだ。僕がお母さんを助けに行くから泣かないで。

 僕がお母さんを連れて帰ってきたら、もう一度、お母さんに愛してるって言ってあげてね。

 お母さんもお父さんを愛しているんだから。愛があったから、僕たちが生まれたんだ。


 「お父さん、もう泣かなくていいんだよ。僕がもう一度、お母さんに逢わせてあげる」


 「シルバー……。母さんはね、死んじゃったんだよ。でも、ありがとう。その気持ちだけで十分だ。父さんは嬉しい」


 この時、ジュダはシルバーの言っている意味を深く理解してはいなかった。自分を慰めるために一生懸命で健気な我が子に感謝し、頬を優しく舐めてあげた。



□□□



 泣き疲れた子供達が瞼を閉じ、眠りについた午後。ジュダはレイラを思い出し、眠りにつくことができなかったので、今朝と同様に思い出の木々の中へと入っていった。


 寝たふりをしていたシルバーは目を開け、全員が眠っていることを確認すると、足音を立てず、静かに群れを離れた。


 シルバーは後ろを振り返り家族を見つめ、小声で言った。

 「必ずお母さんを助けてみせる。そして、ここに連れ戻してみせるよ。明日の朝までには戻ってくるから心配しないでね」


 だって、お父さんの涙も、みんなの悲しむ顔も見たくないから。

 それに、僕、お母さんに逢いたいんだ!


 シルバーはレイラが転落した崖の方角ではなく、反対方向の左方へと走っていった。匂いをたどれば方角が分かりそうだが、狩りも追跡もしたことがない幼いシルバーは縄張り内の匂いを頼りに、レイラを探し出そうとしていたのだ。


 シルバーが走り続けて四時間が経過した頃、空と太陽は灰色の雲に覆われ、ぽつぽつと雨が降りだした。シルバーは雨にも負けず必死にレイラを捜すが、時間が経つにつれ雨脚が強くなってきたので、辺りを見回した。


 今しがた明るかったはずの森林は太陽の光が遮られ、一気に暗くなり始めた。幼いシルバーは独りでいるのが怖くなり、群れに引き返そうとした。


 周囲に生い茂る木々の梢が雨風に揺れ、まるで魔物の手のように思え、慌てて大地の匂いを嗅ぐ。だが、いくら大地を嗅いでも、自分が歩いてきた匂いが分からない。


 シルバーは混乱した。


 どうしよう、おうちに帰れない!やっぱり独りで捜すなんて無理だったんだ。


 大量に降り注ぐ雨が、小さなシルバーの足跡の匂いを掻き消してしまったのだ。


 シルバーは遠吠えをした。

 「お父さん!お兄ちゃん、お姉ちゃん、怖いよぉ!迎えに来てよぉ」


 いくら泣いても叫んでも、家族にその声が届くことはなく、容赦なく体を冷やしていく雨と虚空に吸い込まれていった。


 シルバーは前方を見た。鬱蒼たる木々が生い茂る急な勾配が続いている。この道を抜ければ、高い丘の上に出られるかもしれない。そしたら家族の群れの位置が分かるはず。


 きっと、そこで遠吠えをしたらお父さんが自分に気が付くだろうと、子供ながらに考えたシルバーは木々の中に飛び込んでいった。


 背の高い雑草や木々、折れた樹木の枝がゆく手を阻む。シルバーは道なき道を飛翔しながら駆け上がってゆく。


 息を切らし、家族の群れを捜す為に、幼い体に鞭を打ち、走り続けた。その後、徐々に雨脚が弱まり、数時間ほど走ると、雨が止んだ。


 シルバーは足を休めることなく進んでいく。もはや、どれだけの時間を走っていたかなど定かではないが、夜空に満天の星が燦然と輝き出した頃、ようやく鬱蒼とした森林を抜け、峻険な丘の上に出ることができた。

 

