拡張現実に潜む悪意

Wolke

本文

 きゃらきゃらと子供の笑い声が響く。

 そちらへ目をやると、幾人かの子供がスマホ越しに何かを探して歩いている。

 とは言っても、彼らを馬鹿にすることなど到底できない。なぜならぼくもまたスマホ片手にモンスターを探している一人だからだ。

 昨年から頻繁に目にする光景だ。今や世界規模での社会現象となったポケモンG○。献血センターでしか手に入らない種類がいたり、選挙当日に投票所でしかゲットできない伝説さんを配置したりと、最早ただのゲームではなく社会貢献をするためのツールとして地位を確立しつつある。

 当然、売れる。金になる。日本を代表する名作であり、世界にも多くのファンを持つタイトルだ。しかし、その流行に乗っからないひねくれた人間だって数多く存在する。

 たとえば、ぼくのような。

 しかし欠片も興味が無いわけではないという実に面倒な性分をしている。きっとぼくだけじゃない。大勢いると信じたい。

 そしてそんなぼくらの欲求を世界は容易く満たしてくれた。要するに、類似作品がリリースされたのだ。実際に街を歩いてアイテムやらキャラクターやらを集めるゲームが。もちろんそれらは元祖にして頂点に君臨する名作様には叶わない。バグだらけだし、プレイヤーも少ないし、サービスだって不十分。

 だけど、流行には乗りたくないが、どんなものなのかまったくわからないのもいやだ、といった至極迷惑で面倒な顧客のニーズに弱小メーカーはがっちりと対応してくれた。

 ぼくがいまやっているゲームを『クトゥルフGO』という。

 元々オカルト好きなこともあってか、すぐにのめり込んだ。子供に媚びたデフォルメされたキャラクターなんかじゃない。ガチでおどろおどろしい吐き気を催すような形状をし、名状し難い奇怪な動きでプレイヤーを気味悪がらせる宇宙的恐怖を追求したモンスターが登場する。その迫真とも言えるデザインはネットで一躍有名になり、これを全年齢対象にしていいのかと物議を醸したほどだ。

 そんな空恐ろしいモンスターを求めて、ぼくは少しばかり遠回りをしながら学校へ向かっているわけだけど、このゲームの難点のひとつとして、エンカウント率が非常に低いという点が挙げられる。

 修正の要望はもう何度もメーカーに送られているが、そのすべてが調整中の一言で片付けられる。一時期に比べればまだ遭遇するようになった方だが、やはり低いことには変わりない。


「さっさと曲がり角の度に神格に遭遇するバランスにしろよな」


 言って、どんな世紀末だと苦笑を漏らす。


「だけど実際遭遇しなさすぎなんだよ。あー、本気で免許でも取ろうかなぁ」


 愚痴を吐くのも仕方がない。

 食屍鬼グールの一体でも見つかれば御の字と思っての遠回りだったが、結局功を奏すことなくぼくは学校にたどり着いた。

 ため息をひとつ。ここ最近は収穫ゼロだから、舌を鳴らす気力も沸かない。

 遠回りをした所為か、なんだか普段以上に疲れを感じる。


「あー、やってらんねー」


 でもやめないんだよなぁ、と戯言を漏らす傍らで、ブーンと不快感を煽る羽音が耳を刺した。


「うわっ!」


 驚いて頭を振る。間近まで迫ったであろう虫に対して大きく腕を振るう。

 追っ払ったのかはわからないが、周囲に虫は居ない。

 ツイてない、と嘆きながらぼくは校門をくぐる。



       ◇



 くすくす。

 不気味な笑い声が木霊する。


「近い……近いぞ……ッ!」


 人気のない放課後の校舎。日の入りの時間は過ぎており、窓の外は薄暗い夕闇に包まれている。

 黄昏。

 古来、こちらとあちらが、人間の時間と怪異の時間が混ざり合うとされている時間。くすくす、と絶え間なく聞こえる笑い声を聞いていると、本当に妖怪が現れそうでドキドキする。当然、恐怖からではなく、ファンタジックな存在と邂逅できる期待からだ。

