鬼の恋路

鬼の恋路

 ザルに乗せられたスイカが、川の水で洗われている。ザルがさらわれない程度の水勢は温くも鋭くもない。水に浸した足に感じる水の圧と流れは柔らかく、心地良く、そして少しくすぐったい。

 片足だけ水から出して、爪先でスイカをつついた。小ぶりな球体がごろりと転がって、僅かに水面に出ていた部分が水に沈む。

 こんなところを見られたら大目玉を喰らうなあと思いながら、椅子代わりにしている大石に手をつき、背後を振り返った。頭上に日傘のように茂りを伸ばす枝の向こう、膝丈ほどもない低い生け垣を柵とした古い日本家屋がある。大きく枝を伸ばす木はその庭の端に立っている。それくらい本当に家のすぐ裏手にこの川はあるのだった。

 行儀が悪い。食べ物を足で触るなんて。声の調子も眉を顰める表情も想像するのはたやすいけれど、私をそう怒ってくれるひとはもうそこにはいない。

 祖母の四十九日の法要も、先日終わった。


 祖母は、美しく、厳しいひとだった。

 女性に年齢など聞くものではないと孫娘にさえ言い放つようなひとで、私が彼女の正しい年齢を確信できたのは彼女が亡くなった後だった。それまでも近所の人達との話から大体わかっていたのだけれど、それで確信できないくらいに、祖母は人並み外れて若々しい外貌を保ったひとだったのだ。

 母と父は私が物心つく前には離婚していて、母は私が小学生の時に病気で死んだ。母の死を機に祖母の家に引き取られ、以来、私はずっと祖母と二人で暮らしてきた。祖母もまた若いころに祖父とは別れたのだという。

 祖母は私をよく育ててくれた。お弁当はかかさず作ってくれたし、遊園地や動物園にも連れて行ってくれた。よく褒め、よく励まし、時に叱り、特に礼や思いやりを失した時には激怒した。

 私の記憶の限り祖母は働いていなかったが、若い内に築いた財産があるということで、祖母の強い勧めで進学した大学の費用も彼女が出してくれた。


 私達の関係は良好で、けれども、とても仲が良かったかと言えば必ずしもそうとはいえなかった。

 昔から祖母には、私が懐ききれない、甘えきれない何かがあった。手を繋いでも、抱きしめられても、ほんの一瞬、わずかの拍子に、私と彼女の間には見えない距離が生じた。

 幼いころはその正体がわからなかった。でも今は、多分、と思うことがある。

 片足でスイカを弄びながら、私は傍らに置いていた冊子の表紙を掌で撫でた。黄色っぽく焼けた白いアルバムは、祖母の部屋を整理している時に見つけたものだ。桐箪笥の一番下の段には、これだけが納められていた。

 ああ多分、と古いアルバムを撫でながら思う。

 ――おばあちゃん、今なら多分わかるよ。

 ――かなしくて、おそろしい、あなたの気持ちが。


 冷えたスイカを持ち帰り、台所で切り分ける。薄く切った一切れをその場で摘んでみたら十分に甘かったので塩はいらないだろう。

 縁側に臨む居間の、卓袱ちゃぶ台の上に麦茶をたっぷり入れたグラスを置いたところで、縁側に長身の影が差した。


「今日和」


 落ち着いた調子の、若い声。ほんのり青みがかった白地に観世水の柄が入った単衣ひとえを着流した和装の青年が、庭先には立っている。

 背中に光を負って前面を陰にした若い男の姿は私を驚かさない。このタイミングで声をかけられるだろうことすら、予想の範囲内だった。だからこそ初めから麦茶のグラスは差し向かいで二つ置いてあるのだ。