 全てを一望できる高さに立っているはずなのに、家族の群れが見えない。再びシルバーの心に寂しさと不安が襲う。


 可哀想なことにシルバーは、家族がいる群れと真逆の方向にいたのだ。幼いシルバーは、渺茫な森林で完全な迷子になってしまった。


 シルバーは叢に蹲(うずくま)り、頬を濡らした。


 おうちに帰りたいよ……。

 お父さんどこにいるの?おうちが分からないんだ。

 お母さんを捜したいのに、お母さんに逢いたいのに……僕、独りぼっちになっちゃたよ……。

 寂しいよ……。


 いつもなら遊んでいる時間帯だったが、日中も睡眠を取らず、生れて初めて長距離を走ったシルバーは、疲れ果てて深い眠りについた。


 その数時間後、瞼の裏に温かな光を感じてシルバーは目を覚ます。心地よい爽やかな風が頬を掠め、山間から曙光が見えた。


 今日はお母さんを見つけられますように、そしておうちに帰れますようにと、吉日を願い、空を見上げた。


 すると遥か彼方上空に一本(ひともと)の大きな鷹が飛んでいた。僕も空が飛べたら簡単にお母さんを見つけ出し、家族の許に帰れるのにと思いながら、羨ましそうに鷹を眺めていたその時、鷹は上空で双翼を縮め、弾丸の如く地上に急降下していった。


 そして、丘の下で飛び跳ねていた野兎に、鋭い爪を食い込ませた。鷹は前足でしっかりと野兎を捕らえ、再び上空へと上昇した。


 シルバーは余りにも剽悍(ひょうかん)な鷹の狩りの腕前に慄然とし、昨日通った鬱蒼たる木々の中に踵を返し、身震いしながら木陰に身を潜め、両親に畏敬の念を感じた。


 よくぞこの厳しい大自然を生き抜き、自分を産んで育ててくれたと――――


 シルバーは暫く木陰に隠れていた。曙光が天高く昇り、燦然とした太陽がオンタリオ州の森林を照らし始めると、一頭の美しい白い蝶が樹冠の下に差し込む光彩を縫うように、こちらに向かって羽を羽ばたかせているのが見えた。


 その蝶は、独りで怯えているシルバーの鼻先へと留まった。よく見ると右目が琥珀色で、左目が瑠璃色だった。珍しいオッドアイの蝶は優しい匂いがした。


 シルバーは狼のご先祖様の魂は蝶になるという話を思い出して、蝶に話しかける。

 「蝶々さん、白い体にオッドアイだね。お母さんみたいだ。僕もオッドアイだから一緒だね」


 蝶はシルバーの周りを飛んでから、黄色い花の上に静止した。


 つぶらな双眸に涙を溜めて蝶にお願いするシルバー。

 「蝶々さん、僕、独りぼっちで寂しいんだ。一緒にいてくれる?お母さんを捜すまででいいから」


 蝶はひらひらと羽を広げ、シルバーの頭に留まった。


 「一緒に居てくれるの?ありがとう、蝶々さん!」


 心強く感じたシルバーは、レイラを捜し、群れに戻る為、歩を進め始めた。蝶はシルバーの歩調に合わせ、ゆっくりと飛ぶ。

 「お腹空いたな。きっとお母さんもお腹を空かせているよね。我慢しなきゃ。お父さんたちはちゃんとごはん食べれたかなぁ。心配だよ。蝶々さんはお腹空かないの?」


 シルバーは蝶に話し掛け、木々の中を歩いた。そして、気がつけば歩き続けて三日目。蝶に話し掛ける台詞はいつも“お腹が空いた”。最後に食べたのはレイラが捕らえた小さな野兎だ。それも幼い兄妹で分けて食べたのだから、眩暈がするほど空腹で当然だった。


 半べそで訴える。

 「お腹空いたよぉ。お母さんとお父さんに逢いたい」


 蝶は心配しているかのようにシルバーの頬に擦り寄った。



□□□


 その頃、ジュダの群れは飢えに苦しんでいた。


 リーダーであるアルファのジュダは愛する妻レイラを亡くしたショックと、追い打ちをかけるように突然消えてしまった可愛い息子シルバーを想い、悄然としていた。アルファに君臨する狼は、いかなる時も気丈に振る舞い、群れのリーダーでなくてはならない。しかし、今のジュダはリーダーとして失格だった。


