或る画家
金輪斎 鉄蔵
或る画家
1.あたらしいカンバス
オーク製の
いつか、このカンバスは、職人の手になる上質な
やがて、その1.5メートル四方はあろうかというカンバスは、一部の隙もない
五メートルほど離れた木製の寝台に
2.パンとチーズとソーセージと、ワイン
アトリエには
「今日はこのへんで終わり」と画家が言うと、女はポーズを取り続けて
テーブルにパンとチーズと、ソーセージ少々を並べ、ワイングラスをカチリと触れ合わせて、ふたりは遅い夕食を始めた。椅子は
3.絵筆を下ろす準備は整っていた
ふたりの生活は、まもなく三年になろうとしていたが、大きなカンバスは白いままだった。画家は
以前から生活のために、画家は広告やら雑誌やらの仕事をしばしば引き受けていたのだが、女が大学を卒業して出版社に勤めるようになると、状況が大きく変わってきた。もともと器用で、写実的な絵も描ける画家のもとに、仕事の依頼は
だが、ふたりはまだ若く、時間は無限に残されていたから、とくに気に病むこともなかった。アトリエには真新しいチェストやソファ、食器棚に
4.若いツタ
カンバスに
往診の医者は「こんどの薬はよく効くはずですよ」とたびたび新しい処方を出したが、病状はなかなかよくならなかった。男はかさむ薬代のために、一層仕事に精を出し、女のために消化の良い、栄養のある食事を用意した。 女は、病に
いまや夏も盛りとなっていた。昼下がり、暑さに
5.空いたベッド
その年の12月、画家の
年があたらしくなり、画家は
あの大きなカンバスを張った日と同じように、オレンジ色の
6.霧の中で
次第次第に、画家の仕事は減っていった。ジンの
ときおり画家は、
7.二十年
カンバスが張られてから二十年。もはや画家は、絵を描くよりも、人の描く絵を
画家は、過去の仕事の評判だけに頼ったものであっても、若い芸術家から一応の尊敬を集めていた。だから、薄めた
しかし、話が進むにつれ、ジンを
8.三十年
カンバスが張られて、ついに三十年が経った。画家はもうほとんど絵を描いていない。アトリエの周辺は、この十数年の間に芸術家の集まるちょっとしたコロニーとなっていたが、彼はもはや画家ではなく、彼ら若き芸術家たちに、酔って無益な議論を仕掛けるばかりの
老人は時々、若い頃の画家を知る人から仕事を引き受けて、そのたびに相手をひどく失望させた。その絶望的な仕事のほかに、老人の収入は今や若い芸術家たちのモデルをするくらいしか、残されていない。芸術への強い情熱を、悲しみのまどろみのなかでひたすら
老人のアトリエはもはや
9.鈴の音
老人は相変わらず壊れかけのソファに埋もれて、毛布をかぶっている、が、眠っているわけではない。最近の老人の楽しみは、遠くなった耳を、ジッと澄ませて、二階に越してきた画学生ふたりの声を聞くことだけだった。といっても、盗み聞きというわけではない。もはや老人の耳には、二階の会話の内容を聞き取る力は残っていない。ただ、
階上のふたりは、まだ二十歳にもならない。芸術が、砂漠を船でゆくような、海原を馬でゆくような、
自分こそボロボロになっている老人が、そんな風に考えるのは皮肉なことだったが、老人の優しさは今や本物だった。もう、誰かを攻撃して気晴らしをする必要も、体力も、老人にはなかったからだ。
10.オレンジ色のストーブ
夏が終わり、秋が来ると、毎年老人は「この冬を越せるだろうか」と思う。年々寒さが身にこたえるようになり、冬場には、わずかに
ストーブの
ふたりの声が、このところ聞こえなかった理由を、老人は娘から聞いた。もうひとりの娘が、一週間前から
11.嵐の晩に
娘の話を聞いた晩、老人はひとり椅子に座って、ジンも飲まずにじっとあの白いカンバスを見つめ、考えている。冷たい雨と風が、ときおり窓をガタガタと鳴らしている。
あの、ちょろちょろとツルを伸ばしていた、あのツタだ。あれから何年経っただろう。確かに夏には鮮やかな緑で、確かに
老人はイライラと思いを巡らせ、やがて、カンバスの前に立てっぱなしになっていた
激しい雨と風の中、老人はツタの正面に
老人は拾ってきたツタの葉を、丁寧に壁に押し当てて、輪郭をなぞり、手にしたパレットと、ツタの葉を見比べつつ、慎重に筆を
14.ソファの繭へ
日の出の時刻、相変わらずの風雨でまるで闇夜のままの
ゆっくりと、ナメクジのように脚立を降り、片付けた道具と脚立をずるずると重くひきずって、老人は部屋へと戻った。身体は冷え切って、力は使い果たしてしまって、もう、ストーブに
ああ、あれにそろそろ、手をつける
15.光のなかで
翌朝、雲が切れ、青空がのぞいたかと思うや、すいすいと空は明るさを増して、太陽がその
階上のふたりは
老人はしずかに、しずかに、ソファの
或る画家 金輪斎 鉄蔵 @arutanga
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