9:Kiss & Cry

「話はこれで終わりだ」

 両腕を大きく広げて締めくくった。和やかに、物語るように、優雅に。そう話せるよう張り詰めていたものがほどけ、小刻みに指が震える。喋ることを止めると、乾燥しきった喉が張り付いた。

「ツギの怪我はどうなったの?」

「結局七針縫った。二針だけ、頭皮でなく額を縫わなくてはならなくて、今でも前髪がないと、傷痕がよくわかる。痛そう、だったな」

「そうなんだ。ねえ、あたし馬鹿な自覚があるから確認していい?」

「物語の中の男の子は僕だよ」

「えっなんでわかったの!?」

「そのくらい質問されなくてもわかりますー」

 僕はうざったらしく語尾を伸ばして答え、頭の後ろで両手を組んだ。

「イチにはあの後散々睨まれたな。弟を怪我させた心ない奴って言うレッテルを貼られた。事あるごとに、目の見えないやつ、化け物、色がわからなくても心があればわかるもんだってね。結局あいつが大学行って一人暮らしを始めるまで、ずっと」

 体の重心を後ろに預け、椅子の前脚を浮かせる。不安定な空中で、震えそうになる声をごまかした。

「僕にはね、人を思いやる心が欠けているんだ」

 両手で顔を覆う。

 どんなにカードや絵の具を見比べて色の名前を覚えたって、見えないものが見えるようになるわけじゃない。せめて人の心を欲しいと願ったって、為せば為すほど嘘くさく正体を失って行くのが善であり優しさだ。

「以来、色を識別する訓練は積んでるつもりだ。でも、君に声をかけた時、僕は君の傷に気付けなかった。努力はそういうふうに、結果を結ばないものなんだよ」

「そんな風に言うの止めてよ!」

 突然、小来さんが声を荒げてテーブルを叩いた。

「え? うおっ! ぎゃっ」

 バランスを崩して僕は椅子もろとも床にぶっ倒れる。さっき打った頭をもう一度打ち直して、あまりの激痛に言葉が出なかった。生理現象の涙がボロボロと目尻から溢れて顔の側面を伝い落ちる。

 壊れていくんだ。

 最初から持っていなかった世界を僕は知るよしがない。だから、それを望もうと思っても想像が出来ない。そんな物かと諦めた。自分に人の心がないのも当然だと受け入れた。

 だけど、ベーチェット病は違う。毎日毎日少しずつ色が失われていく。世界が闇に閉ざされて行く。意識しないとわからない変化だ。だけど確実に起こっている崩壊だ。道に迷った時、塗り分けられた路線図や町の地図が読みづらいことに気付く。今日久しぶりにあった友人の肌は以前より黄ばんでいた。いつからか、通りゃんせの音がなければ怖くて横断歩道も渡れない。赤信号が光っていてもわからない。

 世界は、はみ出した者に容赦がない。

「こんな世界、間違ってる。お前らだって、いつ目が見えなくなるかわからないのに! 人を狂った化け物みたいに! 狭い所に追いやりやがって。僕の居場所を取り上げやがって。壊れろ、こんな世界! さっさと壊れてしまえばいい……!」

 喪失の谷間を縫うようにして人は生きている。今までは運良く何も失わずに来られただけだと、幸ある者はそれに溺れて気付かない。例え過去に失った物があったとしても、喉元を過ぎた熱さを忘れるように、涼しい顔でどこかを欠いた人間を排除する。

頭が鼻血を吹きそうなくらいガンガンした。グラグラと揺れる平衡感覚。そのまま世界が崩れていくような気がする。こんなの、絶対間違えている。あまりにも不平等だ。そして不平等に対して途方もなく不寛容だ。僕なら、金属バットを持って通りすがりの誰かを滅多打ちにしても許されるんじゃないか。情状酌量してもらえるんじゃないか。希望に溢れた誰かの目を錐でくり抜いても許されるんじゃないか。だって僕には何もない。

「仁地くんは、認めてもらうことを諦めてるだけよ」

 手が僕の右頬にそっと添えられた。薄目を開けると涙で歪んだ視界に小来さんのシルエットがある。シルエットが屈み込み、長い髪がすだれとなって僕らを覆う。

「認めてもらってもしかたないだろ。現実を見れば、僕の視力は落ちる以外にない。今見えているものも、すぐに見えなくなる。僕は僕の気持ちなんかおかまいなしにぶっ壊れ続けてる」