 チカチカと明かりが断絶しては復旧する。


「切れかけだな」

「うるせぇ。いまそれどころじゃねぇんだ。どうせ明日になったら用務員さんが替えてくれるさ」

「だな」


 蛍光灯によって照らされる下をスマホ片手に闊歩する馬鹿が三名。ぼくとぼくの友人らだ。それなりに遅い時間まで残っているのは真面目に部活動に励んでいたから。部活が終わると、帰宅する前に一通り校舎内を巡回するのが『クトゥルフGO』にはまっている同志たちとの日課だった。


「クソッ! どこだ!? この辺にいるはずなんだよ!」


 声を荒げたのは逆巻さかまきだ。先程からひっきりなしに聞こえてくる不気味な笑い声は彼のスマホを音源としている。横から画面を覗いてみれば、確かにすぐ近くに神話生物がいる反応が表示されている。

 しかしどの方向へスマホを向けても神話生物の影も形も見当たらない。


「これでバグだったら笑うわ」

「いや見えてないだけじゃね? 透明の神話生物だっているだろ」


 ぼくの妬みを元にした嘲弄に、乃東ないとうが冷静に返してくる。

 この男、やけに勘がいい。このゲームをいち早く発見し、ぼくたちに布教したのも彼であるし、ぼくらのようなにわかじゃなく、クトゥルフ神話そのものにも造詣が深いようなのだ。

 おかげで、その発言に逆巻はハッと顔を上げ、スマホを操作。横から見ていると『イブン=グハジの粉薬』を使用することにしたらしい。


「頼む! ラスト一個なんだ!」


 アイテム欄をタップすると、画面内に粉を散布するエフェクトが発生した。そしてエフェクトが消えると、それまで廊下を写すだけだった画面に一体の神話生物が出現した。

 画面からはみ出るほどの大きさ。実際に居ればぼくの身長よりも高いだろう。ぶにぶにとした表面が、てらてらと光り、胴体らしき部分からは幾本もの触手が飛び出している。その触手の先端にはギラついた牙があり、こちらに向けて伸ばしてくる様など、まさに心胆を寒からしめる迫力を伴っている。


「よっしゃあっ! 『星の精』だ!」


 おぞましさを吹き飛ばしたのは、逆巻が上げた歓声だった。興奮した面持ちで『星の精』を捕まえようと奮闘している。


「おうミスれミスれ」


『星の精』は姿が見えないこともあってレア度が高い。そんな稀有な神話生物をこいつが手に入れるというのは非常に面白くなく、嫉妬全開のぼくの声援を受けて、逆巻は早くも呪符を一枚無駄撃ちした。


「うるせぇ! 集中してんだよ!」


 怒鳴ったところで悪いとは思わん。以前、こいつが周囲で煽り続けた結果、あまりのイラつきように集中が切れて『ショゴス』を逃がしてしまったことがあるのだ。こいつだけが美味しい思いをするなんて断じて許せん。

 もう一度リアルファイトも辞さない覚悟で、彼のスマホの正面をうろちょろする。


「捕まえれた? ねえ捕まえれた? はやくはやく、捕まえれたんなら見せてくれよ」

「――――――」


 無言を決め込んではいるが、逆巻の額には青筋が浮かんでいる。


「ああああ。また失敗しちゃったねぇ。おうおうどうするどうする? もう呪符の残数少ないんじゃね? 『星の精』が逃げちまうぜ」


 深呼吸をして怒りを鎮めている逆巻。間髪入れずに煽り続けるぼく。そんなぼくらを見ながら苦笑を浮かべて乃東が見守っている。

 傍から見て好ましいかはわからないが、これが普段のぼくらの関係だった。

 そして四度目の挑戦。逆巻が放った呪符が『星の精』にクリティカルヒット。哀れ、『星の精』は逆巻の所有物になってしまった。


「ざっまぁああああああッッッ!!!!」


 逆巻は大声を上げてぼくを指さし、全力で、全霊で、嘲笑を聞かせてくれる。

 ギリギリと奥歯が鳴った。殺意すら篭っているであろうぼくの視線を受けて、逆巻は優越感に浸っている。本気でぶっ飛ばしてやろうかというぼくの気概が伝わったのか、逆巻はおどけるようにその場を飛び退いた。

