第9話 生贄です
わたしは割と勘が良い方だ。だから、朝、起きた時に何と無く嫌な感じがしていると、大体それは当る。その日の内に良くない事が、少なくともわたしにとっては良くない事が起きるのだ。
今日もそうだった。五月の連休が終わり再び面白くもない授業が再開された日、新任の教師がやって来た。その事は、わたし達生徒に対し事前に周知はされていた。人間の教師としては三人目だとも聞かされていた。
うちの学校の教師は大半がキノコの一種だ。冗談ではない。遠く
新任の教師は、教頭に、当然の様に教頭もキノコなのだが、連れられてあちこち教室を回りながらやって来た。教室の戸を開けて教頭と連れ立って入って来た時は一寸した衝撃だった。
「今日から本校に来られた宇佐美浩一先生です。先生はこの近くのご出身で、東京で
わたしは途中から教頭の話を聞いていなかった。
わたしは
その嫌な感じは放課後には現実と成った。
両親が別れて以来、わたしは父と二人暮らしだったが、今は家に独りだ。課外活動もしていないわたしはホームルームが終わると歩いて十五分程度の家にそのまま帰る。その日も帰って夕飯の仕度をしていると誰かが訪ねて来た。兄だった。父は離婚後、鍵を取替え母と兄には新しい鍵を渡していなかった。だから兄は他人行儀に呼鈴を押してやって来た。
兄は上がって来るなり怖い顔でわたしを睨み付けた。
「親父を殺したのか?」
わたしは想わず吹き出していた。
「何よ、それ。今は
いや、よく考えてみれば最初は死なせる積り充分だったのだが、まあ結果としてTsathoggua様の下で雑用を仰せつかっているのだから、この説明もあながち間違いでは無い。
「それよりお母さんはどうしているの?」と訊くと「俺と同じ教団で、今は司祭長をしている」と云う返事だった。
その後もややぎこちなさは有ったものの、わたしと兄は互いの近況に関する情報を、どの程度真実かはさておき一時間に渡って交換し合った。そして兄は帰って行った。わたしはすかさず電話を掛けた。「はい、
あかりはこの春から大学生だ。この辺りから十分くらい上った所に企業城下町と呼んでも良さそうな超近代的な建物が集まる一帯が在る。そこには大学も在り、あかりはそこに通っている。あかりだけではない。前のクラスメートの三分の一はそこに通っている。わたしはと云うと、今は、いや、今も高校生だ。昨年度、つまり三月迄は土星組だったが、今年は冥王星組だ。今のわたしは三年冥王星組だ。ちなみに土星組の前は地球組だった。と云っても一年生の時の話だ。その時はサボリが多くて出席日数が足りず留年した。そして二度目の一年生の時に土星組に成ったのだ。で、今年もつい、うっかりやらかしてしまった。出席日数が足らなかったのだ。
あかりに電話してから、わたしはチビに餌をやる為、奥の納戸に向かった。チビは
で、棲息に日光を必要とするチビを地底に届ける訳には行かず、わたしが面倒を見ていると云う訳なのだが、幸か不幸か日光浴が必要な以外は全然手の掛からぬ子だった。おまけに、この納戸は、親父が手作りでこの家に追加したのだが、完全に失敗作で納戸のくせに大きく窓を、それも南向きに設置していてこの家の中では明るいどころか眩し過ぎるのだ。なので納戸に置かれたチビはいつも窓の前に行って日向ぼっこしている。流石にもうそこから陽は差し込んではいないものの、チビはその場にじっとしていた。正確に云うと、わたしがそこに置いていたTsathoggua様の像の頭の上に。母が兄を連れ出て行く時に置いて行ったものなのだが、丁度、登り易いらしく、いつも頭のてっぺんに乗ってじっとしているのだ。チビに限らず、太顎鬚蜥蜴は岩の上に乗っかってじっとしている生き物らしい。
