第十話 雨

 尤磨は虻切あぶきりを斜めに構え、足をりながら次郎兵衛じろべえに近寄る。

 少しずつ、慎重に。

 すさまじい剣気がぶつかってくる。

 アレは餓鬼なのか武芸者なのか。

 倒すべき敵である事だけが唯一確か。

 尤磨ゆうまが相対しているのは目の前の敵だけではなかった。

 逃げてはならないものから逃げてしまった自分自身。

 それとも対峙しなくてはならない。

 背中の傷跡がきつく痛む。

 この斬り傷の痛みは母からの叱責だと思っていたが、むしろ母からの励ましと思おう。

 自分のこれまでと対峙する尤磨の背中を押してくれているのだ。

 覚悟を固め、尤磨は前へと踏み出した。


「やっ!」


 敵に接近した尤磨が虻切で薙ぐ。

 黒い敵は身を引きつつ両手を上げてそれをかわす。

 そして剣を振り下ろした。


「ふぅっ!」


 尤磨は横にのけ反って避ける。

 体勢を立て直した尤磨は刀を横に構えた。

 一撫流いちぶりゅうが得意とするのは横薙ぎ。

 そこからの斬り上げ。

 いくつか奥義があったが、香那かなつかえるそれを、尤磨は遣いこなせない。

 今までの行いが、今になって尤磨を嘲笑あざわらった。

 尤磨は焦りを鎮める。

 無理は命取り。

 出来る事を。

 今出来る事を。


「ぎょうぶ……あぶきり……ぎょうぶ……」


 黒い人形ひとがたは暗く呟きながら身体を小さく左右に揺らす……。


「やあっ!」


 尤磨の横薙ぎ。

 すぐに斬り上げる

 避けた敵に隙。

 しかしそこから一歩踏み出し脳天に振り下ろす事が、尤磨には出来ない。

 避けきった黒いヤツはわらっていた。

 尤磨の未熟を嗤っている。

 敵が刀をひねって切っ先を向けきた。

 ふっと踏み込んでくる。

 拍子をずらされた。

 脇腹にけるような痛み。

 よろめき、後ろへ数歩下がる。

 ああいうやり方があると、教えられていたのに。


「くくく……ぎょうぶめ……ぎょうぶめ……」


 肩を揺らしてよろこぶジロベエ。

 侮られている。

 しかしそう思われても仕方がない体たらく。

 駄目だ。

 今は弱気になる時ではない。

 敵の斬り込み。

 はやい!

