9 秘書

「馨先生、起きて下さい。ホラッ、馨先生ったら」

 わたしの耳許から声が聞こえる。最初は子供の日月かと思うが、耳を澄ませばアルト。とすれば弟子兼秘書兼会計士の平阪千代子しかあり得ない。

「そろそろ起きていただかないと姉小路様との打ち合わせに遅れます」

「いま何時だ」

「午前九時をまわっています」

「打ち合わせは十一時だろう」

「はい。ですが打合せ場所は近くのいつものアトリエではなく銀座の画廊です。ですから移動時間がかかります」

 なるほどそうだったな、と思い出し、ゆっくりと瞼を開く。わたしの顔のすぐ横に平阪千代子の顔がある。

「おい、びっくりするじゃないか」

「先生は寝顔も、お綺麗ですね」

「そうかい。ありがとう。だが、わたしの母や弟はもっと綺麗だぞ」

「そのお話は何回も伺いました。でも、わたしは先生が好きなんです。愛人で構いませんから、ずっとお傍に置いてください」

「きみはわたしの有能な秘書兼会計士としていつも傍にいるじゃないか。それにわたしはきみの能力を買っている。性格的に捌けたところも気に入っている。こんな愛の告白じゃ駄目かい」

「はい。駄目です」

「それに何で最初から愛人なのだかわからないな。そこまではっきり言うなら家族にしてくれとでも願えばいいじゃないか」

「でも、それでは偽装家族になってしまいます」

「どうしてだ」

「だって先生にはお好きな方がいらっしゃるじゃありませんか。具体的には存じ上げませんが。できることならそのお方と添い遂げたいと願っていらしゃるのでしょう」

「参ったね。わたしは辺り構わずそんな雰囲気を発散していたのか」

「いいえ、そんなことはありません。普通のお付き合いでは、おそらくわからないだろうと思います。でも、わたしは先生に一目惚れをしましたから」

「たった一度でもきみと情を交わしたのは間違いだったな」

「あら、誰かが聞いていましたら本当にスキャンダルになってしまいますよ」

「口さがない連中は既に噂しているんじゃないか。そもそもきみはこの家に住み込みだし、芸術家は不埒な連中ばかりという触れ込みだ。それに最近では倒錯が流行っているようだしな」

「倒錯ではなく欲望に正直な性愛です」

「この国では百年経っても無理なような気がするが」

「それならば外国人になればいいんです」

「外国人になるって。外国に住むんじゃなく」

「はい、そうです。日本人でいては歳を取り、いずれ懐かしくなったとき、祖国に帰れるじゃないですか。そんな中途半端な覚悟ではいけません」

 なるほど、その考え方は正しいな、とわたしが思う。わたしは平阪千代子に首肯いたが、寝起きのわたしの頭にはそのとき別の案件が浮かんでいる。

「そういえばパリ行きの航空券はどうなった。この機会に行けないと次は半年先になるか、一年先になるか。向こうでは本物のモンパルナスを堪能したいものだ」

「その件については安心してください。単に航空会社の手続きが遅れているだけですから。でも心配なのは」

「心配なのは」

「馨先生の方向音痴ですわ」

「だからきみも連れて行くんじゃないか」

「だって馨先生、鉄砲玉じゃないですか。この前の箱根の美術展のときだって、気づいたらいなくなっていて」

「きれいな渦巻き雲が山にかかっていたんだよ。それが山の峰に連なる送電鉄塔に絡まるようで面白かったんだ」

「馨先生が遭難したのじゃないかって、わたし、本当に心配したんですよ」

「あのとき、きみの泣き顔をはじめて見たよ」

「厭な、先生。一言仰っていただければ、それで済んだのです」

「山の風景は瞬間々々で変わるんだよ。だから風景に身を任せるくらいの気概じゃないと見たいものは見れないのさ」

「勿論それはわかりますが」

「きみだって芸術家の端くれだ。可哀想なことに今はわたしの便利屋だが、わたしが見る限り才はある」

「そのお言葉は何度も伺いました。でも、わたしはただ撮っているだけですから。絵心はまったくありません」

「そんなことはないだろう。きみの切り取った写真空間は生きているよ。きみの写真に写された猫や犬が退屈なのか愉しんでいるかはすぐ伝わるし、物言わぬ植物や建物だって、その日の気分を語る」

「だから、それはわたしの感情なんですよ。猫や風景をそのとき感じ取った自分の」

「が、それでも写真を見るものに、その気持ちが伝わる。きみの写真は暖かくて正直だ。それがきみの才の本質だよ。写真技術ならば練習すれば身に付けられる。が、才となるとそうはいかない。その意味で、きみは持てる者なんだ。持てる者は持てない者に己の見たものを分け与えなければならない。芸術家に義務があるとすれば、わたしはそれが義務だと思っている。もっとも、そんなことを主張するのは、日本ではこのわたしくらいかもしれないがね」

「先生はご自身が持てる者だと信じていらっしゃいますか」

「はて、どうだろう。そういったことは自分ではわからないんだ。だが、そうありたいとは願っているし、そうでなければ、あるいはそうでなくなったら、わたしはこの仕事を辞めるだろう」

「では、そのときまでちゃんと馨先生にお付き合いしますので引退の暁には愛人にしてください」

「どうしても、きみは愛人に拘るんだな。まあ、それは良いとして、芸術家ではない方が良いのか」

「だって馨先生。芸術家は不埒な連中ばかりという触れ込みだし、最近では倒錯が流行っているんでしょう。わたしは、そんなくだらないことで気苦労をしたくありませんわ」

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