11 人形愛
モンパルナスの名はギリシア神話にあるパルナッソス山に由来する。すなわちミューズ九柱の姉妹が棲んだとされる山の名から取られている。パリのセーヌ川左岸十四区にある地区で、その名はモンパルナス大通りとラスパイユ大通りの交差点を中心とした一帯を指す。鉄道交通の要所ともなっており、オフィスビル、映画館、ショッピングセンターなどが集中し、また商店やスーパーマーケット、レストランなどは高級なものから庶民的なものまで多々がある。一九二〇年代のエコール・ド・パリの時代には芸術の中心地として栄え、セーヌ川の対岸、右岸十八区のモンマルトルが第一次世界大戦直前辺りから急速に観光地化及び高級住宅地化し、それを嫌った貧乏な芸術家たちがモンパルナスに続々と移り住む。それら芸術家の中にはピカソ、ゾラ、マネ、ドガ、フォーレがいる。モンパルナスは元々大学生の下宿や荒地があった土地で家賃や物価が安い地区だ。その事情は区画整理が進んだ一九〇〇年代後半になっても変わらない。そのため赤貧の芸術家たちが世界中から集まって来る。互いに刺激し合う環境に身を置き切磋琢磨するためか、ラ・ルーシュのような集合住宅に好んで住み、芸術家コミューンを作り上げる。その辺りの事情は日本の池袋モンパルナスと同じだが、当事水道も暖房もないアトリエでネズミなどに苦しめられながら食い繋ぐため、わずかな金で作品を売っていたシャガール、モディリアーニ、スーティンらが後に大成したのに対し、池袋モンパルナスは赤貧でバイタリティに溢れる芸術家たちを集めたところまでは同じだが、多くの芸術家たちが戦争に召され、更に一九四五年四月十三日、B29三百三十機による死者二千四百五十九名、焼失家屋二十万戸にも及ぶ城北大空襲で打撃を受け、芸術運動自体が潰えてしまう。
「馨兄さん、お久しぶりです」
「まあ、あなたが馨さんの婚約者、千代子さんですね」
セーヌ川を見下ろす丘の中腹に建てられた待ち合わせ場所のカフェで出会うとすぐ、日月と母がわたしたち二人に声をかける。わたしが屋敷を飛び出してから既に十二年が過ぎ去っているが、ここ数年、母と日月が頻繁に展覧会場に足を運んでくれたり、仕事のついでにアトリエに寄ってくれたりしてくれたので疎遠という気がしない。ただ今回は婚約者同伴なので。わたしの心が乱れている。
「ああ、お久しぶりです、日月さん、お母さま。こちらが婚約者の平坂千代子さんです」
「よろしくお願い致します」
「千代子さん、こちらこそよろしくお願い致しますよ。あなたとは初めてではありませんね。半年前のグループ展で、ご挨拶した記憶があります」
「はい、その通りです、お義母さま。ただ、あのときは忙しく、何もお構いできなくて済みません」
「いえ、それは構いませんのよ。忙しいのは良いことです。それはともかく、わたしはあなたの姿を初めて見かけたとき頭の中で、ぱあん、と音が鳴りましたのよ。まさかとは思いましたが、ああ、もしかしたら、と」
「そうなのですか」
「ええ、そうなのです。ですが、まさか本当のことになるとは自分でも思ってみませんでしたが」
「実はわたしにも未だに信じられない気がしています」
「そうですか。けれども千代子さん、あなたはこれから苦労することになりますよ。馨はとても我侭ですから」
「お母さま、今そんなことを言わなくても。千代子くんを脅かさないでください」
「お義母様、大丈夫ですわ。覚悟はできていますから」
「あら、頼もしい。千代子さん。あなたなら大丈夫かもしれません。では心配の代わりに忠告を一つしておきましょう。馨のことを扱き使いなさい。この人は暇にしておくと詰まらぬことを考えます。だから、いつでも仕事をさせておきなさい。千代子さん、あなたはこれまで馨の有能な秘書だったと聞いております。その能力を結婚という仕来りによって鈍らせてはなりません。妻という地位に甘んじて忘れてしまってはなりません。もちろん親としてわたしはあなたには馨の良き伴侶となって貰うことを願いますが、葛城家の当主として仕事に溢(あぶ)れた時点で馨を見捨てなければなりません。だからとい言って自分がお腹を痛めた子供を見殺しにしたりはしせんが、そのことは肝に銘じておいてください」