餌やりを終え、掃除した水飲み用の皿に水道の水を注ぐ。チビの本来の飼い主は金魚の水同様に水道の水を晒してからやっていた様だが、この町の水道は殺菌剤など余計なものは入っていない。入っているのはTsathoggua様のご母堂の
くだくだ話したが、要するに水道水に混ぜ物をするのは、こうした事態、当人達にとっては悲劇と成り得る事態を避ける為なのだ。元々の町の住人達はそうした事を知っており、大抵の家に井戸が備わっている事も有って、水道の水は飲んでいない。幾らTsathoggua様の信者だからと云って、矢張り思想制御の為の物質摂取には抵抗が有るし、況して三割から四割程居るTsathoggua様以外の神々の信者は絶対飲もうとはしない。だから町の住人は水道の水は手洗いにすら使わず、勿論、飲む事などしない。
もっとも井戸水に何も入っていないと云う保証は無い。何故なら時折り何かが住み着いているのだ。大抵の場合はTsathoggua様の落とし仔なので問題無いが、たまに居る野良Shoggothが入り込んだら厄介だ。忽ち臭いで判る。Shoggothに慣れ親しんでいる日笠月子の家などは、有害な物質は含まれていないから平気だと云っているらしいが、わたしは御免だ。
さて、それでは電話が鳴るのを待つとしよう、などと想っていたら、あかりからの電話はすぐに来た。驚いた事に、あかりは
「漫画が充実しているのよ」
確かにこの町では漫画を沢山置いている本屋なんて無い。先日も商店街の本屋でハードカバーの大きな漫画本を見つけて驚いていたら、あかりは既に持っているどころか他にもそうした大きなハードカバーの漫画本を幾冊も持っていたのだ。何処で手に入れているのかと想ったら、土星に行っていたのか!確かに町の隧道を抜ければすぐだ。Eibon街道だったら片道三十分くらいだろう。古き者達の信者である事を示すもの、いわば実質的な身分証明書とパスさえ有れば行って帰って来られる。そして、わたしなんかと違って御園の家にはそれが有る。
だが今はそれどころではない。わたしは転任教師、つまり兄の事をあかりに訊いてみた。勿論、あかりなら彼とわたしの関係も把握している事だろうが、余計な事は云わない。
「ああ、杏子のお兄さんの事ね」果たしてあかりは委細承知していた。それは予想済みだったが、その次の言葉には流石に驚かされた。「さっき本屋さんで漫画雑誌を立ち読みしていたわよ。確か少年キングだったかしら?」え?本屋って土星の本屋?
それから十分程度でわたしは兄だけでなく母の近況についても一通りの情報を仕入れる事が出来た。先ず、兄だが、実は土星の六畳アパートで暮らしているらしい。町外れの『扉』と呼ばれる他の世界への出入り口である洞窟近くに佇み、入居者の半分は洞窟内のトロリーバスの運転手など『扉』に関わる職に就いている者で、半分は兄の様に他の天体に職を持っていたりする者だと云う。中には先述したこの上の大学に通っている者も居り、うちの高校の一年生も一人居るらしい。大半は地球だが火星や木星に通っている者も居るとか。まあ他の天体と云っても太陽系の土星軌道より内側の惑星、小惑星、衛星に限られる。『扉』は土星軌道より外には通じていないからだ。教頭は、兄を土星で教師をしていたと紹介していたが、その時からそこのアパートに居たらしい。何、それ、とわたしは想ってしまった。そこは『扉』に関わる職業に就いている者や『扉』の向こうと行き来する者は別として、どう考えても土星に馴染めない、或いは馴染む気の無い者達が暮らす場所だった。
尚、兄の居るアパートは土星としては標準的な代物らしい。土星のアパートは畳ではなく菌糸床が使われている。或る種の菌を乾いた板の上にひとつまみ乗せると厚さが十センチくらいで六畳くらいの面積の床が形成される。水分が無ければ菌はそこで死に始め繁殖も止まり固まって理想的な畳の代用品に成るのだとか。