「こんにちは。……どうぞ。スイカを持ってくるので、あがってください」


 うん、と気安い返事と共に男が縁側から部屋に上がってくるのを目端に捉えながら、私は台所にとって返す。

 スイカを並べた広皿と重ねた二枚の小皿を両手に戻ると、机の上の物の配置が変わっていて少し眉を顰めた。


「グラスの位置が変わっていますが」

「どうしたの、そんなつれないことを言わないで」


 伸びてきた指先にスカートの端を引かれて、結局私は男の隣に腰を下ろした。体を揺らせば肩が触れるほどの距離だと、膝をついてから思った。少しだけ奥歯に力が入る。

 横並びの二人のちょうど間にスイカの皿を置いた後、揃えた両足を横に崩して座る。取り皿にと思って持ってきた小皿は、まずは両方とも自分の前に並べた。


「どれがいいですか」

「これ、さっき川で冷やしていたものかい」

「ええ、そうですよ」


 私が頷くと、男は思案気に髭の剃り跡も見えないつるりとした顎を撫でた後、少し悪戯っぽく微笑わらって私を見た。


「それなら、御前の可愛い足が一番触れていたところが良いなあ」


 そう言って私の足許にちろりと視線をくれるので、私は慌てて正座に座り直すとスカートの裾で足先を覆った。「なっ」と思わず上げた声が、自分でも震えていたとわかるほど恥ずかしい。


「そっ、そんなのわかるわけないでしょうっ」

「おや、御前はそうなのかい。じゃあ僕が選ぼう。その、右側の一番手前が良い」

「じゃ、じゃあって」

「そう、御前は僕程、鼻が利かぬのだったものねえ」


 言葉が出ない。冗談だという言葉を男から引き出したかったが、つきつめるほど恥ずかしく辛い思いをするのは自分だけだという確信めいた予感があった。

 楽しそうな、待ち構えているような目から顔を背け、ご指定通りの一切れを皿に乗せると、多少乱暴に男の方に突き出した。目を背けても、くすくすと笑う声が忍び込む耳が熱い。


「だ、だいたい、見ていたのなら、声をかけてくれればよかったのに」

「木漏れ日の元で、水と戯れる御前は本当に奇麗でねえ。うっとりみとれていたら声をかけ損ねたのさ」


 今度こそ本当に言葉を失って、私は真っ赤な顔で真っ赤なスイカに齧り付いた。

 少しの間二人で会話もせずにじゃくじゃくとスイカを食べていたが、先にひとつ食べきった男の方がふいと口を開いた。


「明日、出てゆくのだねえ」


 私ははっと顔をあげる。隣を仰ぐと、こちらを見下ろす目と目が合う。

 男は、やさしい顔をしていた。少なくとも私にはそう見えた。けれど、私をからかっている時以外、彼はいつもやさしい顔をしているのだった。

 私は咄嗟に声が出ない。心臓が縮んだように鋭く痛む。おかしな話だ。この家から出ていくと決めたのは他でもない私自身なのに、……今、私は傷ついている。

 自分の声を聞いてから、自分が声を発したのだと自覚した。


「止めては、くれないの」


 ぱちぱちと瞬いた後、男はほんの少し困ったように眉を下げて、それでもやんわりと微笑んだまま首を傾げる。


「御前が決めたことだもの。それとも引き留めるのが御前の願いかい」


 また傷つく。そして恐れる。

 私が頼まなければ引き留めてくれない程度なのかと落ち込み、けれど一度でも引き留められばたやすく決意を翻すだろう自分が怖い。

 食べかけのスイカを見下ろして、つまり男から視線をそらして、私は言った。


「いいえ、決めたんです、出ていくと」


 明日、私はこの家を出ていく。来年の四月から働く会社の近くのマンションに引っ越すのだ。大学卒業まで半年以上残っていたが、同じ一人暮らしが始まるのならまだゆとりのある学生の内に新天地での生活に慣れておこうと思うのだ。と、周囲には説明した。