 飛び退いて、踏ん張りが利かずにすっ転ぶ。その無様な姿を全力で嘲弄してやろうかと思ったが、逆巻の様子がおかしい。なぜ転んだのかわからないといった表情。気が付けばいつの間にか逆巻は肩で息をしている。

 長距離走でもしたかのように呼吸を荒げ、顔色も少し青褪めて見える。


「―――大丈夫か?」


 ぼくの言葉を受けて、逆巻は大きく息を吸い、「大丈夫だ」とかすれた声で答えた。


「いくらなんでもはしゃぎ過ぎだろ」

「まあまあ。それより逆巻が『星の精』を捕まえたことだし、そろそろ帰ろうか」


 気勢を削がれてしまった気分だ。彼の回復を待って、三人で移動を開始する。


「だいたい神話生物を捕まえるのに呪符を使うってのがまずおかしいんだよ。なんで呪符? 陰陽道なの? 道教なの? それっぽいってだけでクトゥルフ神話にまったく関係ないよね」

「お? 負け惜しみからの八つ当たりか? まあ、ボールからイメージ画像だけ変えました感は半端ないけどさ」

「そもそも神話生物捕まえて集めようぜってコンセプトのバカなパクリゲーなんだから仕方ないんじゃない? 開発側のそれぽっきゃいいやって考えが透けて見えるし」

「逆巻も乃東もそうは言うけどさ、グラフィックにここまで力入れるんだったらもっとこだわって欲しいじゃん。神話生物を従える方法なんて魔術書読んで呪文覚えるくらいしか思いつかないけど」

「で、SAN値がガンガン減って、どんな神話生物でも余裕で捕まえれるようになったころにはSAN0と」

「プレイヤー全員狂人とかないわー……と思ったけどいまも大差なくね?」

「まあたしかに」


 帰路について、げらげらとぼくらは笑い合う。逆巻の体調不良も完全に回復したようだ。足取りは確かで、先程なぜ突然立ち上がれなくなったのかわからないほどだ。どうせ日頃の運動不足が祟ったのだろう。体力不足ならもっと『クトゥルフGO』をやればいい。精々スマホ片手に町内を走り回って、成果無しで一日が潰れることを願うばかりである。

 最寄り駅に着くと、ぼくはふたりと別れる。ふたりは上り線に、ぼくは下り線に乗るからだ。調度良くホームに入ってきた電車に乗り込み、空いている座席に座り込む。そしてポケットにしまっていたスマホのロック画面を解除した。

 我ながら一日中スマホばかり眺めている気がするが、果たしてこれでいいのだろうか、という気持ちにならなくもない。

 とは言え、いつまでも『クトゥルフGO』ばかりやっているわけではない。ニュースサイトやまとめサイトだって巡回するし、SNS上でのやり取りも欠かさない。残念ながら、これは『クトゥルフGO』の情報収集だのだが。

 しかしざっと見ても、有益な情報は見当たらない。わざわざ山の山頂や森の奥深くまで行ってみたぜ、という投稿画像もあるが、特に成果は無いようだ。

 目的駅に着くまでは適当に気になる記事を開いて時間を潰す。

 駅に着いた頃には、もうすっかり暗くなり、星々が煌々と輝いている。駐輪場に停めてある自転車に鍵を差し込む最中、生温かい風が頬を撫でた。ペダルを踏み込めばむっと鼻を突く悪臭が顔に当たる。


「誰かゴミでも捨ててんのか?」


 速度を上げれば、すぐに臭いは気にならなくなった。暗闇の中でゴミを探すほどの奉仕精神は持ちあわせておらず、すぐ家に向かった。


 ―――カァ


 家に入る直前、鴉が啼いた。

 こんな夜中に珍しいと思いながら、ぼくは玄関の扉を開ける。



       ◇



 なんだか雲行きが怪しい。

 たまたまなんとなく開いたニュースを読んで、冷たいものが背筋を走る。ニュースの内容は失踪事件。名前を挙げられてもピンと来ない県外の山奥で車が乗り捨てられており、車の持ち主には捜索願が出されていたといった内容だ。失踪した人の名前を読んでも、まったく知らない人物であることには違いない。

