第2話

 どうしていつも走っているのかと聞かれたとき、機械人形のように繰り返す文句がある。それは私が中学生だったときに出会った女の子のことだ。彼女と私は一つ違いで、彼女が先輩だった。名前は今でもはっきりと記憶している。他の子のことは、蜃気楼のようにぼやけてしまったというのに。


 私たちは初めて会ったときからどこかしら通じ合うところがあった。中学生になり、小学校から続けていた陸上部に入部すべく、部活見学に四月の上旬に行った。そこで彼女とは初めて顔を合わせたことになる。


 彼女はときたま、見学に来ていた後輩の方に目を向けていたが、その目は私しか見ていないように思えた。私の他にも何人かがひとところに集まって部活風景を眺めていたのだが、彼女は私以外の誰にも眼中にないように感じたのだ。後にそれが真実だということもわかった。「何だかあなたは私の目を引いたの」と彼女は言っていた。具体的にどう目を引いたのかははっきりしなかったが、そのときはとてもうれしかった。なぜなら、私も彼女以外の誰も見ていなかったから。


 入部届はすぐに出した。本格的に練習に参加する前日は、胸の高鳴りが抑えられなかった。小学生のころとは明らかに違う練習風景を見ていたからではない。私のことをずっと見ていた女の子の運動する姿が、あまりに美しかったからだ。それはいわば、チーターが優雅に軽やかに獲物を追っている姿と似ている。見惚れるほどの完璧な動きだったのだ。どこにも隙がなく、まるで空中を走っているような滑らかさだった。そのときにはもう、私の脳内には彼女の動作の一つひとつがインプットされていた。彼女の体のいろんな部分を鮮明に思いだすことができた。そして、恥ずかしい話なのだが、そのような想像をしているとき、私は好きな男の子のことを考えているときと同じような興奮を覚えていたのだった。


 翌日、ついに顔合わせがやって来た。とはいっても対したことはなく、単に軽く挨拶をするだけだ。それだけを済ますとすぐさま練習に入ってしまう。私と彼女の挨拶もそのような感じだった。「よろしくね」「よろしくお願いします」くらいの調子だ。あとはフィールドの上で語ろうかということなのかもしれない。実際、その日の練習は、見学していたときよりも一層激しかったように感じた。私を含め新入部員は、それこそ死にもの狂いで先輩たちについていった思い出がある。


 練習は毎日が地獄のようだったが、数ヵ月もするとそのつらさにも慣れてきた。体もちゃんとついてくるようになった。精神もいくらか苦痛に耐えられるようになったようだった。どれだけ足が動かなくなろうと、精神力で乗り切ることのできる場面が多くなった。それは私としても誇りだった。あまり積極的ではない性格の私がだんだん強い人間になっていく過程は、見ていて面白くもあった。私はこれまで両親にべったりだった生活を改めた。友人と過ごす機会をできるだけ多く持ち、親からなるべく離れようと努力した。それは反抗期と、自分への自信が重なり合った結果だった。おかげで中学生時代は親と話したという思い出がほとんどない。ボソボソとは話したのだろうが、何を話したのかについてはさっぱりだ。残っているのは友人とのどうでもいいような会話だけ。小学生の頃とは大違いだ。今の私から見て、その頃の自分はまさしく輝いていた。けど少し一方的な輝きだった。


 夏休み前に、私は代表に選ばれた。一年生が選手となるのはほとんどないことだ。この中学校は陸上が盛んで、部員も五、六十人ほどいた。二、三年生は運動の得意な子ばっかりだ。それをかいくぐって私は選ばれた。当然、みんなから以前より注目される。


 私はよく他人から弱い印象を持たれる。その発生源が果たして顔のつくりにあるのか、それとも全体の雰囲気にあるのか、それははっきりしない。きっとそれらを全部ひっくるめて、弱々しい印象となっていたのだと思う。小学生のころはよくそのことでからかわれたものだ。けどあのころはまだ可愛かった。私もまだ笑って許せるレベルだった。