 ベーターの息子リランは怒りをあらわにした。「父さん!幼い兄妹達を飢え死にさせるおつもりですか!?いくら悔やんでも母さんは返ってこない!」悲しみの表情を浮かべ、軽く俯いた。「そして、シルバーも」


 「……。俺は不甲斐ない奴だ。お前に俺の苦しみは分からんだろう」


 「プライドをも捨ててしまったのですか?」


 リランは意を決し、リーダーであるジュダの肩に噛みついた。ジュダの肩から、じんわりと血が滲んだ。


 「な、なにをする!」


 鼻に皺を寄せるリラン。

 「あなたはもうリーダーじゃない。群れを飢え死にさせるわけにはいかない。これからはオレがリーダーだ」


 声を震わせるジュダ。

 「お、俺を群れから追い出すつもりなのか?」


 「いいえ」リランは怒りの表情を開放し、哀れみの表情を浮かべた。「父さん、あなたの血は鮮紅色の誇りではなくなってしまったようです」

 

 「……。リラン」


 リランは大声を張って、群れ全体に言った。

 「今日から俺がリーダーだ!文句のある奴はいるか!」


 ノントがジュダを見てからリランに歩み寄り、仰向けになった。

 「おいら、美味しいご飯が食べれたらそれでいいの。リランを慕うよ。だって、おいらは、か弱い狼」


 ジュダは耳と尾を下げ、木々の中に入っていった。去りゆくジュダの後姿を眺め、リアンが言った。

 「父さん、あなたは強く偉大な狼だったはず。なぜ……。残された家族より亡き母が大切なのか」


 ノントが言った。

 「母さんが死んじゃったあの日、母さんに酷い事を言っちゃったから、今でも悔やんでるんだよ。シルバーもどっかに行っちゃったし……。生きてるのか、死んでるのか分からないけど。おいら、心配」


 「厳しい自然で生きているんだ。死は付き物。大切なのは死を受け入れること。そして、群れを守り、誇り高く生き抜くことだと俺は思う」


 「リラン、君は強いね。おいらは未だに母さんが恋しいよ」



□□□



 シルバーは木々に覆われた森林をとぼとぼと彷徨っていたのだが、鬱蒼とした木々を抜けた瞬間、突如周囲の匂いが変った。他の狼の匂い。違う狼の群れの縄張りに入ってしまったようだ。シルバーと一緒に居る蝶は注意を促すように、羽を激しく動かし始めた。


 シルバーは鼻先を動かし、匂いを嗅ぐと、馨しい鹿肉の匂いを感じた。たぶん狩りに成功し、今から食事を取ろうとしているところだろう。


 「僕も食べたいよ」蝶は行くなと言わんばかりに、シルバーの目の前で羽を動かす。「どいてよ」前肢で蝶を振り払う。


 狼たちは自分たちの縄張りに入ってきた部外者(自分の群れ以外の狼)は追い払われるか、しつこければ殺されることもあるのだ。シルバーがとろうとしていた行動は非常に危険な行為だった。


 しかし、死にそうなくらいに空腹のシルバーは、徐々に危険に近寄っていく。それに、幼さ故、群れの仕組みや上下関係がよく分かっていなかった。


 シルバーは蝶を無視して、他所の縄張りの中へと足を踏み入れた。すると、十三匹の狼たちが鹿肉を囲んで、美味しそうに食べている最中だった。群れの中にはシルバーと同い年くらいの子供の狼も四匹いた。