話を戻そう。父に見切りを着けた母は将来有望な兄を連れて東京へ行った。母の実家が東京で一番規模の大きなTsathoggua様の教団に連絡していたらしい。二人はすぐに教団に迎えられたが程無くして古き神々の騎士団がその教団に仕掛けたテロで教祖が死に、跡目を巡って三つに分裂したのだそうだ。その三つのうち一番規模の大きな宗派を率いているのが母だった。分裂の原因は作法に対する見解だったらしい。何でもその教祖は類稀なテレパシーの持ち主で、その力を用いてTsathoggua様・・・ではなくTsathoggua様の落とし仔の一柱である
正直、何それ?と想ってしまう。既にTsathoggua様の御前に二度も出た事の有るわたしには正解がはっきり判っている。一番古手の幹部の人の主張通りだ。結局古くから居るので教祖からも色々聞いていたのだろう。逆に他の二派は教祖からあまり話を聞いていなかった人達なのだろう。一番正しい意見に同調者が一番少ないと云うのも何か気の毒な感じもする。何か有れば味方してあげたい、とも想う。それにしても東京で一番規模が大きいと云いながら、誰もTsathoggua様にお目通りした事が無かったのか・・・
その後は何も無く過ぎて行った。兄も学校でわざわざわたしに話し掛けては来なかった。
兄の授業は、わたしの眼から見てもいい加減この上無かった。同じ人間の教師でも江戸先生はTsathoggua様の形無しの裔、即ちTsathoggua様の落とし仔や、更にその方々の末裔について授業で語った。
兄が赴任して来てから丁度一ヶ月程して、兄は生贄の捕獲実習に参加する子達を引率して東京へ向かった。参加するのは希望者の中の優秀な子達だけだ。優等生かどうかは関係無い、多分。と云うのは、わたしは自分で云うのも何だが、間違っても優等生ではない。サボリも多いし、授業中の態度も真面目とは云い難い。入学した時からだ。しかし、そのわたしが一年地球組の時には実習に参加して松本に行っているのだ。
兄の引率した子達は生贄の捕獲には成功したものの、或る意味失敗だった。Tsathoggua様の生贄には見た眼も美しく、と云ってアイドル歌手の女の子を、まあ、女の子と云ってもわたしとほぼ同年代だが、そんな子を捕獲したのだから、世間ではアイドルの失踪として大騒ぎに成ったのだ。生贄を捕獲するに際して有名人を対象から外すのは基本中の基本なのだが、兄にはそうした配慮がまるで無かったのだ。
兄が引率した一行は、意気揚々と薬物で眠らせたアイドル娘を学校に運び込んだ。一行のリーダーは今のわたしのクラスメートの黒小路家のお嬢様の筈だったが、兄に賞賛され鼻高々だったのは、三年天王星組の平岩晃子と云う子だった。実質パン屋の平岩食料品店の次女で、わたしの眼から見ても浮ついた子だった。わたしもあまり他人の事を云えた義理では無いが、彼女はあまり真面目では無い子だった。そして真面目でないからこそ「してはならぬ事」が有るのに、平気でそれをしてしまう子だった。「してはならぬ事」は「自滅への道」とも云い替える事が出来、「してはならぬ事」とそうでない事の区別が着かない子は、さっさと滅ぶ。しかも彼女は派手で根拠無しに自信たっぷりな子だった。そう云う子は自分が滅びるだけでなく周囲も巻き込む。
生贄にアイドルを選んだのは平岩晃子だった。生贄は万人が認める美しくタレントの有る娘にすべきだと主張し、失敗しても成功しても騒ぎに成るからと反対する子が多い中、兄はその主張を認め、ご丁寧に母とそのシンパにバックアップ迄頼んで実行してしまったのだ。しかし平岩晃子はその際、とある男性のアイドル歌手からサインを手に入れていた。後で彼女の持ち物から件の男性アイドル関連のグッズが大量に発見され、真の目的はそのサインに有ったのだと周囲が気付いた時は後の祭だった。