球の恋

齋藤薫

球の恋


 ヤスリで削ったような丸いボディの車が行き交う中、信号の向こうにキューの姿を発見した。

 背の低い彼女が人混みの中でも見分けられるのは、俺を呼ぶ声が大きいのはもちろん、奇抜な格好のせいもある。


 信号が青に変わった瞬間にダッシュで向かってきたキューは、まるでマントを翻して悪者を退治しに来たスーパーマンそのものだ。この場合、悪者は俺になるわけだが。


 「とーちゃく!お待たせ!」


 手のひらを胸の高さにもってきて、ハイタッチのようなポーズを取る、これがキューの挨拶。


 「遅刻だ、30秒待ったぞ」


 俺も同じ構えで返す。


 「ふふ、偉い偉い」


 何が偉いのか分からないが、とにかく彼女は嬉しそうだ。今日は雨予報を覆すあっぱれな晴天。絶好のデート日和。


 「んじゃ、行きますか!」


 キューは体型に合わないロングコートの袖から、窮屈そうに手を出して腰に当てる。

 俺はおどけて頷くと、キューは背負っていたリュックからある物を取り出した。


 中からソフトボールほどの黒い球体が姿を現す。キューが黒い表面を指でトントンとタッチすると、球体がプカリと浮いた。黒い表面は鮮やかな青みを帯びて、海と陸を映し出す。一昔前の、玩具地球儀だ。


 「どこで買ったんだ、そんなもん」


 「原宿の雑貨屋だよ。へへ、懐かしいでしょ」


 キューは得意気に答えると、再度球体をタッチして現在地を表示させた。日本、東京、渋谷。現在俺達がいる場所。


 「で、お姫様。今日はどちらに向かいますか?」


 「うむ、世界一周に向けて、まずは京都でお茶でも飲もうか」


 「世界一周?京都?ここは渋谷だぜ?」


 「まぁ付いてくるがよい」


 まったく意味が分からない。キューはたまに意味不明なことを言う。付き合ったばかりの頃は彼女の言動に振り回されていたが、今では慣れっこだ。俺は何も言わずキューの後を付いて行く。どうやら行きつけの喫茶店へ向かっているようだ。白いスニーカーの靴がペタペタと軽快な音を立てた。


 カフェ”バライ”ここはキューのお気に入りの場所の一つ。抹茶ラテが最高に美味しい店だ。普段ドン臭い彼女もここでの注文はスムーズで、迷いなく店員と抹茶ラテの取引を済ませる。

 俺達は空いてる席を探すと、地球儀を挟んで丸テーブルに座った。

 キューはラテをふぅふぅ冷ましてから、美味しそうに啜る。


 「うん、京都は抹茶がうまいですなぁ」


 ほっ、と息をついてキューが呟く。


 「だからここは渋谷で……、あ」


 俺は球体に映し出された日本地図を見る。

 スクリーンには<世界一周モード>という文字と、現在地を示すポイントが京都に移動していた。


 この地球儀は万歩計の機能も備えている。目標距離を設定すれば、それに合わせて球体に表示された位置情報も移動する仕組みだ。設定された距離を確認する。約10km。地球1周が4万kmと大雑把に仮定して、4千分の1。なるほど、キューが言っていたのは地球儀を使った世界一周というわけか。


 俺は改めて変な企画を立てた張本人を見つめる。


 九野香(くのかおり)。それが彼女の名前。

 周りの奴らはカオリ、とかカーチャンとか呼ぶけど、俺はキューと呼んでいる。名字の九から取っただけなのだが、呼びやすくて俺もキューも気に入っている。

 こいつと付き合い始めたのは2年前、大学の複数人いる友人の一人で、気づいたら体を重ねる関係になっていた。かといって別に不純な関係ではない。馴れ初めはボヤけているが、すぐ俺達はお互いを大事な存在と認識した。校内では仲睦まじいカップルと誰もが認めていたし、俺達も噂に違わぬ仲良しっぷりを発揮したものだ。