 尤磨は辛うじて刀を上げる。

 刃同士が接した瞬間、相手の刀が白色になって四散した。


「虻切!」


 香那が叫ぶ。

 真っ黒いヤツが大きく後ろに跳んだ。

 尤磨にはこれがあった。


「あぶきりぃぃぃぃ……」


 敵の真っ黒い手から新たな刀がせり出てきた。

 それをいきなり投げてくる。

 とっさに対応出来ず左肩に喰らう。


「ぐぁあっっ!」


 激痛によろめく。


「ぎょうぶぅ……ぎょうぶぅ……ぎょうぶぅ……」


 新たに生じた刀を手にし、黒いヤツは唄うように身体を大きく揺らめかせた。

 どうにか黒い刀を肩から抜く。


「ぐぅっ!」


 勝てない。

 尤磨の内側から弱音が聞こえてきた。

 いつものように逃げ出したい衝動が、いくら抑え付けても滲んでくる。

 このままでは負けてしまう。


「もうやめてくれっ!!」


 椿の悲痛な叫びが後ろから飛んでくる。


「もういい、もういいんじゃ。お主に死なれる訳にはいかん。お主に死なれたら……儂は……儂は……」


 椿の苦しみが伝わってきた。

 自分のせいで多くの親しい人を不幸に追い込んだ。

 あの子はそう思い込んでいる。

 そんなふうに思わせてはならない。

 彼女を呪縛から解放しなくては。

 全てを振り切りそれだけを考えろ。

 尤磨は、刀を強く握り締めた。


「黙って見てろ! 奴をぶっ倒す俺を、ただ見ていろ!!」

「尤磨……」


 敵が刀を大きく上にやる。


「ぎょうぶぅぅぅ……」

「あんなおっさんと一緒にすんな! 俺は、綱下尤磨つなもとゆうまだっっっ!!!」


 虻切を左横に引き寄せ、一気に踏み込む。

 次郎兵衛じろべえが刀を振り下ろす。

 尤磨が横に薙ぐ。

 敵の刃が尤磨の肩に届く前に、

 尤磨の刃が敵の脇腹に届く前に、

 霊妙なる刀の気が、黒いヤツを深くえぐった。


「父上っ! 黄泉国よもつくにで、しばし待たれよぉっっっ!!!」


 椿の叫びを背に尤磨は虻切を振りきる。

 両断された真っ黒いヤツが一瞬で白い粒子の集合に。

 不意に虻切の鍔からリーンと高い音が鳴る。

 その澄んだ響きに導かれ、白色の集まりは人の形を保ちつつひとつの虹色の光に変化した。

 朧気に人の顔が浮かび上がってくる。

 さらに手や足、服まで。

 武芸者の出で立ちをした男がぼんやりと現われた。

 男は自分の両手を見る仕草をする。

 人に戻って驚いているようだ。


「父上……」


 いつの間にか椿が尤磨の隣に。

 椿が男に向かって手を伸ばすと男の身体がすっと後ろへ下がる。

 そして深々と頭を下げてきた。


「うん」


 椿が一度うなずく。

 男はゆっくり頭を上げると椿に背を向け、真っ直ぐ向こうの方へと歩き始める。

 徐々に姿が薄くなっていき、やがて跡形もなく消え失せた。

 彼方次郎兵衛あちらじろべえは黄泉路へ旅立てたようだ。


「やったぞ、尤磨!」


 香那が歓声を上げる。

 虻切がなければやれなかった。

 それでも尤磨は勝ちを噛みしめる。

 今まで得たくても得られなかった感覚。

 これが勝つという事か。


「ふ……ふふふ……」


 横を見ると椿が笑い声を出していた。

 ……ぽとぽとと、雨粒が落ちてくる。

 穢れたモノと戦った者達を清めてくれるかのように。


「これで終わりじゃ……終わりなんじゃ……」

「ああ、終わりだ。終わりだよ、椿……」


 尤磨は椿の前に立つと、愛おしい人の頬をそっと撫でた。

 赤坂刑部の子孫の力で餓鬼を倒し、彼方次郎兵衛の執念を消し去る。

 それを尤磨達はやってのけた。

 虻切の圧倒的な力でもって餓鬼を打ち倒し、虻切の鍔に刻まれた観音様のご加護で次郎兵衛の執念を洗い流したのだ。

 これで椿を縛っていたものは完全に消え去った。


「これで……これでようやく……ようやく、儂の願いが叶うんじゃ……」

「うん……」


 雨が少しずつ強くなっていく。

 この雨が天からの恵みであったとしても、椿のこれまでを洗い流す事は出来ないだろう。

 しかしもう悪夢は終わった。

 数多の悲劇はもはや過去の物となったのだ。

 これからは普通の少女として生きていける。

 それこそが椿の――


「死ねる……」


 天を仰ぎ、雨粒を顔に受け、椿は微笑んでいた。


「何言ってる、椿?」

「儂の願いはたったひとつ……死……死んで皆に詫びる事こそが、儂の願い……死ねる……死ねる……儂は死ねるんじゃ……あはははは……」


 椿が高らかに笑い声を上げる。

 ずぶ濡れになりながら、ただただうれしそうに……。


「おい……それはないだろ?」


 尤磨が椿の肩を揺すっても、椿は空から目を離さなかった。

 その先に、雨雲の先に、彼女の望む世界があるかのように。


「あはははは……死ねる……ようやく死ねるんじゃあ……長かったのぉ……みんな、すまなんだのぉ……儂もそっちへ行くからのぉ……ようやく死ねるんじゃあ……あはははは……」