生贄として捕獲されたアイドルはその男性アイドルとの交際が噂に成っており、捕獲が実行された時、二人は男性アイドルの友人名義のマンションの一室で密会中だった。呼び鈴が押されて男性アイドルが様子を見に玄関迄行っている間に、窓から侵入したShoggothが生贄の捕獲に成功したのだ。だが、平岩晃子は余計な事を、彼女からすれば本当の狙いを、しでかした。応対に出た男性アイドルに部屋の主である彼の友人の名前を出してドアを開けさせる事に成功すると、手にした色紙にサインをねだったのだ。後日、平岩晃子は彼を引き付けておく為の方便だったと主張したのだが、サインに”晃子さんへ”と迄入っていては、その弁解は通り難かった。何にせよ、その男性アイドルは窓が何かに切り取られアイドルが行方不明に成ったと警察へ届けた。恐らく、彼女との事は本気だったのだろう。発覚してスキャンダルに成る事を承知で警察に届けたのだ。Shoggothが変形して切り取った窓について、警察は何者かがダイヤモンドカッターの如き道具を使用したものと断定、その前後に不審な少女達がマンションの周囲をうろつき、一人が中に入り、どうやらそれがサインをねだった少女らしい事迄、警察は突き止めた。そして、男性アイドルは「晃子」と云う名前や、少女の顔も憶えていた。世間知らずだった兄は警察が動く可能性をまるっきり考慮していなかったのだ。
事此処に至って大人達が、町のお偉方が動いたが全ては遅きに失した。捕獲してしまったアイドルについては騒ぎが大きく成ってしまった今、Shoggothを投入して偽者を作ってアイドルが帰ったフリをさせても失踪騒ぎへの追求が已む筈も無く、何より「晃子」と云う名と「晃子」の似顔絵を警察が公開してしまっていたのだ。この状態で警察の上層部が捜査の中止を命じても世間の不審と警察内部の不審を買うだけだ。町の大人達の結論はアイドルは失踪したまま、「晃子」は何処かで死亡、と云う事に成った。
かくして平岩晃子は身元を確認出来る物を一切身に着けず、大手メーカーの下着とジャージのトレーナーの上下にスニーカーを纏い、ご丁寧にトレーナーの内側に件のサイン色紙も入れた上で、東京郊外の廃墟ビルで首を吊った姿で発見された。そしてアイドルの方はTsathoggua様に美味しく召し上がって頂ける様、土星のTsathoggua神殿の奥で飼育されている。折りしもイスラエルがレバノンに侵攻したとかで世界中で大騒ぎし、マスコミの話題も、ほぼイスラエルの侵攻一色に塗り潰されていた頃で、その間隙を縫って「晃子」の死は演出された。狙い通り、人々の関心は遠い、しかし日本にも影響を及ぼしそうな海外の紛争に集中しており、アイドル失踪に関わる謎の少女の自殺は然程世間の耳目を集めずに済んだ。
その件で、元々、教師としての株が下降中の兄だったが、此処に来て更に下落の一路を辿る破目に成ってしまった。多分、現在は最安値だろう。
ちなみに今のクラスで仲良く成った片岡かすみはこの騒ぎを内心面白がっている様で、昨年迄学年が違っていたわたしは知らなかったのだが、平岩晃子は天王星組だけでなく、海王星組と冥王星組でも迷惑がる者が少なく無かったらしい。
そのかすみは、「杏子さんなら上手くおやりに成った筈でしょ?」などと無邪気に訊いて来る。どうやら一年の時のわたしの武勇伝を知っているらしい。一年の終わりの頃で、地球組だったから最初の一年の時の事だ。捕獲実習で松本に行った時、わたしは独り旅の観光客を狙うべきだと主張し、松本城で女の子ばかりカメラに収めている若い男に眼を着けた。写真を撮って貰いたがるフリをして話しかけ襲い易い所に誘い出したのだ。生贄を狙う所迄は良かったのだが、その後がまずかった。あの時、ミニスカートを穿いていたわたしをローアングルで撮っている最中に皆で襲ったのだが、結果から云うと失敗だったのだ。