海は深く

鳥辺野九

深海より


 サーチライトに照らされたマリンスノーはまるで自らが柔らかく発光しているようで、ゆらりゆらりと真っ暗闇の中を穏やかに沈んでいたが、不意に風に煽られるように大きく揺れて闇の向こう側へと消えていった。


 光の束が暗闇を引き裂いて静寂の海底に舞い降りる。有線潜水艇『ゆめなまこ』はサーチライトをさながら触角のように宙をさまよわせ、合成筋肉繊維の脚を広げてふわりと着底した。


「共感覚ってあるだろ?」


 アクリル越しにもうもうと沸き立つ泥煙を見ながら、潜水艇操縦士の水上七波みなかみななみは狭い艇内の隣に座る浮島洋孝うきしまひろたかの軽口の相手をしていた。


「ああ、うん、あるね」


 金色に染めてショートにまとめ上げた髪をかきあげてぶっきらぼうに答える七波。それを聞いて洋孝は大袈裟に驚いて見せた。


「あるねって、おいおい、それだけかよ」


「あるねって、それが何よ」


 七波は苛立たしげに言ってやった。少し動けば肩が触れ合うほどに狭い艇内だ。至近距離での洋孝のうざさが今日は特に磨きがかかっている。


「もっと解りやすく説明的な言い方があるだろ?」


「説明的って、誰によ」


「VRの向こうのみんなにだよ」


 洋孝が操縦席のコントロールパネル上部に取り付けたCCDカメラに手を振った。


「ブンブンハローユーチューブ」


「ニコニコだろ」


 カメラに向かっておどける洋孝の後頭部へ舌打ちを一つぶつけてやる七波。


 今日は海底からVR機器を使った擬似潜水体験をネット配信する実験がスケジュールに組まれていた。全世界同時配信のため、配信チャンネルにはすでに三百万を越えるアクセスが殺到し、PVカウンターは今も伸び続けていた。


 硬質アクリルの球体をチタンフレームの可動性外骨格が支えているデザインの有線潜水艇『ゆめなまこ』は、操縦席から360度周囲がすべて見渡せる。筋肉で動く三対の脚を器用に動かして、スクリューやジェットノズルを作動させずに海底を歩くように移動できるので、視界を遮る泥煙を立てず、海底を存分に眺める事ができる機体だ。


 七波はサーチライトに照らされた薄ぼんやりと光る静かな海底が好きだ。まるで地球から遠く離れた別の惑星にいるようで。その惑星は冷たい水と堆積した泥でできていた。どこまでも暗い世界に舞い降りたたった一人の人間。どうしようもなく淋しくて、どうしようもなく胸が躍る。


 ネット生配信でテンションが上がり切ってしまったうざい男が隣にいなければ、どんなに心が洗われる光景を見続けていられたか。


 とても細かな泥の海底は『ゆめなまこ』のサーチライトを白く反射させて、アクリルの球体の中にいる七波の身体をふわりゆらりと浮かばせていた。




「共感覚って言うのは」


 パンクロックな金髪の七波が一言喋るたびに画面に反響があった。彼女の容姿を褒め称える単語が画面を横切る。ネコ科を思わせるつり目でそれを見送り、形のいい眉毛を少し寄せる。悪い気はしないが、良い気もしない。所詮ネットの浮ついた評価だ。


「人間の五感が混線しちゃうようなものかな。ある特定の刺激を感知すると、従来の脳処理に伴って別な感覚が連動する知覚行動を共感覚と言うの。ある意味特殊能力よね」


「今風に言えば能力者だな。例えば、ある音階を聞くと目の前に図形のイメージが浮かんだり、ある周波数の色に匂いがついていたり、だ。実際に体験しなけりゃ理解しようがない能力だな」


 洋孝が画面に割って入ると世界各国の言葉でのブーイングが画面を流れた。この生配信は自動翻訳で世界同時配信されている。突発的に世界屈指の嫌われ者となった洋孝はめげる素振りも見せずに、むしろその逆境を楽しんでいるかのように陽気にカメラへ解説を続けた。


「で、今回の公開実験はその共感覚をVRで再現するんだ。人間も複合センサーで知覚認識出来るかって一般参加型実験で、ニコニコ生放送で全世界同時配信って訳だ」


 洋孝は足元からヘッドマウントディスプレイを取り出した。子供が新しいオモチャを見せびらかすみたいにCCDカメラの前でいじりまわす。


「イルカのように音で触るか、ヘビのように熱を見るか。VRで新しい感覚に目覚めようぜ」


 そして、勿体ぶってうやうやしくHMディスプレイを頭にかぶる。


「ヘッドセット、ヴァーチャル・オン!」


 何をはしゃいでるんだか、とそっぽを向いて小さく溜め息をつく七波。でも、これで少しは静かになるか。


「実験内容はとってもシンプルなの」


 HMディスプレイのVR接続セッティングで黙ってしまった洋孝の代わりに七波は説明を補足する。画面内を再びわいのわいのと文字が躍り色めき立つ。


「水中用ドローン『くりおね』のセンサーで拾った海底のデータをVRに再現して、あたかも共感覚を持っているかのような視界を体験してみようじゃないかって実験でーす」


 七波は幼稚園児を相手に高度な実験内容を解説するような口調で続けた。


「みんなもVRユニットの準備はいいですかー?」


 はーい、と画面を流れて行く無為な文字の羅列達。


「それでは、海底二百メートルの世界へ、いってらっしゃーい」




 水中用ドローン『くりおね』は、その素体の70%が海水で組成された合成ジュレを人工筋肉の皮膜で包み込んだヒレで海中を自在に泳ぐ。その泳ぐ様はまさしく流氷の妖精クリオネのようで、スクリュー音をやモーターノイズを一切発しないドローンだ。