「椿、しっかりしてくれ、椿!」

「死ねる……ようやく終わりじゃあ……あはははは……誰も不幸にせんで、ようなるんじゃあ……死ねるんじゃあ……」


 顔を雨で濡らす椿は、笑いながら泣いているようにも見えた。

 椿そのものを流してしまいそうな強い雨。

 違う……違うだろ、椿?


「やめろっっっ!!!」


 尤磨が声を張り上げる。

 身体を大きく震わせた椿が、ゆっくりと尤磨に顔を向けた。


「どうした? 尤磨……」

「違う! 違うぞ、椿っ!!」

「何が違うんじゃ? お主も喜んでくれ……儂はようやく死ねるんじゃ……皆におううて謝れるんじゃ……」


 相変わらず微笑みを浮かべる椿を尤磨は見ていられない。

 だから椿の頭に手を回し、自分の胸に収めてきつく抱き締めた。

 このまま流されてしまわないように。


「聞け、椿!! お前は生きるんだ!! お前はこれから生きるんだよっっ!!!」

「生きる?」


 椿がぽつりと呟く。


「そうだ! お前は死ぬ! いつか死ぬ!! だけど生きるんだ!! 生き続けるんだ!! 死ぬまで俺と、生きていくんだっっ!!!」

「生きる……? あんなに多くの人を……不幸にしておいて……?」


 尤磨は腕の力を緩め、椿の顔に貼り付いた髪をそっと除けた。


「生きてくれ、椿。生きて欲しいんだ。椿に関わった人間は、みんなそう願っている」

「儂は……生きていいのか……?」

「当たり前だろ!」


 いきなり香那が椿にデコピンをする。


「いてっ!」

「馬鹿な事言う子にはお仕置きだ。椿ちゃんは生きるんだよ。これからはただの女の子としてね」

「ただの、女の子……」

「そうだよ、椿。一緒に生きていこうぜ」

「きっと楽しいよ」


 姉弟から微笑まれ、椿は呆然としていた。

 その表情が少しずつ崩れていく――


「う……うう……生きる……儂は、生きるのか……うう……生きるのか……」


 椿は整った顔をくしゃくしゃにし、雨の中いつまでも子供みたいに泣きじゃくった。






 窓からの朝日を受けながら尤磨は部屋着を脱いだ。

 部屋の中にある姿見で自分の身体を見てみると、ジロベエとの戦いで付いた傷は全てきれいに治っていた。

 虻切の霊妙なる力のおかげだろうとは椿の推測。

 やはり全ての傷が完治した香那は、玉のお肌に跡が残らずに済んだなどと図々しく喜んでいる。

 尤磨は自分の背中を姿見に映す。

 そこには相変わらず母に斬り付けられた傷跡があった。

 虻切は化物との戦いの傷だけを治すのだろうか。


「ま、これでいいんだよ」


 尤磨はこの傷跡が母を理解する助けになると思っていた。

 今までは母から逃げるばかりだったが、これからはちゃんと向かい合いたい。

 尤磨はまず、武術の稽古を再開した。

 香那は容赦なくしごいてくるが、どうにか食らい付いていくつもりだ。

 そうやって武術から逃げずにいたら、いずれは母へのわだかまりも無くしてしまえるかもしれない。

 制服を着終えたところで部屋の扉ががちゃりと開いた。


「のう、そろそろ学校の時間らしいぞ」

「あれ?」

「ん?」


 尤磨が首を傾げたら、部屋に入ってきた椿も首を傾げた。


「今日から学校だろ?」


 椿はいつも通りのセーラー服に黒いタイツだ。


「こっちの方が似合ってんじゃん」


 椿の後ろからひょいと顔を出したのは香那。

 こっちはベージュのブレザー。胸に大きな赤いリボンを提げて。


「似合ってるから? そんなんでいいの?」

「だ~いじょうぶ、だいじょーぶ。校長に無理をねじ込むとか余裕ですから、私」