 恍惚とした表情で口いっぱいに頬張る姿が羨ましく思えたシルバーは、群れに歩み寄る。しかし、群れのアルファ雄がシルバーを威嚇した。


 「小僧、今すぐ縄張りから出て行け!」


 シルバーは目を潤ませ、お願いする。

 「一口だけでいいんです。僕、お腹が空いてて。おうちの場所もわからなくなってしまって」


 「貴様にやるくらいなら我が子供達に与える!さっさと出て行け!」


 「お願いします。少しでいいから……。一口でいいから」


 アルファ雄はシルバーの首の後ろに噛みついた。


 「痛い!」


 「血が出るまで強く噛んではいない!ただし、しつこく此処にいるなら噛み殺す!血を流さぬ前に出て行け!」捲し立てた後、静思して小さな声で囁くように言った。「幼き一匹狼よ……。何故、群れから逸れた……」


 シルバーはしょんぼりと耳を下げて縄張りから出ていった。空腹と寂しさが一気に込み上げ、双眸から大粒の涙をぽろぽろと流し、大声で両親を呼んだ。

 「お母さん!お母さーん!お父さん、お母さんが見つからないよぉ。お母さん」


 白い蝶は慰めるようにシルバーの鼻に留まり、オッドアイから涙を流した。


 「蝶々さん、泣いてるの?蝶々さんもお腹が空いたの?僕……お母さんに逢いたいんだ。お父さんがね、お母さんに愛してるって伝えたいって泣いていたんだ。だから、僕……」


 蝶は何度もシルバーの頬を羽で撫でた。蝶は何か言いたそうだった。しかし、言葉を言わぬ蝶が何を言いたいのかシルバーには解らなかった。だから一言だけ蝶に言う。


 「ごめんね蝶々さん。蝶々さんが何を言いたいのか僕には解らないんだよ」


 蝶は滂沱(ぼうだ)の涙を流しながら、シルバーの頬を撫で続けた。


 シルバーは泣き止むことなく、叢(くさむら)の上に蹲った。暖かな日中の太陽に照らされるシルバー。

 「蝶々さん、眠たいから少し寝るね。どこにも行かないでね。蝶々さんが居ないと僕寂しいから」


 蝶は草に留まり、愛おしそうにシルバーを見つめている。シルバーはうとうとし始め、蝶が見守る中、眠りについた。


 シルバーは寝言を言う。

 「お母さん……」


 そして、前肢を動かし、口をパクパクと動かして舌を鳴らした。動物は夢を見るという。きっと、赤ちゃんに戻ってレイラのおっぱいを吸っている夢でも見ているのだろう。


 シルバーは暫く眠った後、目を覚ました。体を伸ばして、蝶に話し掛ける。

 「蝶々さん、歩こう」


 蝶はシルバーの前を飛び、上空に上がった。蝶は渺茫な森林を望む。そして、再びシルバーの前を飛び始めた。蝶はシルバーを群れに帰してあげたいようだ。しかし、随分と方向も違う。それに、かなりの距離だ。近道を探そうとするが蝶にも此処がどの位置なのかよく解らず、困っている様子だった。


 「蝶々さん、ありがとう。歩けば、きっとお母さんに逢えるはずだよ。お父さんのところにお母さんを連れて帰るんだ」


 シルバーは蝶と一緒に叢を歩く。色とりどりの綺麗な小花が咲いている道は、シルバーの落ち込んだ心を少し明るくしてくれた。辺りは生い茂る木々に囲まれているが、シルバーが歩いている叢は日当たりが良好だ。


 その時、ふと鹿と鳥の匂いを感じ取った。先程の狼の群れが食べていた新鮮な鹿肉の匂いとは違うと思ったが、腐った匂いでもない。特に鳥は美味しそうな匂いだった。


 シルバーは鼻先をくんくんと動かして匂いを嗅ぐ。匂いを発している場所は、もう少し先のようだ。耳を澄ますと、川のせせらぎが聞こえた。


 周囲に首を巡らせ、目を凝らして前方を見てみると、道が途切れていた。きっと途切れた道の下には、川が流れているのだろう。


 蝶は方向転換しようとシルバーを誘導する。しかし、どうしても美味しそうな鶏肉の匂いが気になってしまうシルバー。神経を集中させると、匂いは途切れた道の手前ということが分かったので、歩を進めてみることにした。蝶は心配そうにシルバーを見つめている。