 全長80センチメートルの大振りな人工クリオネは半透明のボディをうねうねと震わせて、二対のヒレを交互に羽ばたかせて潜水艇『ゆめなまこ』のアクリルボディにすり寄った。ちょうど真正面に七波の金髪パンクな頭が見える。何やらコンソールパネルを操作しているようで、巨大クリオネに気付いていない。


「おい、ナナミ。お客様にサービスしろよ」


 HMディスプレイを装着した洋孝が横から声をかける。洋孝自身は七波と同じくアクリルの球体ボディの中にいるのだが、その視界はすでに海の中、『くりおね』と同調していて、青黒く冷たい海底から七波の不機嫌そうに俯いた顔を見つめていた。


 ふと顔を上げて、七波は人工クリオネのアイカメラに向かって人差し指と小指を突き立てたハンドサインを作って歯を剥き出していーっとやって見せた。『くりおね』を泳がせるだけでいい洋孝と違ってこっちは何かとやる事が多い。ヘッドセットをつける余裕もない。


 水中用ドローン『くりおね』はヒレをバタつかせて逃げていった。あまり遠くに行かれても、海水で電波が拡散、吸収されてしまいデータの送受信が出来なくなる。七波は『ゆめなまこ』をのそのそと歩かせてそれを追った。


「我らが海底200メートルのアイドル、ナナミが怒り出す前に実験開始と行こうぜ」


 洋孝がゲームパッド片手にHMディスプレイのフェイス部位のタッチパネルを操作して、自作の共感覚再現プログラムを起動させた。


「今回『くりおね』が採取するデータは海水温、潮流の強さ、塩分濃度だ。それらの数値データを色、動き、形として視覚に再現するぜ」


 海中を泳ぐドローンの視界と同期した洋孝の目の前が青く染まる。『ゆめなまこ』のサーチライトの光の輪の外は暗黒の世界だ。『くりおね』の内蔵LEDライトのおぼろげな光源だけではそこにある濃密な闇を切り払えない。しかし『くりおね』が視るのは熱であり、ベクトルであり、濃淡である。それらを視るのに光を必要としない。


 海水温度は色彩で表示され、潮流の流れは画面のゆらぎで表現され、塩分濃度はテクスチャーが貼られて立体的に再現される。


「……」


「……この水中ドローン『くりおね』はそのボディの七割が水でできているの。まるで人間とおんなじね。海水を浸透させて形を保ってるから、理論上では深海5,000メートルくらいまで水圧に耐えて活動できる。そう言う意味では人間よりもクラゲに近いかな」


 不意に黙りこくってしまった洋孝に代わって七波が水中用ドローンの説明を始めた。喋りながら、狭い艇内の隣に座る洋孝の脇腹を肘で軽く突ついてやる。それでも洋孝は反応を示さない。


「ただし、5,000メートルも潜ってしまうと『くりおね』ではデータの送受信が出来なくなっちゃうから、こうして有人潜水艇が側にいてやらないとって問題点もあるけどね」


 ニコニコ生放送の画面も静かになったままだ。PV数は四百万に達する勢いで増えているが、誰一人として文字を打ち込もうとする閲覧者はいなかった。みんなヴァーチャルな海底の世界に沈んでしまったか。それほど神秘的な光景が見えているのか。


 一人ぼっち、海底200メートルに取り残された気分になった七波はさらにドローンの解説を続けた。


「『くりおね』は共感覚システムを使えば温度や濃度を視る事が出来るから、メタンハイドレート床の探査とか、たっくさんの『くりおね』を放流して深海の塩分濃度と海水温のデータを集めればエルニーニョやラニーニャの発現予測も可能ね」


 海の底で一人ぼっちの七波の独り言は目の前の暗闇にしんしんと吸い込まれて消えた。洋孝もニコニコ生放送閲覧者も沈黙したままだった。


「ヘイ、ヒロタカ。ちゃんと実況しろって。あんたの仕事よ」


 七波の声に洋孝は応えない。ピクリとも動かず、彼が操作する『くりおね』もヒレをはためかせる事もなく潮流に乗って漂っていた。


 洋孝は、『くりおね』は視ていた。共感覚システムにより暗い海底に青い色が付き、ゆったりとした揺らぎが右から左へと流れ、立体的に空間を歪めたテクスチャーが人の形を描き出す光景を。


