第3話

 俺は高校時代のほとんどを出来損ないのまま過ごした。あのころ、俺だけじゃなくて誰もが、学校にはあまり行かずに遊んでばかりいた。そういう時代だったのだ。あるいはそういう高校だったのだ。自分が中学生のときはわりに真面目な学生だったと自負できるのだが、その事実はあの高校に入学してすぐに忘れ去られた。栄光は架空のものとなってどこかに旅立ってしまった。俺一人だけがせっせと勉強したり部活をやったりしても空回りになるだけだっただろうから、その道を歩んで正解だったのかもしれない。


 あのころのことを思いだすといつも胸が痛くなる。どうしてあれほど元気に(そして馬鹿みたいに)はしゃぎまわることができたのか、自分でも信じられないくらいだ。どこかのバンドの真似をして、髪を長く伸ばし、季節によって緑に染めたり金に染めたりした。丈の長い黒いジャケットが普段着で、いつも四、五人の仲間たちと街を闊歩していた。多くの人々はそんな俺たちを見て、絶対に関わりたくないという顔をして道を譲ってくれた。俺たち専用の通路ができあがっていくみたいで快い気持ちになったものだ。けれど、今になって思うのだが、人の目につくような醜い人間というのは、そのときはよく注目され、見た人に強い印象を残すのだが、一、二時間も経てば、きれいに記憶から消えてしまうものなのだ。その場の衝撃は強いのだが、たとえば古典小説を読んでその内容が一ヵ月たっても忘れられないように、俺たちのことがいつまでも記憶に残るわけではない。俺たちは注目されたがっていた。だがその方法を、完全に取り間違えてしまっていたというわけだ。恥ずかしい話である。


 朝起きたときの気分によって、学校には行ったり行かなかったりした。だいたいにおいて、起きたときには十時ごろになっていて、学校に着く頃にはもう昼前になっていたのだが、日によっては真面目に授業に参加しようかという気になる。そんな気分のときは、午後の授業から熱心に授業に出て、ノートをとった。中学時代の自分がふと舞い戻ってくる日というのが、ごくたまにあったのだ。途中で嫌になれば、すぐさま学校を抜けだして街に遊びに行っていたのだが。


 見たところ、俺のように真面目さと不真面目さを同時に取り入れている人間はいないようだった。学校にきちんと来ている人間は少なからずいた。この学校は不良ばかりではあったが、中には眼鏡を掛けて、肌が白く、毎日ノートをしっかりとる真面目な生徒もいた。彼らはどうやら、勉強はするが、どこか知能が足りずに、こんなところに入学してしまったのだそうだ。俺は彼らのことをよく観察していたのだが、非常に肩身の狭い思いをしているようだった。そのおかげで、同じような地位に属する人たちとの間の結束力は強かったように思う。彼ら真面目系学生は決して一人では行動せず、団体行動を心がけていた。そして時間の空くたびに、一緒になって固まり、何やら理解のできない言語でひそひそとささやきあっていた。不良の誰かがそこに近づいていくと、彼らはすぐに話すのをやめて教科書を睨んだ。俺はその光景を見るたびに、どうしてあいつらは他の高校を選ばなかったのだろうかと首をひねっていたものだ。真面目たちは気がついたら、いなくなっていた。それは彼らが三年間の高校生活を終えて卒業をしたからであり、「俺たち」は単位が足りずに留年していたからだった。彼らのうちの一人と俺は仲が良かったので、その後の様子をあとになって知った。彼らは高校時代を悲惨な状況の中で過ごしたので、精神が鍛え上げられ、いろいろな方面で成功したそうである。その話を聞いて以来、俺とその真面目は連絡を一切取っていない。


 俺は何もかもがどうでもよくなっていた。一年の頃は八割ほどの授業に出ていたのだが、学年が進むごとに出席数はどんどん減っていった。ついには一週間に二、三時間ほどの授業にしか出なくなっていた。それでは卒業などできるわけもない。俺は卒業をしたいとは思っていたのだが、その思考とは裏腹にどうしても授業に出ることができなかった。真面目でもあり不真面目でもあるということは、真面目でもなければ不真面目でもないということだ。俺はどちらの集団からも何となく孤立していた。細々とした付き合いはあったものの、がっつりのめり込むというほどのことでもなかった。おかげで、真面目たちと勉強しながら卒業することもできず、不良たちと毎日のように遊びに行くこともできず、自分でも何をやっているのかわからない生活を送りつづけていた。その時期で唯一の良かったことといえば、毎日十時間ほどぐっすり眠れたことだった。


