第10話オリンピックがやって来る

 ぽん、ぽん、ぽん……軽快な音が夕闇に響く。あいつ、又、腹鼓打ってやがる。太吉は一家が暮らす北町アパートの少し手前、信楽焼きの狸が置かれた飲み屋の裏に広がる林に向かった。

 「おーい、九度郎~」声を掛けると林の奥から人間くらいの大きさの丸っこい姿が現れた。顔は眠たげで体形は狸に似て毛むくじゃらだった。

 出会いはおよそ半年前だった。学校から帰ってみんなで鬼ごっこをしていた。下の方で鬼ごっこをする事も有ったが、山の上の方が面白いし車もあまり通らないので、勢い、みな太吉の近所、空き地やら林の中やら時には近くの青山アパートの敷地内や他人の家の庭なども使って、遊び廻っていたものだった。その日も太吉は鬼ごっこで逃げ回っていて、林の中に飛び込んでいた。その時だった。何か柔らかいものを踏み付けてバランスを崩し、その柔らかいものの上に倒れ込んでしまったのだ。

 「何だ?」顔を起こした太吉は何か毛皮の様なものの上に自分が居る事に気が付いた。確か近所のおばさんが、こんな手触りのコートを着てたっけ…太吉がそんな事を想った時だった。不意に毛皮の下が動いた。え?誰か下に居るの?恐らく動物の毛皮の下に誰か寝ていたのだ、と太吉は想った。毛皮の正体が動物だとは想っていなかった。柔らかいが暖かくないのだ。犬や猫に触った時みたいに。

 毛皮がずいっ、と持ち上がった。その上の方に顔らしきものが見えた。頭付きの毛皮かあ!そうした敷物も前に見た事が有った。だが、見た事のない動物の顔だった。あれ?眼が動く? 不意に、動物の顔の眼が下を向いたのだ。いや、眼だけではない。口も開いた。しかも、そこから言葉が流れて来たのだ。

 「お前、何だ?」動物が喋った!いや、こいつは動物なんかじゃないっ!妖怪か何かだ!

 不思議な事に恐怖心は湧いて来なかった。こいつ何だろう?と想ってその毛むくじゃらなものを太吉は見上げていた。妖怪にはあまり詳しくなかった。小遣いが限られているので自身は貸本屋には行かず、教室で誰かが借りてきた漫画を一緒に読むくらいだったのだが、決まって借りて来る連中は、いつも戦争ものか、探偵ものの様なものばかりで、妖怪が出て来る様な漫画はなかったのだ。他の教室では妖怪ものを借りて来ている子も居たらしいのだが、そこ迄して読む気もなく今に至っており、こんな事なら他の教室に行って迄、妖怪の出て来る漫画を読んでおくのだった、と今更ながら太吉は後悔していた。何かこんな風に毛むくじゃらで立っているヤツは居なかっただろうか?そう云えば何かの挿絵で人を化かす狸とやらが、こんな感じではなかったか?

 「お前、何だ?」そいつが又そう云ったので、太吉も「江戸太吉」と名乗った。するとそいつは「エド=タキチか、それがしは我らが大いなる父祖Tsathogguaツァトッグァから分裂増殖に依り生まれし百代後裔のChdhrokdhohuthromクドロクドーフトロムだ」と名乗った。とは云え、太吉には発音が能く聞き取れぬ処へ持って来て子供には難しくて意味不明な言葉も混じっており、結局、太吉はその妖怪か何かを茶トガの九度郎と憶えたのだった。

 話してみると茶トガの九度郎は人懐っこい性格で、嘗ては侍と一緒に旅していた事も有るそうなのだが、その後二百年程眠っていたと云い、世の中が随分変わった事に驚いていた。それで太吉は色々と今の世の中の事を、と云っても太吉が知っているごく狭い範囲内でだが、教えてやる事にした。

 それからだった。太吉はいつも放課後は此処に来ていた。親は太吉が友達と一緒に街頭テレビを見に行っていると想っている。確かに以前はそうだったが街頭テレビを見ていると、うちは何時テレビを買う予定だ、と云う話が出て来る。全然買う予定が無いのは太吉の家だけで、それが嫌で太吉はつい皆と距離を置き始めていた。皆、この夏は街頭テレビでなく家でオリンピックを見る事に成るのだ。

 オリンピックを何処でやるのかは太吉も知っていた。青山アパートや太吉が通う小学校を右手に通り過ぎ、坂を上がって駅や神宮を矢張り右手に進むと、まるで宇宙船でも発着しそうな未来的な形の巨大な建物が見えて来る。そこでオリンピックが行われるのだ。

 「オリンピック?ああ、今度は此処でやるのか」意外にも九度郎はオリンピックを知っていた。九度郎の親族と云うのが世界中に居り、何時、何処で情報交換をしているのか話には聞いて知っていると云う。それならば、そうした親族たちから教えてもらええば今の世の中の事も少しは判るだろうにと太吉は想ったが、日本が違い過ぎて判らないのだと云う。親族たちは、みな外国に居るのかと訊くと、日本にも居る筈なのだが寝ているのか連絡がつかないと云う事だった。そうした話をしながら、九度郎は大きな黒犬に変身していた。「この姿もしっくり来んな~」とか云いながら。

 Tsathogguaの眷属である『形無しカタナシの裔』の一柱である九度郎は、自分の固定すべき姿を決めかねていた。狸を気に入ってその姿を選ぼうとした事も有ったが、既にBavhorrabhyaバヴォッラビアと云う『形無しの裔』がその姿を選んでいた。狸ばかりか九度郎が気に入った生物は、大抵他の『形無しの裔』に取られていた。それで九度郎は絵画や彫刻、漫画に迄範囲を拡げて気に入りそうな姿を探していた。勢い太吉もそれ迄は専ら駄菓子屋で消費していた少ない小遣いを握り締めて貸本屋に行く様に成っていた。妖怪の出ている漫画もそれで読む様に成った。

「この狸、ええな」九度郎が持って来た貸本漫画の絵を見ながら九度郎が云う。「水木しげるの描いた狸にするのか?」「少し考えてみるわ」

 翌日、林に行くと奥から「お~い、この姿に決めたぞ」と云う声がする。太吉は漫画の狸を想い浮かべながら足を進めたが、程無くして信楽焼きの置物に衝突した。「痛っ!何で置物がこんな所に…」

 「おおい、わしじゃ」傘を被り酒の徳利をぶら下げた信楽焼きの狸が、にっ、と笑った。

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神々の骰子、妖術師の弟子たち、その他の物語集 𠮷田 仁 @ZEPHYROS

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