 家を引き払うのかと尋ねる人の声には首を横に振り、掃除をしにちょくちょく帰って来ますよと笑って返した。前半は本当で後半は嘘だ。

 折角おばあちゃんのために家から通えるところに内定を貰ったのにねと嘆く声には、曖昧に笑って何も言わなかった。前半が嘘で後半が本当だ。


 明日私は出ていく。二度と帰ってくるつもりはない。そう決めたのは、祖母が死んだ後のことだ。祖母の部屋で古いアルバムを見つけた日、私の心は変わってしまった。

 もう二度と。この土地にも。この家にも。そしてこの男の元にも。戻ってくるつもりはない。

 けれど、最後にどうしても、私には聞きたいことがあった。

 うつむいたまま、私は言う。


「本当のことを、教えてくれますか」

「誓って。僕は好きな子には嘘は吐つかない」


 返答に間はなかった。

 私は顔を上げた。見上げた先の男の顔は、いつも変わらないやさしい顔だった。

 ぐ、と一度強く奥歯を噛み締める。そうして鼻の奥の痛みや、唇の引きつりを押さえ込む。意地だ。何の、と言われたら、女の、としか言いようがない。


「……わ、わたしのこと、好きですか」


 今度は少し間があって、男はきょとんと瞬いた後僅かに苦笑する。


「望むなら何度でも言うけれど、信じられていなかったというのなら流石に悲しい話だねえ」

「おばあちゃんのことは、どうでしたか」


 男の言葉の最後を遮るように、私は聞いた。

 すると男は、何の意外も含みもない顔で、私を好きだというのと同じ微笑みで、


「好きだよ」


 と迷わず答えた。


 ついと男の目線が動く。私も後を追う。

 開け放たれた襖戸の向こうの部屋には、簡易に整えた仏壇がある。遺影の中の祖母は若い。若々しいのではなく、真実若い。

 彼女の唯一の遺言は、遺影に使う写真の指定だった。二十代の後半頃のものだと言う。幾らなんでもみっともないと眉を顰める者もいたが、私は祖母の遺言を果たした。

 微笑む祖母は、美しい。母も目鼻立ちが整った人であったが、あまり祖母に似てはいなかった。そして私は、母よりも祖母に似ていた。似すぎるほどに、よく似ていた。


「とてもよく似ていて、美しくて、可愛い人だった」


 思考が重なったようなタイミングで、男の声が耳に入った。私は震える。遺影の祖母を見つめる。美しい微笑み。若かりし頃の祖母。今の私に、いや、今の私がそっくりな祖母。脳裏に浮かぶ白いアルバム。貼られた写真。封筒。手紙。美しい祖母の筆跡て。嗚呼!


「……わたし」

「うん」

「わたし……も、似ていますか」


 「は」でも「が」もない。「も」だ。並列だ。並び立つのは、私と祖母だ。


「うん、似ている。嗚呼、泣き虫なところは御前の祖母に似ているかねえ。彼女も小さい時はよく泣いていたものさ」


 やさしい顔で、やさしい目で、少しもからかってなどいない声音で、男は微笑む。泣いている私を、慈しむように、仕方がないなあとでもいうように見下ろしている。


「でも御前は大きくなってもよく泣くねえ」


 男はそう言ってから、私が爪をたてていたスイカを取り上げ皿に戻した。果汁にまみれた私の指を布巾で丁寧にぬぐった後自分の手も拭き、そうしてから片方の手でよしよしを泣いている私の頭を撫でた。

 ほんのりと甘い香りがする、蝋のように白い指で私の涙をぬぐいながら、男は思い出したように小さくふふと笑う。


「『そんなに泣いたら、御前の奇麗な目が溶けてしまうよ』。そんな風に言っていたっけ」


 もっとずっと幼い頃だ。

 母を失い見知らぬ土地で今までと全然違う生活を始めたばかりの私は、本当によく泣いていた。その時も同じように、男は私の頭を撫で、涙を拭い、そしてそう、そんな科白を口にしながら私をいつも慰めてくれた。

 浮き世離れした美しさも、他の誰もいない時にしか男が現れないことも、祖母にその存在を余所よそで話してはいけないと厳命されたことの意味も、幼い子どもには理解できないものだった。朧気にも理解できるようになった頃には、慣れていた。

 出会ったその日から全く姿形の変わらない、私と祖母にしか見えない美しい青年は、私にとってこの土地で初めてできた友人であり、兄のような人であり、何より初恋の人だった。そして、実らないと言われる初恋を実らせた幸運な者こそ、私であるはずだった。その幸せの前に、彼が人ならざる者であることなど些細な問題でしかないと私は強く信じていた。運命だなどと本気で思っていた。


 涙が止まらない。しゃくり上げる喉がひきつれるようだ。なのに、言葉がおさえられない。


「わ、わたし」

「ん」

「わたし、たちはっ。いったい、だれに、にているっ、の」


 《私達》。

 黄色く焼けた白い冊子が脳裏に浮かぶ。

 一ページに一枚ずつ写真を貼りつけた古いアルバム。お見合い写真のように盛装して微笑む若い女性の写真。どれも二十代後半くらいだろうか。服装も髪型も、笑顔の印象もてんでばらばらだ。なのに皆顔立ちだけはそっくりだ。まるで同じ一人の人物を様々に撮り直したようで、けれどそうでないことは、それぞれの写真の片隅に印字された撮影年月日が証明する。一番新しいページに貼られているのは、遺影に使った祖母の写真。