 そのときに俺はあの先生と出会った。


 先生はこの学校ではあまり見ることの少ない女性の教員だった。年齢は二十代後半から三十代前半といったあたりだ。髪は肩のところで切られており、茶色に染められている。思うにその髪は、以前はもっと伸ばされていたはずだ。ある時期に唐突にカットしてもらったのだろう。細身の体で、立っているときの姿勢が良かった。覗く脚まわりは、意識しなくても自然とそちらに目が向いてしまうものだった。何かを話したりするとき、いつも手を前で組む癖があった。そして、話す際は声を必要以上に張り上げたりはせず、教室の後ろまでかろうじて聞こえるような音量でしゃべっていた。その声は明朗で、非常に聞き取りやすかった。担当教科は数学ということらしい。


 俺は彼女を初めて見たとき、おやと思った。外見ももちろん俺の気を惹いたのだが、それだけでなく、隠された資質がまだ彼女の中に備わっているように思えてならなかった。


 心の中のもやもやを解消するために、俺は彼女の授業だけはよく出席するようになった。女の先生だということで、他の生徒の出席率も悪くはなかったようである。不良たちは頻繁に教室に顔を見せていた。彼らは初めのうち、わざと騒ぎ立てたり、彼女を挑発したり、ひどいときは席を立ちあがって彼女の体に触ろうとしていたが、それらは次第になくなっていった。彼女がどんなことをされても毅然とした態度を崩さなかったからだ。威圧的な態度は絶対にとらなかったのだが、不思議と彼女の前に来ると、彼女の授業の邪魔をすることはとんでもない悪なのではないかという意識が生まれてくる。あたかも神社でいたずらする気になれないように。それからというもの、だんだんと教室の様子が変わっていった。彼女の授業に出てくる生徒は増え、しかも真剣に授業に参加する者ばかりになった。彼女は俺たちに対して何の注意もしないにもかかわらず、瞬く間に俺たちを支配してしまったのだ。しかも俺たちに、支配されているという感情すら忘れさせたまま。


 彼女は俺のクラスの担任というわけではなかったが、実質的には担任みたいなものだった。彼女が来てから不良たちは気持ち悪いくらい優しくなった。体につけられた不気味な装飾品などは外され、心もだんだん通常の人間のものに戻っていった。もちろん中には彼女のことをひどく嫌っている生徒もいた。しかし彼らは周りの人間が変化しているのを見て、孤絶感を味わっていたようである。そういう者たちはやがて本当に姿を消すことになった。どこに行ったのかはわからない。たぶん街に行って、危ない商売にでも手を出しているのだろう。


 そんなことにはならず、その女性に支配されてしまった者たちは、彼女に気に入られようと勉強に力を入れた。数学以外の授業にも出るようになり、中間テストや期末テストの平均点は三十点ほど上がった。教室の隅でいつもこっそり生きているような真面目たち(彼らは同期ではなく、一年か二年くらい下の人たちだ)は、もう隠れなくてよくなった。むしろ周りから、自分たちよりも勉強ができるということで尊敬すらされるようになった。真面目たちは毎日のように、優しくなった不良たちに取り囲まれていた。事情を知らない人間がこの光景を見たら、不良たちが弱い生徒から金でもたかっているのだろうかと怪しむだろうが、実態はまるで違う。不良たちが言葉にするのは、脅し文句などではなく、数学の公式や、英単語だった。真面目たちと不良たちの垣根は低くなっていき、たぶん他のクラスもそうなのだろうが、俺のクラスはいつのまにか一つになっていた。出席率は九割を超えていた。


