真冬の人魚
れなれな(水木レナ)
白いアジサイ
**海岸の見える電車の窓からぼうっと外を見つめてはため息し、長い黒髪を背に流している。美人なので近寄りがたく、一種神秘的だ。そしてうつむき加減に、お腹をなぜると、またため息する。そんな姿の美女がいたら、ましてや毎日通ってくるとなったら……。
粉雪の降るある日の冬。
その巨大な常夜灯は仏教系T大学の創立からあって、そばには『仏仏祖祖……なんたら』とやぐらの黒地に白い塗料で筆書きしてある。気づけば屋根の下にはカラスが雨宿りならぬ雪宿りしている。
T大学前。そこに、常夜灯を拝む長い黒髪女性の姿があった。
何を祈るのだろう? 本堂は参道を進んだ奥なのに。それに仏の類は何かの祈願に応えるものではないのに。
参道沿いの階段上にある大学図書館から降りてきた斎藤雪緒(さいとう ゆきお)が、同じ方向から来た友人たちと合流した。
「何見てんだ? 斎藤」
「いや~、あの後ろ姿、なかなかのべっぴんと見た」
「まあ、後ろ姿はな。しかしなおまえ……」
「いやいや、横顔もか。なあ、翔平、侮れん色香を発してるとは思わんか? ちょっと一声かけていくか」
「まて、この! ノート返してからいけ」
あいよ、と言って斎藤はデイバッグごとばさばさとノートを投げてよこした。
「おまえなー」
抗議もスルーして、斎藤は美女に近づく。
「……あの~もしかしてファッションモデルのえびちゃんですか?」
彼女は振り返りもしなかった。
「あ、いや~その。こんなところで何をしてるんですか?」
その人は肩ごしに見返った。目には光る涙。
(うおお~見返り美人だ~!)
「常夜灯に……お礼を申し上げているのですわ」
大抵の人が通り過ぎていく道のりである。そして大抵の女子が肘鉄をくらわすシチュエーションである。
(ちくしょ~~かわいいっ)
斎藤が心で喝采を上げると同時、美女はさっと立ち上がり、身長の五倍の高さがある常夜灯を見つめた。
「この常夜灯は昔、田舎ですけど岬の灯台として人々を導いた双子の灯台のひとつ……もう一つは私の故郷にあるのですわ」
「ほ~~」
斎藤はそれがそのようないわくつきのものとは知らずに毎日素通りしてきたものである。入学当初は偉容に見上げもしたし、写メもとったが、今はおかしくさえもない。
「ねえ、こんなところにいるより、丘サーファーの店で暖まりませんか? ちょっと先の駅前の通りにあって……」
「失礼」
「あ! 待って。メアド! ケータイ番号! はいこれ、オレの!」
しつこくしてみるもんである。
「ここは……?」
「だから、丘サーファーの店」
細い急階段を上った二階に狭くてごちゃごちゃした印象の部屋があった。テーブルは三つでイスは八つ。壁には南国の魔除けのナイフやヤシの実の仮面、外国の文字が書いてある古いポスターなどが飾られていた。
「こ~ら~! 斎藤、誰が丘サーファーだ」
隙間なく並べられた緑・赤・黄などの縦長のボトルの壁の向こうから声がする。
「もー引退したんでしょ?」
「しとらんわ」
店のマスターが、浅黒い肌に白い歯をむく。
「ここはカクテルとか出すお店なのでは?」
「時にはね。グラタンとステーキが美味しいよ。学食に飽きたらここ来るんだ」
「まあ、あなた学生さんなの」
「そ。まだ一年目」
「だったらだめじゃない、こんな店……」
「お嬢さん、ゆっくりしていったらいいよ」
マスターが、わざとゆっくり近づいて笑顔で応対する。
その反面、斎藤に出すサラダだけ、大きな音を立てて給仕する。
斎藤は変顔で舌を出した。
(あいつには言っても無駄だな)
マスターが思っていると、クスクスと座席から笑い声がした。他に客はない。
「どーしたの? ひよこちゃん」
