面影を追う

水野 洸也

第1話

 僕は走る。どこまで行けるかを知るためだ。今、僕の視界には、杉の木みたいにまっすぐな道が遠くまで伸びている。最果てはかすんで見えないくらいだ。ここは絶好のランニング・ポイントとして、多くの人に利用されている。僕も大学が休みの日は、頻繁にここを使っていた。


 走っていくうちに何人ものベテランランナーが僕を追い越していった。彼らは皆サングラスをかけている。手にはストップウォッチらしきものが握られている。誰もが口を半開きにして、ただ前だけを見つめている(サングラスの奥で果たして本当に前だけを見つめているのかどうかはわからないが)。そしてフォームが美しい。体型は人それぞれだけれども、走り方についてはほとんど変わりない。よく見ると一人ひとりに走るときの癖のようなものが垣間見えるときがあるが、それはよほど注視していないと見逃してしまうほどの違いにすぎない。何となく眺めていれば、彼らは皆同じ腹の中から生まれた兄弟だと錯覚してしまいそうになる。現実にそんなことはありえないから、この想定はたやすく捨てることができるのだが。


 僕は彼らのペースに必死に食らいつこうとする。だが、彼らの走力は初心者ランナーである僕とは段違いで、すいすい前に行ってしまう。呼吸は穏やかだ。対して僕は、慣れていないスピードに四苦八苦して、つい息を荒くしてしまう。走りだして間もないというのに、僕の脚はすでにじんじんと痛み出していた。


 こんなとき、彼女がいてくれたらと思う。彼女は数か月前に僕のもとを去っていったが、一緒に過ごしていたときはとても幸せなひとときを得ることができた。僕がこうしてランニングを始めたのも彼女の影響だ。彼女は僕より一つ年下で、違う大学に通っていた。中学、高校とずっと陸上をやっており、大学でもその手のサークルに入っているという。そのため、走ることについては強いこだわりがあった。彼女はなぜか、そういった陸上に関することをずっと僕に教えてくれなかったのだが、ついに打ち明けてくれたあとは前よりももっと仲良くなることができた。彼女も今まで言えなかった秘密を語ることができて満足のようだった。だが、どうしてそのことを秘密にしていたのかについては絶対に教えてくれなかった。特に隠すようなことでもないのに、どうしてだろう? 僕は数ヵ月ずっと悩んでいたのだが、未だにその答えか、答えに近いものを導き出すことができないでいた。


 僕は彼女のことについて考えるのをやめて、走ることに集中することにした。走るとき、人は現実でない別の領域に足を踏み入れることになる。そこはまさしく無我の境地だ。さまざまな可能性に満ちた、観念的な世界。そこで何が見えるのかは人それぞれだが、地平の果てまでずっと大地が続いているという点では一致している。どこまで広がっているのかはわからない。人によってその広さは異なるが、自分がこれほどだろうと予想をするよりさらに広いことに間違いはない。広さは十代の頃にぐんと伸び、二十代以降はしぼんでいく。だがトレーニングを重ねれば、その領域をさらに広げることもできる。彼女はよく、走ることについて僕に得々と説明をしているときによくこの話をしてくれた。僕は当初、どういう意味なのかがあまりはっきりしなかったのだが、実際に走ってみてようやく実感することができた。確かに走っているとき、自分は別の場所にいるのだという感覚があったのだ。


 僕はその場所が大のお気に入りだった。そこに行くために走っているようなものだった。そこを訪ねるたびに、新たな発見がある。さらに進んでいけばもっと新しいものが見つかるに違いない。だから僕は毎日走っている。そこにあるすべてのものを目撃するために。