「こいつは、いつから、いたんだ?」


 ようやく洋孝がかすれた声を絞り出した。


 周囲の海水よりもやや青白く、その立ち姿はまるでぼおっとほのかに発光しているようで、画面がスクロールするみたいに潮流が揺らぐ中をそこにただ突っ立っているだけの人の形。いや、違う。こちらに、『くりおね』の方へ少しずつ近付いてきている。


 『くりおね』の共感覚を宿した眼を通して初めてその人の形を成した水塊を視る事ができたのか。


 こいつはいつからいたのか。


 洋孝の思考はその海底の人影に絡め取られた。感覚が縛られていく。眼を離す事すらできない。


 海底200メートルに着底した潜水艇のすぐ側に立つ人の形をした海。一歩一歩、とてもゆっくりと近付いてくる青白い透明な人影。こんな奴が、水中ドローンのアイカメラにしか映らないなんて。共感覚を有した意識がなければ視る事もできないなんて。


 いつから、そこにいたんだ。


 『くりおね』に手を伸ばす人の形。共感覚システムがなければ、こいつの存在に気付かず、ただ漫然と海底散歩を楽しんでいただろう。しかし洋孝はもう知ってしまった。海底に、こいつはいる。


 洋孝が腕を前に伸ばした。海底を歩く人の形と同じように。


 いつから、そこにいたんだ。


 共感覚システムで出会ってしまったこの人の形はいつから海底にいたのか。


「ずっと、待っていたのか?」


 洋孝の伸ばした腕が強化アクリルのフロントパネルに当たる。


「何が? ヒロタカ、いったい何を見ている?」


 七波が声を荒げる。共感覚体験を共有するためのHMディスプレイを装着していない七波には、モニターにはゆっくりとマリンスノーが降りしきる海底が見えるだけだ。何の変化も見られない。


「感覚なんて、バラバラである必要はないのか」


 アクリルパネルに手を伸ばしたままの洋孝がぼそりと言う。


「温度、水圧、濃度が保てれば、生命情報を維持できるって言うのか」


「ヒロタカ! 誰と喋ってるんだ?」


 七波の声も海底の洋孝には届かなかった。


「感覚なんて、共有すれば、一つになれるのか」


 海底の人の形が『くりおね』に触れた。共感覚情報で構築されたVRの世界を視ていた洋孝の視界がその青白く透明な手で埋め尽くされる。顔面を鷲掴みにされる。


「感覚情報の、共有。陸上で生きる、人の形。海底で生きる、情報」


 HMディスプレイをかぶる洋孝の頭がぐらりと揺れた。


「ああ、もう、人の形を保ってるの、めんどくせえ」


 どろりと、洋孝が成していた人の形がその輪郭を歪めた。強い炎に炙られた蝋人形のように重い頭がずぶずぶと身体にめり込んでいく。ぶるぶると全身が小刻みに震え出し、背中が真っ直ぐに立てていられずにぐにゃりと大きく曲がった。


 HMディスプレイの下に覗く顔が、水中ドローンのコントローラを握る手が、風に煽られた海面のようにさざなみ立ち、皮膚が溶けるように泡立ち、みるみる透き通っていく。


「みんな、ひとつに……」


 最後に短くそう言って、洋孝はじわり滲み、染みて、漏れ、溢れ、溶け出した。洋孝だった嫌に透明な水は狭い潜水艇内で弾けて零れ落ちた。


 潜水艇内に七波のひいっと息を飲む音と、洋孝だった水がたぷたぷとアクリルの球体の底に溜まる波音と、中身が空っぽになった濡れた衣服がべちゃりと畳まれる音、そしてHMディスプレイがごとりと落ちる音が響き渡った。


「何? 何? 何なの?」


 操縦席の底に溜まった洋孝だった水に触れてしまわないように、パイロットシートの上で膝を抱いて丸くなって今にも泣き出しそうな顔で七波は叫んだ。


「ヒロタカ、どこに行ったの!」


 ちゃぷちゃぷとアクリルの球体の底に溜まった水がかすかな音を立てるだけで、真っ暗闇の海底にたった一人取り残されてしまった七波。


「何が起きたって言うのさ」


 いや、一人ではない。七波は思い出した。VRを利用した共感覚実験を全世界に配信していたのだ。七波はコクピットに据え付けたモニターに藁にもすがる思いで目をやった。アクセスカウンターの数字は四百万を越えていた。しかし画面は静止画のように沈黙したまま一文字も流れていない。


 モニターの向こうに四百万もの人間が公開実験に参加していると言うのに、誰一人として文字を打ち込もうとする者はいなかった。


 七波は悟った。VR空間で『くりおね』を通して海と感覚を共有した人間達は、みんな洋孝と同じように人の形でいる事をやめて海になってしまったのだ。


 地上で、共感覚を得た四百万もの人間が同時に液化して海の一部となったのだ。


 七波は震える手で、濡れたシートに転がるHMディスプレイを取った。


 この海に何を視たのか。


 海の底に何かいるのか。


 七波は『ゆめなまこ』のサーチライトを消して、真っ暗な海底へと、HMディスプレイに金髪の頭を潜り込ませた。

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