10:Possible world

 太陽を見たいと言い出したのは小来さんだ。

 玄関を開くと、西日が目を焼いた。すがめたまぶたの奥に、鋭く入り込む。しかし、空は曇っていて、晴れている気配はしない。

「仁地くんは夕焼けって見えるの?」

「見えるよ。白熱する太陽の光と、暗くて冷たい夜の入れ違う様っていうのかな、それはすごく綺麗で好きだ。僕はね、夕焼けは緑だって勝手に思ってる。炎よりも緑の方が、命を感じるからさ。でも、今日はそれほどじゃないな」

「うん。今曇ってるんだけどね、そのわりにはすっごく眩しくない?」

「眩しいよ」

「あたし、これ、紫外線だと思うんだよね」

「紫外線が眩しい? 人間に見えない光だから紫”外”線って言うんだけど」

「あたしもそう思ってたんだけど。違うの。たまにこうやって、紫外線が見えるの。それに四月になって紫外線もたくさん飛びはじめてるじゃない? 目が敏感になってるんだよ。ほら、紫外線て雲を通り抜けるって言うでしょ」

「っふ」

 紫外線て。

 僕はすまないと思いつつ吹き出す。吹き出したらおかしくて止まらない。まともに取り合わない僕に対して口を尖らし不満を表す小来さんがかわいくて、口に手を宛がい笑い続ける。

「きー。せやっ」

 ポケットから取り出したスマートフォンを、小来さんは早業のように操作した。ピラリロリン、と電子音が鳴る。

「あっこら、何勝手にしてやがんだ、この女」

「写メっちゃった。待ち受けにしちゃおー」

「それは僕より君が恥ずかしいだろ」

「見て見て、ベストショットじゃない。あたしすごい」

 小来さんがスマートフォンの画面を見せる。そこに写った自分を見て、僕は顔から血の気が引く。ムンクの叫びが響き渡った。

 ここに写った野郎、なんて慈愛に満ちた顔してやがる。

「きも。きっも。消せ! それさっさと消せ!」

 こんなに目尻がとろけた自分の顔が記録されているとあっては、彼女を家路に返すことも出来ない。

「えぇー。やだ」

 スマートフォンを取り上げて消そうと試みるが、なぜかカッターナイフのようには捕まえられなかった。ひょいひょい逃げ回る彼女を汗だくになって追いかけて、僕は自分がそれをどこかで認めていることに気付く。消さなくてもいいと、思っているのだ。僕たちを取り囲むように桜が舞う。純白の花びらが散り落ちる。刺すような太陽の光を受けて、滲むように光っている。桜のかおりは、むっとする地の気配に紛れて僕らの肺を膨らます。ぱらぱらと、花びらが皮膚を叩く。

「あたしね、やっぱり走るよ! 自分の体ぶっ壊す。ぶっ壊して次のステージに進みたい。スポーツジムにはもう行きたくないけど、なんとかする。体動かすの、やっぱり楽しい!」

 額の汗をぬぐって小来さんは声を弾ませた。

「なんとかって?」

「顧問の先生に頼んで自主練習の時間増やしてもらう」

「顧問の先生には今までだって頼んだことあるんだろ? で、もうこれ以上は練習時間を増やせないって言われたんだろ?」

「うん。でももうちょっと頑張ってもらう。あれ、なんで知ってるの?」

「君がそんなこともしない子だなんて思ってないからね」

 言うと、彼女はのぼせたような表情になって動作を止める。僕はその隙に彼女の手からスマートフォンを奪い取った。

 小来はるは自分の体をぶっ壊してでも速く走れるようになりたいと願った。自分の限界を超えたいと願った。

 僕は世界を壊してでも誰かと並びたいと願った。見えるものを必死になって見分けてきた。

 このふたつは違うようで同じなのかも知れない。

 僕も、彼女とは違う方向だけど、次のステップへ、今までよりも何かがある世界へ行こうと願った。それが無理なら奥歯が欠けるほど歯を食いしばってでも、その場に立ち止まろうとした。そして、いくつも、いくつもゲートをくぐり抜けてきた。今、ここにいる。

「僕は赤が見えない一型二色覚で、君は正常三色型色覚だけど、世界には四色型色覚とか五色型色覚を持つ人がいるらしい」

 切れ切れになる息をなだめつつ記憶を引き出す。

「五色型色覚?」

「赤外線や紫外線が見えるんだよ。だからね、さっき君が言ったこと、あながち間違ってないかもしれない」

 僕たちの目は自然と西日に向いた。先ほどよりだいぶ傾いて、もう眩しさは感じない。明順応だ。暗い所から明るい所に出れば、暗い所で働く桿体が明るい所で働く錐体に入れ代わる。明暗の差が激しければ激しいほど、眩しく感じ、また明るさになれるために時間を要する。それだけのこと。紫外線が見えたわけじゃない。わかっている。

「本気で言ってる? さっき笑ってたじゃん」

「本気だよ、本気。紫外線だったらいいなって思ってる。信じたい」

 紫外線は成層圏、ストラトスフィアにあるオゾン層でほとんど吸収されてしまう。だけど、一部はオゾン層を突き破り僕らに届く。

言い換えればそれは、狂おしいほどの情念だ。身を削られ仲間を失い、ボロボロになって遙かなる地上にたどり着く。

紫外線の見える世界はどんな世界なのだろうか。ストラトスフィアを越えれば、もっともっと色鮮やかで、眩しく、美しい世界が広がっているのかもしれない。

 さっき感じた眩しさを紫外線だと無邪気に主張した小来さんを信じてみたい。僕には、赤い光が見えなくても、紫外線なら見える。そう、信じてみたい。

「なあ、僕が一緒に走ろうか? もし練習し足りない時があったら言ってよ」

「走れるの?」

「ばっ……自転車乗ればいいだろ」

「あたしの専属マネージャーになってくれるの!?」

「ちがいます」

 彼女の頭をスマートフォンでチョップする。

「努力すればもっと速く走れるようになるんだろ。証明して欲しいから協力するんだよ」

「もちろん、すぐに証明するよ」

「本当に?」

「本当だよ。すぐに速く走れるようになったあたしの姿を見せてあげる」


 僕は結局消さなかった写真とともにスマートフォンを返して、強く言い切った彼女の髪を掻き回した。指に彼女の汗を吸った髪がしっとりと絡みつく。



 いつか訪れる失明の日については、もう触れない。触れてもどうしようもないからだ。今肝心なことは、それでも希望は残るとこのパンドラの箱を信じて、どんなに苦しいことがあっても前に前に一歩を運び続けることだけ。

 いつの日か、僕が彼女の隣を走ることが出来なくなるのだとしても、

 いつの日か、僕が彼女の走る姿を見ることが出来なくなるのだとしても、

 いつの日か、僕が彼女の容姿を思い浮かべることすら出来なくなるのだとしても。

 僕が彼女の言葉を信じる限り、僕の世界からは光も色も失われない。僕にしか見えない世界が待ち受けている。


 過去ばかり見ていては、視界は失敗と挫折に黒く暗く塗りつぶされていくだろう。

だけど、後ろに無理矢理ねじった首を、前に向け未来に目を転じれば、そこには無限の可能性が広がっている。

明るくて、限りない希望に溢れた世界だ。

 それを見るため、顔を上げて歩み続けよう。



「見られる日、楽しみにしてる」



 世界はもっと、カラフルだ。

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ストラトスフィアを越えて 増岡 @libs92

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