 そこで俺たち不良は、生活態度を一変せざるを得なかった。一時間目から数学の授業が入っていたら大変だからだ。俺は夜の十一時ごろにはもう眠るようにして、明日に備えた。朝は五時か六時に起きて、家族と朝食を食べるようになった。息子の変化を目撃した両親は、文字通り目を丸くしていたものだった。そのときにはもう、普段の俺たちはまともな高校生として映っていたはずだ。髪ももう染めるのをやめて、バッサリと切ってしまった。あの先生が、髪の長い生徒よりも髪の短い生徒をひいきにしていると俺たちの間で専らの噂になったからだ。


 あるとき、個人面談があった。担任と生徒が二人で、今の成績のことだとか今後の進路のことだとかを話し合うやつだ。俺のクラスの担任は、あの女性とは似てもつかないような醜男(ぶおとこ)だったが、面と向かって話してみると意外に話が合い、将来のことを熱心に語ってしまった。人間、本性というのはなかなかわからないものである。


 俺はそのときに、大学に進みたいということを伝えてしまった。実は勉強をしているうちに、もっと専門的な勉強をしてみたいという気持ちが沸き起こってきたのである。不良時代の俺からしたら考えられないことだ。他の友人に聞いてみたところ、大学に進みたいという思いを持った人間はとても少なかった。誰もが真面目になってはいたが、その学力はたかが知れている。みんなそのことを自覚していて、卒業したら働きに出るという望みを持った生徒が大半だった。俺が大学に進みたいと思っていることを知った仲間は、お前みたいなやつが大学に入れるわけないじゃないか、とさんざん馬鹿にされたものだった。醜男も複雑な表情をしていた。精一杯応援はするが、我々の出来ることにも限度があると言われてしまった。俺はその日、夜空を眺めながら哲学者みたいに物思いに耽ったものだった。


 翌日から大学受験に向けた勉強がスタートした。朝の五時に起きて、温かいコーヒーを飲む。学校に行く前に少しでも勉強を進める。学校に着いたら、わりかし頭の良い生徒をつかまえて、わからないところ、もう少し理解を深めたいところを質問する。その頃にはもう、真面目も不良も関係なかったので、話しかけることは容易だった。俺が大学合格を目指しているということで、先生の気合いも見たところ上がったようだった。あとで聞いたことなのだが、先生たちの熱意が高まったのは、あの女性がみんなに呼びかけてくれたからなのだそうだ。彼女は教育に熱心なところがあって、彼が合格するためには我々もさらに頑張らなければならない、授業の質を高め、的確に生徒を指導するべきだ、と主張をしたようだ。彼女の真剣さがみんなに伝わったようで、これまでとはまるで違う、本当の高校生らしい授業が展開されることとなった。それは俺にとっても嬉しいことだった。やはり教える側に熱があると、こちらも俄然やる気が湧いてくるというものだ。先生たちには感謝している。俺はそのおかげで、行きたい大学に無事に合格することができた。


 塾には最後まで行くことがなかった。どうしてかは自分でもよくわからない。単にその選択肢が初めからなかったからなのかもしれない。あるいは、塾に行くよりも高校で学ぶことの方が、個人的に好きだったのかもしれない。塾というと、どうしても固いイメージがあった。真面目ばかりが揃っていて、彼らの頭にあるのはXやYの記号だとか、文章読解のコツだとか、日本史の年代ばかりだと勝手に思っていた。俺はそんな中に飛びこみたくなかったのだ。どちらかというと、俺はみんなとわいわい勉強するほうが性に合っていた。そこで話したことが記憶に残っていて、わからない問題があったときも、そういえば、あいつらとこんな会話をしたっけ――という感じで、仲間たちとの会話から解答を思いだすことがあった。もし塾で勉強ばかり詰め込まれたらこんなふうには解けなかったはずだ。中には勉強のことだけを頭に入れて成功する人もいるだろう。でも俺はそのタイプではなかった。人それぞれ、スタンスというものが異なっているものだ。


 俺は合格が決まってすぐに高校に向かった。校舎に入って、まっすぐに職員室へと向かった。一番に合格を伝えたかったのは、担任の醜男ではなく、数学を教えてくれたあの女性だった。彼女がいなかったらどうなっていたかわからない。彼女がみんなに声をかけてくれたおかげで俺は成長できたのだ。それだけでなく、学校全体の雰囲気も変えてくれた。俺が大学受験を志したのも、彼女がいてこそだ。今すぐにお礼を言いたかった。職員室に飛びこんで、彼女の名前を呼んだ。辺りを見回して、その姿を懸命に探した。