 だがその関係も今日で最後となる。


 「変なこと思いつくな」


 「最後のデートが普通じゃつまらないでしょ。それに一度やってみたかったし」


 「キュー、運動苦手なお前が10キロも歩けんのか?」


 「頑張る。でも駄目だったらマー君がおぶってくれる?」


 キューは両足をパタパタさせてラテを啜る。

 俺は疲れるから嫌だよと言いながらも、背の低いキューならそんな負担にならないだろうと思っていた。しかし、おんぶって……バカップルにも程があるだろ。


 「そのカットソー、切れ込み入れ過ぎじゃない?それにちょっと地味」


 「そうか?俺は気に入ってんだけど。てかキュー、今日はいつにも増してゴテゴテなファッションだな」


 「一昔流行った原宿ファッションだよ。かわいいでしょ?」


 言って彼女は太腿まであるTシャツの裾をグッと伸ばした。


 「シャツの奇抜なデザインが目に悪い」


 「それがカワイイの!」


 ぷくっと怒るキュー。丸い顔が更に丸くなる。そこから、いつのもキュー式ファッションチェックが始まった。話は服から髪型へ、途中脱線して講義に提出するレポートのダメ出しまでされかけた頃、キューが腕時計に目をやる。


 「おっと、長く居すぎたね。じゃあ国外に出ようか?」


 「今度は韓国か?逆をついてハワイ?」


 キューはディスプレイを確認する。


 「んーと、次の目的地は中国アル。500m歩くアル!アチョー!」


 出来の悪いカンフーの構えに軽いチョップを食らわせつつ、俺達は店を出た。

 その後も、公園やTVで紹介されていたパイ料理屋など、無計画にぶらついては二人で笑った。




 いろんな所に寄りすぎて、結局日本に帰ってくる頃には半日以上掛かっていた。


 「やっと戻ってこれたな。で、ここがゴールの東京タワー?」


 俺はベットで横になりながら呟く


 「そうみたい。実際はホテルの3階だけど。見晴らしは━━うん、最悪ぅ」


 ベットから這い出たキューは小さく窓を開けて外を覗き込んだ。

 華奢な裸体が照明に照らされて淡く光っている。


 「なぁ、イタリアにはどれくらい滞在するんだ?」


 キューの背中越しに問いかける。


 「3年くらい……かなぁー」


 「長いな」


 「あっという間だよ」


 彼女は振り返らずに答えた。


 キューは留学のため、一週間後にイタリアへ行く。アパレルのバイトを経験して、ファッションデザイナーを目指したいと強く感じたそうだ。キューが留学のことを俺に伝えてからは何度も話し合った。そして最終的に別れることにしたのだ。

 しかし、イタリア語もまともに話せないのによく決意したと思う。まぁ思い切りの良さはキューの長所だし、彼女なら上手くやっていくだろう。


 ホテルを跡にした俺達は再び現実に戻る。外は秋の訪れを予感させる、少し肌寒い空気が流れていた。

 夜の9時を過ぎても渋谷は人通りが絶えない。現在は建物も人も無限に増殖する生き物のように少しずつその様相を変えている。10年前、大規模な爆破テロが起きた場所とは思えない。

 人混みと浮遊する広告群の波を避けながら、俺達は手を繋いで本当の終着地点に向かった。


 「なぁ」


 「ん?」


 「俺、本当に、キューと世界旅行したかったよ。今だってその気持は変わらない」


 その言葉に、キューは何度か目を瞬き小さく頷いた


 「私だって、そうだよ。今だって、マー君と、これが最期だなんて信じられない……」


 キューが俯く。彼女の肩が少し震えたような……気がした。


 二人の将来を話し合った時、随分時間を掛けてお互いの意見を交わした。別れる別れないはもちろん、遠距離恋愛になった場合の付き合い方、連絡方法など。挙句の果てに俺も一緒にイタリアに付いて行く、なんて話にもなりかけた。


 まったく終わりが見えなかったが、それでも俺達は続けた。口論になりつつも、平行線を辿りつつも、いつかは最良な答えが見つかると信じて。

 そうしてついに、とうとう、俺達は破局という選択に辿り着いた。正直、未来のない議論に疲弊した二人が耐え切れなくなって無理やり弾き出した、妥協とも言える結論なのだが。

 だけど今思えば、俺達は薄々気づいていたんじゃなかろうか。二人を繋ぎ止める絆が、それほど太くないことに。


 ”細い糸が複雑に絡まった依存関係”


 おおまかに言えばこんなところか。何百という接点があっても、ハサミでチョン切ればたちまち全てが切れてしまう。そんな弱い関係。

 だけど認めたくなかった。もしそれを認めたら、今まで築き上げた2年間が瞬時に薄まって消えてしまう。意味が無いものに思えてしまう。そんな恐怖があった。少なくとも俺はそう感じた。

 結論が出た時も、いきなり会わなくなるのは嫌だったし、それは彼女も同意見だった。だから最後に、お別れデートをしようという話になったのだ。 


 そんな事を思い返していると、不意に横から啜り泣く声が聞こえる。


 「もう……後腐れなく別れようって決めたじゃん……なんで引き止めるような事……」


 俺は唇を強く噛んだ。とてつもない後悔が全身を駆け巡る。


 俺は馬鹿だ。


 大馬鹿だ!