「私、お嬢さんなんて、柄じゃないのに……おかしくて」
「マスターは下は二歳から、上は六十までひととおり、お嬢さんって呼ぶよ」
「まあ、そうなの?」
「そろそろ名前、教えてよ~」
「初対面の人に名前なんて」
「その初対面のテリトリーに踏み入っちゃってからじゃ、遅いのよん?」
「そうですわね。私……未亡人ですし」
がたがたっと狭い店内でイスが倒れる音がする。
「斎藤、壊したら弁償な」
「ハハハ……そ、そうなの。へえ、未亡人! 燃える~」
名前よりもよっぽど個人的情報である。
彼女からは磯の香りがした。
「え~、でも、この辺の人じゃないよね」
「あらどうしてわかるんですの?」
「わかっちゃうんだよね~ピンときちゃうものがあるんだな~」
美女は頬を赤らめ、もじもじっとした。
「なら、言っちゃおうかな……。私、アマになりたくて……」
ずどーん! と盛大にずっこける音がした。
「でも……」
「斎藤、後でちょっと来い」
マスターがうるさい。
「ハハ……それであんなところにいたの?」
大学の中にある参道は、そのまま寺の本堂に続いている。
「いいえ、あの灯台が懐かしくて……」
(懐かしい、か……どうやらこの土地に来たのは偶然じゃないんだな)
名乗らない美女は赤くなった頬に手の甲を当てて、まだ落ち着かない。
「どうして言っちゃうんだろ……こんなこと……不思議」
そこへ、翔平達が床板を踏んで現れた。
「ちーす! マスター、ポテトとグラタン三つ!」
「あ! 斎藤! ここにいたの?」
「おまえら、余計なところで出てくんなよ!」
「あにゆってる。おまえのカバン、届けに来てやったんだよ。どーせ振られて、ブルームーンでものんでると思ってな」
「ところがそうでもないのだ。おまえら邪魔だ」
「あー! さっきの美女!」
彼女はさっと横を向き、席を立った。
「あの、代金はこれで。私、失礼いたします」
「あ! グラタン食べてないのに!」
「水だけで充分です」
美女は慣れない急階段をそろりそろりと、降りて出て行った。
「オレの奢りを断る女子、いや女性は初めて見た! どうしよう、オレ惚れたかも!」
「あによ、やっぱ振られてんじゃん」
「るせー。きっとまだチャンスはある」
なんの根拠もない。
入れ替わりのように、ウエスタンブーツでがつがつと床を鳴らして春が入店してきた。
「今すれ違った人、最近よく見かけるわね~」
「なにい、春、その情報は本当か?」
「だよ。よくわからないけど、**海岸と大学前の駅を行ったり来たりしてるっていう噂だよ」
「未亡人と言ってたよな、つけ入るすきはある!」
「なに寝ぼけたこと言ってるの! いい加減に目をさますのよ! 雪緒には私というものが……」
「はーちゃん、斎藤のやつもう、行ったよ」
「雪緒~~~!」
「斎藤のやつ、カバンは持ってったな」
翔平達がこそこそし出す。
「よし、余計な火の粉をかぶらんうちに逃げよう」
春しかいなくなった丘サーファーの店は、がらんとしている。
そのとき、チーンとオーブンレンジの音が鳴った。
「どーすんの、このグラタン」
マスターががっくりと肩を落とした。
「私がやけ食いするから、よこして」
「あ、そうお? 熱いから気をつけてね」
「支払いは斎藤雪緒につけて!」
「しかし春ちゃんの言動には矛盾を感じるなあ。あんな情報、言ったら斎藤が追いかけるの当たり前だろ? あの女好きがさ」
「私は雪緒がここにいるなんてしらなかったもん。まーどこかで女の子、追い回してると思ってたけど」
「それでうちの店に来たの?」
「うそです。どーせ店のすみで、膝と膝がくっつくよーなテーブルに女としけこんでると思ったの」
「うちが狭いってことね」