 先生はそこにはいなかった。どうやら別の教室にいるらしい。俺はそこへと走って向かった。階段を駆けのぼり、左から二つ目の教室に入る。扉を横に引いて、中の様子を確認する。


 その瞬間、俺は思わず顔をそむけてしまった。その教室から射しこんでくる夕陽があまりにまぶしかったからだ。目が慣れてきたところで教室を見渡す。すると、例の女性教員が、教室の隅に立っていた。明らかに誰かを待っている様子だった。伏し目がちなその表情は、よく見るとうっすら笑みを浮かべていた。


「合格、おめでとう」と彼女は俺を見るなり言った。俺はびっくりしてしまった。合格したかどうか、まだ俺は何も言っていないのに。先生の近くまで歩いて、無言のまま立ち尽くしていると、彼女は優しく俺の肩に手を置いた。


「あなたの顔を見れば、合格したかどうかなんてわかるわ。あなたは思っていることが表情に表れやすいから」


「合格……したんですよ。本当に」と俺は言った。彼女の前に来たときから、俺は何を話していいやらわからなくなってしまっていた。


 俺がどぎまぎしているのを、先生はくすくす笑いながら見守っていた。先生は肩から手を離して、ゆっくりと歩きだした。


「あなたのそういう様子を見るのは新鮮だわ。急にしおらしい学生に戻ったみたい」


「中学の頃の俺はこんな感じでしたよ」と俺は言った。そのとき、俺はなぜか意地になっていたみたいだった。「高校に上がって、不良の真似ごとをする前は、あんまり目立たない男だったんです。信じられないかもしれないけど」


「ううん、信じるわ」と先生は言った。「人はきっかけがあればさまざまに変化をしてしまうものだもの。良い方向にも、悪い方向にも……」


 先生の声はだんだん小さくなっていた。最後にはほとんど聞こえないくらいになっていた。俺はそれに対して、感じたことをそのまま伝えた。


「予想ですけど、先生こそ、昔は今みたいな人じゃなかったんじゃないんですか?」


「そうね」とだけ彼女は答えた。その声色からは今までにないくらいの寂しさが感じられた。彼女は何かに迷っているらしかった。教壇の端から端を何度も行ったり来たりしていた。俺はその様子をただじっと見守っていた。


 やがて先生は何かを決意したようだった。突然こちらを向いて、はじけたような明るい表情になった。


「やっぱりやめたわ」


 俺は何が何やらわからなかった。一瞬、頭の中が真っ白になったくらいだ。「いったい何をやめたんですか」と俺はかろうじて声を絞り出した。どうしてこんなにこちらが緊張しているのかまるで理解できなかった。


 先生は今までの緊張が一挙にほぐれたようなゆるやかな顔つきになっていた。


「うん。本当はね、あなたに昔話でもしようかと思ったんだけれど、話すのはやめにしたわ。何だか急に恥ずかしくなっちゃって。それに、めでたいこのときに話すような内容でもないしね」

「そう言われると、すごく気になるんですけど」

「機会があれば、話すかもしれない。でも、きっと話さないんだろうなあ」


 先生にいいように振り回されているようで、俺は少し苛立ちを覚えた。しかし、先生が嬉しそうだったので、それは態度や口には出さなかった。


「私はここに来て、生徒たちから教えられることがたくさんあったわ」と先生は話しだした。「とくにあなたにはね。人は望めば、いくらだって変われるんだということ。自分をいい方向に持っていくことができるのだということ。成長していくあなたたちを見て、私はまるで自分のことみたいに嬉しくなった。先生になって、こんなに生徒に肩入れしたのは初めてのことだったのよ?」