二人が左右から押さえ真後ろから一人が飛び掛って即効性の鎮静剤を打とうとしたのだが、服の布地に邪魔された事も有って彼は抵抗し逆に一人を捕らえてしまったのだ。皆パニックに成っていたが、わたしは逆に冷静だった。こう成っては已む無しと判断してナイフを取り出し彼の背後から飛び着くと同時に喉を掻き切ってやった。勿論、彼は死んだ。引率していた蛇人間の先生は仕方無く現地の信者達を緊急召還すると、彼の鮮度が落ちる前に松本の地下で簡易儀式を行った。全員減点もので、特に生贄を殺してしまったわたしは、可成りの減点だった。引率の先生の指示を仰がず無断でやってしまったのもまずかったらしい。それでも蛇人間の先生が、あの場は仕方無くわたしの判断は正しかったと主張してくれたので、補習をさせられたりする事は無かった。しかし一方でその事がわたしの武勇伝として喧伝されてしまったのだ。単に一番安全でてっとり早い選択をしただけだったのだが。
ところで話を戻して晃子の家の平岩食料品店だが、可哀想に晃子のご両親は意気消沈して商売どころではなく、晃子のお姉さまが大学を休学して店を切り盛りしているが、パンの種類はぐっと減ってしまった。
そんな事が有ってからおよそ一ヵ月が過ぎ世間も静まり始め、町のお偉方や学校側が安堵の息をし出した頃、不意に兄がわたしの所に訪ねて来た。丁度チビを抱きかかえて野菜の切れっ放しをあげている処だった。
戸を開けたわたしが抱き抱えているチビを見て兄は「それは河津神社の禰宜の車と云う男が飼っていたものではないのか?」と訊いて来た。
「ああ、イクローね。今は下よ」何時の間にそこ迄の情報を何処から兄は得たのだろうかと想いながら、わたしはそう口にした。
「床下に埋めたのか?」わたしは吹き出した。「違うわよ。地下でSfatlicllp様と一緒よ。あいつ、地上の事なんか忘れて面白おかしくやっているみたい」
途端に兄は怒り出した。「いい加減な事を云うな!スファ・・・ナントカって何処の誰だ?」
「え?Sfatlicllp様を知らないの?Tsathoggua様のお孫様と云われている・・・」
「だからお前達はダメなんだ。いいか、巷で流れている噂なんかに惑わされてはいけないんだ。Tsathoggua様に先ずご挨拶をし、その上でTsathoggua様にご紹介された眷族だけを信じろ。巷に流れている名前の神々など実在かどうか判らぬものばかりなのだ」
これは何を云ってもダメだな、と想ったわたしは、ふと想い着いて口にした。「だったらTsathoggua様の所迄降りてみる?」「良いだろう。お前達程度の者なら作法も知らずその場で喰われて果てるだろうが、このわたしは違う」
次の日曜日、わたしは兄と連れ立って地下へ降りて行った。兄は母と一緒に所属しているナントカ云う教団の、正確にはその教団でも母が率いる宗派の副司祭の格好をしていた。裃と袴を大胆かつカラフルにアレンジしたその服装一つ取っても何処のチンドン屋だと云いたく成る程に派手なだけで実用的ではなく、宗派の在り方を美事に示していた。
兄は地下に降りる途中で早くもバテ気味だった。それでも尊大であり続けた。
わたしは先ずSfatlicllp様の所へ立ち寄ってみた。
「おう、暫くぶりだなあ」四人のVoormiに担がれた輿に乗ってご満悦のイクローが声を掛けて来る。輿の上に設けられた座席に腰掛け、足元に置かれた盆の上には山海の珍味ならぬ地底の珍味が山と積まれている。大きな毒々しい茸を取って口に入れては悦に入っている。「喰うか?」麻薬に近い薬効が有るのかも知れないが、イクロー自身をSfatlicllp様は大事にしておられるので、彼が食べている物で直接健康に有害なものは無い筈だ。それでも精神を影響される気には慣れずわたしは「いらない」と答えた。イクローはわたしの返答を聞いたのか聞いていないのか、今度は六角形の果物を手に取り皮ごと齧り始める。