「こんなことだと知ってたら……」
メラメラと嫉妬の炎を燃え上がらせる春にマスターは一言。
「ま、あれは春ちゃんが追いかけてくるの待ってたよーなもんだよ。病気だね」
「そう思う? だとしても許せない!」
春はどん! と木製のテーブルを打った。
「おかわり!」
雪に濡れた前髪が、ばさっと顔にかかって、水滴を落とした。マスターが布巾をさしだす。
「泣いてるように見えるよ、春ちゃん。どう? 斎藤なんかやめて、俺と……」
「怒ってる! 涙も枯れ果てたわ! とっくよ!」
春はうけとった布巾を、ビリビリィッと引き裂いた。
マスターは、
「お代と布巾の分は、皿洗いでいいよ」
しくりと泣いた。
その頃、斎藤は美女を探しに、最寄駅の前に来ていた。**海岸といえばローカル線で乗り継ぎだ。表示板を見上げているうちに、ふうっと磯の香りがしてきた。
(え? これはもしや、先ほどの美女の……)
そう思って振り返ると、長い黒髪の後ろ姿が改札の方へすっと入っていくのが見えた。
「ちょ、っちょっとスミマセン。通らせてください」
昼間からガヤガヤとした人通りの中を肩でつっきる。周りに迷惑だが、それくらいの勢いがないと追いつけない。
「痛い!」
婦人の声に飛び上がって謝る斎藤。
「気をつけろ!」
何やら目つきが怖い人もいる。
斎藤がやっと階段を下りていくと、ローカル線が出発したところだった。
「そ……そんな、オレの……オレのバカア!」
そこへふわりと漂う磯の香り。はっと顔をあげる斎藤。
「へ?」
そこに、美女はいた。斎藤は飛び退って相手を確かめ、近くに寄ってまじまじと見た。
「わああ! いた! 絶世の美女いたー!」
「まあ」
斎藤はその手をとって握り締めた。
美女はスッと白いハンカチを取り出して、斎藤の肩にかかる雫をはらった。
「どうしたんですの?」
そしてさりげなく斎藤の手を、そっと押しやった。
斎藤は美女を見て涙ぐみ、嗚咽をもらし抱きつこうとしてかわされた。
「逢いたくて……あなたに、逢いたくて」
斎藤は嬉し涙でぐしょぐしょになった顔で美女に迫った。
「そうですか……私も会いたい人がいます。もう、会えないけれど」
そう言って、眉も動かさない。ミステリアスな雰囲気だった。彼女が会いたい相手は、もうこの世にいないんだろう。そう斎藤には思えた。
(だって、未亡人だもんな)
「おかげで、やっと決心がつきました」
「え! まさか!」
緊張に斎藤は、鳥肌を立てた。
「ダメです! 絶対! あの世へ行くなんて、そんなもったいないこと、絶対!」
しばらく黙りこくって、美女はようやく口を開いた。
「私、シングルマザーなんですよねえ」
ため息混じりにぽつりと言った。
「え?」
なんのことか一瞬耳を疑う斎藤。
「目立たないでしょう? **海岸近くの産院に通ってるんです。もう、十二週目……三ヶ月になりますの。産んで施設に預けるのも、ひとりで育てるのも、今の自分にはきついなって……」
無言で口を開けっ放しにしている斎藤にその人は言った。
「ごめんなさい。私もう、行きます。あなたは大丈夫ですよね? もう……」
「……」
結局名乗らなかった美女を、斎藤は呆然として見つめ、彼女は去った。そのあとに春が来て、「こんなことだと思った」と言って彼を抱きしめた。
「マスターに聞いたの。**海岸の近くには不妊治療で有名な産院があってね……あの人、そこから来たんじゃないかって」
「だから……か」
(産みたいんだ、だけど一人はつらいから)
次の日、大学前を通りかかっていると、翔平たちに遭った。
「よう、斎藤!」
「なんだよ」
斎藤は翔平の笑顔に嫌な気分になった。
「昨日、無事だったか?」
「懐がいたんだわい」