「ありがとうございます。先生がいたから大学に合格したようなものですよ」


「ふふ。そう言ってもらえて、幸せだわ」と先生は微かだが、しかし力のこもった声で言った。


 俺たちは教室を出た。階段を下りて一階へ向かう。その間は一言も話さなかったが、まったく窮屈に感じなかった。職員室に辿り着くと、そこで俺たちは別れることになった。これでもう彼女のお世話になることがないと思うと、さみしい気持ちだった。俺はこれまでほとんど泣いたことがなかったのだが、このときばかりはつい涙を流しそうになった。それは先生も同じのようだった。


「やりたいことをやりなさい。でも、あまりに羽目を外しては駄目」と先生は最後に言った。「人は一度の失敗でどうしようもなくなってしまうことがある。私もそういう経験があるから、どれほどの後悔が後に残るかは身にしみてわかるの。私は今でも、どうしてあのときにあんな失敗をしてしまったのかを悔やんでいる。もっといい方法があったんじゃないかってずっと考えている。でも、それはもう過去に起きてしまったことだから、どうしようもないのよ。忘れようとしても忘れられない。私は本当はとても臆病な人間なのよ。あなたにはそうなってほしくない。後悔に引っ張られずに、力の限り生きてほしい。もしもあのまま自分を変えられずに、不良を演じてばかりだったなら、おそらく一生思い悩んでいたでしょう。そんな未来を食い止めることができて、私は誇りに思う。あなた自身も、自分を誇りに思っていいんだからね」


「先生には教えられたことがたくさんありました」


「大学でも頑張ってね」と先生はにこやかに手を振って、職員室に入っていた。


 大学に入って数年が経った頃、俺は母校を訪れた。本当はもっと早くに訪れたかったのだが、どうしてもその勇気が出なかったのだ。久しぶりに高校時代の仲間たちと会って、良い機会だから俺たちの学んだ場所に行ってみようかということになった。彼らは全員、みちがえるほど表情がたくましくなっていた。きっと社会の波にもまれて、知らず知らずのうちに鍛え上げられたからだろう。まだ正式に働いたことのない俺としては、少し羨ましい気持ちだった。


 高校には知っている先生が何人もいたけれど、知らない先生もたくさんいた。この数年でずいぶんと教員が入れ替わったようだった。俺たちは、あの女性の教員がどこにいるのかを訊いてみた。職員室内をあちこち見回してもみた。しかし、彼女の姿はどこにもなかった。話によれば、別の学校に移動してしまったらしいのだ。俺はびっくりした。どうしてそんなに早く、この学校を去ってしまったのだろうか? ここに来てからまだ全然経っていないじゃないか……。仲間たちも残念そうだった。俺たちは妙に気持ちが落ち込んでしまい、失意のままに高校をあとにした。


 先生の行方はわからずじまいだ。この文章を書いている今でも、彼女がどこにいるのか見当もついていない。記憶はまだはっきりしているけれども、それもいつまで続くかわからない。彼女のことを忘れることが、俺にとっての一番の恐怖だった。


 先生が話そうとしていた昔話も、結局聞くことができないでいる。先生は機会があれば話すと言っていた。その機会はいつ、訪れるのだろうか。一年後か、それとも十年後か。あるいは一生、そんな機会が来ない可能性すらある。そうならないことを願ってはいるけれど、きっとそうなるのだろうなとおぼろげながら想像している。いろいろと経験を積んできたおかげで、俺はあきらめることを知ってしまった。昔の俺ならば絶対に会えると断言していたのだろうが、今は無理になってしまった。悲しいことだけれど、それが年を取るということなのだ。


 最近になってふと思うことがある。俺が思っている以上に、先生に影響を受けた人間が多いのではないかということだ。先生はあちこちに自分の面影を残して、それを追うことを俺たちに宿命づける。彼らはみな、俺と同じように彼女のことをいつまでも想いつづけてしまう。そのことを思うと、彼女が憎らしくなってくるのだった。決して一つの場所にとどまらず、あちこち飛びまわって色々なところに火をつけていくのだ。なかなかに罪深い人間だと思う。たとえ火が消えてしまっても、黒い焦げ跡となって一生涯残ることになるのだから。


 俺は焦げ跡が気になって仕方がない。だからきっと、あきらめつつも死ぬまで先生の面影を辿ることになるのだろうなと確信していた。これも運命なのだと割り切るしかないようだ。

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