 なのになぜ嫌な予感がひしひしとするのか。気付いたのは、SNSで最近呟いていない人のホームを覗いてみたときだ。投稿されている山奥で撮った車の写真と、先程読んだニュース記事に載っていた車の写真が同じなのだ。構図は違うが、車の色と車種は同じ。

 いやいやまさか、これはゲームだ。現実に神話生物なんているわけない。

 たまたま偶然重なってしまっただけ。巡り合わせが悪い、運命の悪戯とでも言うべき出来事だ。気にしない。気にしたくない。でも、それならなぜ。


 ―――逆巻は消えてしまったのだろうか。


 数日前から逆巻は学校に来なくなっている。どころか家にも顔を出していないようで、親しい交友関係にあった者は最後に会ったのはいつだったか教師から質問されるレベルだ。

 失踪、と言う他ない。

 偶然だ。これは偶然だ。『クトゥルフGO』をやる人間がたまたま似た時期に姿を隠しただけ。ネットでしか付き合いのない人の人物像はよく知らない。逆巻に関してだって、表層に出さなかっただけでとても重い悩みを抱えていたのかもしれない。

 だからゲームとは関係がない。

 そう自分に言い聞かせながら、ぼくは震える指で『クトゥルフGO』をアンインストールした。ホーム画面から、毎日のように起動していたアイコンが消える。

 ふぅ、と息を吐く。

 このゲームとは関係がない。もう二度と『クトゥルフGO』はやらない。そう。最近やたらプレイ中に疲れることが多くなったことも関係無い。なんだか白けてしまった。今は授業中なのだ。スマホばっかり弄ってないで、少しでも板書を進めるべきだ。

 シャーペンを手に、黒板を見る。かろうじて写していたところが消される瞬間だった。まずいと思いペンを走らせる。ちらりと隣の席を見れば、教科書の開いているページだって違っている。

 急いでペンを走らせる。今まで考えていたことを忘れるように、教師の言葉に没頭する。生まれてこの方、ここまで授業に集中するのは初めてかもしれない。


 ―――バンッ


 しかし、集中はそう長く続かなかった。

 なにかが窓ガラスを叩いた。割れていないのが信じられないほどの音だ。

 窓の外へ視線をやる。何も無い。何も無い―――はずだ。

 なのに幾度も幾度も音が聞こえる。ガラスを叩く、硬質な音。


 ―――バンッッ


 より一層大きな音が響き、びくりとぼくは肩を震わせた。その反応を面白がるように、今度はさざなみのように小さなノック音が広がっていく。

 周りを見ても、誰も何も気にしていない。まるで聞こえていないかのようだ。事実聞こえていないのだろう。なら、あんな音が聞こえてしまうぼくの頭がおかしくなってしまったみたいじゃないか。

 頬杖をつく振りをして左耳を抑える。音は聞こえなくどころか反響するように頭の中で大きくなる。


(何だよコレ? ふざけんなふざけんなふざけんな。ビビりすぎだ幻聴だ気の迷いだ)


 一心不乱に念じ続ける。指先の震えが止まらない。ペンを放る。板書は諦めた。固く目を閉じる。耳を閉ざす。心に平穏が、平静が戻るのを待つ。待とうとした。


 ―――バンッッッ


 三度目の大きな音はぼくの席から。身体に直接衝撃が伝わる。目を開けば、ノートの上には粉々になったペンの残骸がある。


「うわぁあああああああああああッ!!」


 絶叫と逃走は同時だった。

 半ば椅子からずり落ちるように立ち上がると、一目散に出口へ向かった。周囲の目なんて気にする余裕はなく、ただただ必死に校舎内を駆け抜ける。


「つ、次は―――次は、ぼくの番だって言うのかよ―――ッ」


 正解、とでも言いたげに、ポケットの中から電子音がした。毎日耳にしていた『クトゥルフGO』の起動音。

 ありえない。消したはず。

 後ろから何も迫っていないことを、何の音も聞こえてこないことを確認し、足を止めた。

 震える指でスマホを取り出す。見慣れたゲーム画面がそこには表示されていた。

 そして先日まで必死で探し求めていた、近くに神話生物がいるアイコンが光っている。

 ふと気づく。ここは逆巻が『星の精』を捕まえた場所だ。

 いやまさか。そんなはずはない。逆巻が捕まえたことを妬み、少なくはない時間この場所を徘徊したのだ。にも関わらず見つからなかった『星の精』が今になって出現するなんてことは―――