 今更何言ってやがる。未練がましくて情けない。ここに来て俺はまだ彼女にすがり付こうとしてたのか。キューだって気持ちは同じはずなのに、我慢して決断したじゃないか!


 「すまん……」


 絞りだすように謝罪の言葉を口にする。


 「うん……私もごめん、いきなり泣いて」


 それから俺達は無言のまま駅まで辿り着いた。


 「じゃあ……元気でな」


 本当はもっと明るく別れるはずだったのに、ドラマみたいに希望に満ちた別れになるはずだったのに━━全てオレのせいだ。


 「向こうに行っても、頑張れよ」


 無理やり笑顔を作る。すっかり泣き止んでいたキューも、うん!と元気よく返してくれた。


 「あ、そうだ。マー君これ」


 キューはリュックから地球儀を取り出す。


 「あげる。私持ってると辛くなっちゃうから」


 「そうか……じゃあ貰っておく」


 俺はぎこちなく受け取った。


 「じゃあ、バイバイ。今まで本当に有難う」


 「俺の方こそ、じゃあな」


 改札に吸い込まれていく彼女を見送って、俺は別方向へ歩き出した。


 納得した別れであっても、やはり寂しい。キューを失った物哀しさは当分消えそうにないだろう。

 井の頭線に向かう途中、俺は近くのベンチに腰を下ろす。一日歩いて疲労したせいもあるが、ちょっぴり余韻に浸りたかった。今日は少しでも長く、キューの事を想っていたかった。


 そして、手に持っている地球儀をゆっくりと眺める。


 今日という一日を彩ってくれた地球儀。玩具ではあるけれど、最後に、かけがえのない思い出を作ってくれた大切な宝物だ。キューと俺との関係を結びつける唯一の証拠品。

 俺はもう一度ディスプレイを表示しようとスイッチに手を伸ばした。が、なぜか躊躇して止めた。


 改めて地球儀をじぃと眺める…………。


 光源を失った球体はドス黒く、無表情で俺を見つめている気がした。そして一瞬ではあるが、酷く陰湿で、不気味な生物であるように思われた。

 油断していると、とたんに吸い込まれてしまうような……。


 ━━その時、俺は気づいた。目覚めてしまった。


 恋愛における決別の覚悟━━それは全ての関連性を断ち切ること。すなわち、大切な地球儀をただの玩具であるとみなすこと。


 スイッチを入れようとした瞬間まで、俺はこの球体に何か得体の知れない希望を抱いてはいなかったか。

 そしてもし、ディスプレイを表示させてしまっていたら、今度はたった一人で、世界旅行という迷路を永遠に彷徨い続けたのではないか。戻るはずもないパートナーを探して。


 俺は全身が恐怖で震えるのを感じた。

 街の喧騒が厚みを増して俺に襲い掛かってくる。


 キューが最後に語った本音。そしてこいつを持ち帰りたくない理由。あの言葉に嘘はなかった。

 だが実際に、現に、球体は俺の手の中にある。

 彼女の無垢な笑顔が脳裏に浮かぶ。


 もう何も考えられなくなった。


 ベンチの脇へ放り投げるように置くと、俺は逃げるように改札へ向かった。



3


 その後、キューがどうなったかは知らない。携帯の写真や番号、SNSなどの彼女に関する情報は全て削除したし、連絡が来ることもなかった。

 俺は大学を卒業して無事に就職した。今は吉祥寺でささやかな一人暮らしをしている。新しい彼女もできた。


 時々ふと、キューと別れた日を思い出しては、自分が今しっかりと歩けているか不安になる。その一方で、あの玩具と決別した選択が間違いではなかったという確信が、不安を打ち消してくれるのも事実だった。


 これからの人生、キューを思い出す頻度も少なくなると思う。そして、あの日投げ出した地球儀のように、いつのまにか俺の心から無くなっていることだろう。


 そんな事を考えながら、仕事を終えた俺は家路を辿る。


 街筋をぴゅうと通り抜ける冷たい風が、懐かしい秋の到来を予感させた。

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