 「大丈夫だよ。敵の匂いもしないし。でもね、鹿の匂いがなんか変なんだ。嗅いだ事のない匂いがするんだよ。死んでるような?」少し間をおいて考えた。「蝶々さんって鼻あるの?鼻がついてなかったら匂いは分からないよね。僕はね、鼻がいいんだよ。蝶々さんは僕のご先祖様だから、昔は鼻がよかったんだよね」 


 シルバーは叢の上に不自然に置かれた鶏肉を見た。羽もついていなければ、骨すらない。ピンク色で柔らかそうな鶏肉が空腹のシルバーの鼻孔を擽る。


 「うわー!美味しそう!」


 蝶は行くなと言わんばかりに、シルバーの周囲を飛ぶ。


 「大丈夫だよ。きっと森林の神様が僕にくれたんだ」


 やっとありつけた食事、しかもおいしそうな鶏肉だ。心を弾ませ、鶏肉まで跳んだ瞬間、左後肢に今まで感じたことのない激痛が走り、シルバーは悲鳴を上げた。


 蝶は慌てふためき、シルバーの左後肢で羽をばたつかせるように飛んだ。痛みに蝕まれ震えが止まらないシルバーは、自分の左後肢に目をやると、獲物を捕らえる為に仕掛けられたトリバサミが、細い左後肢を捕らえ、骨まで砕いていたのだ。叢の緑が血に染まってゆく。


 シルバーは泣きじゃくり、助けを求めた。

 「痛いよぉ!痛いよぉ!助けてーー!お母さん!どこにいるの?お父さん!お母さーん!」


 僕が転んで怪我をしたとき、お母さんは優しく癒してくれた。お父さんも心配してくれた。でも、今、僕と一緒に居てくれるのは、蝶々さんだけ。

 「お母さん!助けて、お父さん!」


 蝶はしっかりとシルバーに寄り添い、トリバサミに挟まれ潰れてしまった小さな足を、白い羽で撫でてていた。真っ白だった羽が赤くなってゆく。


 泣き喚くシルバーの後方の木々から、鹿の毛皮を身に纏い、猟銃を携えた男が二人現れた。この時期は狩りが解禁される時期でもなく、狩りが許可された森林でもない。つまり、密猟者。


 男が言った。

 「くっそ!チビかよ!だからスーパーの鶏肉じゃ駄目だって言ったんだ。大人は警戒心が強いから、お前のウチで飼ってる鶏にすればよかったんだよ」


 もう一人の男が猟銃を構え、銃口をシルバーに向けた。

 「まぁ、しゃあねえ。チビの毛は柔らかいし、こいつの毛は銀色だ。意外といい値で売れるかもしれんぞ」


 シルバーは銃口に火薬のにおいを感じた。そして、嫌な血の匂いも。


 殺される!


 シルバーは蝶を見つめた。

 「蝶々さん、僕を守って。僕はお母さんを捜さなきゃいけないんだ。そして、お父さんのところに帰るんだ」


 シルバーは渾身の力を籠め、トリバサミに挟まれた後肢を引き千切ったのだ。トリバサミの中に千切れた小さな足が転がり、愛らしかった肉球が痛々しさを物語る。

 シルバーは痛みを堪え、前方の道が途切れた場所へと向かった。人間から逃げるには川に飛び込むしかないと思ったからだ。痛みに苛まれる中、苦渋の選択だったが、これ以上の方法が見つからなかった。生きる為に覚悟の決断をしたのだ。