 震える指でアイテム欄を呼び出す。逆巻に負けじと大量に作成した『イブン=グハジの粉薬』をタップすると、スマホの画面に変化が表れ、以前逆巻のスマホで見たものと同一の存在が姿を現す。

 なんで、いまに限って。

 そんな泣き言を封じ込めるように、『星の精』はこちらに触手を伸ばしてくる。

 衝撃は胸の内ではなく、左肩に走った。


「――――――へ?」


 鋭い牙が左肩に食い込んでいる。脱力感と共に、急に身体が重くなる。そこにあるであろう触腕が色を帯びた。真っ赤な血の色を巡らせ、ぶよぶよのゼリー状の触手が色づく。ぼくの血で『星の精』の血色がよくなっていることは火を見るよりも明らかだ。


「あ、あ、あぁああああああああああッ!」


 生理的な拒絶反応から、手に持ったスマホを投げつける。スマホは奇跡的に触手の根本に当たり、左肩を噛む力が弱まった。ほとんど反射だ。目一杯引いた左肩から肉をこそげ落としながら、『星の精』の鋭い牙から逃れることができた。

 すぐに踵を返し、『星の精』を背に、駆ける。

 少しでも距離が離れれば、近くの窓を蹴破って、窓の外に身を投げた。

 うぐっ、と呻き声を上げる。

 ここは一階だ。着地の体勢が悪かっただけで死ぬようなことには成り得ない。

 息が荒くなる。ずきずきと左肩が痛む。もうどうしていいのかわからない中、足だけは止めずに動かし続ける。

 走る。校門を越える。走り続ける。橋を渡る。川に流れ込む用水路から「テケリ・リ テケリ・リ」と声がする。悲鳴を上げた。なお走る。悪臭が鼻を突く。地下鉄の入り口。犬に似た二足歩行のなにかがこちらを見ている。方向転換。また走る。足がもつれた。転ぶ。うつ伏せから仰向けに。空。翼を生やした人型の暗黒が見下ろしている。


「は、はは、あはははははははっ」


 笑いが止まらなかった。

 笑いを止めたのは一枚の呪符だった。呪符が身体に張り付いた途端、びくん、と身体が跳ねる。


「――――――」


 声が出せない。自分の意思で身体を動かすことができない。身体に張り付いた呪符は『クトゥルフGO』で見慣れたものだ。

 もうぼくはスマホを持っていない。あれだけ全力で投げつけたのだから壊れたはずだ。ならなんだよこれは。どうして、だれが、なんのために、こんなことを。


「うわっ! すごいすごい! お兄さんの言う通りだ! 捕まえれたよ!」


 無邪気な声が聞こえる。子供の声だ。かろうじて視界の中に数人の子供が映った。スマホを片手に仲間内で盛り上がっている。だれも倒れているぼくの身を案じることはない。スマホに写っている路上と、現実の路上を見比べるように視線を動かしていることはわかる。だけど、少年らの瞳がぼくで焦点を結ぶことはなかった。


 ―――まるでゲームのキャラクターにでもなった気分だ。


 思い、そう外れていないことを悟った。

 ゲームの中から神話生物が出てきたんじゃない。ぼくの方がゲームの中へ入ってしまったんだ。だからこそ、『クトゥルフGO』を通さずに神話生物を目にできた。直接触れられてしまった。化物の戯れが身と心を削いでいく。

 スマホを投げつけたとき。あのとき、ぼくはプレイヤーとしての資格を失ったんじゃないだろうか。ひょっとすると、アプリを削除した瞬間に、ぼくは神話生物の餌になることが確定したのかもしれない。

 笑い出したい心境だった。

 子供たちがまだ誰かにお礼を言っている。


「お兄さん、ありがとう!」

「どういたしまして。君たちも彼のことをたくさん可愛がってあげてくれ」


 弓なりに口元を歪め、邪悪さすらにじみ出るその顔は、紛れも無く、友人・乃東のものだった。



       ◇



 あれからどれだけの月日が経ったのだろう。ゲーム的に言えば、あのときのぼくは『消費アイテム・人間』だった。ぼくがプレイしていた頃には無かった代物だ。ぼくが逃げ回っているうちに新しく追加されたのだろう。だがなんとなく、製作者の意図が読める。きっと奉仕種族や独立種族をある程度増やすことができたから、次は魔術師や狂信者、もっと言うと、神格を召喚しようとする賢者を増やそうと思ったのではなかろうか。