 他の運動ではちょっとそういうわけにはいかない。走るという単純だが奥深い運動だからこそそこに行くことができるのだ。僕はあまりスポーツをやらないのだが、何となくそういう気がしていた。学生時代はみんながよくするように、サッカーをしたりバスケットボールをやったりしていたけれど、ランニングをしたときと同じ感覚に陥った経験は、思いだせる限りではなかったのだ。しかし、体育の授業でマラソンをやっていたときのことを思いだしたとき、僕は今走っているときに感じていたことを、その思い出の中にふと見出すことがある。そういえば、僕はランニングをしていたとき、微かながら別の場所に属していたかもしれないという記憶が残っている。それは夏の夜に浮かぶ蛍の光のように弱々しい印象ではあったが、頭のどこかしらに辛抱強く生き延びていたようだった。だから彼女の言っていたことは理解できた。


 僕はこのランニングコースを走っているとき、もしかしたら彼女を見かけることがあるかもしれないという淡い期待をいつも抱いている。もちろんそんな偶然はないのだが(彼女は僕と別れたあと、九州へ旅立ってしまい、そのあとの行方はわからない)、でもあるいはそういうこともあるかもしれないと、いつも神経質に道往く人々の顔をチェックしていた。中には何度も顔を見られたせいで、僕のことを嫌いになった人もいるみたいだ。そういう人は僕の横を通り過ぎるときに魔王のような顔を見せて去っていく。彼らには悪いことをしていると思う。でも、僕には僕の都合があるのだ。誰もそれを邪魔することはできない。


 というわけで、僕が彼女のことをあきらめきれていないことは自明だった。それは主に、胸に残っている疑問を解決するためだった。どうして彼女は、自分が陸上をやっていたことを秘密にしていたのか? それを聞かないことには彼女を忘れることなんてできない。彼女が僕のどこに愛想を尽かせて離れたのかはだいたい予想がつくけれど、陸上の秘密はどうしたって予想がつかないのだ。直接問いただしてみないと一生胸に残るに違いない。


 携帯には彼女の番号が今でも登録されている。しかし、それが使われることはもうなかった。彼女は僕がどれだけ連絡を入れても、決して出てはくれなかったからだ。別れてから何度も電話をかけた。しかし、彼女はいつも、何度目かの呼出音のあとにプツリと切ってしまうのだった。だからそもそも、携帯で陸上の秘密を訊くことはできなかった。面と向かって訊いてみないと駄目なのだ。


 最初の頃はよく、二人で公園を散歩していた。にぎやかなところに行って騒ぐよりも、静かな場所で落ち着いて話す方がどちらも好きだったからだ。そのときはたくさんの話をした。けれども、陸上の話は一度も顔を出さなかった。


「高校時代、君はどういった女の子だったの?」と僕は訊いたことがある。彼女は少し迷ったような表情のあとでこう言った。


「別に、普通の女の子だったよ。何の変哲もない、何の特徴もない、人ごみに入れば全然目立たなくなっちゃう、ファッションのこととかアイドルグループのことしか考えていないような――女の子」


 後にその話は嘘だということがわかった(彼女はファッションやアイドルグループについて最低限の知識すら持ち合わせていなかった)。そのときに彼女は、自分が陸上をやっていることを打ち明けたのだった。彼女は謝っていたが、それで罪悪感のようなものが彼女に芽生えた形跡は、見る限りまるでなかった。むしろ嘘をつくことが当然という雰囲気すら漂わせていたのだった。


 彼女を思いだしているうちに、自然と走るペースを緩めていたようだ。僕の呼吸は正常に戻りつつあった。脚の調子も、明らかに良くなっている。僕はあらためて周りを見渡した。彼女は果たしてここを走っているのだろうか? あるいは、僕の知らない別の場所でランニングを続けているのだろうか? 僕には想像をめぐらすことしかできない。しかしなぜか、彼女が今もなお走りつづけているであろうことは無意識のうちにわかっていた。僕と彼女の、走っているときに所属している世界が、どこかの地点で緩く繋がっているのが感覚的に伝わってくるからだった。


 この繋がりが消えてしまったとき、僕は走るのをやめてしまうかもしれない。それと同時に、彼女についての記憶もなくなってしまっているかもしれない。だが少なくとも、今はそのようなことにはならないだろう。消えてしまう前に、何としても彼女を探し出してみせる。ほとんど見つかる可能性はないだろうけれど、それでもあきらめたくはなかった。

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