(……しかし、それ以上に込み入った事態になりそうだったな……)
「あそこで春ちゃんが来なかったら、告げ口してやるところだったよ」
「おまえらなー」
「お! っと言ってる間に、またあの美女が来た!」
また常夜灯にご挨拶か、と思ったら、そこを通り過ぎた。参道の方へ入ってゆく。なんだか大急ぎで長くて細かい階段をのぼっていく。学生食堂を通り過ぎ、図書館に入っていく。階段下から見送り、彼女が慌てた様子で中へ入っていくのを確かめたあと、斎藤はさっさと追いかけていった。
「あーあー、斎藤のやつ、本気かなあ」
「春ちゃん、なんであんな奴が好きなんだ? 俺なら彼女を泣かせたりしないのに」
「何言ってる。おまえは彼女いるだろ」
「それでも春ちゃんが斎藤と……って思うとかわいそうだ」
「まあ、そだな」
図書館内。微かに聞こえるのはキーボードをいじる音と、コピー機の印刷音だ。
中学高校などとは桁違いの蔵書を誇る大学図書館。彼女はその本棚の間を、時折立ち止まりながらスイスイと歩き回っていた。
「おじょーさん」
斎藤が回り込んで声をかけると、彼女はかすかな悲鳴をあげた。
「しっ、今、卒論で血眼になってる先輩方いるから端っこの席へ行こう」
「あ、あの……」
「どうしたの?」
斎藤はさっさと席を確保しながら、ささやいた。
耳元で囁かれた彼女はぶるっと身震いして、自分の二の腕を抱いた。
「私、学生でもないのに、ごめんなさい」
斎藤は目で笑った。
「ああ、へいきへいき。この図書館、生涯学習の人も利用してるからバレないよ」
彼女は少しだけ申し訳なさそうにした。
「そう、後ろ姿があの人に似ていると思って、追いかけてきたのだけど……見失って」
「あの人って……男?」
斎藤はかすかにため息した。
「はい。背が高くって大股で歩くんです。いつも私が追いかけるようにして歩いてました」
「ほー、察するに」
ちらっと斎藤が表情を盗み見ると、彼女は居心地悪そうに身をすぼめた。
「その子の父親だ」
「違います」
「へ?」
斎藤はお間抜けな顔をした。
「彼とはもう、目も合わせなくなっていたんです。だから、私耐えかねて、この子の父親と結婚したんです」
「なんか入り組んでそうだ……」
彼女は震えて、口元を押さえながら語った。
「ごめんなさい。こんな話。悪いのは私なんです。結局あの人への想いを断ち切ることができなくて、この子があの人の子だったら、どんなによかったかとすら思えて……」
斎藤は正直どんな顔をしたものだか、わからなかった。ただ、彼女を痛ましく思う気持ちが口を開かせた。
「ああ、泣かないで」
彼はズボンのポケットから、しわくちゃのハンカチを取り出して、恥じ入るようにきつく畳んで彼女の涙をふこうとした。
しかし、さっと彼女はカバンに手をいれ、
「いえ、もってます」と。
「ああ、そう」
斎藤は後ろ頭をかいて、ハンカチをしまった。
そのとき、美女が「んっ?」というように視線をあげた。ちょうど斎藤の後ろにスウッと音なく近づく影があった。
「雪緒!」
春が斎藤の背を傘の柄でつついた。
「あだ! あだだだだ。は、春。どーしてここへ」
「翔平たちがおしえてくれたの。雪緒がまた悪さしてるってね」
「あのなあ!」
机の上に、身を乗り出しかける斎藤を、止める白い手があった。
「あの、私帰ります。お手間おかけしました」
「あ、おじょーさん」
「雪緒! 許さないから!」
「おまえは、どーしていつもいつも、いいところで邪魔するんだ?」
「へえ、妊婦にまでよこしまな雪緒はどうなのよ?」
スウッと春の目にドス黒い影がさした。
斎藤の目が恐怖に見開かれた。
「あ! ブタのチョウチンが空を飛んでいる!」