「はい、お義母さま。わかりました」
まともに会話をしたのは初めてだったにも拘わらず、千代子と母は気持ちの深いところで互いの存在を認めた合ったようだ。矢継ぎ早に種々の話題で盛り上がる二人の姿にわたしは一先ず胸を撫で下ろし、母の横顔をじっと見る。
五十歳をかなり過ぎたとはいえ、母の容姿に衰えはない。あるのは樹木でいえば年輪のような確かで無駄のない時の流れか。
ついで、わたしが日月を見る。気づいて日月もわたしを見返す。その目の中に子供の頃の悪戯っぽい色が浮かび、日月がわたしを赦してくれたとわかる。すべてを押し付け、母の人形としての一生を無理矢理約束させてしまったわたしを今、日月は赦してくれたのだ。あるいはそれ以外に自分の生きる道はないと日月が悟った結果なのかもしれない。
(でも馨さんの方は本当にそれで良かったのですか)
心の声で日月が尋ねる。
(馨さんはお母さまを愛していらっしゃったではないですか。母親としてではなく、一人の女として。最初、子供だったわたしにはそれがわかりませんでした。馨さんのわたしに対するお気持ちにはしばらく経ってから気づきましたが、どうしてそれが男のわたしなのかがわかりませんでした。それが限りなく屈折した馨さんの性の捌け口だったということが。そしておそらくあの当時、馨さんご自身もそれに気づいてはおられなかったのではないかと思っています)
(でも日月さん。それは最終的に自分が母の人形になることを意味していたのだよ。わたしは確かに母を女として愛していたかもしれない。今でもその気持ちが消えていないかもしれない。でもわたしは自分がそれに耐えられないことを知っていたし、きっと母の身体に溺れることも知っていた。だから日月さんを母の生贄にし、卑怯にもわたしは屋敷から去ったのだ)
(でもね、馨さん。わたしはお母さまの人形かもしれませんが、幼い頃にお屋敷に貰われて以来ずっと幸せに暮らしていますよ。だから馨さんは何も気に病むことはないのです。それにね、馨さん、今ではわたしにも人形がいるのです。母とわたしの娘という人形が。親戚の預かりっ子という正式な手続きを経て、その人形は今屋敷ですくすくと育っています。いずれ千代子義姉さまとご一緒に姿を見に来てくださいな。それは可愛らしい子供ですから。それにしても、ああ、馨さんに、お母さまの夜に乱れた姿をお見せしたいものです。でも、それだけは叶いません。それだけはお屋敷を捨てた馨さんには許されていないことなのです)
(うん、日月さん。そのことはわかっているよ。わたしはそれから逃げたのだから)
(いえ、逃げたのではなく、馨さんはその道を選ばれなかったというだけです。だから馨さん、馨さんがご自身で選ばれた千代子義姉さまをもしも不幸にするようなことがあったなら、わたしと母はきっと黙ってはいませんよ)
ついで日月が、この件はもう終わりにしましょう、とばかりにわたしに微笑む。そんな日月に笑みを返しながら、わたしは、
(ああ、自分の一生はまだ始まったばかりなのだな)
と痛感する。
将来的にわたしは日月を手にかけることになるのだろうか。あるいは最愛のお母さまを奪いに屋敷に舞い戻ることがあるのだろうか。
見かけは屈託なく会話する千代子と母を見比べながら、わたしは自分がまだ屋敷から完全に逃げ遂せていなかったと痛感する。そんな自分を冷静に見つめる、もう一人の自分を感じている。
そのときウエイターがガトーショコラとニルギリを人数分、皿に乗せて運んで来る。母と日月が喫茶店に現れる前、わたしが注文した品だ。それを見た日月と母の顔に笑みが広がる。その笑みがわたしと千代子を微笑ませる。
「そういえば、馨さん。姉小路元伯爵との最初のお仕事は蓼科高原に建設予定のリゾートホテルだそうですね」
「はい、お母さま。良くご存知で」
口にしたガトーショコラが甘く苦く舌を染め、この先わたしに待っているはずの罪深い年月を思い遣らせる。(了)
人形愛 り(PN) @ritsune_hayasuki
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