 小来さんが僕の首筋に抱き着いた。淡いシャンプーのかおりが立ち上り、全身が総毛立つ。

「あたし、聞いたことある。目の見えない人は、目の見える人よりにおいとか音に敏感なんだって。音から物の位置とか、形とかを知ることが出来るんだって。足掻けばいいじゃない。いつまでも見えるように。見えなくなっても、失わないように。仁地くんにしか見えない世界が待ってるんだよ?」

 小来さんが鼻声で訴える。

 頭を撫でて適当になだめようとしたら、口に噛み付かれた。舌だ。僕の舌に彼女の歯がしがみついている。

 彼女の犬のように唸る声と唾液が舌を伝って喉に落ちて行く。

 これはキス、なんだろうか。

 小来さんの体温を全身に受け止めながら混乱する。僕の手は空中でもがき、彼女の手は非力ながら僕を押さえ込もうともがく。シャンプーの甘いかおりが呼吸と理性を奪う。息が出来ない。精神の集中が変な場所で高まりを迎えようとして、僕は力ずくで小来さんを引きはがした。

「何すんだ! 殺す気か!?」

 舌を噛み切られるかと思った。事実、引き離した時に切れたのか、口の中が鉄臭さで溢れている。

「口に入れてわかった。仁地くんの舌は、気持ち悪くなんかない」

「は? 馬鹿なの?」

「あたしを、助けてくれた人が、どんな人だったとしても、あたしが感じた優しさは、嘘なんかじゃない」

「だから、何言ってるんだよ」

 舌が切れて喋ることすら辛く、僕はいらいらと椅子を起こす。

「仁地くんは、目が見えなくなったらあたしを忘れるの?」

「さあな。多分忘れるだろうな。記憶は完全じゃないから」

 噛まれた傷だって、そのうち癒えてなくなる。世界からひとり死んだって誰も見向きもしない。人ひとり消えた穴は、すぐに塞がる。

「じゃあ、毎日、覚えなおせばいいよ。あたしと毎日会って、見て、駄目なら触って、覚えなおせばいいよ」

 眉をしかめる僕の手を、小来さんが取った。細く薄い、しっとりとした手。

「仁地くんの世界から、あたしを消さないで」

 その言葉は僕の鼓膜を叩くだけでなく、脳みそをひっくり返すほどの強さを持って届く。

 僕が小来さんを消す?

 僕が世界から抹殺されるのではなく?

 世界の緑が赤に塗り変わる、その衝撃。

「目が見えているうちに手で覚えて。耳で覚えて。私を忘れないで」

 彼女の手が、僕の手を招いた。形のいい丸みを帯びた額。髪の生え際、柔らかな眉、弾力のあるまぶた、長いまつげ。僕はそれらをゆっくりと上から下になぞる。細い鼻筋、さらさらとした皮膚の感触。ふにゃりと潰れる唇。

 僕はしゃがみ込んで彼女と鼻を突き合わせる。互いの目が、互いを覗き込む。小来さんの美しい瞳。僕の醜い瞳。

 彼女の目尻を、まつげを下から持ち上げるようにして舐めてみた。初めて他人のまつげを舐めて、そのしなやかななめらかさに驚く。しばらく上下に舐め回して遊ぶ。舌を気持ち悪くないと豪語したことへの意趣返しのつもりだったのに、小来さんの抵抗は小さな呻きだけだった。彼女の両手が僕のシャツの裾を掻き掴み、定まらない爪先が微かに僕の皮膚を裂く。

 望んだって手に入らない。失われるだけだと、見ないでいた。目に入れないようにして来た。だけど。僕は今、目以外の全ての感覚を駆使して、小来さんを味わう。

 彼女の顔色が赤くなったのか、青くなったのか、僕には見えない。だが、まぶたや鼻先、耳に口を付ける度、舌先に伝わる体温がじわりと上昇し、滲んだ汗の塩気が舌を痺れさせて行く。彼女の吐息が僕の首筋を掠め、耳朶を甘く疼かせる。もっと。もっと、欲しい。

「君さ、自分が何されてるかわかってる?」

「うん」

 喘ぐように小来さんは頷いた。

 その吐息をすくうように彼女の口端を食む。

「じゃあ、舌、見せてよ」

 ふふっと小さな笑い声とともに、ゆっくりと口が開かれた。

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