 ――誰。

 ――《これ》は。《私》は。《祖母》は。《私達》は。



 ――《彼女》は、誰。



 「もちろん」と男は微笑んで言う。


「僕の愛するひとさ。名前はすまないが教えてあげられない。名前ひとつだって、僕以外のものにしたくないから」


 そう言う男の目は、少しもやさしくはなかった。見たことがない目をしていた。悲しそうで、辛そうで、でも恋しそうで、幸せそうな。一度だって私に向けてくれたことのない目をしていた。

 私は胸が締め付けられる。ああ、なんて。

 なんて、悲しくて、恐ろしくて、――悔しい。


「わたしのことを……、あいしてはいないんですか」

「もちろん愛している」


 何の偽りも矛盾もないという声で、男は言い切った。

 男の両手が私の頬を包み込み、見つめ合う形に顔を持ち上げられる。掌は少しひんやりと冷たい。彼の手は冷たく、私の頬は熱いからだろう。

 ひくっと喉をひきつらせながら、「でもっ」と私は言い返す。


「でも、それなら。おばあちゃんのことだって、他のひとのことだって、おんなじように愛してるって言うんでしょうっ」


 それは、どう贔屓目に聞いても嫉妬しきった女の叫びだった。

 だって悔しい。悔しかった。悔しいと感じることを悲しいとも恐ろしいとも思うのに、それにも増して、自分と同じように、もしかしたら自分よりももっと彼に愛されている女がいるのだと思うだけで、身が捩れるほどに悔しかった。

 ――ああ、ああ、おばあちゃん。

 ――かなしくて、おそろしい、あなたの気持ちが、今なら私にも。


 涙でぐちゃぐちゃな上、悋気りんきの炎を燃やす私の顔を間近から見下ろして、男は双眸を柔らかく細める。


「おんなじなんかであるものか。御前が一番愛しいさ」


 たった一言で舞い上がる自分の心が今や恐ろしい。恐ろしいのに、嬉しくてたまらない。


「髪の質も、目の色も、鼻の形も、唇の厚さも、黒子ほくろの位置も御前が一番似ているのだもの」


 顔を包んでいた手が解かれたかと思うと、そのまま強く抱きしめられた。背中に回る腕は力強く、身を預ける胸板は温かくて、とろけるほどに心地良く幸せだった。愛されていると強く感じた。

 でも、やはり同時に、ひどいことを、狂ったことを言われているのだということも心の一方ではわかっていた。そして、私も多分、少し狂いかけているのだった。そうでなければ、一番似ていると言われて、それも恐らくは無理矢理に似せられて、祖母や他の女達に対して優越感など感じるはずもないだろう。

 うっとりと身を預けたまま、けれど私は言った。


「……でもわたしは、ここから出ていきます」

「さびしくなるね」


 男の声は切なく私の胸に響いた。

 自分の言葉に自分の心が引き裂かれそうで、それでもあのアルバムを開いてしまった以上、……封筒の中の手紙を読んでしまった以上、もう私はここにとどまることはできない。


 アルバムの、祖母の写真のページには封筒が挟まっていた。それは祖母が私に宛てた手紙だった。

 謝罪に始まり謝罪に終わった手紙には、祖母が知る限りの事実が記されていた。いつからそうなったのかもわからない、長命と短命を交互に繰り返す歪な女系の一族の話。代を新しくするごとに姿形に共通点を増やしていく長命な代の女達。その女達の前にだけ姿を現す、美しい“鬼”。

 母の早世そうせいすら、そういうものだったことを知って、私は一人泣きながら吐いた。


『死ぬまで伝えられなくてごめんなさい。

 唯一の肉親にすら嫉妬の目を向けるような鬼の女で、本当にごめんなさい。

 わかっていても、私達は逃げられなかった。

 こうして書き綴ることで、重荷だけをあなたに残してしまうかもしれない。

 それでも私達は最期には思うのです。

 どうか、叶うなら、あなたこそは。と。』


 代を重ねて重ねて重ね続けて、歪を極めた私・達・。祖母が鬼の心を持つというのなら、彼女達を妬みまた優越をも感じる私の心も立派な鬼だ。

 けれど、私に託されたその手紙は鬼が書いたものでは断じてなかった。ただ悔恨と残念と心配だけで綴られた、孫娘を一人残して逝く祖母の手紙だった。時折インクが円形に滲む手紙を、少なくとも祖母に愛され育てられた私はそう信じた。