 しかし、ぼくを入手した少年は愚かにも、ぼくを単なる消費アイテムとして使用した。実験体として。ただの食料として。アーティファクトの効果をぼくで試したこともある。

 そして今や、ぼくは三十センチ程度の円錐形の筒の中に収まるまでに縮んでしまった。平たく言うと脳缶だ。本来ならば、肉体は安全な場所に保管されるべきなのに、愚かなぼくの所持者は『脳缶』というアイテムを手に入れるや否や、不要と判断した肉体を犬の餌にしてくれた。

 その前には蛇人間の実験を受け、遺伝子から組み変わっていたというのに、まったくもって度し難い。一度試しただけで満足し、成果が出る前に放り投げる愚者の極みのような人間だった。

 許せない。許さない。ぼくならもっと上手くやれる。ぼくならもっと効率的に進められる。


 ―――ああっ! 神よ! なぜぼくではなく、このような愚物をお選びになったのですか!?


 一体何度問うただろう。一体何度嘆いただろう。自らの意思で何一つ行動できない我が身を何度呪ったことだろうか。このような目に遭わせた神を呪ってしまったことすらある。

 しかし、わかったのだ。これは試練だと! 神がぼくに与え給うた乗り越えるべき試練であると!

 そして機は熟した。所有者は犬の糞にも劣る度し難い愚物であるが、毎日の散策が功を奏し、イスの大いなる種族が発明した精神交換器を発見したのだ。

 原理なんてわからない。イス人の考え方など理解できようもない。しかし、これはゲームなのだ。アイテムを選択し、『使用しますか?』の問い掛けに『はい』と答えれば、必ず成功する。

 そしてこれまでの経験から、この考えなしの愚物はとりあえずぼくで試すことにするのだ。

 小さな窓の向こうで少年が笑う。新しく手に入れたアイテムの効果を確かめるのだと笑っている。精神交換器を選択した。そしてぼくを選択する。次いで、蛇人間を選んだ。

 精神が、入れ替わる。

 ぼくの精神は三十センチ足らずの円錐形の筒の中ではなく、ひとりの蛇人間の中に収まっている。手を開閉する。尾を振るう。肉を感じる。ただそれだけで滂沱の涙が流れ出た。

 感激だ。今まで生きてきた中でこれ程までに感動に突き動かされたことがあったであろうか。素晴らしい。今すぐ貴様にもこの感動を分け与えてやろう。

 このぼくが、精神交換器に触れ、確固たる意志を持って使用することを選択する。機械は起動した。入れ替える対象はぼくと愚物。小さな窓の向こうでは、勝手に表示されるポップアップによって目を白黒させている愚物がある。

『はい』を選んだ。

 景色が切り替わる。風を感じる。衣服が擦れる音がする。光が眩しい。胸の内で脈打つ鼓動が、ぼくを熱く滾らせる。

 そしてぼくは取り戻したのだ! 奪われた現実での肉体を! ぼくは現実世界へ帰還したのだ!


「くはっ! く、く、あはははははははははっ!」


 すぐさま精神交換器を捨てる。最早使い道の無くなった脳缶は食屍鬼の餌として使ってやった。


「おおっ、おおっ! 神よ! ぼくは、試練を乗り越えた! 見ていてください我が主よ! 必ずやこの愚かな世界に、貴方様の威光を焼き付けてご覧に入れましょう!」


 きゃらきゃらと子供の笑い声が響いた。同じ声の裏側でくぐもった声が響いた。甲高く、人語とは思えない響きを伴い、聞く者の胸をざわつかせ、聞いているだけで狂おしいほどの苦しみを与える声だ。笑い声はどこまでも広がり、さながら終末のラッパのようであった。


 ―――ああ、忘れるな。悪意は、どこにでも潜んでいるのだ―――



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