「Sfatlicllp様にわたしの兄をご紹介申し上げようと想って」と云うと、漸く口を止めて「ああ、今はTsathoggua様の所だ」と云う。それから想い出した様に「ところで俺のチビ、どう成った?」と聞いて来る。「元気だよ。手の掛からない良い子だよ」と答える。
「君、ひょっとして車幾郎君か?河津神社の禰宜の」
こんな所で人間に出会うなど予想だにしていなかったのだろう。それまでポカンと間抜け面でイクローを見上げていた兄が漸く口を開いた。
「おお、そんな事も有ったっけなあ。しかし今やSfatlicllp様の夫だ。Tsathoggua様の支配あそばすこの世界の皇子様だ」鷹揚な調子でイクローが答える。こいつ地上でもこんな感じで居ればこんな所に居る事も無かったのに、それとも地下でこそこんな振る舞いが出来ると云うのなら、適材適所と云うところか。そんな事に頭を悩ませていると、兄が余計な事を云い出した。「佐藤禰宜が心配していたぞ。どうすれば君を助け出せる?」
イクローは蔑みの眼で兄を眺めるとわたしに向かって云った。「おい、このバカ本当にお前の兄貴なのか?」「認めたくないけど、そうなのよ」だが、バカにバカと云われる程のバカ兄はそれでもバカを上塗りし続けた。「スファ何とか云うのが実在するらしいとは判ったが、どうすれば君を解放出来るのか?」
「Sfatlicllp様の名を知らない?このド素人、本当にお前の兄貴なのか?」「恥ずかしいけど、そうよ」「待て、素人とは何だ!わたしは偉大なるTsathoggua様を崇め奉る教団真正派の副司祭であるぞ」
イクローの顔に見下した様な笑みが浮かぶ。「ああ、あの三つに分裂したヤツの一番しょーもねえ派かあ。そんじゃ、しょうがねえな」
そうだった!イクローは首都圏でも大いなる古き者達の信者達の子女が集まる高校に居たのだった。その辺りの話も当然知っていたのだろう。そして、彼の口にした評価は高校の中での評価でも有るのだろう。と云う事は首都圏の大いなる古き者達の信者間に於ける評価も似たり寄ったりなのだろう。
だが、兄は自分達に対する世間の評価にまるで気付いていない。なので激昂した。
「無礼であろうが下郎!たかがTsathoggua様の眷属の眷属に成り下がった者のくせに!貴様なぞ強いて云うなら生贄の成り損ないだ!」最後の言葉には、わたしも同意出来た。だって、元々その積りでイクローを此処へ連れて来たのだもの。だが、云われた当の本人だけは同意出来なかったらしい。
「者共、その無礼者を叩き出してしまえ!」
途端に周囲に居たVoormi達が一斉に飛び出して来る。わたしと兄はすかさずダッシュでその場から逃げ出した。漸く安全な所迄逃げて来ると兄は「Voormiって、あんなに俊敏に動けるのか」と見当違いの事に感心していた。学校に数人居るVoormiの先生達は学校では人間に合わせて動きをセーブさせているけど、本来の彼等は獰猛で敏捷な捕食性なのだ。
「これで判ったでしょう。イクローは死んでなんかいない」とわたしが云うと、「ああ、それも判った。だが、親父を殺した罪は消えた訳では無いぞ」と、まだ云い募る。わたしは構わず先を進んだ。
Tsathoggua様の玉座近くに、箒を持った人影が見える。接近して兄はギョッと立ち竦んだ。「親父・・・こんな所で何やってんだよ!」父はぴくんと眼を見開いて「こ、浩一?お前、チンドン屋に成っとったのか?」兄は父親が生きていた驚きに言葉も発せぬ様子だったが、その硬直ぶりを父は答に窮したものと受け取ったらしかった。「そうかそうか。人生色々有るからな、聞かないどいてやろう。地上が辛い様なら此処で働ける様にTsathoggua様にお願いしてやるぞ。肉体労働だがTsathoggua様は健康には気を使って下さるので過ごし易いぞ」