 必死で逃げるシルバーを守りたい蝶は、猟銃を構えた男に襲い掛かった。何とか視界を遮ろうと、羽を大きく広げ、目を攻撃する。


 猟銃を持った男は蝶を振り払う。

 「邪魔くさい蝶だな」


 もう一人の男が蝶の目を見た。

 「面白い蝶だぜ。オッドアイだ」


 「そんなものどうでもいい。逃げられちまうだろ!?撃てよ!」


 「あいよ」


 シルバーは途切れた道の下を覗いた。思っていた以上に高く、レイラが転落した崖に匹敵する高さだった。川の流れも速い。怖気づき、躊躇した、その時。


 穏やかな森林と青空に銃声が響いた。木々で翼を休めていた鳥たちが、空へと逃げていく。


 そして、恐れていた銃弾がシルバーの胸を貫通した。


飛び込もうと思っていた川に落下する形で落ちていくシルバーの許に、蝶が急いで羽を向けた。


 猟銃を放った男が言う。

 「あーあ、川に落ちてしまった。残念だ」

 

 「お前が蝶なんかに気を取られているからだろ?」


 「仕方ないだろ?次にデカいのを捕まえりゃあ文句ねえだろうよ。そうだ、餌にチビの足使おうぜ」



□□□



 猟銃で胸を撃たれたシルバーは朦朧とする意識の中、何とか前肢を動かし泳ごうと、必死に生きようとする。


 だが出血の量が多く、逆巻く流れは赤に染まっていく。予想以上に水位が深く、見た目より流れも速い。流されていくシルバーを懸命に追いかける蝶。


 蝶は涙を零した。


 もし、私の羽がもっと大きければ、シルバーを川から救い出せるのに――――

 もし、この小さな口が生前のように大きければ、人間からシルバーを守れたのに――――


 シルバーは最後の力を振り絞り、なんとか岸辺ににじり上がることができた。しかし、すでに体力に限外を迎えていたシルバーは動くことができず、石の上に横たわり、微かに息をしている状態だった。たとえ体が動いたとしても、峻険な崖に穿(うが)たれた川だ。登ることは不可能だろう。


 焦点すら合わない双眸に、涙を流す蝶を映して話し掛けた。

 「蝶々さん、お父さんに伝えて。お母さんをもう一度お父さんに逢わせたかった。僕ね……僕もね……お母さんに逢いたかったんだ……」


 蝶はシルバーの鼻に留まった。


 「お母さん……」


 シルバーはゆっくりと瞼を閉じた――――



□□□



 深い眠りについたシルバーは、自分を呼ぶ声で目が覚めた。


 そこは冷たい川ではなく、沢山の花が咲き誇る花畑だった。


 シルバーが花畑に首を巡らせると、いつも一緒にいてくれたオッドアイの白い蝶がこちらに向かって飛んできた。そして、花畑に舞い降り、眩(まばゆ)い光を発しながらレイラの姿に身を変えたのだ。


 「シルバー」


 シルバーは泣きながら愛しい母レイラに縋(すが)り付いた。

 「お、お母さん!お母さん!僕、ずっと捜していたんだよ」


 レイラはぽろぽろと涙を流し、シルバーの口元を舐め、体を摺り寄せる。

 「ごめんねシルバー。大好きよ」


 「お母さん。僕も大好きだよ。お父さんにもう一度逢わせてあげたかったんだ」


 「優しい子ね。お父さんが言いたいことは分かってるわ。お母さんもお父さんが大好きよ」


 「お母さん」


 「さあ、行きましょう」


 「僕ね歩きたくても、足がとれちゃったんだよ。胸も痛いの」


 レイラは優しく微笑んだ。

 「見てごらんなさい。足も胸も痛くないはずよ」


 シルバーは視線を下ろして、怪我を負った箇所を見た。すると、驚いた事に、胸の傷は癒されており、失った足も再生していたのだ。

 「ほんとだ!治ってる!」歓喜の声を上げた。「痛くないよ」


 シルバーは何度も飛び跳ね、レイラの胸に飛び込んだ。

 「お母さん、大好き」


 「お母さんもよ」小さく笑った。「甘えん坊さんね」


 花畑の中心でシルバーとレイラは光に包まれ消えていった。



□□□



 悄然としているジュダはもうすぐ狩りの時間だというのに、レイラと愛を交わした木々の木陰で泣いていた。後悔の念に苛まれ、アルファとしての誇りをも失ってしまい、リーダーの座を息子のリランに奪われたままだった。