 ぐっと親指を立てた。

 確かに香那なら何でもありなのだろう。


「じゃあ、学校行こうぜ!」


 香那がぴょんと尤磨の脇まで跳び、身体を寄せて腕に絡み付いてきた。


「む、香那、くっつきすぎじゃぞ?」


 椿が厳しい視線を香那に向ける。


「惚れた男にくっつきたいのは当然じゃん」

「惚れた?」


 香那の言葉に不思議そうに首をひねる椿。


「男の子のあんな格好良いとこ見ちゃって私はキュンキュン。禁断の愛なんて関係ないっすよ」


 香那がぎゅーっと胸を尤磨の腕に押し付けてくる。


「な、な、な、何をうておるんじゃ、貴様! 関係ないで済ませるなっ!」


 目に見えて焦っている椿が大きな声を上げた。


「香那の冗談って、ホントにタチ悪いよなぁ」


 じとーっと姉を見る尤磨。

 それに対して香那は悪戯っぽい笑顔を向ける。


「えへへ。でも格好良かったのはホントだよ。尤磨はね、やる時はちゃんとやる子なんだ。私は知ってたよ」


 と、頬にキス。


「お、おう、サンキュー」

「おい、尤磨!」


 椿の怒りの矛先は何故か尤磨の方に向いていた。

 さらに怒鳴ってくる。


「ちょっと屈め!」


 その迫力に圧されて尤磨は少し腰を落とす。

 すると椿は尤磨の両頬に手を添えて、そっと優しく唇を重ねてきた。

 離れた椿の顔は真っ赤。耳まで赤く染まっている。


「お主が格好良かったのは、儂が一番知っておる」


 尤磨の目を見ながら照れくさそうに言う。


「お、おう、サンキュー」

「は~い、一件落着~」


 香那はそう言うと、部屋に据えてある真新しい鞘に収まった日本刀を手に取った。

 それを尤磨の方へひょいと投げる。


「おいっ! 虻切を投げるな!」

「だ~いじょうぶ、だいじょーぶ。そいつは実用本位なんだから荒っぽいくらいでちょうどいいんだよ」


 虻切の刀身が現われたのは一時的なものかとも思ったが、そのまま実体を保ち続けていた。

 椿の知り合いに作ってもらった霊力を抑えるという鞘に収め、尤磨が普段から持ち歩く事にしている。


「赤坂刑部の言う代償は今の所まだないのう」


 椿はわざと軽い調子で言うが実際は相当警戒おり、例の笛の筒に新調した直刀を入れていつも持ち歩いていた。


「でも、いつかあるはずなんだ」


 竹刀袋に入れた虻切を肩にかけながら尤磨は言う。

 今度は怖じ気づかず困難に立ち向かいたい。

 尤磨はそう強く念じている。


「ま、何があってもこの三人なら余裕っすよ。それより当面の問題は椿ちゃんだね」

「儂?」

「椿ちゃんが穏当な学生生活を送れるとはとても思えない」


 香那が大げさに首を横に振りながら部屋を出る。


「ああ、実は俺も心配してる。集団生活とか出来なさそうだよな、椿って」


 同じクラスに来るらしいので尤磨は相当フォローする事になりそうだ。

 学生鞄を持って尤磨も扉の向こうへ。


「お主等、儂を何だと思っておる。むしろ尤磨が心配すべきは各地でなんとか小町と呼ばれておった儂の魅力のとんでもなさじゃ。あんまり儂をぞんざいに扱うておると他の男に……」


 ぺちゃくちゃと喋りながら椿が廊下に出る。

 それを見届けてから尤磨はばたんと扉を閉めた。

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椿の花は、落ちる為に咲いている いなばー @inaber

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