 中学生のそれはまったく異なっていた。私が選手入りしてから、周りの様子が何となく変わった気がした。それまで親しくしていた何人かの女の子は、まだ良好な関係を保っていた。けどそれも、どうもぎこちないものになっていた。先輩たちからはよく睨まれるようになった。その目つきは、どうしてあんなひよっこが選ばれて、私が選ばれないの? と訴えかけてくるようだった。そんなもの私にだってわからない。先生が選んだのだから仕方のないことなのだ。どうして私がこんなに妬まれなければならないの? 当時の私は、所属する部の様子がどんどん変わってくるのを目の当たりにしながら、そう呑気な態度で構えていた。選手に選ばれるには、当然、他の人よりも良いタイムを残していることが条件になっている。私が選ばれたということは、私のタイムが先輩たちよりも良かったという、ただそれだけのことだ。それをどうして、先輩たちはぐちぐち文句を言うのだろう? 私は社会というものを知らなかった。甘かったのだ。


 私はだんだん陸上部に居づらくなった。具体的に何かをされたというわけではない。ただ、何となく、自分はここに居てはいけないという意識が芽生えてきたのだ。先輩たちに話しかけることはもうなくなってしまった。これまで一緒だった友達は別の人たちと仲良くするようになった。彼女たちはどちらかと言えば、運動目当てではなかったようだ。暇を見つけては、格好の良い陸上部の男の子を眺め、ひそひそと話に花を咲かせていたのだった。それを見た私自身、失望した部分もある。私の方から離れていったということもある。けどそれ以上に、私はこの陸上部という居場所が、日ごとに私から遠ざかっていくような気がしてならなかった。そうしてあるとき、私は部の練習に来なくなった。学校にはきちんと通っていたが、ますます内気になっていった。勉強の成績もがくんと落ちた。部に行かなくなってから、学校への熱意のようなものがふっと消えてしまったようだった。


 そんなとき、救ってくれたのがあの一つ年上の女の子だった。彼女だけは私の走りを認めてくれた。彼女のおかげで私はどうにか立ち直ることができたのだ。学校生活について相談するために、彼女の家にたびたび行くようになった。そこで交わされた会話、部屋の匂いなどは今でも鮮明に覚えている。


 ある日、私たちはちょっと「普通でないこと」をした。あるいは彼女は元々、それが目的だったのかもしれない。いわば自分の満足のために。でも、当時の私はそのようには思わなかった。彼女は私を慰めるためにあえてそのようにしてくれているんだと、思春期にありがちな自分を中心に据えた考えでいた。だから、「普通でないこと」をしている最中も、何も心配することなんてないと確信していた。


 わりに暑い日だった。私は彼女の部屋に入って、冷たいココアを飲んだ。部屋は二階で、彼女が一階まで下りて、二人分のココアを持ってきたのだ。それを黙って飲んでいるうちに、私はだんだん変な気持ちになってきた。何だか周りの世界が、妙にふんわりとしてきたような、まるでホイップクリームみたいにすべてが柔らかくなってしまったような、そんな気持ちだ。何度も彼女の家を訪れてきたが、このような感覚になったのは初めてだった。それは彼女も同じのようだった。私たちはごく自然な流れで、互いに寄り添い、長らく黙っていた。


 不意に彼女が立ちあがったので、私も立った。そして、彼女はゆっくりと私の服を脱がせ始めた。私は一切抵抗しなかった。今、何が起こっているのかがうまく理解できなかったのだ。何もかもを取り払われてしまってから、私は妙に恥ずかしい気持ちに襲われた。彼女にそのことを伝えると、「ベッドに入りなさい」と言われた。それで私は混乱したまま、裸の状態でベッドに入って毛布をかぶった。


 そうしたら一段と変な気持ちが強まった。体の外も中もむずむずするような感覚だった。やがて、彼女もベッドに入ってきた。彼女もいつのまにか裸になっていた。私たち二人は、狭く感じるベッドの上で抱き合いながらそのまま眠ってしまった。自分がそのとき何を言ったのか、それは神のみぞ知ることだ。そして、それらに対して彼女がどう答えてくれたのか、それもまた闇の奥に消えてしまった。さらに、果たして私たちは受け答えだけで満足していたのか、それ以上の行為に及んでいたのではないか、という懸念もあるが、それもまたわからない。何が行なわれていたのかを彼女に質問するには、私はあまりにも臆病だったのだ。