「誰がそんな手にのるのよ!」
「本当だよー」
「え? ブタのチョウチン? 貯金箱じゃないの?」
「ウソーん!」
斎藤は春を置いて、出口まで駆け抜けた。
「あー! 雪緒!」
『またかぁ……』
『病気だな、あの執着心』
春の後ろからヒソヒソ声が早口で聞こえてきた。翔平たちだった。
「雪緒のばかー!」
翔平たちは耳を塞いだ。図書館内には、しばらく険悪な空気が混じった。司書の方は見ないように、慌てて春を表へ連れ出そうとした。
だが、彼女は自分からエントランスを抜けて自動ドアを通って行ってしまった。
「どうする?」と翔平たち。
「なあ、あの美女……」
「赤ちゃんって言ってなかった? 妊婦って本当だったんだ」
「いや、いくら斎藤でも、そこまで手広くちょっかいは出さないだろう」
男子たちは固唾を呑んだ。
「だったら、どうして斎藤は美女追いかけて、春は怒り狂ってるんだ?」
「まさかとは思うが……」
全員顔を見合わせた。
「まさか、斎藤がお腹の子の父親、なんてことは……」
しばらくの緊張の後、誰かが吹き出すのが聞こえた。
「ナイな」
「ナイナイ」
「しかし、妊婦かあ……」
「オイ、想像するなよ」
「なにをだ。未知の世界だよ」
そう言いながら、ぞろぞろと表へ出て行く翔平たちだった。
「丘サーファーの店行くか。この前食べ損ねたし」
「おー」
× × ×
「斉藤さん、私お金払いますわ」
「いーのいーの。おーキタキタ。ここのグラタンとステーキ、うまいんスよ。お腹の子のためにも、たんとどーぞ」
図書館から参道を歩いていた美女は、斎藤に捕まり、また妙に接近する形で丘サーファーの店に連れ込まれていた。
「ウエイトレスさん、今日も素敵!」
すると美女は口元を押さえて顔を背けた。
階下からマスターが上がってきた。
「今春ちゃんがすっとんでったぞ、駅の方へ」
斎藤はニヤリとして、
「ふっふっふ。あいつは馬鹿だからな。オレがツケのある店へ、また来るとは思うまい」
マスターが不思議そうに言った。
「春ちゃんね、お勘定もってくれたよ。全員分のグラタン食べて、皿洗いもしてくれたよ」
「なぬ?」
(……春のやつ、全部オレにツケたと言っていたではないか?)
「どういうことだ? ちょ、ちょっと、失礼」
狭い階段を降りていって、駅へ続く道を見つめる斎藤。
そのとき、美女が口元を押さえたまま、階段を慣れない様子で降りてきた。
「あっ」
彼女がつまづいた。
「おっと、アブナイ」
抱きとめて支えたのは翔平だった。
「アリガトウゴザイマス」
彼女はなんだか具合が悪そうだ。
ところが斎藤はというと、
「んなー! おまえっ、翔平! オレでさえまだ触ったことないのに!」
「バカ言え、妊娠してんだろ、この人。こんな急階段のぼりおりさせる奴があるか!」
衝撃を受ける斎藤。
「そ、そうか。だから春もここは素通りして」
「そうだよ! タコ雪緒」
高い声にビクッとして皆、後を見てみると、息を切らせた春がいた。
「は、春。おまえ……駅へ行ったんじゃなかったのか」
「行ったわ。で、駅の人ごみ見て引き返してきたのよ。なーんか違うって感じてね」
「春ちゃんすげえ」
「もうちょっと、人をいたわるってことを憶えるのね!」
春はハイキックしてきた。季節外れなサブリナパンツが綺麗な動きを辿って、斎藤の背中に決まった。
「ぐああ!」
さらに、春に卍固めを決められて、腕がもげそうになる。
……クスッという笑いが不意に耳に飛び込んできて皆振り返る。美女が笑っている。
「大丈夫ですか?」
斎藤がずいずいと前へでる。
「そちらこそ……」
「でもなんか顔、赤いスよ」
「大丈夫。ぜんぜん、いたって平気」
美女は潤んだ瞳で微笑んでいた。