だがTsathoggua様と云う言葉が兄を正気に引き戻した様だった。「待て!親父!あんたがTsathoggua様と話し出来る訳無いだろう。今や司祭の母上が漸く作法を編み出したのだぞ」「え?あいつ生きとるのか?あいつが死んでお前落ちぶれてそう成ったのでは無いのか?」わたしは溜まらず吹き出した。それに親父、あんたそれじゃチンドン屋さんに悪いって、芸が無くてバカなのが取り柄だけのお笑い芸人じゃないんだから。(芸が有ってお笑い芸人やっている人達は別)
「俺は母上の指揮する教派の福司祭で、これは副司祭の礼服なんだぞ!」「え?お前、まだあんな所に居ったんか?Tsathoggua様も知らんトコだぞ。確かChdhrokdhohuthrom様と云う落とし仔の方だけがそこの教祖と話し取られたらしいが、俺が此処に来るより前に教祖は死んで、それきりChdhrokdhohuthrom様も関わっておられんと云う話じゃったぞ」「そのChdhrokdhohuthromて何だよ!聞いた事無いぞ!」え?兄さん、あの教団に居たくせに知らなかったの?此処迄考えて大体、予想は着いて来た。大規模と云うのは教祖達からまともに相手にもされない有象無象が多過ぎ、母と兄もその中に入っていたのだろう。そして有象無象の半数以上を引き連れて行ったのが母だったのだ。有象無象の頂点で満悦至極の母、これは矢張り只のどうしようも無い集団でしかないだろう。
一方、兄は続けて何か云おうとして硬直していた。何か、得体の知れぬ不定形の塊が転がって来るのだ。いや、得体が知れぬのはこの中で兄だけだった。親父は慣れているらしく、すぐに洞窟の窪みの一つに身を潜ませた。本当云うと、わたしも一瞬、何だか判らなかったのだが、すぐに判った。
「お久しぶりです!Tsathoggua様!」わたしがそう口にすると視界の端で兄がアングリ口を開けるのが見えた。Tsathoggua様が謎の球体の形からいつものお姿に変じられる。
わたしは更に兄を紹介しようとしたのだが、その前に兄が進み出た。そのナントカと云う有象無象集団の副司祭だと云う使命感がそうさせたのだろう。
「おお!偉大なるTsathoggua様よ!偉大なる偉大なるTsathoggua様よ!」兄はカスタネットを嵌めた両手を差し上げてそう叫ぶと踊り始めた。いや、連続して何かのポーズを取り続けているだけなのかも知れぬが、カスタネットを打ち鳴らしながら「おお!偉大なるTsathoggua様」を繰り返す様は、どう見てもリズムを間違えた『よさこい』にしか見え無かった。
Tsathoggua様はいつものお姿に成られたものの、両眼を閉じてうつらうつらと舟を漕がれている。しかし幸か不幸か兄は気付いていない。
「偉大なるTsathoggua様!ご拝謁頂く光栄を、とてもわたくしども人間の拙き言葉では語りつくせるものではなく、そこはご容赦願います。わたくしは偉大なるTsathoggua様を崇め奉る教団真正派の副司祭であります!」
そこで、ふとTsathoggua様が眼を開けられた。
Tsathogguaは寝惚けていた。眠っていた間に変身が解け不定形の塊に成ってしまっていたのだが、本人(?)はその事に気付かず眠りこけていて、それでいていつもの通りに寝返りを打とうとしたので、そのまま転がってしまったのだ。弾みがついて転がる速度が速く成り過ぎた為か、いつもの姿に変身したものの眼が醒めて意識的にしたのではなく、眠りの中で反射的にそうしただけだった。そして覚醒し始めた時に、「・・・の副司祭であります!」と云う声がし、そこで漸くTsathogguaは眼を開けたのだ。眼の前には如何にも大いなる古き者たちが喜びそうな派手で毒々しい色彩に身を包んだ人間と、もう一人、Tsathoggua自らが信者の御印をその身に刻印した娘とが居た。そして、如何にも美味しそうな色彩に身を包んだ人物が云う。「生贄です」と。