 だから、私はこの家を出る。祖母の助けと思いが私の背中を押す。

 その歪を、狂いを知ってまで身を委ねることなどできるはずもない。その思える内はまだ間に合うはずだ。


 男の胸に両手をつき、懸命の力で体を引き剥がした。

 優しい腕、力強い体、真綿のようなぬくもり。心は今もすがりつきたいと叫んでいる。でも駄目だ。それをしたら、お終いだ。なぜならそれは間違ったことだから。歪んだことだから。

 私は、ここから逃げ出して、新しい道を歩むのだから。


 私は一度ぐっと奥歯を噛み締めた後、男の顔を見上げた。涙はいまだに乾かなかったが、それでも、精一杯の笑顔を浮かべる。


「今日まで、ありがとう」


 怨めないのは刷り込みだろう。私の信じた愛は私だけのまやかしだった。でも、例え歪でもまやかしでも、私の孤独な心を救い幸福を与えてくれたのは、間違いなく目の前の彼だった。

 そう感じることすら、本当は何か間違っているのかもしれない。けれど、私にとって彼に告げるべき別れの言葉は、これだった。

 男は少しだけ目を見開くと眉を下げた笑みで、私のつむじに口づけを落とした。


「ああ、本当に……」


 それから額を擦り付けるようにされて、犬が懐くような仕草に私も少し笑って目をつむる。


「みんなそう言って出てゆくのだから。僕は本当にさびしいのに。嗚呼、早くややこを孕んで帰ってくるのだよ」

「えっ」


 私はぱちりと目を開ける。顔をはねあげると、私の勢いに驚いたように男は少し首を傾げた。それから、ああ、と得心が言ったような顔をして。


「心配しなくても大丈夫。御前が帰りたいと思ったら、直ぐにでも孕めるようになっているからね。嗚呼、もう、本当に。僕のように、早く御前もさびしくなってくれるといいのだけれど」


 男は拗ねるように唇を尖らせる。


「御前の祖母はなかなか帰って来てくれなかった。十八の時に出ていって、僕は七年も待ったのだよ。その前は二年と半年。その前は、三ヶ月で帰って来てくれた。もっと早くても良いのだからね」

「あ、え、……」


 血の気が引いていくのがわかる。代わりに肌が粟立っていく。

 どういうこと。その言い方だとまるで。そうだ、まるで。


「わ、わたし、かえって」

「大丈夫、ちゃんと帰ってこられるさ。みいんな、ちゃんと帰ってきたもの。だって、僕ほど御前を愛している者はいないし、御前だって僕を愛しているじゃないか。愛している者同士が離れないのは、とても自然なことだろう」


 「なんて言うと、何だか少し照れくさいねえ」と男はそう言って、照れた顔を隠すように、また私の頭に頬をすり寄せた。

 私は微動だにせず、それを受け入れる。

 混沌とした頭の中に、不意に祖母の手紙が閃いた。


『わかっていても、私達は逃げられなかった。』

『それでも私達は最期には思うのです。

 どうか、叶うなら、あなたこそは。と。』


 ああ、《私達》。これもまたやはり《私達》だった。

 誰も彼もが逃げて、逃げ切れず、願いを託し、託されて、逃げて、逃げ切れず、願いを重ねた。いつか誰かが、私の代わりに、私達の代わりにと、鬼の心の片隅で冀こいねがったのだ。


 優しい腕に抱かれて、真綿の温もりに包まれて、私は凍り付いたまま新しく流れ始めた涙を頬に感じている。


 ――おばあちゃん。


 あなたは一体どんな気持ちでいたのでしょう。孫娘を正しく産むためだけの娘を孕み、自分が女として愛した男が自分より女として愛する孫を育てる。その未来を知った上で、どうしてあなたはその道を選んだのでしょう。そしてどうして私には逃げよと言ったのでしょう。


 ――ああ、ああ、おばあちゃん。

 ――かなしくて、おそろしい、あなたの気持ちが、いつか私にも。



 わかってしまう日が来るのでしょうか。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鬼の恋路 @N_Suzu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