第6話

 どのくらい、そうしていただろう。

「……落ち着いた?」

 やがて顔を上げた海野くんは、ようやくわたしを抱きしめる腕を緩めた。離される感覚に気づき、胸を軽く押すと、あっさりと拘束は解けた。

 距離を取り、向かい合うようにして二人で立つ。街灯に照らされた海野くんの目は、うっすらと赤くなっているような気がした。

 相当泣いたのかもしれない。わたしのシャツが、肩のところだけ色が変わっているのがわかる。文句を言ってやろうかと思ったけど、さっきよりすっきりとした表情の海野くんを見て、口をつぐんだ。

 この見返りに今度、何か奢らせようかな……なんてね。

「あと、もう一つだけ」

「なんでもどうぞ」

 もはやどんなことでも受け入れる覚悟で、おどけるように言ってみる。やたら真剣な顔で、海野くんはとんでもないことを口にした。

「最後に、キスしてください」

「……はい?」

 今この人何て言った?

 言われたことが信じられなくて軽くパニックになっていると、突然海野くんが「ぶふっ」と噴き出した。

「冗談ですよ。ホント先輩、可愛いですね」

「か、からかわないでよ!」

 うぅ、と悔し紛れに小さく唸り声が出る。そんなわたしを見て、海野くんがひどく優しげに目を細めるものだから、なんだか照れてしまった。

「さ、そろそろ帰りましょう」

 そう言ってもう一度わたしに手を伸ばしてきた。素直に従うのもなんだか癪だったから、わたしはその手をおもむろに掴んでみた。

「どうしたんですか、先ぱ、」

 そのままぐい、と引っ張ると、海野くんの身体が傾ぐ。その隙を狙って、わたしは海野くんの後頭部に手を添え、引き寄せた。

「先――……」

 背伸びして、うるさい後輩の額に唇をつけてやる。勢いにしてみれば、ぶつけた、と言った方が遜色ないかもしれない。

 ずっとそうするのはさすがに照れ臭いから、すぐに解放した。

 案の定、海野くんは額を押さえて固まっている。

「先輩をからかっちゃいけないよ?」

 にっこりと笑ってやると、その頬がみるみる赤く染まった。


 今度こそ「帰ろう」ということになり、車へ戻る。

 行きと同様、海野くんのエスコートを受けて助手席に乗り込み、シートベルトを着ける。携帯電話で時間を見ると、ちょうど丑三つ時を少し過ぎた頃だった。

「結構長いこと、あの海にいたんだね。わたしたち」

「そうですね……ホントすみません、付き合わせちゃって」

「構わないよ。海野くんの頼みだもの」

 さっき海野くんが『先輩の頼みですから』と言ってくれた時と、わざと同じように答える。クス、と小さな笑い声の後、「ありがとうございます」と嬉しそうな声が聞こえた。

 家族からの連絡は……よかった、入っていない。やっぱりこんな時間だから、家族はぐっすりと寝ているらしい。さっきまで忘れてたことだけど、ちょっとだけホッとした。

「お家、大丈夫ですか」

「うん。連絡入ってないし、多分寝てるよ」

「お母さんが告げ口するかもしれませんね」

「やだ、怖いこと言わないでよ。そりゃあ、お盆だから戻って来てるかもしれないけど……」

 あり得るわけないと知りながらも、あの母親ならあるいは……なんて思ってしまう。一応、用心しておかなくちゃ。

「海野くんの方は、大丈夫?」

「うちのは、一回起きたらてこでも起きませんからね。地震で揺れたって、気付かないですやすや寝てるんですから」

「むしろちょっと心配だよそれは」

 そんなくだらないことを言いながら、海野くんの運転する車は徐々にうちの近所の街並みへ近づいていく。

 そうして何事もなく、わたしの実家へ着いた。

「じゃあ、先輩。今夜はありがとうございました」

「こちらこそ、送ってくれてありがとうね」

「いえいえ」

「さっき言ってた美術部の集まり、こっちで話しとくから。詳しい日程が決まったら、また連絡するね」

「わかりました。楽しみにしてます」

「うん。じゃあ、またね。おやすみ」

「おやすみなさい」

 車を降り、運転席の海野くんに手を振る。控えめに振り返してくれた海野くんは、そのままゆっくりとエンジンを踏み込んだようだ。車は徐々にスピードを上げ、わたしの前から立ち去って行った。

「さて、と」

 いろいろあったので、急に眠気が来た。

 大きくあくびをしながら、大胆に伸びをする。夜でよかった、と思った。こんな姿、みっともなくて誰にも見せられたもんじゃない。

 目を軽くこすると、もう一度、携帯電話で時刻を確かめる。

 まぁ、多分大丈夫だとは思うけど……一応足音を立てないように、そっと家へ入ることにした。


 ――しかしその数秒後、わたしは自分が油断していたことを知る。


「きゃあっ!?」

 ドアを開け、玄関へ足を踏み入れた瞬間、待ってましたと言わんばかりにタイミングよくぱっと灯る明かり。

「凛? こんな時間に、どこへ行っていたのかな?」

 目の前では仁王立ちした兄・さとるが、満面の笑みでわたしを待っていた。

「お、お兄ちゃん……起きてたの」

「車のエンジン音が聞こえてね。そのあと、玄関が開いた音がしたもんだから……おかしいと思ったんだよ。まさか、と思っておまえの部屋に行ったら案の定。もぬけの殻だ」

「ご、ごめんなさい! でも置手紙はしたし……」

「そういう問題じゃないでしょ。言い訳なら、これからたっぷり聞かせてもらうから。早く上がりなさい。上がったら、居間で正座だよ。いいね?」

「……はい」


 その後、夜を徹して兄から長い説教を受けたのは、言うまでもない話だ。

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海のひとりごと @shion1327

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