「生贄です」と、自称ナントカ教団ナントカ派副司祭の兄が重々しい調子で、しかしわたしの方に視線を向けながら口にする。Tsathoggua様は、今やしっかり眼を開けて聞いておられる。兄はわたしがそこに居るのを今一度確認すると「Tsathoggua様、どうか、わたくしどもの贈り物をお受け取り下さい」
途端にTsathoggua様の口から大きな舌が飛び出し巻き付くや、自称副司祭の兄は何かを云う間も無く敬い奉る御神の口の中に呑み込まれた。
「・・・贈り物をお受け取り下さい」
Tsathogguaの眼の前で美味しそうな方が、贈り物、これはつまり生贄の事だろうが受け取ってくれ、と云う。贈り物を間違う事は無い。何しろ眼の前には、信者の御印を付けた娘と美味しそうで自ら「生贄です」と名乗る二人しか居ないのだから。Tsathogguaは半ば反射的に御印の無い方に舌を巻き付けていた。ごくりと一呑みにする。見た眼に反して味はまあまあだったが、そんなに悪くは無かった。
わたしは一瞬唖然としていたが、既に何が起きたか判っていた。愚かな兄は、わたしをTsathoggua様の生贄にする積りでいて、間違って自分が食べられてしまったのだ。
窪みから驚愕の表情で親父がふらふらと出て来るのが見えた。親父は泣いていた。「ああ、浩一、すまん。お前を見損なっていてすまなかった。自ら生贄に成りに来る程、お前はTsathoggua様の事を・・・わしはお前を見損なっておった・・・」
いやいや親父、あんたやっぱり兄貴を見損なっていたよ。
そこへ、いつの間にかイクローの奴も来ていた。相変わらずVoormi達の輿に担がれている。イクローはTsathoggua様の後ろから美しくぐねぐねと現れたSfatlicllp様に向けて「よお、ハニー!」と声をかける。見目麗しき女神と誉れ高きSfatlicllp様だが、美し過ぎて人間程度の神経では耐えられぬとの事で、イクローにも真のお姿はお見せに成っておられぬらしいが、それでも美しさの波動とでも云うのだろうか、ぐねぐねと色彩豊かに蠢く不定形の塊からは何処か『美』を感じさせる何かが溢れ出ていた。
イクローが輿の上からわたしに声をかけて来た。
「お前の兄貴、生贄志願の様には見えなかったがな。他人を生贄にする事は有っても、間違っても自分から生贄に成ろうとするタイプには見えなかったぞ」
流石に鋭い。だからわたしは正直に答えた。「わたしを生贄にする積りだったのよ」
途端にイクローは合点が行った様だった。
「何だ、やっぱり只のバカだったのか」
正解だった。
そこでTsathoggua様がわたしにお言葉を掛けて来られた。
「あの生贄がナントカの副司祭とか云っておったが、お前そうだったんか」え?わたしは慌てて取り繕おうとしたがTsathoggua様は続けて「それなら司祭、いや司祭長を名乗るが良い。あの生贄が云っておった『偉大なるTsathoggua様を崇め奉る教団真正派』とやらで、わしの面前に罷り出たり召還しようとした者も、何らかの妖術やテレパシーで接触しようとした者もお前以外は居らぬからな。いや、いっそお前が教主に成れ。ああ、それから『偉大なるTsathoggua様を崇め奉る教団真正派』と云うのは人間の間では長過ぎるじゃろう、お前、人間の間では何と云う名じゃ?」
わたしは正直に「阿澄杏子と申します」と口にした。
「ならば、わしの名を取って『Tsathoggua教団阿澄杏子派』とせい」
こうして本当は何かの副司祭ですらなかったわたしは、成り行きで新しい教団の教祖に成ってしまった。
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