 大粒の涙を零て顔を上げたとき、オッドアイの白い蝶と銀色の蝶が目に入った。二頭の蝶は羽を羽ばたかせ、ジュダの許に飛んできた。白い蝶は、ジュダの鼻先に留まり、銀色の蝶はジュダの大きな手に留まった。


 亡き狼は蝶に姿を変えて地上に舞い降りる――――


 ジュダにはすぐに誰なのか分かった。

 「オッドアイの蝶……。レイラ……シルバー」


 蝶に身を変えたシルバーとレイラの魂は、ジュダの周りを何度も飛んだ。


 双眸から溢れる涙が止まらなかった。「シルバー、お前は母さんを連れてきてくれたんだね。父さんは生きているお前に逢いたかった。でも、ありがとう、ありがとうシルバー」ジュダは言葉を続ける。「幼いお前は一匹狼となり、立派に旅をしたんだな。シルバー、お前は小さなアルファだ」


 ジュダに褒められたシルバーは嬉しそうに羽を羽ばたかせた。


 ジュダはレイラの蝶に目線を下ろし、言葉を詰まらせた。

 「すまなかった。心にもないことを言ってしまったことを俺は後悔している。愛しているんだ、レイラ。心から愛している」


 レイラはキスをするようにジュダの口に小さな口をそっと寄せた。


 レイラも愛していると伝えたかったのだ。


 シルバーとレイラはジュダに愛を伝え、家族が集まる群れに飛んでいった。

 ノントが宙を舞うシルバーとレイラに気がついた。

 「あ!見てよ!みんな!母さんと、シルバーだよ!」


 群れに喜びに満ち溢れた声が響いた。


 リランの周りを何度か回った。その時、レイラの匂いと、シルバーの匂いがリランの鼻を掠めた。

 「母さんとシルバーの匂い」


 ノントが得意げに言う。

 「だから言っただろ?狼の魂は蝶に身を変えるって。おいら、嘘はつかないよ」


 リランは笑った。

 「母さん、シルバー。逢いに来てくれてありがとう」


 蝶に身を変えたシルバーとレイラは一筋の光となり、満天の星空へと消えていった。


 木々の中に隠れるように生活していたジュダが群れの中に入り、リランに言った。

 「家族のリーダーはこの俺だ。お前に噛まれた咬創が未だに疼くが、闘っても負ける気はしない。やるか?」


 リランは笑みを浮かべ、安堵の涙を流した。群れにいる誰よりも父ジュダを尊敬していたのはリランなのだ。

 「よかった。父さん。いつもの父さんだ」


 ノントはジュダに歩み寄り、仰向けになった。

 「おいら、父さんに忠実だよ。こんなにいい子はいないよ。おいら、美味しいご飯が食べたいな」


 「調子のいい奴だな、お前は」ジュダは苦笑いする。「腹を見せる暇があるなら、狩りに行くぞ」


 ジュダは遠吠えをし、狩りの合図を出した。

 「今日は鹿を仕留める!腹いっぱい食うぞ」


 狩りをする群れは深夜の森林を駆け抜け、獲物を求めた。ジュダは走りながら夜空を見上げる。


 蝶になった愛する妻と息子よ、いつまでも群れを見守っていてくれ。

 俺の命が尽きるその時、再びお前たちに逢えるだろう。

 その日まで誇り高く生きぬかねば。


 俺の体に流れる血は鮮紅色の誇り。

 そして、小さなアルファのシルバーに流れる血も鮮紅色の誇りだ。



 銀色の蝶になったシルバーは、大好きなお母さんと天国で家族を見守り続けた。



 ねえ、お母さん、僕ね、お父さんに褒められたんだよ。僕は一匹狼のアルファなんだ。ずっとお母さんを守ってあげるね――――


                                              完


















 











































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小さな森林狼シルバーの旅~お母さんに逢いたくて~ 愛花 @mitutukiayumu777

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