 翌日、私は一人で目を覚ました。起きた瞬間に思ったことは、昨日起きたことはすべて夢なのではないかということだった。なぜなら、私はきちんと服を着ていたからだ。それで私はこう思いこんだ。なるほど、彼女と二人して眠ったということは嘘で、裸になって身を寄せ合ったというのもすべて私の妄想だったのか、と。でも、よくよく思い返してみると、彼女の肌の触り心地だとか、絡めあった腿の感触だとかが私の中に生々しく残っていた。私はとにかく、彼女を探さなければと思った。彼女はどこにいるのだろうかと部屋をきょろきょろした。


 でも、彼女はどこにもいなかった。ただ、机の上に、一枚のメモが置かれていた。そこには短く、こう書いてあった。



 ありがとう

 そしてごめんなさい



 彼女が自分自身の満足のために私を部屋に招いたのではないかと疑う理由はこの文章にある。本当はこちらが感謝すべきなのに、彼女の方から感謝をしているのだ。当時はまったくわけがわからなかった。私はその紙切れを大事に折りたたんでポケットにしまった。そして虚ろな状態で一階へと下りていった。家には誰もいないようだった。どうして誰もいないのだろう? 父親や母親はどこにいったのだろうか? 私の頭には疑問ばかりが浮かんできた。納得のいかないまま、私は彼女の家をあとにした。帰宅して、昨日はどうしたのと両親にこっぴどく叱られたが、友達の家に泊まらせてもらっていたのと言ってどうにかやり過ごした。二人きりで裸でいたときの思い出は、誰にも言わないとそのときに誓った。


 それ以来、何もかもがうまくいくようになった。先輩たちはようやく私の走りを認めてくれたようで、親しく話すようになった。トレーニングの方法だとか、毎日の体のケアだとかの情報を交換するようになった。次第に離れていた友人も戻ってきた。彼女たちは相変わらず男の子の走る姿を見てキャーキャー言っていたが、練習にも熱を入れてくれるようになった。


 あの一つ年上の女の子とも、部活の終わりに話すことはあった。でも、そのときに交わされた会話はどこかぎこちないものだった。何だか不自然な態度をとってしまい、会話を長く続けられなかった。当然、彼女の家で過ごしたときのことが話題にのぼることはなかった。


 たぶん、そうなってしまったのは、あのとき過ごした時間があまりに濃密だったからだと思う。一生分の会話がそこで交わされ、私たちは空っぽになってしまったのだ。もう私たちを繋いでくれるものは何もない。考えうるすべてのものが、あの時間に処理されてしまった。おかげで何も話すことがなくなってしまった。


 あるいは全部が私の妄想だったのかもしれない。目が覚めたとき、服を着ていたのだから。私はあれが本当に起きたことだと信じたい。彼女と親密に語りあったからこそ、今の私がいるのだ。私が立ち直るきっかけを与えてくれたあの時間を、私は嘘だと思いたくない。


 彼女と再会したい。でも同時に、もう二度と会いたくないという思いもある。それはきっと、思い出は思い出のままで、あのときのみずみずしい状態のままで保存しておきたいからだろう。人はどう変わるかわかったものではない。成人式の日に、まるで別人になって再会を果たした友人の例を私は知っている。そういうことがあの人にも起こるかもしれない。そんなとき、私は正常な状態ではなくなってしまう。思い出を汚すことのないよう、私はどこかで彼女に会おうとするのを避けている。


 しかし、そう思いつつも、私はどうしても彼女の捜索を止めることができない。暇さえできれば、中学時代の陸上部の先輩に電話をかけて、今彼女がどこにいるのかを訊いてしまう。彼女が見つかるまで、それは続けられるだろう。私にはそれがわかる。

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