10 求愛
姉小路財閥傘下の観光会社が進めたリゾートホテル建設は当時の日本の経済状態を考えればまったくの冒険に思える。が、それはともかく、わたしの絵画数点がその一環として幾つかのホテル・エントランスの引き立て役として所望される。絵のテーマに関し、特に注文は受けていない。が、観光地に相応しいものといういう暗黙の条件がある。もっとも、そういうことなら地味な色彩のわたしの絵より、見た目が派手なUやYの作品の方が合うではないか。わたしが当代姉小路元伯爵にそう尋ねると元伯爵が答える。
「葛城さんの絵には近代を感じさせる洗練されたスタイルがある。それなのに目線は庶民の方を向いている。それが欲しいのですよ。今日本の庶民はどん底にいる。しかし、すぐにも庶民の多くが中流以上になるでしょう。そのとき仕事に追われる彼らの束の間の休息地として、わたしはリゾートホテルを提供したいのです。よって、ホテルには葛城さんの絵が相応しい」
加えて元伯爵が言うには、
「できれば、すべてのホテルに葛城さんの作品をいただきたい。しかし実際問題、そうもいかない」
その先は納期及び代金と支払方法という下世話だが必要不可欠な商談となる。
「馨先生だって元伯爵家のお家柄ですよね。けれど、あちらは感じが全然違いました」
姉小路元伯爵との商談の帰り道、ようやく掴まえたタクシー車中で、わたしの顔をぼんやりと見つめながら平阪千代子が呟く。
「まあ、馨先生にも風格はありますけどね」
「わたしは屋敷から逃げ出した人間だ。そのときすべてがゼロになったんだよ。父や母から、あるいは家系そのものから受け継いだものは多いだろう。誰しも生まれ育った環境からは逃れられない。受け入れるにしろ、反発するにしろ、それが外界に出るための最初の戦いだ」
「ですが、それでしたら薫先生は逃げ出したことにはならないんじゃありませんか」
「わたしは弟にすべてを被らせたんだよ。屋敷の重みも財閥の重みも母の愛も」
「お母さまの愛ですか」
「そう。母はおそらくわたしのすべてに気づき、いずれわたしが自分を捨てるときが来ると悟ったんだ。だから、それに耐えるための手筈を整えた。それがわたしの弟、日月に対する愛だ。わたしは嘗て屋敷にいて自分が本当は何を望んでいるかに気づいたとき、同時にそれまで自分が母の人形であったこと気づかされてしまったのだよ。否応なくね。成長し、やがて母の片腕になり、母に言われるまま事業を切り盛りし、屋敷に帰れば亡くなった父の代わりに母の疲れを癒し、慰める。わたしはその道を一旦は受け入れたつもりでいた。だが混乱した頭で屋敷を飛び出したこともある。あのとき村の池の辺で当時唯一の友人に出会ったのは偶然だ。だが本当にあれは偶然だったのか。わたしは神を信じないが、神の導きがあるとすれば、まさにあれがそうだったと思う」
「そのご友人って松浦さまのことですね。以前、展覧会にいらっしゃられた」
「そう。暇もなかろうに迷惑な友人を心配するいいやつだ」
「そのとき、いったいどんなお話をされたのですか」
「話というか、屋敷のことは何も言わなかったな。ただ彼のことを好きだと打ち明けた。すると彼は『そうか、わかった』と応え、わたしの気持ちを受け入れてくれた。そして直後に『だが悪い。おれにその気はない』と謝った」
「男気がありますね」
「そうだろう。それから数時間、二人して黙ったまま池を見つめていたよ。蚊に刺されながら」
「でも、その方ではないんですよね。馨先生の想い人は」
「ああ、彼は友人だ。それに松浦にとっては友人としてしか、わたしと付き合うことはできなかっただろう。今にして思えば、わたしは友人としての彼が好きだったとわかる。思春期の子供の勘違いだ」
「でもそんなことを仰ったら、思春期の恋人たち全員が勘違いの恋人たちになってしまいますわ」
「そうだな。あの時期の恋愛なんてホルモンの作用でしかないのかもしれない。わたしには近くに美し過ぎる母がいたから、いつも自分に自信が持てなかった。だから自分の役割は人形でしかないと幼い頃から決めていたんだ。けれども後に、わたしはもっと美しい人形に出遭い、自分が母の人形として相応しくないと悟ってしまう。あのときは八歳の子供でしかなかったが、初めて会った弟の日月は母の血をまったく継いでいない分、却って母の人形として理想的だと感じられたのだ。あのとき、わたしはそこまで気づいていたとは思えない。けれども今では、そんなふうに感じていたとわかる」
「大変な告白ですね。いいんですか、わたしみたいな庶民の女にそんな大切なことを打ち明けて」
「いいんだよ。だって、きみはわたしの愛人候補だろう。秘密は墓場まで持って行ってもらうよ」
「何か、今の馨先生のお言葉、プロポーズみたいに聞こえるのですが」
「そうか。確かにそう聞こえないこともないな。では、正式にそうだと言ったら、きみは一体どうする」
「えーっ、馨先生。急展開過ぎます。心の準備ができていません」
「千代子くん、何をいうんだ。毎日愛人にしてくれって迫って来るくせに」
「でも、それだったら愛人じゃ厭です。愛人だったら秘密を墓場まで持っていけません」
「ふうん。きみが焦るところを初めて見たな」
「もう、茶化さないでください。でも馨先生、本当にわたしでいいんですか」
「きみがいいんだよ。きみでなければ駄目だ。わたしのことを色々と理解しているのはきみだけだ」
「そうなんですか」
「神の配剤かな」
「先生は神様を信じていらっしゃらないのでしょう」
「日本人は神に適当なんだよ。だが、そうなるとやっかみも含め、きみは厭な思いも沢山することになるぞ」
「それは構いませんが」
「今の言葉を返事と受け取ってもいいかな」
「……」
「ホラッ、千代子女史らしくないな。はっきりと答えて」
「はい。馨先生、お申し出をお受けいたします」
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