「皆さん、ありがとう」
彼女は深々と頭を下げた。
「私ら?」
自分を指で示して確認する春。
「みなさん、やさしくて。こんな人たちがいるなら、この子も……無事生まれるかわかりませんが……生まれるカイがあるよって、言ってやれる気がして」
「いたって普通ですよ、俺ら。斎藤が色ボケなだけで」
翔平が代表するように言った。
「だれが、色ボケだ」
「妊婦をこんな店に連れ込みやがって!」
「いいえ」
名乗らない美女は遮って、静かに告白を始めた。
「私、この子を流産しても、そのほうがいいんじゃないか、なんて……心の奥で思っていたんです。だからお店にも来たし、階段もつまづきました」
「それ、わざっ……」
斎藤を遮って翔平が否定する。
「それでもわざとじゃないでしょう? お子さん守るために、そろそろと降りてきたんでしょう?」
「ええ。でも……調べてみたら、今は支援センターもあるし、がんばってみなさんみたいないい子になるように、育ててみたいと思いました」
七月も上旬、台風の季節の真っ最中。
『斎藤……』
講義中に呼び出されて話をされた。
なにかひどくうろたえた母親から、学校に連絡が入ったらしい。
(スマホに直接メールしてくれればいいのに。後で見るし)
教頭の目もあり、いそいで家に連絡すると、母親が泣き崩れたまま電話口に出た。
どうやら知らない女から葉書が届いたという。
廊下の隅を見ると、翔平の姿もある。
苦笑いしていると、彼は親指を上げてニヤリとした。
内心がっくりきて、翔平を睨んでスマホに向き直る。
こういうことははっきり言ったほうがいい。
「あー、母ちゃん?」
「だから、違うって! 生まれたっていうのは俺の子でもなんでもなくってだなあ、知り合いの娘さん!」
「なんでただの知り合いが子供生まれたって連絡してくるのかって? 古風なたちなんだよ!」
頭と首の付け根をがりがりかいていると、キャンパス内を春が白衣で闊歩しているのが見えた。
(女はいいよな……誤解されようないもの)
斎藤が片手を振ると、春は気づいて親指を立てて寄ってくる。どうやら、話題に事欠かない顔をしている。
「おまえんとこきたか? 田中さんだっけ」
「うん、今時手書きの葉書、ピュアだよねえ」
そこへ翔平が来た。
「双子だったって?」
「育てるの大変そうだよなあ、男ふたりって」
「あら、どうして?」
「オレなんか三歳の時、ベッドの上から二歳の弟の上にダイビングしてホールドした。泣いたなあ、二人して」
「死ぬ! 雪緒、それ弟さん死ぬから!」
「それが大丈夫だったんだよなあ……赤ん坊とはいえ、ヤツも男だったということだ」
「いや~男のほうが意外と情けないぜ? 俺一人っ子だったから、幼稚園行くのイヤで、一週間毎日泣いたって」
「嘘だろ、それ三日の間違いじゃない?」
「いやいや、俺なんかデリケートだからさあ」
「いやいやいや、オレなんか、初めてのデートのときさあ……」
春がそのやりとりを呆然と眺めて、あきれたように言った。
「ようするに馬鹿さが二倍ってこと?」
「「違うぞ! 春!」」
同時に叫んで、斎藤がムッとした顔をする。
「なんでおまえが、春を呼び捨てするんだよ」
「あっ、許してはーちゃん」
「オレに謝れー!」
× × ×
「田中さんは雪緒たちみたいな子に育てたいって言ってたし、二人共、責任重大よ!」
言われて青くなって、二人は辞書類をひっくり返した。
「彼女、海女さん志望だったんだってさ」
白い紫陽花が雨に濡れそぼる季節だった。
END
真冬の人魚 れなれな(水木レナ) @rena-rena
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